青山 周の「中国環境論」 第5号
       日本経団連 アジアグループ長 青山 周 
2008.7.1 発行
          
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中国環境ビジネス学試論3
1. 漂流する中国
  経済格差、農村、教育、自治、福祉、土地、司法、民族、経営、報道等々。
NHKスペシャルの「激流中国」を見れば理解できるように、今の中国には難問が山積している。
 経済発展が遅れていた段階では、大部分の人が貧しく、世の中に流布する情報も十分ない。政治、経済、社会、文化、教育などすべての分野で、自分たちが世界に立ち遅れていても不思議ではないと人々が感じてしまえば、問題に対する認知もそこまでで終わってしまう。しかし、今の中国は違う。
 国際的に見れば、政治面では国連安全保障理事国の常任理事会であり、世界の五大国に入る。経済面では、年間の貿易黒字が2600億ドルを超え、1兆6000億ドルの外貨準備高を抱える経済大国である。社会面では、インターネット人口が2008年2月には2億2000万人と米国を超えて世界第1位に躍り出た情報先進国である。携帯電話の利用台数も5億台を大きく超えている。都市化も急速に進展している。都市人口比率は年々1%ずつ上昇した結果、農村から都市への流動人口を含めると、足元での人口では都市が農村を凌駕する。かつて毛沢東は都市で一敗地に塗れた共産主義革命を農村で立て直し都市を包囲し、遂には勝利を収めた。建国後10年ほどして戸籍に関する条例が作られ都市と農村の人口は固定化された。筆者がかつて中国に関して学んだ頃は中国の農村人口は全人口の8割と丸暗記したものである。しかし、今では13億人の半分が都市に生活する時代が中国に到来した。近代化を進めるために都市に農村を圧倒させようとしている。そんな革命思想とは逆転した現実が急進展している。
 こうした状況の中で、中国には経済だけでなく政治、社会、文化、情報などあらゆる分野で不均衡が存在することがだれの目から見ても明白となった。「寡(すくな)きを患(うれ)えずして均(ひと)しからざるを患え、貧しきを患えずして安(やす)からざるを患う」というアジア的共同体の論理の中で、共産主義の理想は露のごとく消え去ってしまったのである。中国共産党は共産主義の価値を喪失し、共産党員は上下左右を問わず本来の倫理観を失った。それだけでなく、中国は経済発展はしているが、何のために発展しているかという価値や理想も揺らいでいる。もろもろの腐敗や社会問題は社会主義の下でももちろんあった。閉鎖的な体制の下では問題は隠されてしまいやすかった。しかし、こうした問題はある種の理想のために犠牲を強いられるという贖罪もあった。ところが、今の中国共産党という組織は組織を支える理想や理念に乏しく、その構成員がそれぞれ「現世内利益」を最大限に追求するため、必然的に腐敗が生じてしまう。眼前にある社会問題を目の当たりにして、もしその人に良心があったとしたならば、「今のまま中国が発展したとしても、そうした発展は何のためなのか」と自問自答してしまうだろう。
 「精神のない共産主義」、「心情のない共産党員」の出現により、中国は漂流してしまっている。
  
2. 価値の喪失と職業倫理の欠如
 そもそも中国の近代化に必要だったのはマルクスではない。経済発展と人口という点ではマルサスの方が有益であった。しかし、マルサスよりも必要だったのはマックス・ウェーバーであった。
 マックス・ウェーバーは『宗教社会学論集』の中で中国そのものにも触れているが、 1その一方で『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、プロテスタンティズムの禁欲的な倫理観が資本主義の「職業倫理」に重要なインパクトを与えたことを立証した。2
 政治、経済などの制度が実際の社会に合わなくなったのであれば、制度は変えればいい。もちろん、制度改編には常にコストが伴う。もし革命で政権を変えるならば、そのコストは甚大である。しかし、いくらコストは甚大でも一旦機能しなくなった制度は作り直すことができる。
