21st CHINA QUARTARLY
  
 田中角栄の迷惑、毛沢東の迷惑、昭和天皇の迷惑

矢吹 晋
  日中双方双方の思惑によって、歴史の闇に消された国交回復のミステリアスな「秘部」をあぶりだす

 田中角栄、食欲を失うほどの大問題
 いまからおよそ三〇年前の話である。一九七二年九月二五日午後六時半(日本時間七時半)、北京の天安門広場に面した人民大会堂で周恩来首相主催の晩餐会が開かれた。数時間前に初めての直行便で到着したばかりの田中首相を歓迎するためであった。翌二六日の『朝日新聞』はこう伝えている。
 <周恩来は「日本軍国主義者の中国侵略によって、中日両国人民がひどい災難をこうむった」と述べた。 (中略) このあと、日本国歌「君が代」が人民解放軍軍歌部隊によって演奏され、乾杯した。約二〇分後、今度は田中首相があいさつに立った。首相は盛大な歓迎を謝したうえで「過去数十年にわたって、わが国が中国国民に多大のご迷惑をおかけしたことについて、私は改めて深い反省の念を表明する」と述べた。これは事実上、中国侵略に対する“おわび”と受取られるものであった>。
 これは『朝日』一面だが、二面には次のような記事が見える。<田中首相のあいさつの途中、一区切りごとに拍手を送っていた中国側が、拍手をすっぽかすくだりがいくつかあった。中国国民に「迷惑」をかけたといったときがそうだった。同じことを周首相のあいさつは「災難」と表現した。それを、軽々しく「迷惑」くらいのことではすまされない、という不満の意思表示ではなかったろうか>----これは同行した西村秀俊社会部員の観察だ。演説の途中でこの微妙な雰囲気をとらえた記者感覚は鋭い。
 翌二六日午前一〇時一五分、人民大会堂では大平・姫鵬飛による外相会談が始まった。同じころ、田中は宿舎の迎賓館で同行記者団代表を招いて懇談した。『毎日新聞』がこの時点での雰囲気をよく伝えている。
 <北京の迎賓館で一夜を過ごした田中首相は、歴史的な第一回の日中首脳会談がトントン拍子に進んでいるためか、すこぶるごきげん。朝七時に目が覚めた田中首相のこの朝の食事は、ご持参のノリ、つけもの、梅ぼしなども並び、和中折衷の献立て。首相も外相もせっせとたいらげ、二階堂官房長官にいわせると「きのう夜の夕食会でもずいぶん食べたり、飲んだりしたが今朝もまた・・・。二人ともとにかく元気すぎるくらいだ」という。外相のけんたんぶりには首相も驚いたふうで、これを冷やかすと外相は「持ち来るものみな腹に納めてなお従容」と漢詩まがいの文句で応じたとか。首相はそれを聞いて「おれは学はないが・・・」と自室にとって返し、さらさらと筆でしたためたのが北京二日目の感想を歌った、次の漢詩。
 国交途絶幾星霜、修好再開秋将到、隣人眼温吾人迎、北京空晴秋気深 越山 田中角栄
 首相は午前一〇時半、同行記者団と懇談した>(二六日付夕刊)。
 『毎日』はこの説明と合わせて、田中の漢詩を共同電の図版を用いて掲載している。田中の毛筆はなかなかの達筆と思われる。
 前夜のメイワク発言が中国側にどのような波紋を巻き起こしたかを田中はまだ知らない。佐渡おけさや金比羅船船の演奏とマオタイにまだ酔っているのかもしれない。

 実はこの日、すなわち二六日午後に田中は食欲を失うほどの問題に直面する。
日本外務省記録(国交正常化当時の記録を改めて昭和六三年九月に執務資料としてタイプしたもの。なおその後情報公開法に基づいて公開されたものも内容は同一) によれば、周恩来は前夜に行われた田中のスピーチについて、冒頭こう述べた。
 <日本政府首脳が国交正常化問題を法律的でなく、政治的に解決したいと言ったことを高く評価する。戦争のため幾百万の中国人が犠牲になった。日本の損害も大きかった。われわれのこのような歴史の教訓を忘れてはならぬ。田中首相が述べた「過去の不幸なことを反省する」という考え方は、我々としても受け入れられる。しかし、田中首相の「中国人民に迷惑(添了麻煩)をかけた」との言葉は中国人の反感をよぶ。中国では添了麻煩(迷惑)とは小さなことにしか使われないからである>
 この周恩来発言を受けた田中の発言は、日本側記録では、こう書かれている。
 <大筋において周総理の話はよく理解できる。日本側においては、国交正常化にあたり、現実問題として処理しなければならぬ問題が沢山ある。しかし、訪中の第一目的は国交正常化を実現し、新しい友好のスタートを切ることである。従って、これにすべての重点をおいて考えるべきだと思う。自民党のなかにも、国民のなかにも、現在ある問題を具体的に解決することを、国交正常化の条件とする向きもあるが、私も大平外相も、すべてに優先して国交正常化をはかるべきであると国民に説いている。日中国交正常化は日中両国民のため、ひいてはアジア・世界のために必要であるというのが私の信念である>(『日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉』石井明、朱建栄、添谷芳秀、林暁光編、岩波書店、2003年、57〜58ページ、以下『岩波』と略称)。
 この引用で「大筋において」の一文に私は傍線を付し強調した。ここに大きなナゾがある。それは、周恩来の「添麻煩」批判が、以上のような形で行われたのに対して、田中は「周恩来の誤解」を解く努力を行わなかったのであろうかという疑問である。田中の帰国後の発言から推して、このような周恩来の受け取りかたは田中の真意を誤解したものであり、ここで当然反駁があってしかるべきなのだ。
 なぜ誤解なのか。田中が帰国当日に行なった報告と食い違うからだ。当日田中一行は三〇日午後一時まえに羽田着の日航特別機で帰国した。空港を出たあと皇居で帰国の記帳をすませ、自民党本部で椎名副総裁、橋本幹事長ら党執行部と懇談、引き続き午後二時二〇分から官邸で臨時閣議を開き、国交正常化交渉の経過と成果を報告し、午後三時すぎから首相官邸でテレビ中継の記者会見に臨んだ。そして午後四時すぎから自民党両院議員総会に出席し、共同声明について党の最終的了承を求め、台湾派の野次と怒号のなかで自民党は田中報告を了承した。

 改竄された外務省の記録
 まず記者会見で田中は迷惑問題について、こう述べた。外務省の記録(アジア局中国課が昭和六三年九月に執務資料としてタイプしたもの)には次のように書かれている。
 <私は、千数百万人に迷惑をかけたという事実に対しては「ご迷惑をかけました」と言った。「ご迷惑」という言葉は婦人のスカートに水がかかったときに使うのだそうだが、そういう迷惑という感じを、そういうことをお互いにみんなブチまけあった。(中略)「両国には長い歴史がある。日本が戦争をしたということで大変迷惑をかけたが、中国が日本を攻めてきたことはないかと研究してみたら、実際にあった。三万人くらいが南シナ海から押し渡ってきた。しかし台風に遭って(笑い)日本に至らず、本土に帰ったのは四五〇〇人であったとこう書物は教えている(笑い)。また、クビライの元寇というのがあった。日中間にはいろいろなことがあった。過去というよりも、みんな新しいスタートに一点をしぼろうということだった>(竹内実編『日中国交基本文献集』下巻、蒼蒼社、1993年211〜224ページ)。
 記者会見の行なわれた自民党両院議員総会では迷惑問題は次のように報告された。
 <一日目の会談では問題は何もなかったが、その晩の宴会で、日本政府の態度表明として、六五〇名から七〇〇名を前にして「戦前大変ご迷惑をかけて、深く反省している」と言った。これに対し中国側は、「ご迷惑とは何だ、ご迷惑をかけたとは、婦人のスカートに水がかかったのがご迷惑というのだ」と言った。中国は文字の国で本家だが、日本にはそう伝わっていない。こちらは東洋的に、すべて水に流そうという時、非常に強い気持ちで反省しているというのは、こうでなければならない。これについては毛主席との会談でも、(主席は)「ご迷惑の解釈は田中首相の方がうまいそうですね」と言っていた>(傍線による強調は筆者によるもの。時事通信政治部編『ドキュメント日中復交』時事通信社1972年201ページ)。
 この田中報告の核心は二つである。一つは、「迷惑」の日本語の意味が中国語と異なる点を指摘したこと、もう一つは、日本語の「メイワク」とは、「非常に強い気持ちで反省しているときにも使う」という田中の日本語感覚の披瀝である。
 改めて指摘するまでもなく、この田中発言は、帰国第一声として、北京での交渉経過を報告するために行なわれた記者会見および与党議員に対する報告として行われたものだ。それゆえ、この種の釈明はまず北京で行われ、その経過を説明したものと考えるのが自然であろう。北京で述べなかったことをここで初めて語ることはありえないとみてよい。
 では、この釈明は北京でいつどのような場で行われたのか。
 まず日中交渉全体の流れを押さえよう。日本外務省の日中国交正常化交渉記録(アジア局中国課編)によると、田中総理と周恩来総理の会談は一九七二年九月二五日から二八日にかけて、四回行われている。すなわち、第一回会談九月二五日、第二回会談九月二六日、第三回会談九月二七日、第四回会談九月二八日である。双方の出席者は、日本側は、田中総理大臣、大平外務大臣、二階堂官房長官、橋本中国課長である。中国側は周恩来総理大臣、姫鵬飛外交部長、廖承志外交部顧問、韓念龍外交部副部長である。
 周恩来の「添麻煩」批判は、第二回首脳会談(九月二六日)の冒頭で行われたことからして、田中の釈明はこのとき、すなわち第二回会談の冒頭発言の部分において行なわれたであろうと推測するのが自然だ。もう一つ、毛沢東がこの問題に触れたとき、すなわち田中・毛沢東会談の場でも田中は同じ考え方を繰り返したはずだ。
 ところが外務省記録を見ると、前述のごとくなのだ。ちなみに、三〇年後に「記録と考証」を行なったとする『岩波』(57ページ)をみても「大筋において周総理の話はよく理解できる」と発言したことになっている。不可解千万ではないか。この外務省記録が正しいものと仮定すれば、田中は二枚舌である。周恩来に対して釈明しなかった話を帰国後に得々と説明したことになる。
 この点について、当時田中訪中をテレビ記者として随行取材した田畑光永記者(当時TBS)は三〇年後にこう分析している。
 <この周発言に田中首相がどう答えたのか、あるいは沈黙したままだったのか。どこにも記録がないところを見ると、後者だったのではないかと思われる>(『岩波』245ページ)。田畑記者は敏腕記者として知られており、現在は神奈川大学教授として活躍中だ。随行記者として現場体験をもち、その後も中国問題に取り組んでいる田畑教授にしてこの分析なのだ。田中がここで「沈黙したまま」というのは、ありえない。それゆえ、記録が改竄されたと見るべきではないか。
 私がこの疑問にとりつかれたのは、近年のことだ。国交正常化交渉が行なわれた一九七二年当時、私はアジア経済研究所の海外派遣員としてシンガポール南洋大学での一年間の研究生活を終えて、香港に拠点を移したところであった。遊学先の香港大学ではランゲージセンターで広東語を学んだり、アジア研究センターに出向いて金思ト研究員と毛沢東哲学を論じたりしていた(金思ト著『思想の積木---毛沢東思想の内容と形式』龍渓書舎、一九七七年の邦訳はここから生れた)。香港時代には邦字紙はほとんど読まず、華字紙あるいは英字紙の情報に限られていたし、そのうえ、当時は日中交渉の細部にはほとんど関心がなかった。そこで近年になって実に新鮮な気分で資料を読み返したわけだ。読み進めると、「記録と考証」をうたう『岩波』版も、日本側の記録の不十分さに対する疑問を深めるばかりであった。
 二〇〇〇年秋に日中コミュニケーション研究会の北京シンポジウムで報告の機会を与えられ、私は「世論、コミュニケーション、相互理解」と題して報告した(劉志明編『中日伝播与世論』EPIC刊、2001年11月、中国語訳、所収)。

