大久保 勲の人民元論壇    
     第2号 2004.10.19発行
(財)金融情報システムセンター理事
 大西 義久
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    今後のシナリオに異論あり
−−書評:大久保勲 著 『人民元切上げと中国経済』−−

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 著者は、旧東京銀行(現東京三菱銀行)の職員として日中国交回復前の1971年1月に当時の日中覚書貿易事務所(東京本部最高責任者 故岡崎嘉平太氏)北京事務所に赴任して以降、ピンポン外交→ニクソン大統領の訪中→中国の国連復帰→米中国交正常化という中国の国際政治への参加の潮流と米国ドルの金交換停止→スミソニアン合意(多角的通貨調整)等国際通貨の動揺のなかで、周恩来首相の提案に基づく「円元決済協定」を纏め上げた「通貨の専門家」である。また、国交正常化後は東京銀行の、世界で初めての外銀北京事務所(1980年)、同北京支店(95年)の開設に尽力され、自ら初代の北京支店長を務めた日中金融交流の草分け的存在であり、また現在においても第一人者である。「人民元切上げ問題」を語るのに著者ほど相応しい人はないと言えよう。
 ここ数年、人民元相場の動向(6〜7年前のアジア通貨危機時は「切下げ」論議・ここ1〜2年は「切上げ」論議)が世界の注目を浴び、最近ではG7での議題にも取り上げられるなど政治問題化しているが、そうした議論の大半は、中国の実情(経済面のみではなく、政治・社会等広範な分野を含めた)を深く顧慮することなく、自国の産業界の事情や中国の経済成長率、外貨準備の動向等に過度に着目した一面的なものにとどまっている。
 「人民元問題」を議論するためには、国際金融全般に関する理解が必要なことは言うまでもないが、このほか、@人民元あるいは中国の為替相場制度に関する基礎的理解に加え、A中国が現在人民元を切上げるとどういうことになるのか?という点の認識が不可欠である。後者は、改革・開放政策実施以降の中国の「光」の部分と発展途上国としての「影」の部分の兼ね合いを勘案した上で、中国の現時点における「真の実力」をどう評価するかという根本的な部分に関わってくる。その意味で、「人民元の切上げ」論に対する識者の見解は、正に中国そのものに対する総合評価を反映していると言えよう。

 このため、同書においては、「序」の後の本文を、二つに分け、まず第T部の「中国人民元をめぐる諸問題」の13の章で、前述した@に関し読者に十分な情報・知識を提供した後、第U部の「中国経済の現状と今後の動向」の20の章で、前述したAの観点から中国経済に関する現状評価を展開し、「中国はまだ市場経済の国への過渡期にある特殊な国」との認識を背景に、現時点での人民元切上げに慎重な中国当局に理解を示している。とは言え、中国経済が今後一段と世界経済にビルトインされるに伴い、将来的には為替相場制度の弾力化が不可避であることにも想いをいたし、最後に「総括」の項(「人民元切上げのシナリオ」)を設け、6つの章で読者の具体的な疑問に答えた後、第7章で「2010年までの人民元為替相場−6段階仮想プログラム」を著者の個人的見解として披瀝している。
 このうち、第U章が、長年にわたり中国と接してきた著者の中国経済に対する冷静な評価が如実に現れた本書の中核部分であり、評者もまったく同感であるが、「総括」の第7章で著者の具体的展望が述べられている点が個人的には大変興味深い。そこで以下、後者の部分に絞って、著者の所説を紹介しつつ、評者の意見を述べてみたい。
 著者は、「総括」第7章において、「率直に言って人民元相場がどうなるかは誰にもわからないが、あえて大胆に見通しを行ってみよう。考え方だけでも読者の参考になれば幸いである。」と断ったうえで、2010年までのシナリオとして以下のような姿を描いている。
  2004年―人民元の切上げの可能性は極めて低い。
  2005年―人民元の切上げの可能性は低いが、変動幅拡大で上下に変動する可能性がある。
  2006年―西側通貨の変動に対し相対的に安定を維持するために、人民元相場のバスケット方式が検討、
          実施される可能性がある。
  2007年―オリンピック開催国として引き続き経済の持続的、安定的発展に最大の努力をする。
  2008年―資本取引の交換性は実現が難しく、したがって人民元の交換性はまだ実現しないであろう。
  2010年―人民元が交換性を持つようになるのは2010年でも早すぎる。

 前述したように、中国経済の実力を踏まえると、現時点での人民元切上げは時期尚早とする著者の見解にはまったく同感であるが、今後のシナリオに関する考え方には賛同しかねるのが正直なところである。 
 すなわち、著者が、「中国における資本取引の自由化(=人民元の交換性実現)は2010年では早すぎる」として慎重な見方をする一方で、為替相場制度の弾力化については、「2005年に変動幅拡大で上下に変動する可能性がある」とか、「2006年に人民元相場のバスケット方式が検討、実施される可能性がある」としている点である。
 この点は、資本取引の自由化の時期と為替相場制度弾力化の時期の前後関係(sequencing)に関する論点であるが、著者の予想が「中国も米国等からの圧力に負けて、ある種の妥協策としてこの程度のことはするだろう」といった現実的な観点からの所説であれば理解できなくはないが、「あるべき論」としては、まず資本取引の自由化を実現した後に為替相場制度の弾力化を行うべきであり、前者が2010年までに実現しないのであれば、後者も2010年までには行うべきではないとするべきではなかろうか?
 97〜98年のアジア通貨危機の教訓は、       
@ 発展途上国が資本取引に代表される金融自由化を実施する際には金融インフラ(金融・資本市場、銀行監督制度等)の整備による市場コントロール力の強化と国内金融システムの安定が大前提であること
および、
A 金融自由化の手順(国内取引の自由化→対外取引の自由化、直接投資→長期証券投資→短期資本)が重要であること
であり、これを誤ると、為替市場をはじめとする金融・資本市場が混乱し、実体経済のみならず金融システムにも多大の影響を及ぼすおそれがあることを示した出来事であった。同経験に基づくと、資本取引の自由化が時期尚早の段階で、いかなる形であれ為替相場の変動を許容すると、その程度にもよるが、投機的取引が蔓延し、管理不能の状態に陥りかねない危険性が存在する。最近、銀行による短期資本の取り入れが異常に増えているのも、「人民元切上げ論」に煽られた投機取引が始まっていることを示している。確かに、日本のケースでは、まず1973年2月に為替相場制度を弾力化(変動相場制への移行)し、その後1980年に為替管理法の改正により資本取引の原則自由化を実施したが、それは為替管理自体の有効性が確保されていたためであり、もし中国が現時点で為替変動の可能性を示唆する政策変更を行ったならば、為替管理の網を掻い潜った投機取引が蔓延し、収拾困難な事態に陥ることも否定できず、評者はその際の日本企業等への深刻な悪影響を懸念するものである。この点、評者の中国の現状に対する見方は著者以上に慎重と言えよう。
 ともあれ、大筋の考え方は同感であり、我が国の金融外交が著者のような碩学の意見を十分踏まえたものとなることを切望するものである。

『中国研究月報』 −(社)中国研究所−より

「国立情報学研究所電子図書館サービス(NACIS-ELS)でも、この書評のほか、『中国研究月報』本文をご覧いただけます。
URL http://els.nii.ac.jp/nacsis-els-j.php3?top