北京NOW (B)    
  第31号 2012.03.16発行 by 江原 規由
    薄熙来、中国の都市化を先取りしていた政治家
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 今年は、鄧小平の南巡講和からちょうど20周年である。歴史に「もし」を持ち込んでも詮無きことではあるが、南巡講和がなかったとしたら、今の中国経済の「かたち」は変わっていたに違いない。

 以下の表は、1949年の建国から今日に至る中国の変遷を大まかに区分整理したものである。筆者の独断と偏見ではあるが、2012年以降の中国の「かたち」がどうなるのかについてのヒントを提示したつもりである。表の説明は、文章の中で関連つけて説明したいと考えるが、読者のご批判をいただければ何よりである。



建国以来の中国の変遷
時代区分 1949年~ 1976年/1978年~ 2012年~
時代の求是  政治重視
(毛澤東思想)
経済優先
(鄧小平理論)
民生向上
(都市化)
 時代の主役 企業
(外資企業を含む)
人民
 求心力 権力 文化/教育
 社会的背景・関心 平等/非効率 格差/腐敗 社会保障
 発展方向 自力更生 改革開放 民主
 経済発展の舞台 国内 国内外 国内外・宇宙・海洋
 経済発展の尺度 人口 生産 環境
 イメージカラー 黄/紅 黄(黒)/緑 青/藍
 イメージ動物 獅子 パンダ
 三種の神器 自転車/ミシン/腕時計 マイカー/マイホーム/株等

コペルニクス的転換
この表では、2012年以降の「時代の求是」を「民生向上」としたが、その舞台は「都市にある」といえよう。既に、中国では、都市化が急速に発展しており、2011年末時点、都市に住む住民の比率が全人口の過半となったと報じられている。

 建国の父、毛澤東は、「農村から都市を包囲せよ」といって、中華人民共和国を建国した。今日、状況は一変しており、「都市から農村を包囲する」こと、即ち、都市化を推進し民生を向上させるといった、発展戦略上のコペルニクス的転換と中国は向き合っているといっても過言ではない。経済発展の軸足が農村から都市へと移ったということである。

2010年に開催された歴代最大規模の万博となった上海万博のテーマは「よりよい都市、よりよい生活」であった。都市化のあるべき方向を内外にアピールしたわけで、「都市化」の行方は、今後中国を見る視点といえる。

 中国では、今年から来年にかけて新指導部が誕生する。都市化の推進は新指導部の政策的トッププライオリティになるに違いない。その行方に新指導部の面子がかかっているといえよう。
都市化を先取りしていた大連
「都市化」とは、単に、都市人口を増やすことではなく、同時に、都市生活者に快適、かつ便利な生活空間を提供し企業にはビジネスチャンスを創出するということにあるといえる。今後、中国では「都市化モデル」がいくつも誕生すると思われるが、その雛形が20年前に始まった大連の都市建設に見出せると、筆者は考える。

鄧小平の南巡講和のあった1992年、薄熙来氏が大連市の代理市長に就任し、翌年93年3月の大連市人民大会(市議会に相当)で市長に選出される。薄熙来氏は大連に職すること16年、そのうち市長(書記)として8年、斬新なアイディアで大連の都市建設に手腕を発揮した。

余談になるが、当時、市長就任時の年齢が43歳と若かったことに内外の関心が集り、また、長身とルックスのよさ、弁舌のさわやかさに市民から銀幕のスター以上の人気を博した。加えて、国家の長老たる薄一波氏の子息であったことが、薄熙来市の人気に拍車をかけた。そんな薄熙来氏の市政を最も能弁に語っているのが都市建設である。

筆者は、薄熙来氏が市長となった同年同月に大連に赴任し6年ほど滞在した。大連の都市建設の様子をつぶさに見ることができた。
 現代にも生かされている『市長都市経営論』
  薄熙来氏の都市建設の要諦は、「市長は都市を富ませ、市民に利益を創出するための都市経営者でなければならない」とした「市長都市経営論」(筆者の造語)にある。その中で、薄熙来氏は、次のようにいっている。


 「都市建設資金はどこから来るか、国有企業が国有資産であるように都市もまた国有資産である。政府は企業からの税収だけでなく、都市を経営することからも財政を豊かに出来る。都市をうまく経営するには、まずは良好な環境、次は外資導入だ。環境がよければ、外資の進出が増える。こうして連鎖反応が起きれば、都市の価値は高まる。良好な環境とは、整備されたインフラ、十分な都市機能、美しい自然環境で、内外資金の受け入れの前提である。外資の進出が増えれば、都市は自然と豊かになる。環境がよければ、経済もよくなる。その結果、人民、企業、機関の全てがその恩恵を得ることが出来る」

 薄熙来氏は、まず、都市建設には良好な環境が必要だと説く。具体的には、道路、空港、ショッピングセンター、ホテル、事務所ビル、展覧会議場、病院、学校、文化・体育施設などで、至る所に花々、緑地、広場があり、完全な開放政策と法規が整っていれば、外資導入が増えるという。「市長都市経営論」で、まず強調されたのが、環境つくりと外資導入による都市建設であった。