 このシンポジウムは二〇〇一年秋にも続けて開かれ、私は「日中誤解は迷惑に始まる----日中国交正常化三〇周年前夜の小考」を報告した(劉志明、高井潔司編『中日相互意識与伝媒的作用』NICCS刊2002年11月、中国語訳、所収)。
 当時は翌二〇〇二年の日中国交正常化三〇周年に向けたさまざまの企画が計画されていた状況を踏まえて、私は日中のギクシャクした関係、行き違いの原点を探ろうとしたわけだ。二〇〇一年の秋に中国北京の某大学で日中関係について一カ月の連続講義を依頼されたことも一つの要素であった。
 外務省の記録を読み進めているうちに、どうにも解せない箇所、すなわち第二回会談の冒頭部分にぶつかったことは、すでに記した。この箇所は記録が改竄されているのではないかという疑念は私の脳裏で次第に膨らんだ。こうして私は中国側の資料にナゾを解くためのカギがあるのではないか、と見当をつけて北京の友人たちに依頼して、関連資料の収集を始めた。
 このとき私の脳裏にはもう一つの疑問が浮かんでは消え、消えては浮かんだ。それは、毛沢東が田中に対して土産として『楚辞集註』を贈呈したのはなぜかという疑問であった。ちなみに田中の毛沢東に対する贈物は、東山魁夷画伯の「春暁」(二〇号)であり、周恩来に対する贈物は杉山寧画伯の「韵」(二〇号)であった。

 毛沢東はなぜ贈物に『楚辞集註』を選んだか
 九月二七日夜八時、夜型人間毛沢東が突然、書斎に田中角栄一行、すなわち大平正芳外相および二階堂進官房長官ら三人を招いた。およそ一時間、両国首脳たちの書斎における会談が続いた。別れ際、毛沢東は卓上にあらかじめ用意してあった線装本をとりあげて直接田中に手渡した。その本こそ『楚辞集註』全六冊である。毛沢東はなぜこの本を贈物に選んだのか。
 当時の新聞は次のように解説した。
 <北京の日中関係筋によれば、二七日、毛主席が田中首相に『楚辞集註』六巻を贈ったことには、三つの意味があるとみられている。一つは、中国古代の憂国詩人屈原の作品『楚辞』ちなんだことで、日本国民のために決然として訪中した田中首相の愛国心をたたえた。
 次には、田中首相が訪中にあたって漢詩を作ったことをきき、中国の作法として客人の関心があることに答えた。もう一つは、キッシンジャー米大統領補佐官が訪日して「なぜ、そんなに訪中を急ぐのか」と言ったのに対して、田中首相が「日本と中国の関係は、米中の付き合いよりはるかに古い」と答えたことを中国側もよく知っている。そこで「その通りである。再び古い時代から深かった友情を復活しましょう」という気持ちをこめたと解釈されている>(『朝日』9月28日)。
 日中関係筋なる筋がどのような筋なのかその詮索はさておき、以上の三説はいずれもほとんど説得力を欠いたこじつけではないかと思われた。三説を仮に(1)田中の「愛国心称賛」説、(2)中国流の「作法」説、(3)日中関係説と略称しよう。
 それらの解釈は正鵠を射たものか。まず(1)田中の「愛国心称賛」説だが、『楚辞』は中国の戦国時代、楚国の政治家・詩人屈原(紀元前340年ごろ〜278年ごろ)の作品とその後継者宋玉らが屈原にならって作った作品を集めた辞や賦からなる。漢代の劉向が編集したといわれる。『楚辞集註』は宋代の儒者朱子が注釈を加えたものだ。毛沢東が田中の愛国心を評価したのは事実であるとしても、それを評価するのになぜ『楚辞集註』でなければならないのか。その根拠が薄弱ではないか。
 (2)中国流「作法」説もおかしい。和歌を贈られた場合に「返歌」があるように、漢詩を贈られたならば、漢詩(あるいはそれに類するもの)をつくって返礼とするのが中国文人の作法であるはずだ。田中の漢詩に対して、古人の「辞賦」を贈るとは奇怪な返礼ではないか。
 もしお手本ならば『唐詩三百首』に如くはない。つまり、作法説も説得力を欠いている。
 (3)日中関係と米中関係の「古さの比較」説も説明にならない。日中両国の文化交流が近代の移民国家米国との交流よりもはるかに古いことは、『楚辞集註』を引合いに出さずとも自明であろう。この変種はソ連「脅威」説である。たとえば『毎日』夕刊のコラム「近事片々」は言う。<楚辞集註六巻。田中首相への「屈原のような愛国者」という賛辞を意味するだけのものだろうか。屈原は、大国秦の脅威に楚と斉の合従を唱えた忠臣。毛主席は現代の秦を暗示したのかもしれぬ>(9月28日)。コラム氏によれば、「大国秦」とは「米国」ではなく、「ソ連」である。毛沢東、周恩来が「ソ連の脅威」を意識してニクソンや田中を招聘したことは、確かな事実である。しかしソ連を示唆するために『楚辞集註』とは、やはり迂遠ではないのか。
 要するに、これら三つの説は、いずれもただちに反証の挙げられそうな憶測にすぎない。にもかかわらず三〇年後の今日、いまなお広く行なわれているようだ。たとえばこれらの憶測を踏まえて、中国の元大阪総領事王泰平は『大河奔流』(奈良日日新聞社、2002年177頁)を書いて、前記の朝日と同じ三つの説を披瀝している。
 さらに田中訪中三〇年を期して、横堀克己(元朝日新聞論説委員)は、この会談に通訳あるいは書記として同席した王效賢、林麗?をインタビューして、こう書いた。
 <なぜ『楚辞集註』を贈ったのか。さまざまな憶測が流れた。「屈原に引っかけて、国民の利益のため決然として訪中した田中首相の愛国心を称えたのだ」という見方もあった。真相はよく分からない。しかし「主席はこの本が大好きだったからに違いありません」と王[效賢]さんはみている>(「毛・田中会談を再現する」『人民中国』二〇〇二年九月号、その後『岩波』所収)。
 毛沢東が『楚辞集註』を愛読していたのは事実だが、書物中毒を自称する毛沢東にとって愛読書は枚挙にいとまのないほど多いことは、田中・毛沢東会談を写した書斎風景から一目瞭然だ。これら汗牛充棟の「愛読書群」のなかから、『楚辞集註』が選ばれた理由の説明が必要ではないか。インタビューを終えて横堀はその理由は三〇年後の今日なお「真相はよく分からない」と記した。この説を仮に(4)毛沢東の愛読書説と名付けておこう。