 しかし、人間の精神や価値観、良心の自由といったものは、世の中が変わったからといってそう簡単に変わるものではない。確かに共産主義は制度として、共産主義による政治システムや計画経済システムといった形で中国の社会に根を下ろした。その後の制度の改編である「改革・開放」は共産主義の範疇かどうか議論があるものの、漸進的な改革がビルトインされた制度として中国の社会に徐々に根を下ろしていった。しかし、中国の一般大衆がすべからく共産主義を理解し、その魂や精神まで塗り替えられたか、あるいはそうした良心の自由が改革・開放で新たな魂へと吹き替えられたか、といえば疑問が残る。
 中国の共産主義は革命であった。革命思想にしても、革新思想にしても、理想とする社会像があってそれに現実を近付けるため変革を求める。ところが、中国共産党は政権を取り、執権政党になると、みずから革命を起こしたにも関わらず、革命性や革新性はなりをひそめ、政治も経済もすべてが眼前の社会を所与の条件として漸進的に制度改編する保守政治の道を歩んだ。中国共産党は一体何のために多くの犠牲とコストを払ってまで革命を行い、中国の何を変えたのか。こうした歴史的疑問が今の中国の前に厳然として横たわる。中国の現実の腐敗した政治、経済、社会のもろもろの現象はすべて、この一言に尽きるのである。
 こうした共産党の歴史の中で、個人の役割といえば、党のため、国家のために奉仕することが強調されたが、それは上からのプロパガンダという色彩が濃かった。人間の内面から染み出されるような「エートス」-大塚久雄はこれをとりあえず「人間類型」という言葉で表現したが―として共産主義思想は定着しなかったと言っていい。
 ウェーバーが繰り返し主張するように、ピュウリタニズムの合理性と儒教の合理性は一見すると共通するところが多い。ところが、現世外利益を追求するピュウリタニズムに対して中国の儒教は現世内の利益を追求する。そのため、倫理観についても中国では「面子」など外見を重視して、内面からの個人の自発に基づく行動にはつながらない。今の中国の大学卒業生などはその典型である。彼らにとっては「インテリ」という体裁や対面が重要であり、インテリにふさわしくない肉体労働などは自分の仕事ではないと考えている。彼らは、職業を「天職」と考え、隣人のため、社会のために貢献して労働の対価を得るという意識の対局にある。
 経済発展の中、社会が急速に変貌して専門知識がますます必要となっている世の中において、イデオロギーしか論ずることのできず、専門知識もなく権限意識ばかりが突出した中国共産党と共産党員集団は政治的には有用かもしれないが、少なくとも経済的には無用であろう。中国共産党という利権に寄生する幹部が中国の各組織を指導していることこそ中国に職業倫理が育たない最大の要因である。無能な「総合職」が有能な「専門職」を支配すれば、職業倫理どころではない。
 もろもろの腐敗にしても、さまざまな社会問題にしても、職業倫理を有する行政官、企業人がいればかなり改善できるはずである。しかし、そうした問題意識や努力が不思議なほど、中国には欠如している。富む人も貧しい人も、地位の高い人も一般庶民も、中国人のほとんどすべてが現世内の利益ばかりを追求しているようにしか見えない。すなわち、中国の社会には構造的に腐敗がビルトインされてしまっている。
 このような現象に即していえば、数々の貿易摩擦や製品や食の安全が、世界から特に注目の集まるオリンピックを機に、欧米諸国を中心にして自分たちとは「異質な中国」として理解されるようになったのは当然のことかもしれない。
 
3. 「消費を支える精神」と「環境」
  ウェーバーは生産という側面から職業倫理の重要性を説いた。これは今の中国に最も求められる根幹である。それとともに、新しい倫理、価値観が必要だとすれば、それは日々の生活の中で平凡ではあるが、生きていく上で大切な消費を支える価値、精神であろう。この点についてウェーバーは節約について言及している以外は論じていない。
 ウェーバーは初期のプロテスタンティズムが当時台頭してきた産業的中産者層にインパクトを与え、彼らに節約を重視して原始的蓄積を行わせたことを明らかにした。産業的中産者層はウェーバーを批判したブレンターノの「人類の歴史とともに古い商人」とは異なり、節約した資本を生産力の拡充を充てることによって、近代的産業の揺りかごの役割を果たした。こうした脈絡においてウェーバーは節約と生産の関係性について言及したため、消費の重要性や消費の構造、中身について語ることはなかった。3