 大連在任中の8年間の直接投資受入額(実行ベース)は就任前の累計額の4.6倍、累計外資企業数は5.3倍となった注1。また、都市環境つくりでは、1500万余㎡の旧家屋取壊し、市区100万人の新居への入居、1300万m2の緑地帯造成、90余環境汚染工場の郊外移転、40余河川の汚水処理、大規模用水工事・埠頭工事、立体高架橋、展示会場(星海会議・展示センター等)、中国東北地区最大規模の星海公園、金石灘観光レジャー区、黄海大道、大窯湾コンテナ埠頭などの建設、旅順南路改造、病院、事務所ビル、文化・体育施設の建設、などのインフラ整備など、薄熙来氏の「市長都市経営論」は民生向上へのプロジェクトが多かったことは、当時としては、時代に先行して極めて斬新であったといえる。
 こうして、大連の都市機能や都市美が国内外で知られつつある一方、都市建設に多額の資金を費やし過ぎるとの批判もあった。再び、薄熙来氏の言葉(遼寧省長であった2003年6月に大連を視察した時の講話)を借りたい。


 「私が大連にいた頃、大連市の財力は非常に少なかった。土地価格も低く、簡単には大プロジェクトに着手できなかった。 “大連市はお金のほとんどを都市建設に費やした”という同志もいるが、これは錯覚だ。大連市のお金は高速道路などのインフラ整備には使われたが、都市緑化、広場建設などにはほとんど使われていない。大連市のバラック住宅改造や旧工場の郊外移転などは土地の価格差を通じて実行されており、市の財政負担となっていない。すばらしい都市環境と整った都市機能は現代都市に欠かすことの出来ない条件であり、国際社会への仲間入りの通行証でもある」

 この講話には注目すべき点が2つある。まず、都市建設の多くを「土地の価格差」を通して行なったとしている点、もう一つが、国際社会を意識して都市建設を行なっていたという視点である。いずれも時代を先取りしていたというのがその理由である。即ち、土地価格が大幅に上昇すれば、土地譲渡収入が増え政府の都市建設資金を増やせることになる。実際、大連では、1999年の土地平均価格は1994年比で5倍にも高騰している。

 20年後の今日、全国津々浦々で都市化が推進されているが、地方政府はそのための資金調達を「融資平台」(2010年末時点約1万社)を通じて銀行などから確保している注2。地価が上がれば、市の財政が潤い都市開発が進む。土地を元手に建設資金を捻出するという視点は、薄熙来氏の手法に相通じるものがある。

 また、国際社会を意識して都市建設を行なっていたという点については、いみじくも、2010年の上海万博のテーマを先取りしていたといえよう。
 90年代の大連の変身
  薄熙来氏の「都市建設」の成果は、「大連長高了、緑多了」(大連は背が高くなった<高いビル建設が増えた>こと、緑が増えた)「大連緑起来了、亮起来了、洋起来了」(大連は緑になった、明るくなった、ハイカラになった)などのキャッチフレーズ注3や「大連不求最高、只求最佳」(大連は最高を求めず、最良を求める)といった姿勢に集約されている。こうした大連市の発展は、いみじくも今の中国が目指す「国づくり」の方向を先取りしていたところが少なくなかった。

◆大連不求最高、只求最佳
 「都市が巨大になれば、管理が難しくなり市民活動に不便が生じる。人も太れば、ダイエットをしなければならない。大連は大都市ではないが、空気のきれいな暮らしやすい大連、企業は利益を出し友愛に富んだ交通至便で交通渋滞のない大連、スポーツが盛んでファッショナブルな大連、鮮花、緑地、広場、噴水などで活気が伝わるような大連、をイメージしている」と、薄熙来氏はあるインタビューに答えて「大連不求最高、只求最佳」の意味をこう説明している。

 中国は、1978年以来の改革開放路線のもとに大胆な外資導入をテコとするなどで、過去30年間二桁に近い高成長を遂げ、今や世界第2位の経済大国なった。しかしながら、同時に、河川・大気汚染などの環境問題の先鋭化や地域間格差の拡大などの不経済も生んだ。こうした不経済に対し、中国では、目下、「環境」と「人」にやさしい「国つくり」が希求されている。

 90年代の大連市は、高成長を遂げる一方、汚濁の著しかった馬欄河の清流化、市内の工場の郊外移転、市内緑地帯の設置など、既に「環境」と「人民生活」を配慮した「都市つくり」を大々的に実践していた。