 安岡正篤の「角栄はなめられた」説
 以上のほかに、(5)田中は「なめられた」説を的場順三著『座して待つのか、日本人』(ワック株式会社、2000年)が説いている。的場は、元大蔵省官僚、のち大和総研理事長である。この本に曰く<田中総理と同行した大平外務大臣が毛沢東に会ったとき、『楚辞 』という本をもらったものの、これは正義を主張したあまり、国を追われて汨羅の淵に身投げして死んだ楚の屈原をモデルにしたものだ><一国の首相にそんな本を渡すのはたいへん失礼な話で完全になめられていたのである>。
 的場の本は誤りだらけだ。まず贈物は『楚辞』ではなく、朱子が編集した『楚辞集註』である。この贈物を受けたのは大平外相ではなく田中その人である。問題はその解釈だが、「一国の首相にそんな本を渡すのはたいへん失礼な話で完全になめられていたのである」と的場は憤るが、読者にはなぜこの贈物が「失礼な話」になるのか、まるで分からない。実は的場はもう一つの話と取り違えているのだ。
 四日間にわたる日中首脳会談の締めくくりになる第四回会談で周恩来が「言必信、行必果」の六文字を毛筆で書いて田中に手渡した。「言は必ず信じ、行は必ず果断」、すなわち言ったことは必ず信じて、果断に実行する、の意味だ。周恩来は田中に対して、中華民国との断交など一連の約束を誠実に実行されたいと念を押したわけだ。これに対して田中は「信は万事の元」と墨書して返礼した(『朝日』9月29日ほか各紙)。「なめられた説」は、この六文字の出典が『論語・子路』であり、この句に続く文字は「然小人哉」であることに由来する。後続の六文字について安岡の加えたコメントが政財界で広く流布された。すなわち周恩来が日本側に対してこの揮毫を示したのは、「石をカチンカチンたたくような、堅苦しくつまらない小人」と周恩来が田中、大平を見下したとする解釈だ。安岡は一八九八年大阪市生まれ。東京帝大法学部卒。東洋政治哲学・人間学の権威とされる。二〇代後半から陽明学者として政財界、陸海軍関係者に知られ、財団法人金鶏学院、日本農士学校を創立、東洋思想の研究と後進の教育に従事。戦後、師友会を設立。一九八三年一二月一三日逝去。平成の年号の考案者といわれた。台湾ロビーの理論的指導者安岡にとって日中国交正常化は間違った選択であり、揶揄の対象にすぎなかった。周恩来にとって日中国交正常化とは、日本が中華民国政府と断交し中華人民共和国との国交を樹立することであったから、この点を念を押したのは当然だ。まさにこれに反対する観点から安岡ら台湾ロビーの反対活動が行なわれた。その際の児戯にも似た揚げ足とりを元大蔵省高官が得々と説いているのは、一知半解の見本だ。
 その後、中国側はしばしば「言必信、行必果」を繰り返したが、そのたびに日本の台湾ロビーたちは、「日本が「小人」と見下された」と反発した。さすがの周恩来も日本の台湾ロビーが『論語』の片言隻語をもって周恩来外交に逆襲しようとは予想していなかったようだ。的場順三のしったかぶりは安岡説の亜流にすぎないが、この俗説を信ずる者が政財界で意外に多く、中国コンプレックスを裏書きしているように思われる。
 以上、五つの憶測を紹介したが、そのどれをみてもまるで説得力に欠けるというのが私の実感だ。私自身は過去四〇数年毛沢東の書いたもの、話したものを折に触れて読む研究生活を続け、今春勤務先を定年になった。私の毛沢東イメージからすると、この人物は由来、目的の曖昧な行動をとった試しがない。「有的放矢」(すなわち的を定めて矢を放つ)――これが毛沢東のやり方なのだ。田中に『楚辞集註』を贈るからには、もっと明確なメッセージが含まれているはずに違いない。これが私の直感であった。
 問題を整理しておきたい。一九七二年九月二五日、田中角栄は北京を訪れ、同日夜の歓迎宴において、日中戦争について「わが国が中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことについて,私は改めて深い反省の念を表明するものであります」と述べた。これは「我国給中国国民添了很大的麻煩,我対此再次表示深切的反省之意」と訳され、謝罪の言葉としていかにも軽すぎると中国内外で大きな波紋を呼んだ。ここで田中は日中戦争について「多大なご迷惑をおかけした」と事実を確認し、この事実について「深い反省の念を表明」したのであるから、田中スピーチのキーワードは「迷惑、反省」の四文字である。
 この晩餐会が夜八時半に終わったあと、中国の関係者たちは緊急の会議を開いたといわれる。その会議で「迷惑」問題が議論になった。これは謝罪として認めがたいと声高に主張したのは、文化大革命から復活したばかりの中日友好協会名誉会長兼全人代副委員長郭沫若であったと聞いた記者がいる(当時『読売新聞』北京特派員だった釜井卓三の回想)。
 このとき、最も当惑したのは周恩来その人であった可能性が強い。なぜか。周恩来はこれまでの水面下のやりとりを通じて、田中のキーワード「迷惑」の真意を納得し、それで納めようともくろんでいたフシが見えるからだ。たとえば田中は訪中を前にして九月二一日午後首相官邸で内閣記者会と懇談したが、翌日の各紙はいずれも一面トップでこれを報じている。たとえば『朝日新聞』(9月22日付)一面トップの見出しは<互譲の精神で合意へ、過去の関係率直に「迷惑かけた」>である。『毎日』の見出しは<田中首相決意を語る、戦争終結政治的に、過去素直に「迷惑かけた」>である。『読売新聞』の一面トップは<日中復交、共同声明で発効、互譲で合意確信、過去、素直にわびる、首相表明>である。この記者会見は訪中四日前に、訪中に臨む気構えを語ったものであり、中国側も注視していたはずのものだ。
 ただし、さすがの周恩来もこの「迷惑」が「麻煩」と訳されて人民大会堂にひびきわたったときの反応までは予想できなかった。この意味では、誤解の原因は実に些細なところから起こったとも言える。田中スピーチの中国語訳文をあらかじめ周恩来に見せて、すり合わせをやれば済むことなのだ。現在の外交交渉ならば、日常茶飯事的に行なわれている意見交換が齟齬を来したのは、やはり初体験で不慣れのためであろう。

 対日工作者が注目した田中通産省の発言
 私が調べた限りでは、田中が最初に「迷惑」を用いて中国との国交正常化を語ったのは、実は半年前の三月二一日のことだ。九月訪中のおよそ半年前、すなわち一九七二年三月二一日衆議院商工委員会において、田中は通産大臣としてこう答弁している。
 <私も昭和十四年から十六年の末まで、満州に兵隊として勤務をいたしておりました。しかし、私は人を殺傷したりすることをしたようなことがなかったことは喜んでおります。しかし、私自身も第二次戦争で友人をたくさん失っておりますから、その実態を承知をいたしております。また報道せられたいろいろな事象に対しても、中国大陸にたいへんな御迷惑をかけたということはほんとうにすなおにそう感じております。日中の国交が復交せられるときの第一のことばは、やはり、たいへん御迷惑をかけましたと、心からこうべをたれることが必要だと思います。再びかかることを両国の間には永久に起こしてはならない。少なくとも、日本は過去のようなことは断じて行なわないという強い姿勢を明らかにすべきだと思います。それはもう憲法に定めるとおり、どんな紛争でも武力をもって解決をしないという明文がございますし、この明文どおりわれわれはそれを貫くという姿勢は明らかにすべきだと思います>(http://kokkai.ndl.go.jp/国会会議録検索システムによる検索)。
 翌々日の三月二三日、田中通産大臣は、今度は衆議院予算委員会第四分科会においてこう答弁した。第四分科会とは、通産省関係の議事を扱う分科会だ。
 答弁に曰く<私も昭和十四年から昭和十五年一ぱい[三月二一日答弁によれば一六年末とされているが、一年余ならば、一五年末であろう]、一年有半にわたって満ソ国境へ一兵隊として行って勤務したことがございます。しかしその中で、私は人を傷つけたり殺傷することがなかったことは、それなりに心の底でかすかに喜んでおるわけでございますが、しかし私は、中国大陸に対してはやはり大きな迷惑をかけたという表現を絶えずしております。これは公の席でも公の文章にもそう表現をしております。迷惑をかけたことは事実である、やはり日中国交正常化の第一番目に、たいへん御迷惑をかけました、心からおわびをしますという気持ち、やはりこれが大前提になければならないという気持ちは、いまも将来も変わらないと思います。日中間二千年の歴史、もっともっと古いかもしれません。しかも日本文化は中国文化によって育ったということでありますし、同じ基盤に立つ東洋民族でもございますし、恩讐を越えて、新しい視野と立場と角度から日中間の国交の正常化というものをはかっていかなければならないのだ、そういううしろ向きなものに対してはやはり明確なピリオドを打って、そこで新しいスタートということを考えていかなければならないだろう、私はすなおにそう理解しておりますし、これが中国問題に対する一つの信念でもあります>(国会検索)。この田中発言は中国新華社通信の『参考資料』(1972年3月24日付)に翻訳された。これは普通の外電を翻訳して紹介する『参考消息』と区別して「大参考」と俗称される。1日2回、高級幹部だけに配布される情報資料だ。
後継首相として有力視されていた田中通産相が三月二一日および二三日、相次いでこのように語った事実が『参考資料』に訳載されて以後、ポスト佐藤栄作内閣の政局がらみの動向が新華社通信東京特派員を通じてしばしば送られるようになる。
中国側の対日工作者たちは、極度の関心をもってこれらのニュースをおいかけるようになる。たとえば日本陸軍士官学校卒の経歴をもち、新華社通信記者として東京特派員をつとめたことのある呉学文(一九二三年生まれ、その後中国現代国際関係研究所教授を経て、一九九三年退職)の回想録『風雨陰晴』(世界知識出版社、2002年)にはこう書かれている。
<[一九七二年]三月二三日、通産大臣田中角栄は衆議院予算委員会[実は第四分科会]で、初めて彼の対中政策を公開の場で述べた。私はいつも中国大陸にはたいへん迷惑をかけたと言っている。日中国交正常化を実現するには、まずたいへんご迷惑をかけたことを表明しなければならない。現在であれ将来であれ、国交正常化の前提が誠心誠意お詫びすることにあるという気持ちに変わりはない>(同書、79ページ)。呉学文の回想記は続けて、田中がその後、公明党副委員長二宮文造に周恩来への親書を託したこと、周恩来が五月一五日、二宮訪中団と会見し、日中関係などについて長時間語ったことを記している。
二つの国会答弁および訪中直前の記者会見を改めて読み直してみると、田中が「迷惑」をもって詫びることは、七二年三月以来の一貫したスタンスであることが確認できよう。周恩来ら中国側の対日関係者は、田中がこのような考え方の持ち主であることを繰り返し、さまざまのチャネルを通じて確認したあとで、招請状を出したことになる。