 ウェーバーが活躍したのは今から1世紀も前のことであり、ウェーバーの学問は国民経済形成期の時代精神を表わしている。こうした時代背景からも、プロテスタンティズムの倫理をそのまま中国に当てはめることはどう見ても困難ではあるが、職業倫理の形成が近代産業の台頭期になされなければ、国民経済の発展が正常には果たせないことは自明の理として容易に理解できるのである。
 そして、今は21世紀。グローバル化の流れの中で、冷戦が終焉し、安全保障も伝統的な軍事面のものから、非伝統的なものへと関心が移り変わっている。人々は日々消費をしなければ生きていく糧を得られない。高度な生活を支えるには、高度な消費構造が必要である。
 高貯蓄-高投資の中国の経済構造が今、変容を遂げつつある。中国は「世界の工場」から「世界の市場」へと次第に姿を変え、消費が経済成長率を上回る自律的成長を始めたのである。
 中国の消費が拡大し、内需主導型の経済成長へと転換しつつあるのであれば、17世紀のイギリスにおいて「資本主義を支える精神」が生まれたように、中国には中産的生産者層を支える生産者の経済倫理に加えて「消費を支える精神」が創造されなければならない。もしそうしたものがこれから創造されるのであれば、資本主義の精神の創生に重要な役割を果たした初期のプロテスタンティズムに当たるものは何なのであろうか。 
 筆者はそうした価値を「環境」が担うことができるのではないかと考えるのである。
 
4. エートス論
 市場機能を生かすには企業や消費者といった経済主体のエートスの形成が必要である。4 市場という制度を支えるには、制度を支える精神、マインドが求められるからである。
 ウェーバーは「宗教倫理における苦難」に関して類型的発展を遂げたとして、「幸福の神義論」と「苦難の神義論」という類型に分けた。 5大塚久雄はこの点に関してこう解説している。「われわれの生きている現世、これは涙の谷とか、死の谷とかいわれますように、いろいろな苦しみや悩み、さまざまな矛盾があるわけです。いろいろな病気からくる肉体的な苦痛や死、あるいは自然の力によるさまざまな災害、たとえば地震、火事、暴風など大きな苦しみがあります。あるいは戦争による悲惨、そうした人間が作り出すさまざまな苦しみがあるわけです。ところで、もし神が全知全能であり給うならば、また新しい理法が全世界を支配しているのならば、どういう理由でそういった矛盾が放置されたままでいるだろうか。どうしたら、それを納得的に説明できるのか。」 6苦難の神義論ではこうした苦難の中で神の正義はそのままでは行われない。「この神に背き罪に穢れた世界では、苦難のなかにある人々、いま貧しく、いま虐げられている人々、この人々こそが、やがて神の国が到来する―中略―その過程で神の摂理に協力すべき使命を与えられている。」 7これに対して、中国社会に根強い「幸福の神義論」について、ウェーバーはこう説く。「幸福な人間は、自分が幸福をえているという事実だけではなかなか満足しないものである。それ以上に彼は、自分が幸福であることの正当性をも要求するようになる。(中略)自分の幸福を『正当』なものたらしめようと欲するのである。もし、『幸福』という一般的な表現をもって名誉・権力・財産・快楽等のあらゆる諸財を意味せしめるとすれば、この幸福の正当化ということこそ、一切の支配者・有産者・勝利者・健康な人間、つまり幸福な人びとの外的ならびに内的な利害関心のために宗教が果たさなければならなかった正当化という仕事のもっとも一般的な定式である」。8
 「苦難の神義論」は市場経済にしても資本主義にしても、さらに社会主義についても一度は潜り抜けなければならないものである。経済活動の結果、もたらされる富や利潤は一定ではない。正しい志をもった人がビジネスに必ず成功するとは限らない。富とは何か、利潤とは何か、それを生み出すのは何のためなのか、という価値観と「苦難の神義論」は常に結びついている。