周恩来が角栄を交渉相手に選んだわけ
「迷惑」ということばでわびようとしていたのは、田中だけではなかった。実は田中のライバル福田赳夫もまたほとんど同じキーワード、すなわち「迷惑」でわびている。たとえば当時、福田赳夫外相は一九七二年六月二日衆議院外務委員会でこう答弁している。
<そこで日中間の問題もそういう種類の考慮をすることも必要であるということを考えております。わが国は、両国の戦争状態はこれが終結した、日華平和条約においてこれは解決済みである、こういう立場であります。しかしながら中国側において政府間折衝においてどういう立場をとってくるか、これは場合において妥当な結論を得たらいい問題だろう、こういうふうに考えております。ただそれとは別に、中国の国民に対しまして、日中戦争におきましてわが国が大陸をじゅうりんし、たいへん御迷惑をかけた、これにつきましては私は深甚な謝意を表さなければならない、陳謝の気持ちを持たなければならない。また、ざんげの気持ちで日中政府間接触というものは始めなければならぬ、こういうふうに考えているわけであります。私もごちごちの法律論、条約論ばかり言っているわけじゃない、そういう気持ちであるということをとくと御理解願います>(国会検索)
ポスト佐藤の後継レースを注視する中国側にとって日本側が田中も福田もいずれも「迷惑」でわびようとしていることは、あまりにも明らかな事実であり、ここに「迷惑」問題の処理方針を検討するカギがある。周恩来は「迷惑」ということばで詫びる田中を交渉相手として選ぶ決断を固めていったのだ。
中国人関係者の間で「迷惑」の中国語訳としての「麻煩」の軽さが問題になっていたとき、その騒ぎを増幅したのは、英訳問題であったようだ。当時『ワシントンポスト』や『ニューヨークタイムス』は北京に特派員がおらず、カナダのジョン・バーンズ記者の北京電を掲載した。田中演説のテキストは英文では配布されず、このため外人記者団の間で混乱が生じた。中国外務省筋は「深い後悔deep repentance」の意味であるとの非公式見解を明らかにした。これに対し、日本外務省筋は「それほど強い意味をもっていない。深い反省deep reflection and self-examinationということである」と反論したという(『読売新聞』ワシントン湊特派員電、9月27日夕刊)。田中の迷惑とツイになっている「反省」を中国外務省がdeep repentanceと訳したにもかかわらず、日本外務省がdeep reflection and self-examinationと訳し直し、しかも「古典的な謝罪の表現方法である」と説明したのは、象徴的だ。AP通信のジョン・ロデリック記者は「田中首相は率直な謝罪をさけ、日本の過去の非行について、「遺憾である」と表現した」「田中首相がこのように警戒的な謝罪の表現をとったのは、中国との和解、台湾との断交に反対する自民党右翼勢力への配慮からと思われる」と報じた(『読売』同上)。
『毎日』はこう書いた。<北京の田中首相は歓迎夕食会のあいさつで、過去数十年間、中国国民に「多大なご迷惑をおかけした」ことについて深い反省の念を表明した。「迷惑をかけた」とは、過去をわびる言葉として「東洋的なもっとも素直な表現」と田中首相がみずから選び抜いたものだった(中略)それだけに、これを中国語にどう訳すか、外務省の専門家は練りに練ったにちがいない。そして「添了麻煩」(ティエンラマーファン)と通訳された。ところが、これだと中国語で「めんどうをかけた」の意味になり、首相の真意を十分に伝えない、まずい訳だったという批判もきく」「日本語は漢字をとり入れて発達したから、中国語の文字には親しみ深いものが多い。しかし同じ文字が全くちがう意味に使われる場合も少なくない。同文に甘えていると、とんでもない失敗をする>(九月二七日付「余録」)。
日中首脳会談の結論として、最後の日中共同声明においては「日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と表現された。
この箇所の中国語は「日本方面痛感・・・重大損害的責任、表示深刻的反省」である。日本語の「」はそのまま中国語「」に、「」はそのまま中国語の「」と訳された。
この共同声明の正文は日本語と中国語のみだが、参考のために訳された英訳は、
The Japanese side is keenly conscious of the responsibility for the serious damage that Japan caused in the past to the Chinese people through war, and deeply reproaches itself.
である。反省はみずからを省みて行うものであるから、reproaches itselfと訳されている。日本語の「ハンセイ」は、regret (遺憾)か、それともapology(謝罪、おわび)か、と英語世界の記者が質問した由だが、そのいずれでもなく、 reproaches itselfと訳された。
田中の歓迎宴スピーチの中国語訳には「遺憾」の二文字があるし、田中も福田も「おわび」や「謝罪」を国会で答弁していたのであるから、「迷惑」と「反省」の英訳として、regretやapologyを当てたとしても必ずしも不適当ではないと考えられるが、当時の外務省は、なぜか柔軟性を欠いていたように思われる。
この間の事情を考える識者のコメントを『毎日』九月二六日付から紹介しよう。
京大教授会田雄次は言う。<私はあの程度でよかったと思う。(中略)問題はどのように翻訳されたか、であろう>。日本語としては「迷惑」でよいが、それがどのように翻訳されたのかについては、問題として残るというものだ。実は、その訳語にこそ問題があるにもかかわらず、記者も会田も日本語の語彙しか論じていない。
作家金達寿は言う。<(前略)私が朝鮮人として、この言葉を聞いたら腹を立てるだろう。庶民のことばでごまかした感じがするからだ。田中首相はご迷惑を東洋的にいったらしいが、東洋的どころか日本的でもない。むしろ独特の政治的ないいまわしといえるのではないか>。金は周恩来スピーチは「正確な表現」であるとし、これと対照的に田中の「あいまいな言い方」を批判している。金もまた在日朝鮮人として、日本語の「迷惑」を論じており、翻訳上の問題には触れていない。
外交評論家加瀬俊一は<外交の原則からみた場合、いう必要がなかったと思う。外交というのはあくまで論理だ。(中略)悪いことをした、反省しているというのは「それなら具体的に責任をとれ」と相手に突っ込まれることになる>。被害者から責任を追及されないためには、反省していると言うな、という論理のようだが、どうやら論理が逆さまではないのか。加瀬は米国に対して広島や長崎の被爆者に謝罪するなとアドバイスするのであろうか。元国連大使であったこの外交官は、そもそも謝罪不要論であるから、訳語は問題にならない。
『毎日』が識者のコメントを求めて検討したのは見識だが、三人とも日本語の「迷惑」しか論じていないのは特徴的だ。日中の対話あるいは交渉なのだから、中国側がどう受取るか、これがカギであるにもかかわらず、誰もが「迷惑」ばかり論じて「麻煩」を意識していない。事柄は中国でも同じなのだ。中国では「麻煩」については、大議論になったが、その原語が 日本語の「迷惑」であることは誰も論じなかったように見える。ただ一人の男を除いて。

弁明する角栄、納得する周恩来
さて私のナゾは、中国側記録を調べることによって解けるのではないかという思いが強くなった。そこで二〇〇一年秋、北京訪問の機会を利用して旧知の周恩来研究家の李海文女史に尋ねてみた。彼女は私が『周恩来十九歳の東京日記』(小学館文庫)の解説を書いた縁で知り合いになった。もともとは彼女と交流の深い村田忠禧教授(横浜国立大学、中共党史研究)の紹介による。われわれは周恩来の読みにくい毛筆日記のなかで中国語版の編集者たちが誤読して活字化した箇所をいくつか訂正した。この縁で、彼女たちはわれわれの仕事を高く評価してくれた。たとえば中国語版では、「大手町」が「大草町」に、「三越」百貨店が「玉越」百貨店に誤記されていた。東京に住む者にとってこれは容易に発見できるものだ。しかし青年周恩来が歩き回った大正時代の東京の地理に不案内な中国の党史研究者にとっては調べにくい。こうした縁で結ばれたルートに乗って、私の疑問を提起したわけだ。
まもなく李海文女史は『周恩来的決断』(NHK採訪組著、肖紅訳、中国青年出版社、1994年)に付された姫鵬飛回顧録「飲水不忘掘井人」のコピーを届けてくれた。そこにこう書かれているのを発見して、私は飛び上がるほど驚いた。
<周総理は率直にこう述べた。田中首相が過去の不幸な過程に遺憾を感じて、深い反省を表明されたことはわれわれとして受け入れることができる。しかし「迷惑をかけた」という一句は中国人民の強い反感を招いた。というのは普通の事柄に「麻煩」を使うからだ。これは日本語の含意と中国語の含意が異なるかもしれない。田中はこう弁明した。日本語で迷惑をかけたとは、誠心誠意謝罪する意味であり、今後は同じ過ちを繰り返さない、どうか許してほしいという意味なのだ。もしあなたがたにもっと適当な語彙があれば、あなたがたの習慣にしたがって改めてもよい。こうしておわびの問題は解決された>
(周総理直率地説,田中首相表示対過去的不幸過程感到遺憾,併表示要深深的反省,這是我們能接受的。但是, "添了很大的麻煩”這一句話引起了中国人民強烈的反感。因為普通的事情也可以説“添了麻煩”。這可能是日文和中文的含意不一様。田中解釈説:従日文来説“添了麻煩”是誠心誠意地表示謝罪之意,而且包含着保証以後不重犯,請求原諒的意思。如果?們有更適当的詞匯,可以按?們習慣改。道歉的問題解決了。167頁)。
これは田中が「誠心誠意の謝罪」を意図して「メイワク」という日本語でわびて反省を表明した、と田中の真意を周恩来が正確に受け止めていた事実を姫鵬飛が確認したことを示す文書である。ここで念のために記しておくが、オリジナルの日本語版『周恩来の決断』(NHK取材班著、日本放送出版協会、1993年)には「姫鵬飛回顧録」は付されていない。この部分は中国語版にのみ付されたものだ。
この回想録には「姫鵬飛談、李海文整理」と注記されている。率然と読むと、「姫鵬飛外相が語った談話を研究者李海文が単に整理したもの」と受け取られかねないが、実はそうではない。李海文女史は周恩来研究で著名な党史研究者である。彼女は中共中央党史研究室の雑誌『中共党史研究』副主編を務めたあと定年退職し、現在は中共党史研究会の雑誌『百年潮』副編集長である。同女史は外交部档案室の関係文書をすべて閲覧し、記録を整理したうえで、姫鵬飛外相の確認を求めて執筆したのがこの文章なのだ。この文章の実質は、「姫鵬飛回想録の形をとった李海文論文」といってよいほどものだ。典拠資料の信憑性において折り紙つきである。
この事実を確認できたのは、コピーを受取ってから二年後のことであった。二〇〇三年九月一九日午後、私は村田忠禧教授とともに北京を訪問する機会があり、中共中央文献研究室を訪ねたときのことだ。このとき、念のために第二回会談の正式記録および田中毛沢東会談の記録の有無を尋ねた。彼女はすでに退職しており、未公開の資料を閲覧できる立場にはない。そこで現役の陳晋研究員を紹介してくれたので、この資料を調べてほしいと依頼した。翌週月曜に早速連絡があり、「矢吹教授の予想されたことが書いてありますよ」と伝えられた。私は期待に胸を躍らせながら、村田さんに同行してもらい二四日に再度中共中央文献研究室の陳晋研究員を訪ねた。その結果、第二回会談における田中と周恩来の応酬は、中国側記録には次のように書かれていることが確認された。
<田中: 可能是日文和中文的表達不一様。
周恩来: 可能是訳文不好、這句話訳成英文就是 make trouble。
田中: 「添麻煩」是誠心誠意表示謝罪了------這様表達、従漢語来看是否合適、我没有把握、語言起源於中国>
この部分を仮に訳してみよう。
<田中: 日本語と中国語と言い方が違うのかもしれない。
周恩来: 訳文が好くないかもしれない。この箇所の英訳は「make trouble」です。
田中: メイワクとは、誠心誠意の謝罪*を表します。この言い方が中国語として適当かどうかは自信がない。メイワクということばの起源**は中国だが>[*「誠心誠意謝罪」と中訳された部分の田中の原語は、次のようなものであったと推定される。すなわち自民党での報告によれば≒東洋的に、すべて水に流そうという時、非常に強い気持ちで反省しているというのは、こうでなければならない、と語ったはずである。あるいは二階堂長官のブリーフィングから推測すれば≒万感の思いをこめておわびするときにも使うのです、と説明したはずである]。 [**自民党での報告で田中はこう表現している。「中国は文字の国で本家だが、日本にはそう伝わっていない」]
田中が周恩来の前で釈明したという私の予想は、確かに証明されたわけだ。これは研究者冥利に尽きる発見ではないか。私は小躍りした。こうして周恩来の迷惑批判に対して、田中が弁明し、これを周恩来が納得した経緯が確認された。
翌二七日夜に毛沢東が田中、大平、二階堂の三人を書斎に招いたことは、日中交渉が事実上すべてを終えたことを内外に示すものであった。その会見はどのようなものあったか。日本側は通訳も書記も招かれていない。それゆえ日本側の記録として出ているのは、二階堂記者会見と田中帰国報告だけである。それだけでも迷惑問題についての核心は理解できるのだが、やはり中国側の記録による裏付けがほしい。
大著『毛沢東伝1893〜1949』(編者中共中央文献研究室、?先知、金冲及主編、中央文献出版社、1996年)の執筆者の一人である陳晋研究員は即座にこの要望にも解答を用意してくれた。