 「プロテスタンティズムの影響を受けたイギリスの初期の中産的生産者層は隣人愛の実践と考えた。ウェーバーによると、中産的生産者層に属する人々はこういうふうに考えたのです。隣人たちが本当に必要としている、あるいは、手に入れたく思っている財貨、それを生産して市場に出す。しかも、あの掛け値を言ったり値切ったりして儲ける、そういうやり方ではなくて、『1ペニーのものと1ペニーのものとの交換』、つまり正常価格で供給する、というやり方で市場に出す。そして適正な利潤を手に入れる。」 9
 このように、新しいエートスを生み出すには、人間の内面からの認識や思想、信仰の変化が必要であるが、「幸福の神義論」をまさに地で行く中国あるいは中国人に初期のプロテスタンティズムをそのまま適用することなどは到底できない相談である。そうした中国において最初の変化はささやかなものであってもいい。製品を手にとって、他の製品との違いを見比べることから始めるのも、情報時代にあってからこそ、却って新鮮であるのではないかと考える。市場経済において、主体意識に目覚めるためにはまず製品こそが重要となる。製品を媒体として価値のコミュニケーションを行うのである。こうした意味において、エコプロダクツはエコマインドを消費者や企業に植え付け、環境という新しい「価値」を知らしめることとなる。そして、「環境」という価値を生産、流通、消費、廃棄、再利用に内在化させる。これにより、環境を支える精神を醸成する。これがエコプロダクツの重要性である。
 
5. エコプロダクツの意義
 中国においてエコプロダクツで市場を環境の価値で満たし、よって中国の環境マインドを向上させる。
中国政府が今行っているような経済・産業政策に組み入れて中央政府から地方政府、国有企業に命令を発するような「上からの環境政策」は悪い企業を淘汰するには効果的かもしれないが、良い企業にモチベーションを与え、みずから発展させるには有効なやり方とは言い難い。すなわち、上からの強制的な手法は市場経済において決してサステイナブルとは言えない。
 上から言われようと、人から言われようと、あるいは言われなくても、企業や消費者などが自らの意志と創意工夫で取り組むようにならなければ、その政策は持続可能とはいえないのである。そのためには、各々の経済主体が「環境」という価値を、市場を通じて理解することが一番であり、これが王道ではないかと考える。上からのプロパガンタはほとんど無意味である。
 胡錦濤政権が誕生して間もない2002年11月に開催された中国環境・発展国際合作委員会は北京で会議を開催し、建議を中国政府に提出した。その中で、産業構造調整とともに提起されたのが新しい消費モデルの形成である。「持続可能な消費モデル」が中国の持続可能な発展へと中国の生産を導いていく。こうした「消費」の重要性が海外の研究者との検討の成果として胡錦濤政権発足直後に建議されていたことは注目すべきである。中国の社会変革は生産だけでなく、消費も変える力を持っているのである。10
 そこで、中国においてエコプロダクツによって市場主導の環境マインドを台頭させたい。日本企業のエコプロダクツで中国の環境政策と市場を変えることができる。中国の消費が拡大し始めた今がその絶好のチャンスである。
 
6. ロハスとスイカ
 環境にやさしいからといって、経済に負担を強いて国民にやせ我慢を強いていては持続可能ではない。自らの価値観によって、様々な選択肢から自分に合った環境にやさしい製品やサービスを楽しみながら享受する生活。これが理想の消費者であり、こうした消費者こそ最もサステイナブルである。こうした考えがまさにロハスである。
 ロハス(LOHAS)とは、Lifestyles Of Health And Sustainabilityの略称である。健康と環境を重要視するライフスタイルのことであり、日常の生活のなかで環境と健康を取り入れる発想である。市場を通じて自由に自分のライフスタイルを実現する消費者中心の発想である。もちろんウェーバーの時代にはなかった発想である。
 こうした新しい環境派に対して古いタイプの環境派はスイカと呼ばれている。スイカは一般的な言い方でなく、専門家の中でしか通じない俗称である。スイカの考えでは企業はほっておくと利潤を優先させ、公害を出してもお構いなしである。消費者も環境に負荷をかける製品やサービスを求めたがるので、政府が企業や国民を教育し管理しなければならないと説く。当然、大きな政府を希求することとなり、市場に政府が介入するのも「環境」のためなら構わないことだと考える。外はグリーン(環境)だが、中は赤(社会主義的)。市場の管理は突き詰めるところ計画経済を理想としている。こうした主義の人々がもともと社会主義に傾倒していたから、自然のことだろう。新しい環境派がネアカで性善説なのに対して、スイカはネクラの性悪説だ。