角栄釈明を了解した毛沢東
陳晋研究員が外交部档案を調べたところ、中国側記録は次のように書かれていた。
<毛沢東:?們那個「添麻煩」的問題怎麼解決了?
田中: 我們準備按中国的習慣来改。
毛沢東:一些女同志就不満意?、特別是這個「美国人(指唐聞生)」、?是代表尼克松説話的>
仮に訳してみると、こうなる。
<毛沢東:あなたがたは、あの「添麻煩」問題は、どのように解決しましたか。
田中: われわれは中国の習慣にしたがって改めるよう準備しています[いうまでもなく共同声明に盛り込む文言を指している]。
毛沢東「一部の女性の同志が不満なのですよ。とわりけ、あの「アメリカ人(英語通訳唐聞生を指して)は、ニクソンを代表してモノを言うのです>
最後の発言は毛沢東一流のジョークであろう。毛沢東の見るところ、「添麻煩」に文句をつけるのは、ニクソンの通訳としてその声を伝えたアメリカかぶれの女性同志なのであった。ここには毛沢東自身はすでに田中のメイワク釈明を了解しているニュアンスが読み取れる。すなわち「怎麼解決了?」と過去形で聞いている。毛沢東にとって問題はすでに解決済みであり、彼が問うたのは、解決に至った経緯なのだ。
これに対して、田中は「中国の習慣にしたがって改めるよう準備しています」と、「準備」ということばで答えている。すなわち田中にとっては、問題はまだ決着していない。そこで田中は中国の習慣のしたがって共同声明を起草する意向だと「解決の方針」を述べたわけだ。しかし、この田中釈明を毛沢東が了解した時点、いいかえればこの田中発言が終わった時点で日中国交正常化の根本問題、すなわち日中戦争の終結問題が決着したのであった。実は毛沢東が田中一行を書斎に招いたという事実そのものが会談妥結へ向けての儀式にほかならないものであった。そしてその儀式の核心がこの田中発言であったと理解してよいのである。
田中帰国報告を『読売』は一面トップで「日中会談エピソード」のなかの「迷惑論争」としてこう紹介している。「第二回会談では、私が夕食会で「ご迷惑をかけ深く反省している」といったことが問題になった。中国では「迷惑」ということは、スカートに水をかけられた、といった程度のことだという。そこで、私は「日本では悪かったとあやまる場合はこういういい方をするんだ」と説明した。(中略)毛主席は周首相ら中国側の「ここにいる人たちは、あれでは不十分だといってきかないんです。しかし迷惑をかけたという言葉の使い方は、日本の首相の方がうまいようですね」ということで毛主席がケリをつけた。これでも分かるように、最終的には毛主席の判断で決まっているようだ」 (10月1日)。
『毎日』は田中報告をこう報じた。「交渉では、二日目の会談で、問題が起こった。招宴で、戦前はご迷惑をかけ、深く反省していると話したが、これが「ご迷惑をかけたとは何だ」と問題になった。迷惑をかけたとは、婦人のスカートに水をかけた時に使う言葉というわけだ。日本では「迷惑をかけた、以後やらない」というように使っている。それをスカートに水では交渉はまとまらない---と強い態度をとった。毛主席は「迷惑をかけたという言葉は日本の方がうまい、うまい言葉だ」といっていた。共同声明で中国側の最終判断は毛沢東主席がした。最後は復交を行なうかどうかで判断しようということで合意ができた」(10月1日)。『毎日』と『読売』が書いたように、田中は毛沢東によって最終的決裁が行なわれたことを見届けている。形式からいえば、九月二八日午後五時過ぎに政治局会議が開かれ、そこで共同声明などを承認した形だが、これは手続きにすぎず、毛沢東が最終判断を決断した時点で実質的には日中関係が正常化したわけだ。
この和解を裏付ける証拠として毛沢東が選んだ書物が『楚辞集註』なのだ。毛沢東は次のように説明しながら、土産を手渡した。中国側の未公開文献を陳晋研究員が手書きでメモし、さらにワープロ化してくれたものには、こう書かれていた。
<毛沢東: 我是中了書毒了、離不了書、?看(指周囲書架及?上的書)這是『稼軒』、那是『楚辞』。(田中、大平、二階堂都站起来、看毛的各種書)、没有什麼礼物、把這個(『楚辞集註』六冊)送給?。(出来後、二階堂問周恩来、是否可以対記者説送「楚辞」事、周答可以、并告訴他標題是近代書法家沈尹黙写的字)>
仮に訳してみよう。
<毛沢東: 私は書物の中毒になり、書物を手放せない。ほら(周囲の書架とテーブルの本を指して) これは『稼軒(辛棄疾)』、あれが『楚辞』です。(田中、大平、二階堂が立ち上がって毛の各種書物を見る)、なにも贈り物がないので、これ(『楚辞集註』六冊を指す)を差し上げましょう。(書斎を出た後、二階堂が周恩来に「楚辞のことは記者に話してもよいか」と尋ねたところ、周は「よろしいと答え、本のタイトルは近代の書法家沈尹黙が書いたものです」と告げた)>
ここで挙げられたのはどんな人々か。
「稼軒」は辛棄疾(1140〜1207)の号だ。南宋の大詞人。山東の人、二一歳の時、金に抵抗する義勇軍に参加。一生を金との戦いに献身した官僚である。武人にして詞人とは、いかにも毛沢東好みだ。
『楚辞集註』の標題を書いた沈尹默(1883〜1971)は、著名な書法家、詩人だ。浙江省呉興の人。青年時代に日本に留学し、帰国後北京大学文学系教授となり、さらに学長を務めた。?迅、胡適らと『新青年』につどい、新文化運動の戦士となった。解放後、上海市人民委員会委員、全国人民代表などを務めた。沈尹默は陳毅が上海市長として赴任した時、最初に訪問した民主人士でもある。周恩来は総理として、この先達を中央文史館副館長に任命した。新中国初めての書法組織・上海市中国書法篆刻研究会を創立し、中国書法芸術理論に卓越した貢献を行い、毛沢東はその芸術を高く評価した。『中南海収蔵書画集』の扉は沈尹默が毛沢東のために書いたもの。周恩来の自宅と事務室には沈尹默の書が掲げてあったと伝えられる。

『楚辞集註』に込められたメッセージ
こうして田中毛沢東会談の終わりに、毛沢東が田中からの土産・東山魁夷の日本画を忘れず、贈物に対する返礼として取り出したのが、この『楚辞集註』にほかならない。では、この全六冊の線装本に込められたメッセージとは何か。
この本のなかに「迷惑」の二文字が書かれているからではないのか。毛沢東は、田中の用いた「迷惑」を中国語の文脈ではこのように使う。その証拠を示すために『楚辞集註』を差し出したのではないか。
『楚辞集註』をめくってみよう。手元に『毛沢東蔵書』全二四巻(張玉鳳主編、1998年刊行、山西人民出版社)がある。第九巻「楚辞・九辯」6282ページを開くと、左段下から三行目に次の二句が見える。

慷慨絶兮不得
中?乱兮迷惑
この部分は宋玉のものだ。宋玉は戦国時代、楚国の辞賦家。屈原の子孫とも弟子ともいう。「九辯」には政治上志をえられなかった悲傷と不満の情緒があらわれている。「登徒子好色賦」は宋玉の作ではないとする説もある。読みくだしてみよう。
慷慨、絶ゆる(あるいは「絶つ」)を得ず、
心中?乱して迷惑す。
この二句を星川清孝『楚辞』(新釈漢文大系、明治書院)は「慷慨して絶たんとして得ず、中?乱して迷惑す」と読み、「いきどおり慨して君(主)と絶とうかと思ってもできず、心の中は暗み乱れて迷い惑うのである」と解している。また花房英樹『文選(詩騒編)四』(全釈漢文大系、集英社)は、「慷慨して絶えんとして得ず、はく乱れて迷ひ惑ふ」と読み、「憤ふしく嘆かれて、胸もつぶされる思いで、落ち着くすべもない。心の中は暗くかき乱されて、あれこれと惑い惑う」と訳す。中国語では、自動詞なら迷惑とは自ら迷い、惑うこと、他動詞なら他人を迷わせ、惑わせること、双方を指す。自動詞と他動詞いずれにも使う。ちなみに『魏志倭人伝』に卑弥呼が「鬼道にえ、衆を惑わす」と評されていることを想起したい。中国語の「迷惑mihuo」は、『楚辞』や『魏志倭人伝』の時代から意味が変化していない。現代中国語においても、『楚辞』と同じ意味で用いられている。これが田中のいう「メイワク」とどれだけかけ離れたものであるかは容易に理解できよう。毛沢東は、田中の用いた「迷惑」を中国語の文脈ではこのように使う、その証拠を示すために『楚辞集註』を差し出したのではないか。
ちなみに現代中国語の文脈で「迷惑」がどう使われているかを考えるために、ある友人が『人民日報』のDVD(1946〜49年)を調べたところ、「迷惑敵人」(敵を惑わす)、「迷惑群衆」(大衆を惑わす)といった使い方が散見された。ゲリラ戦争において、敵を惑わして成功した話や敵側が味方の大衆を惑わした、といった使い方がこの時期には目立った。
田中毛沢東会談の雰囲気を物語る資料として、訪中直後に二階堂官房長官が語った記者会見の「補足発言」を念のためここに引いておきたい。
<毛: ところで、田中総理が、中国国民に「迷惑」をかけましたといったので、迷惑ということばがいろいろ問題になっているようですね。彼女はじめ若いものがうるさいんですよ(前に坐っていた毛主席の通訳でニューヨーク生まれの女性をさして)。周総理: 彼女は英語が分かるから、二階堂さんがお得意の英語で説明なさったら・・・・。田中: 日本では迷惑をかけたということは、二度とふたたびやりませんということです。心から詫びていることなんです。毛: 私はわかりましたから、あとは外務大臣同士で、いいものをつくってください。(私はまた迷惑論議がはじまるのかと思っていたら、それだけでした。ここでは田中総理も毛主席にていねいに説明していました)>(「毛沢東主席とわが総理の会話全録音」『週刊現代』1972年10月19日号)。
ここで二つの注釈が必要であろう。二階堂長官が紹介した会談における廖承志についての言及である。
<毛沢東: もうケンカは済みましたか。ケンカをしないとダメですよ。
田中: 周首相と円満に話し合いました。
毛沢東: ケンカをしてこそ、初めて仲良くなれます。(廖承志氏を指しながら)かれは日本で生まれたので、こんど帰るとき、ぜひ連れてかえってください。
田中: 廖承志先生は日本でも有名です。もし参議院全国区の選挙に出馬すれば、必ず当選されるでしょう>(『ドキュメント日中復交』)
ここでいきなり廖承志(中日友好協会会長)が話題になるのはなぜか。毛沢東の指摘のように、廖承志は日本生まれであり、当時の中国で最高の日本通であった。「江戸っ子」を誇る中国人であり、そのベランメエ調はかなり有名であった。
日本語「メイワク」の含意の鑑定役をつとめたのが廖承志ではないかというのが私の推測である。第二回会談の冒頭で周恩来が「メイワクは軽すぎる」という中国側関係者の不満を体して問題を提起したのに対して、田中は「万感の思いを込めておわびする」ときにも迷惑を使うと反論した。田中のこの反論をどのように理解するのか。生半可な日本語通訳には荷が重すぎる課題であったはずだ。いわんや日本通の大学者郭沫若が「迷惑」に疑問を呈している。
しかしこの問題は、日本で生まれ、日本の風俗習慣を深く理解する廖承志にとっては、難しい問題ではなかった。周恩来から迷惑をめぐるトラブルの経緯を知らされた毛沢東はさっそく廖承志を呼び寄せて、廖承志の判断を求めたのではないか。廖承志がどのような判断を示したかを直接的に知る資料はないが、田中がメイワクを用いたのは、「誠心誠意的謝罪」の意味だと毛沢東に説明したはずである。「廖承志は日本生まれだから、日本に連れ帰ってほしい」という発言はいかにも唐突だ。しかし、日本通をもってなる「大学者」郭沫若流の権威を否定できるほとんど唯一の証人が廖承志なのだ。
大胆な推測と非難されかねないが、もし廖承志が毛沢東と田中の間の「真の通訳」を果たしたことに対する毛沢東の評価を意味するものと解すれば、ケンカの話がいきなり廖承志を日本に連れ帰る話につながるのは、きわめて自然だ。つまり毛沢東は、日本人と同じように深く日本文化を理解する廖承志という男が「私とあなたの間の心の通訳を果たしたのですよ」と示唆したのではないか。
もうひとつの課題は、「『楚辞集註』のタイトルは近代の書法家沈尹黙が書いたもの」と説明したことの意味である。名書家沈尹黙の書は著名であり、周恩来も自宅と事務室の双方にその書を掲げていたほどであるから、その場で『楚辞集註』の文字を見ただけでも、沈尹黙の書であることを識別できたはずだ。しかし、二階堂の問い合わせに対して、周恩来が即座に「この贈物の件を記者に話してよい」と答えていることは何を物語るのか。毛沢東が田中への贈物をこの書物に決めていたことを周恩来はあらかじめ知らされていたことを示すものと解してよいであろう。
重ねて大胆に推測するが、廖承志から「メイワク」と「迷惑mihuo」の差を聞いて『楚辞集註』を贈物とすることを思いついた毛沢東が、その意向をあらかじめ周恩来に伝えておいたとみるのが自然であろう。周恩来がさりげなく沈尹黙の名に言及していることも意味深長である。沈尹黙は青少年時代に二度も日本に遊学しており、さらに抗日戦争期における行動も含めて、この人物もまた中日文化交流の深さを体現する人物の一人であるからだ。こうして『楚辞集註』という贈物は、日中両国文化の交流と摩擦を象徴するものとして選ばれたのではないかというのが筆者の新解釈である。
それだけの深い意味を込めた贈物の意味をなにも説明せずに手渡すとは不可解だ、筆者の新解釈への不満の声が聞こえてきそうだ。だが、これこそが「文明の作法」なのだ。あえて説明を加えるのは野暮というもの、日中双方がいずれは気づくことを期して黙って手渡したものと解してよい。まことに「東洋的」な優雅な作風ではないか。これは田中が「東洋的に」を強調したことに対するお返しなのだ。

歴史の闇に消えた田中角栄の肉声
田中・毛沢東会談を頂点とする一連の日中会談において、日中戦争に対する日本側の謝罪の意図は田中によって明瞭に述べられ、中国側は田中の真意を正確に理解した。こうして「メイワク」「迷惑mihuo」問題および日本の謝罪の問題について日中双方は共通認識に到達したのであった。すなわち「メイワク」と「反省」から出発した田中の謝罪が、「メイワク」は「添麻煩」と訳されるべきものではなく、「誠心誠意的謝罪」と翻訳し直されたことが一つである。その趣旨を体して日中共同声明においては、「日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」と明記されたのであった。
田中周恩来会談と田中毛沢東会談の核心をこのように読み直す私の読み方からすると、当時の時点でこの流れを最も正確に理解しつつ、適切なコメントを発表したのは、歴史家萩原延寿の解釈であった。
<二五日の人民大会堂での招宴のさい、田中首相が述べた「御迷惑をおかけした」という表現は、おそらく日本のある種の国内事情を考慮、ないし反映しての作文なのであろうし、その上に「多大の」という形容詞が附せられていることもたしかだが、やはりあいまいという印象はいなめず(中国語になおすとあいまいさは増加するらしい)、むしろあそこで率直かつ簡潔に、ひとこと「謝罪する」とはっきり述べたほうがよかったように思う」。ここまでは普通の論者と異なるところがない。萩原の洞察力が冴えるのは、次のコメントである。「「謝罪する」ということは、公表されない交渉の過程で日本側の口からから出たことなのかもしれない。いや、おそらく出たものと考えたい>(『中央公論』1972年11月号)。
萩原が願望を込めて、このように記したことを田中は実行していたわけだ。それを田中は帰国後報告している。この声が台湾派の野次と怒号に消されたにすぎない。
こうして国交正常化以後三〇年の歴史のなかで、田中の真意、すなわち「万感の思いを込めておわびをするときにも使うのです」(中国語訳「在百感交集道歉時也可以使用」)と強調した事実が顧みられることはなかった。田中の肉声は歴史の闇に消えた。
田中がその後ロッキードスキャンダルによって失脚したことが一つの要素である。さらに大平正芳の急逝も生き証人を失うことを意味した。もう一つの要素は外交当局の作為であろう。この側面は第二回会談記録が中国側記録と異なる事実に典型的に現れているが、これにとどまらない。玉虫色の決着部分について積極的な説明を加えることを外務省が一貫して怠ってきたことの責任はきわめて重いのではないか。
実は外務省の担当者には、そのような認識がまるでなかったように見える。国交正常化20年を記念して、NHKがインタビューしたとき、訪中当時中国課長として同行した橋本恕(のち中国大使)はこう証言している(1992年9月27日放映、のち『周恩来の決断』所収)。
「迷惑」を「麻煩」と訳したのは、誤訳ではなかったかという記者の問いかけに対して、橋本はこう答えている。「決して翻訳上の問題ではなく、当時の日本国内世論に配慮したギリギリの文章であったと述べている。<私は何日も何日も考え、何回も何回も推敲しました。大げさに言えば、精魂を傾けて書いた文章でした。もちろん大平外務大臣にも田中総理にも事前に何度も見せて、「これでいこう」ということになったんです>(152ページ)。
日本語の「迷惑」を用いることについて橋本が精魂を傾けた事情は理解できることだ。だがここで問われているのは、日本語の原文そのものではなく、それをどのように訳したかなのだ。にもかかわらず、橋本の回想は田中のゴーストライターとして歓迎宴スピーチの原稿を書いた原文の言い回しにむかってしまう。橋本がもし原文の推敲に費やしたエネルギーの一割でも、中国語訳文の推敲に費やしていたならば、歴史的誤解は避け得たのだ。この意味では中国語を解しない中国課長の限界というほかない。
問題は橋本が自信をもって「決して誤訳ではない」と保証したことの悪影響であろう。誤訳のゆえに「麻煩」と訳したのならば、酌量の余地はある。しかし確信をもって「麻煩」と訳したのならば許せない。おそらくこれが大方の中国人の気持ちではないか。
こうしてさらなる誤解がもたらされることになるのは火を見るよりも明らかだ。この橋本証言のようなすれ違いは、日中交流における誤解の氷山の一角にすぎない。

「謝罪」をむしかえす江沢民
他方、中国側にもそれなりの事情が生まれた。ポスト毛沢東・周恩来時代になると、毛沢東や周恩来が日本に対して譲歩しすぎたのではないかとする見方が台頭した。特に八〇年代を通じてケ小平の改革開放路線が定着する過程で、日本の経済力が過大に中国の経済力が過少に評価される潮流のなかで、賠償放棄について毛沢東や周恩来の考え方とは異なる見方が生まれた。ここで教科書問題や歴史認識問題が新たに登場し、中国側の不満を助長した。彼らの不満は、日中交渉の過程で乗り越えられたはずの「添麻煩」に回帰し、恰好の口実を発見した。そこで「添麻煩」という謝罪にならぬ謝罪こそ国交正常化の原点であるかのごとき虚像をつくり出し、これをひたすら非難し、狭隘な民族主義の感情に溺れた。毛沢東や周恩来の戦略的対日政策の精神は忘れられた。
中国側の誤解・曲解に対して日本の外交当局がどのように誤解を解く努力を行ったのか疑わしいところがある。和解の精神を以心伝心で伝える『楚辞集註』の意味が一顧だにされなかったことはその一例である。こうして国交正常化以後の歴史過程で消されたのは田中の謝罪だけではない。田中の熱意に応えた毛沢東、周恩来の思惑も闇に消えたわけだ。『楚辞集註』の意味は、中国側でも忘れられた。狭い愛国主義、民族主義感情に身をゆだねて日本批判の口実とするには、「麻煩」のほうが都合がよかったわけだ。
日本側は謝罪を行なった事実をあいまいに扱った。他方中国側は、日本は謝罪していない、あるいは口頭による謝罪しかしていないとする日本非難がひときわ高くなったのは、九〇年代後半であり、特に一九九八年の江沢民訪日以後である。
一一月二六日、日中首脳会談でこう述べた。<率直に言って、列強の中で日本は中国に対して最も重大な被害を与えた国だった」、「日本ではしばしば歴史の事実を否定、わい曲するような動きがあり、中日関係の発展を阻害してきた。軍国主義は両国人民の共通の敵だ>(『読売』1998年11月28日)。
一一月二七日、首相主催の晩餐会ではこう述べた。<前世紀末から日本軍国主義がい く度も中国を侵略する戦争を起こし中国人民に巨大な損害をもたらした。歴史を教訓とし悲劇の再発を防止してこそ、友好を発展させることができる>(『読売』11月28日)。
一一月二八日、早稲田大学での講演で江沢民は戦争を体験した生き証人と自らを位置づけたうえで、<日本軍国主義は対中侵略戦争を起こし、中国の軍民三千五百万人が死傷し、六千億ドル以上の経済的損失を受けた」と日本の「侵略の歴史」を指摘した>(『産経』11月28日)。
「うんざりだ」「これだけ言われては、未来志向という気もなくなる」(『産経』12月4日)という政府や自民党議員の感想も、多くの国民の共有する所であろう。
江沢民が日本訪問に際してこのような態度に終始したのは、日本の対中政策への不満を示すものだが、ここでは紙幅の都合で立ち入らないことにする。こうした反日的スタンスはその後、日本の対中世論を劇的に悪化させることに貢献した。
小泉首相の靖国参拝には、この対日政策に対する反発の要素もあろう。こうした相互不信の末、ついに二〇〇二年には国交正常化三〇周年の記念行事が行われたにもかかわらず、両国首脳の相互訪問が実現しない事態さえ生まれた。
とはいえ、「メイワク」に始まる誤解がここまで深まったのではない。江沢民が三つの公式文書において、日本は謝罪していないとして、七二年の共同声明、七八年の平和友好条約、そしてみずからが関わる九八年の日中共同宣言に、謝罪がないというとき、それは九八年の共同宣言が希望通りには書かれなかったと不満を述べているにすぎないのだ。
ところで、田中が「迷惑」を選んだのは、橋本恕証言のように青嵐会に象徴される台湾派の反発を考慮してという理由からなのか。必ずしもそうではあるまい。
一つの例を挙げよう。財界人良識派として知られたアジア留学生協力会会長小山五郎(元三井銀行取締役・相談役)が、こう発言している。<経済大国としてのわが国は何をしたかというと、『大東亜戦争で大変なご迷惑をかけてしまい、申しわけなかった。一億総懺悔という形で皆さんにお詫びするとともに、いかなる経済協力もいたしましょう』という誓いを立てて、できるだけのことをやってきたわけです>(『経団連月報』1986年5月号座談会「アジアとの関係を考える」)。小山は財界人である。「台湾派の反発」を顧慮して迷惑を用いたのではあるまい。