 中国の環境問題に対してロハスとスイカではスタンスが異なってくる。スイカの環境派はそもそも中国など遅れた国に関心がない。地球温暖化問題でも、リサイクルでも、スイカのメッカは欧州のドイツや北欧などである。ロハスの環境派は市場を通じて消費者が健康や環境に配慮した製品を享受するというが基本的なスタンスなので、健康的で環境にやさしい製品であれば中国製だろうが、ほかの途上国製だろうが、意に介さない。
 さて、こうしたロハスとスイカの消費行動や環境政策実現のスタンスを中国で応用するとしたら、どうなるであろうか。
 スイカ的環境派なら中国を計画経済に逆戻りさせて、企業と国民に対して規制と強制手段をもって遵守しない者に厳罰を科せばいいが、市場経済化を選択した中国人自身がそうしたことを望むとは到底考えられない。ロハスは一見したところ、健康重視の現世内利益志向のように見えるが、サステイナビリティを重視するライフスタイルはその根底には節約重視の発想がある。自分の欲求を満足させる以上のモノやサービスは求めない。高級品は排除しないが、高級で恰好がいいからと言って毛皮は使わない。自動車を排除するものではないが、いずれ枯渇する石油の浪費は望まないから自転車を使うし、自動車もハイブリットがロハスには似合う。ロハスの根底には浪費は「もったいない」という発想がある。浪費は自然との調和という自分の価値観に合わないからである。
 ロハスは自分で考える消費者である。製品やサービスに関するリテラシーとポリシーを持ち、価値観を有する。しかも楽しくなければ長続きしないと考える。
 中国の1級行政区で最も所得水準の高い上海の一人当たりGDPはいよいよ1万ドルに到達する。世界銀行が定義する中産者層の年間所得は中国貨幣に換算して6万元から50万元であるが、国家統計局によると、現在、中国の中産者層は8000万人と試算される。中国の大都市では村上春樹ブームが起きている。11 中国で所得上昇が消費から浪費へと転じる現象が広範にみられる中で、ロハスが普及する経済的下地も急速に整いつつある。
 
7.中国環境ビジネス学は実践躬行の学問
 中国の環境問題に対するスタンスは見る人の立場、利害、考え方などによって様々である。「群盲、象を評す」のことわざの通り、中国という巨象、それも泥沼のように底が見えない中国の環境問題ともなると、研究者といえども、研究者の数だけ、否、同じ研究者の中にも見方や「解」が複数あっても不思議ではない。
 温家宝総理は中国環境・発展国際合作委員会のメンバーと会見した際に中国の環境問題に関してこう評した。「国際環境・発展国際合作委員会はいったいいつになったら終息するか。私が考えるに国際社会が中国の環境保護事業に満足するまでずっと長期にわたりやり続けなければならないだろう。これは決して簡単なことではなく、もしかすると何世代、十何世代、何十世代の辛抱強い努力が必要かもしれない。」 12
 環境問題で重要なことは問題の認知は問題を統治するためには非常に重要なことであるが、問題の深刻さを示すだけで終わってしまっては何にもならないことである。環境の場合、リスク・コミュニケーションと一心同体の関係にあるため、研究者や行政の責任者にたとえ悪意がなくとも日本や中国、さらにそのほかの諸国など、影響を被る可能性がある広範な人々へ正確な情報として伝わるかというと非常に難しい問題がある。問題を認知することは重要であるが、それだけで終わっては何にもならないのである。問題を克服するための処方箋と実際に治療するための具体的な計画がなければ、いたずらに不安や誤解を増殖させるだけである。こうした点において、中国の環境問題は政策論やビジネス論と一体となって研究され、検討されなければならない実践躬行の学問分野と言える。