昭和天皇の一言に感動したケ小平
実はここにもっと重要な「迷惑」の例がある。一九七八年にケ小平を迎えた天皇のことばも「メイワク」であった。話が少し入り組んでいるので、丁寧に説明したい。
一九七八年一〇月二三日、日中平和友好条約の批准書交換式のために来日したケ小平は皇居を訪問して昭和天皇・皇后と会見し、天皇主催の午餐会に臨んだ。天皇がケ小平を接見した経緯を『人民日報』はこう報じた。
<会見中に天皇陛下は、つぎのようにいった。「日中両国には長い友好的な歴史があり、一時は不幸なできごとがありましたが、すでに過ぎ去りました」(中略)ケ小平副総理は、以下のように述べた。「われわれもこの条約は深遠な意義をもっていると考えております。過去のできごとは、すでに過ぎ去りました。今後、われわれは前向きの態度で両国の平和な関係を樹立しなければならなりません>(1978年10月24日)。
『人民日報』の報道では、天皇の「不幸なできごとが過ぎ去りました」という発言を受けて、ケ小平が「過去のできごとは、すでに過ぎ去りました」と応じた、と伝えている。
ところが日本の報道はこの先後関係が入れ代わっている。たとえば『朝日』はこう解説した。<天皇陛下が「一時、不幸な出来事」と短い言葉ながら、日中関係の過去について中国の指導者に語られたのは初めてのことである。(中略)天皇陛下のこの発言は、ケ副首相が「過ぎ去ったことは過去のもの・・・」と述べたことに対しなされた>。そのうえ、「宮内庁の見解」をこう伝えている。<会見に同席した湯川宮内庁式部官長は次のように語っている。陛下が会見で述べられたことは、「これからは長く両国の親善が進むのを期待します」ということが主眼で、「不幸な出来事」という過去を強調されていたものではない。ケ副首相が「過ぎ去ったことは過去のもの」と述べられたのに答えたもので、きわめて自然な雰囲気だった>(10月24日)。
『人民日報』と『朝日』など邦字紙の報道を比較すると、明らかに発言の順序が入れ代わっている。事実はどうであったのか。
会見の十三年後、すなわち一九九一年に出版された『入江日記』にはこう書かれている。まず一九七八年一〇月二三日、会見当日の日記である。<ケ小平来日をめぐって昨日から今日にかけて右翼のデモ盛ん。馬鹿なことである。[湯川]官長、ケ氏につき申上げる。零時一〇分より半まで竹の間。(中略)あと午餐。二時過ぎ終る。竹の間で「不幸な時代もありましたが」と御発言。ケ氏は「今のお言葉には感動しました」と。これは一種のハプニング>(『入江相政日記』1984年223〜24ページ)。
この記述から会見の時間が約二〇分であること、天皇の「御発言」が先であり、ケ小平はこれに感動したという因果関係が分かる。しかも入江は「ハプニングが起こった」とコメントしている。六年後、すなわち一九八四年の「年末所感」にはハプニングの内容が次のように記されている。
<ケ小平氏の時に、陛下が全く不意に「長い間ご迷惑をかけました」と仰有り、それをうかがったケ氏が非常に衝撃を受けたことを忘れることはできない>(『入江』241ページ)。天皇は外務省と宮内庁が打ち合わせたシナリオを無視して「全く不意に」、「迷惑」でわびたのである。天皇の突然の「御発言」にケ小平が驚いたであろうことは容易に推測できよう。このエピソードは入江にとっても驚きであった。
入江は六年後に「年末所感」として「ご迷惑」を記す前に、一〜二年のうちに田中清玄に漏らしている。それを耳にした田中は八〇年の訪中時にケ小平と会見した際に、ケ小平の印象を尋ねている。田中の回想録からその箇所を引用しておこう。
<あれは聞いていてこっちも体が震えたよ。私はその前に、当時の入江侍従長から、ケ小平さんのご会見のとき、真っ先に天皇陛下の方から、「わが国はお国に対して、数々の不都合なことをして迷惑をおかけし、心から遺憾に思います。ひとえに私の責任です。こうしたことは再びあってはならないが、過去のことは過去のこととして、これからの親交を続けていきましょう」と言われたと聞いていたので、そのことを尋ねたんです。答えは「その通りだ」ということだった。ケ小平さんは陛下のこのご発言を聞いて「電気にかけられたようだった」と表現していました。ややあってケ小平さんは「お言葉の通り中日の親交に尽くしていきたいと思います」と答えられたそうです>(『田中清玄自伝』文藝春秋、1993年、288〜289ページ)。
『毎日新聞』記者大須賀瑞夫が田中への聞き取りを行なったのは、一九九一年春のことだ。この取材記録をもとに同紙編集委員岩見隆夫が「新編戦後政治10」で<昭和天皇は・・・突然の謝罪に言葉失う>を書いて、田中が入江から話を聞き、その真偽をケ小平自身に直接確かめたエピソードを記事にした(『毎日』1991年6月9日)。その後に『田中清玄自伝』が出版されたわけだ。
こうした曲折を経て、明らかになったのは、やはり「長い間ご迷惑をかけました」であった。
もし、天皇の「迷惑」が田中訪中の晩餐会と同じように「添麻煩」と訳されたのならば、ゲリラ戦争を生き抜いてきた百戦錬磨のケ小平を呆然とさせることはありえなかったのではないか。当時の通訳は各紙の写真で見ると外務省田島高志中国課長である。田島課長がこの「迷惑」をどのように中国語訳したのか、関係者の証言を待ちたい。
実は、種明かしのような話になるが、中国の辞典は「迷惑」が古語であるとともに現代語であるから、以下のような説明が行なわれている。たとえば、『辞海』は「迷惑」の説明として、『荘子・盗拓』から「矯言偽行,以迷惑天下之主」および『楚辞・九辯』から「中?乱兮迷惑」を引用している(上海辞書出版社、1979年版、中巻2406ページ)。
『辞海』はまた「?乱」の説明として、『楚辞・九辯』から同じ箇所「中?乱兮迷惑」を引用している(上海辞書出版社、1979年版、下巻3820ページ)。要するに、『辞海』をひもどけば、「迷惑」と「?乱」、どちらを引いても『楚辞・九辯』にたどり着く。
他の辞書はどうか。『漢語詞典』(商務印書館、1947年重版)で「?乱」を引くと、「中?乱兮迷惑」のごとし、『楚辞』を見よ、とある。この場合は、「迷惑」ではなく「?乱」からのみ、『楚辞』にたどりつける。『現代漢語詞典』(商務印書館、修訂本)には「迷惑」と「?乱」の意味は説明されているが、語例は掲げられていない。
では、日本の漢和辞典にはどう書かれているだろうか。諸橋轍次『大漢和辞典』で「迷惑」を引くと、『楚辞』の語例は見当たらない。しかし、「?乱」を引くと、『楚辞・九辯』から「中?乱兮迷惑」が引用される。日本の漢和辞典はほとんどがこの諸橋流を継承する。それゆえ、漢和辞典をひいて、そこから「迷惑」の典拠を得ることはできない。日本の学者たちが『楚辞』から「迷惑」の二文字を連想しなかったのは、このためではないか。実は諸橋も中国の辞書に習って、『楚辞・九辯』を引用しているのだが、それは「?乱」の説明としての引用したものだ。こうして「迷惑」の意味を探るために、「?乱」を想起する日本人はほとんどなかったようだ(白川静のように『楚辞』をそらんじているほどの研究者は別であろうが)。
私はいま一つのタネ明しをやり、『辞海』から「迷惑」の典拠を探せることを示唆した。では私は『辞海』からたどりついたのか。否だ。『辞海』の説明を私は、『楚辞集註』のなかに「迷惑」を確認したあとで開いて、ナーンダと苦笑したのである。

宋玉と毛沢東----イケメン、好色、口達者
話は一九七五年に遡る。私は『毛沢東思想万歳』なる紅衛兵文書に熱中して、その一部を『毛沢東、政治経済学を語る』『毛沢東、社会主義を語る』(ともに現代評論社)に訳した。後者に毛沢東が一九五九年七月二三日に行なった「廬山会議講話」を訳出して収めた。
毛沢東は当時、人民公社の食堂が失敗した問題で窮地に陥っていた。毛沢東はこう反撃した。
<(科学院昌黎調査組報告は)人民公社の食堂にはメリットがない、という。その一点を攻め、その余に及ばず、の書き方だ。『登徒子好色賦』をまねたものだ。登徒子は、宋玉のことを<イケメンで好色で口達者だから危険であり、後宮へ入れてはならない>、と攻撃した。宋玉はこう反論した。<イケメンは両親のせい、口達者は教師のせいだが、好色とはデタラメだ。天下の佳人は楚国にしかず、楚国の佳人はわが村にしかず。わが村の美人は東隣の娘にしかず。背は高からず低からず・・・>。登徒子は大夫だった。大夫というのは、いまの部長(閣僚、大臣)だ。冶金工業部長、石炭工業部長、あるいは農業部長といったところか。科学院調査組(報告)は、その一点を攻め、その余に及ばず、だ。その一点を攻めるやり方だと、豚肉がない。ヘアピンがない、といった話になる。誰にも欠点はある。孔子にも過ちがあった。レーニンの手稿を読んだが、わけがわからないほど直してあった>(拙訳129ページ。ただし一部を改訳。原文は『毛沢東思想万歳』301-302ページ)。
人民公社の食堂作りは、毛沢東の掛け声「人民公社はすばらしい」によって全国に広まったが、廬山会議の開かれた一九五九年夏には、各地で人民公社食堂の是非は大問題になっていた。河北省昌黎県を現地調査した科学院チームの報告は人民公社食堂に否定的な評価を下した。毛沢東はこの報告が宋玉(=毛沢東)を攻撃する『登徒子好色賦』の亜流だという。報告書によって痛いところを突かれた毛沢東は、宋玉を攻撃した登徒子に仮託して必死に反撃した。毛沢東が直接的に反論した対象は、科学院昌黎調査組報告だが、ここで毛沢東の声高な弁明を聞いている中央工作会議の出席者にとって、毛沢東の反撃の対象が彭徳懐国防部長が十日前の七月十四日に提出した「意見書」であることは明らかであった。彭徳懐が毛沢東個人に宛てた意見書を秘書を通じて届けたのに対して、これを「直ちに印刷し、出席者全員に配布せよ」と指示したのは、ほかならぬ毛沢東その人であった。毛沢東はこうして彭徳懐意見書を全員に読ませたうえで、大反撃に転じた。政治的文脈をこのように見てくると、毛沢東がみずからを宋玉に、彭徳懐ら人民公社批判派を登徒子になぞらえていたことは明らかだ。
登徒子は架空の人物であり、『登徒子好色賦』は宋玉の作と伝えられる。私は毛沢東の廬山会議講話の翻訳を通じて、宋玉の「好色賦」を毛沢東がそらんじており、みずからを宋玉に、彭徳懐を登徒子に仮託していることを知ったのである。毛沢東の人生は波瀾万丈だが、なかでも廬山会議前後の攻防は最も劇的なシーンの一齣だ。のちの文化大革命はここに源流がある。
三〇年前に読んだものが突然脳裏にひらめいたのは、偶然にすぎない。『楚辞集註』という贈物の意味を解説する識者の説明がすべて説得力を欠いたこじつけではないかと感じたとき、ほとんど同時に毛沢東がそらんじていた宋玉の「好色賦」を想起し、そこから「九辯」にたどりついたわけだ。
とはいえ、そこからの過程もジグザグであった。私は現代中国語には慣れているが、古典は読んだことがない。学生時代に『魯迅選集』で『彷徨』冒頭の屈原「離騒」を訳文で読み、シンガポール遊学時代に南洋大学中文系の授業をひまつぶしに傍聴した程度だから、たかがしれている。『楚辞』がくさいぞ、と見当はつけたものの、それを開いても読めるはずはないから、めくることはしなかった。やはり試験が迫らないと勉強しない学生と同じく、北京での初めての講義に迫られてようやく『楚辞集註』を開くことになった。
狭い書斎の書棚の一角を陣取る『毛沢東蔵書』(全24巻、山西人民出版社、1998年、セット定価5000元)の第9巻を開く。まず「離騒」になし。ついで「九歌」になし。「天問」になし。「九章」になし。「遠游」になし。「卜居」になし。「漁父」になし。「九辯」---ありましたね。「迷惑」が二回出てきた。次の「招魂」になし。「大招」になし。
中国の古典もいまではデジタル化されたものが多く、語彙の検索はこの分野のプロにとっては朝飯前だ。だからこの分野に詳しい知人に問い合わせれば、容易に答えが返ってくにことは分かっていた。ただ当時としては、単なる思いつきであるから、素人の思いつきにすぎぬ、とからかわれ恥をかくのもいまいましい。というわけで私は意味の分からない本を開いて、ただ二つの文字を探す作業を始めたわけだ。なかなか出てこないので、くたびれてやめようかと思ったころ、疲れた老眼に飛び込んできたのが「迷惑」の文字であった。
余談だが、毛沢東の廬山会議講話はまだ公表されていない。李鋭『廬山会議実録』には、この講話の「全文」が収められているが、私がいま引いた部分は欠如している。
中国において「迷惑」の意味が『楚辞』の時代から現代に至るまで変化していないことはすでに繰り返し指摘した。日本では、たとえば『平家物語』(鎌倉前期)あたりまでは、中国から輸入した意味で用いていた。『岩波古語辞典』(1262ページ)には、「迷うこと、とまどうこと」の意味で用いた例として、『平家物語巻5咸陽宮』から「皇居に馴れざるが故に心迷惑す」を引いている。『他阿上人法語2』には、「生死迷惑の種子は、淫貪の一念なれば」が見える。なお、後者は院政期(1086〜1185)の『色葉字類抄』にも見える。
しかし『御伽草子・富士の人穴の草子』(鎌倉末期)には「何と迷惑なりとも、子を売り、捨つる事なかれ」とあり、「困ること、困惑すること」という現代語の源流も見える。また『虎明本狂言・武悪』には「肴がなうて、何とも迷惑なさるる」とある。
田中角栄が必死に弁明したのは日中の意味の違いであった。以上の例文調べから「迷惑」は日本でも『平家物語・巻5』の例文が示すように、鎌倉前期あたりまでは中国と同じ意味で用いていたこと、しかし鎌倉末期にはすでに含意が現代日本語のそれと似たものに転化していたことが知られる。むろんこれは「日本語のなかの漢語」としての意味の変化である。日本文化に特有ないわゆる漢文訓読、すなわち中国語の古典を「部分的にひっくり返してあたかも日本語であるかのように読む」世界では、中国語「迷惑mihuo」と同じ意味で読み続けたことはいうまでもない。

「万感の思い」を込められた「迷惑」はすでに死んだ
鎌倉時代あたりを転機として生じた「迷惑」の語義の転化の理由を私は次のように考えたい。武士の社会が成立する以前、すなわち平安期の貴族社会においては、「迷い、惑わす」行為は、広く行なわれていた(たとえば陰陽道はその一例)。しかし、鎌倉時代になり、「いざ鎌倉へ」、常時馳せ参じて一命を主君のために捧げることを最高の美徳と観念する武士道の時代になると、「迷い、惑わす」行為は、むしろ忌むべき行為とみなされるようになったのではないか。「迷い、惑わす」のではなく、「決断」こそが美徳になった。この決断を支える哲学として新興仏教・禅宗が大きな役割を果たしたことは、朝河貫一「武士道とはなにか」(拙訳『横浜市立大学論叢』人文系列、第54巻合併号、2003年)の教える通りであろう。「迷い、惑わす」感情から訣別して、生死を賭けた決断へと意志決定を迫られた武士にとって、「迷い、惑わす」ものは、「迷惑」のタネに転じたのではないか。そのとき武士は心の迷いを「迷惑千万」「迷惑至極」とばかりに切り捨てた。こうして中国から導入された日本漢語が意味を変えた。すなわち日本漢語としての「迷惑」の意味を変えたのは、武士道ではないか、と思われる。
ただし、ここで急いで付け加える必要があるが、ちかごろ流行している武士道解釈の軽薄さとご都合主義によっては、日本文化はますます誤解されるばかりであろう。朝河貫一は「もののあわれを知る」(物事のパトスを敏感に感じ取る)ことは、京都の宮廷で発展し、封建時代を通じて育成されてきたものだが、これは「心の陶冶」を意味するものであり、人間的共感への素早く快活な反応への能力であり、ここには打倒された敵の武勇を称賛し同情することをも含むと説いた。「迷惑」の意味が外来中国語の原意から離れて、やまとことばに転化したとき、同時に「もののあわれを知る」感性も陶冶される道が開け、日本人の心の自省心を深め洗練する道につながったはずなのだ。
ここで「迷惑」の両義性あるいは多義性に触れておきたい。武士社会、農民社会の形成期にあって、共同体の美徳は「世間に迷惑をかけない」ことであった。この場合、迷惑とは、隣家の猫を紙袋に押し込んで蹴飛ばす小坊主のいたずらから、放火あるいは失火して村中を焼き尽くす大犯罪までを含む。これらは「世間に迷惑をかける」という点ですべて同質であり、そこでは被害の程度ではなく、「迷惑をかけること」自体について責任が問われた。日本では「立派な大人になって社会に貢献せよ」という倫理で教育された時代よりも、「世間に迷惑をかけてはならない」という共同体の内向きの倫理で教育された時代が長かった。この文脈で「迷惑」の内容は、必ずしも軽い失敗とは限らないのだ。重大な失敗をもまた迷惑として謝罪したのであり、この文脈では被害の大小にかかわらない。
しかしながら、田中「迷惑」騒動を契機として、過去三〇年間にその意味は、決定的に軽くなり、「迷惑< おわび<謝罪」という「わび言葉の序列」が固まってきたように思われる。田中が一九七二年三月二一日に国会で初めて、<たいへん御迷惑をかけましたと、心からこうべをたれることが必要だと思います。再びかかることを両国の間には永久に起こしてはならない。少なくとも、日本は過去のようなことは断じて行なわないという強い姿勢を明らかにすべきだと思います>と述べた時、謝罪を曖昧にしようとしたものでないことは明らかだ。ここで田中の「迷惑」とは、「心からこうべをたれる」ものであった。
ところがこの「迷惑」は、ひとたび政治の場にもちこまれた途端にもみくちゃにされた。挙句の果ては、田中が中国との信義を守るために必死に弁明し、外交を担当すべき外務当局が「国内」の政治バランスを口実として、「法匪」もどきの論理を展開するという逆転現象さえ生れた。
顧みると、田中角栄が自民党幹事長から通産大臣に就任したのは、一九七一年七月五日に発足した第三次佐藤内閣においてであり、その一〇日後にニクソン訪中が発表された。機を見るに敏な田中通産相は中国問題に取り組む意向を固めた。そのような田中にひそかに接触してリポートを届けたのが橋本中国課長であり、七一年の晩秋あるいは初冬のことだ。田中が商工委員会、そして予算委員会で中国問題に取り組む意欲を示した背後には、この橋本リポートがあった(『周恩来の決断』67ページ)。
七二年七月五日自民党の総裁選挙で田中が福田を破り、七日に田中内閣が成立した。外相には盟友大平正芳が指名された。田中は初閣議後の記者会見で「中華人民共和国との国交正常化を急ぐ」方針を語った。あとは九月訪中まで一瀉千里だ。
田中角栄、福田赳夫にはじまり、小山五郎から昭和天皇にいたるまで、すべて「迷惑をかけた」という表現で、日中戦争の被害者にわびていることの意味を日本文化の問題として改めて再考すべきではないか、という思いから私の探求が始まった。しかしたどりついた地点は「迷惑」ということばがもはや修復できないほどに致命傷を受けた姿である。いまや私の学生でさえ、「迷惑」をうさん臭い眼で見ている。「万感の思い」を込められた「迷惑」はすでに死んだ。これが国交正常化以後三〇年の現実だ。「迷惑」ということばにとっては、まことに「迷惑千万」な成行きである。
(本稿は今年1月26日に行なわれた横浜市立大学最終講義「日中誤解はメイワクに始まる」に大幅加筆したものである。なお最終講義草稿の中国語訳は「田中角栄与毛沢東談判的真相」のタイトルで『百年潮』2004年2月号に発表された)
Yabuki Susumu 26


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