 研究者としては自らの専門知識と知見をもってそれぞれの分野における問題の所在やその解決法を示すが、中国の環境問題と環境政策は時々刻々と変化しており、さらに広範かつ深度のある研究が行われる必要があることは言うまでもない。中国の有名大学や主要都市の大学には環境専門の学部が続々と設立されており、研究者の裾野は急速に広がっている。日本としても協力する相手が不足する状況にない。また、学問的領域から有効な政策や対策に関して発信することによって政府の施策に影響を及ぼすことができる。
 政府関係については、有効な政府間協力を探究していく必要性はますます高まっている。日本から関係する大臣が訪中するたびに環境分野で協力を進めようという趣旨の協定や覚書などが交わされるが、重要なポイントは日本の政策の価値体系を中国の関係者に理解してもらって日本の政策的視点を少しでも多く中国の政策に役立てることにある。こうした政策対話を行うことによって、日中両国間の政策の垣根を低くすることが重要である。ところが、実際には日本政府はこうしたソフトよりもすぐにハード面の協力に走ってしまうため、日中間の政策協調はいつになっても深まらない。日本政府の「顧客」ともいう立場の企業にとっては、日本から中国に行ってビジネスをする際に制度に両国間に協調性があるならば、国境を気にせずにビジネスしやすい環境が整う訳であり、ビジネスの応用もききやすく、市場の共通性が増していくはずである。こうした意味からも日本政府は自分たちの政策や法律が中国より優れているという妄想や過剰な自信を早く捨て去って、将来の共同市場の時代に備えた環境政策の同一性を追及していくべきであろう。
 中国抜きに日本企業のビジネスが語れる時代ではなくなった。トヨタ、パナソニック、東芝、日立などグローバル・ブランドが中国市場で1兆円を売る時代となった。中国で持続的に販売を増やし、利潤を確保していくために、各社ともブランド戦略に磨きをかけている。「環境」はそうしたブランドの中核になろうとしている。こうした消費市場における動きの一方で、環境・省エネ関連のビジネスは優良外資の特徴となっており、中国企業向けの環境エンジニアリングや環境ソリューションもさらに市場が拡大しようとしている。
 このように、中国環境ビジネスに対する多面的な理解が各分野から求められる時代を迎えた中、もはや「群盲」が象を論じていてはいけないのである。衆知を集めて新しい学問分野を早期に確立する。これが今の日本に、中国に、そして世界に求められているのである。
 

  ※ 本稿は執筆者個人の見解であり、所属機関の公式見解を示すものでない。
*1 マックス・ウェーバー『儒教と道教』、木全徳雄訳、創文社、1971年
第8章の「儒教とピュウリタニズム」については以下をも参照。
「儒教とピュウリタニズム」マックス・ウェーバー『宗教社会学論選』大塚久雄・生松敬三訳、みすず書房、1972年、165-208頁。
*2 マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』上・下巻、梶山力・大塚久雄訳、岩波文庫、1955年
*3 ウェーバーとブレンターノの比較や近代化の人間的基礎については、大塚久雄著作集第8巻「近代化の人間的基礎」(岩波書店、1969年)を参照。
*4 「エートス」については、例えば、大塚久雄『社会科学における人間』岩波新書、1977年、1-19頁を参照。
*5 マックス・ウェーバー、「儒教とピュウリタニズム」、『宗教社会学論選』大塚久雄・生松敬三訳、みすず書房、1972年、40頁。
*6 大塚久雄『社会科学の方法』岩波新書、1966年、138-139頁。
*7 大塚久雄『社会科学における人間』岩波新書、1977年、194頁。
*8 マックス・ウェーバー、「儒教とピュウリタニズム」、『宗教社会学論選』大塚久雄・生松敬三訳、みすず書房、1972年、41頁。
*9 大塚久雄『社会科学における人間』岩波新書、1977年、133-134頁。
*10 中国环境与发展国际合作委员会三届一次会议纪要
http://www.cciced.org/2008-01/13/content_9524820.htm
*11 藤井省三『村上春樹のなかの中国』朝日選書、2007年7月。
*12 2006年11月の同委員会代表との会見。
http://www.cciced.org/2008-01/04/content_9478952.htm
 
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