 「大連長高了、緑多了」、「大連緑起来了、亮起来了、洋起来了」の「高」は「高成長」、「緑」は環境、「亮」は市民生活、「洋」は外資導入を代弁していたわけだ。

◆大連三宝
 90年代、「大連には『大連三宝』として誇れる薄熙来、サッカー、ファッションの三つ代名詞がある」と、言われたものである。当時、薄熙来氏は正に大連の顔であり、内外で大連の知名度を高めた。大連の都市建設に倣って、街中の塀が取り払われ、芝生、花々、木々が植えられ、広場が作られ、都市美化が推進され、外資を導入しようとした中国の都市は少なくない。2004年、中国中央テレビ(CCTV)は、「最も経済的活力に満ちた都市」奨を獲得した大連を、「都市を風景に変え、風景を資本に変えた都市」と賞している。ここでいう「風景」とは、重工業都市であった大連を斬新で美しく内外に知られる花園都市に変えたことを意味しよう。薄熙来氏は、市民から「芝生市長」とあだ名されていたが、このニックネームには大連を緑多き美的な都市に衣替えさせた薄熙来氏対する市民の親近感が現れているといえよう。国連は、大連を「世界で最も住みよい環境都市500傑」に選出している。

 余談になるが、当時大連には、米国のゴルフの聖地であるぺブルビーチを髣髴とさせる金石灘国家リゾート区内に、中国ではまだ少なかったゴルフ場がつくられた。当初は、外資系企業誘致のための投資環境の一環として建設されたこのゴルフ場には、次第に大連市の幹部や企業家などのゴルフに興じる姿が目立つようになったが、薄熙来氏の姿を見た人はいなかったようだ。長身の薄熙来氏にはゴルフクラブが似合いそうであったが、土日といえども、業務多忙でそれどころではなかったのかもしれない。
 輝き始めた大連の影
  こうして、環境と外資導入による都市建設を要諦とした「市長都市経営論」で大連が輝きを増せば、その影が目立つようになるのは自然であろう。筆者の知るその影は外資導入面に目立ったといえる。

◆90年代の大連の債務問題
 まず、大連国際信託投資公司(DITEC)の債務不履行問題が指摘できよう。発端は、1998年10月に広東国際信託投資公司の破綻であった。当時、国際信託投資公司は、全国(省・市レベル)に240余社存在していた。国内外の金融機関から、省・市レベルの公的機関としてその信用力を背景に資金調達し、省・市のインフラ整備等のプロジェクトに投融資する外資導入の窓口的機関であったが、広東国際信託投資公司が突然経営破綻。その後、債務不履行や破綻する地方の国際信託投資公司が相次ぎ信用不安が広がった。大連国際信託投資公司もその例外ではなかった。同公司が債権銀行に対し債権の一部放棄を要請、結局、日本の関係銀行などが債権の40%ほどを放棄することで合意したとされる。

 中国の世界経済におけるプレゼンスが当時とは比較にならないほど高まっている今、こうした連鎖的な不履行問題が発生したとすると、世界に波及しないとも限らない。実際、前述した「融資平台」関連の地方政府の債務残高は10.7兆元(約130兆円、2010年末時点)でGDPの約四分の一、同年の全国の税制収入を上回る巨額となっている。その顛末が気になるところである。

◆山猫ストの発生
 次が、1994年に進出日系企業を突然襲った「山猫スト」。当時、外資系企業の従業員がストを打つとは、青天の霹靂にも等しい事態といえた。ストの行方次第では、大連の労使環境が悪化し大連でのビジネスに影響が出ると懸念された。市政府はこうした未曾有の事態に慎重に対応、責任者の割り出しなど処理に努めたようであるが、真相は究明されないまま決着してしまったとの印象がある。今日では労働契約法(2008年1月施行)など関連法規が制定されており、外資企業のみならず中国企業を含めすべての企業で、中国人労働者は当時とは比較にならないほど、その権利が保障され、義務が課せられており、同様な「山猫スト」が起きる可能性はきわめて低いといえる。
 債務不履行、山猫ストなどの未曾有の事態で、輝きを増しつつあった大連が支払ったコスト(授業料)は決して低くはなかったはずであるが、その対応において、薄熙来氏の影は、逆に薄い。当時の薄熙来氏には華やかな大イベントでのパフォーマンスが似合い過ぎたのか、問題処理に奔走する影がかき消されていたようだ。

 2000年8月、市長から遼寧省長に転任する際の講話の中で、薄熙来氏は、「過去8年の間、我々は数々の困難に直面した」と述懐し、物価上昇、水不足、環境汚染、資金不足、国有企業の経営難、債務過多、労働者・従業員のレイオフ、労使問題、乱収費問題(手数料などを名目とした関係部門などによる法定外の費用徴収、96年当時、中国各地で進出企業から問題視されていた)などをあげている。講話の最後で、薄熙来氏は、「大連をさらに美しく、“北方明珠”(北の真珠)の名に恥じない都市に建設しよう」と結んでいる。

 大連での業績を弁舌さわやかに臆することなく対外アピールするが、問題点も隠さず対外発表する。いかにも、薄熙来氏らしい市長引き際の弁である。
 市長から省長へ、そして、大臣へ
  2001年1月17日、遼寧省長の任に就くため大連を後に瀋陽に向かう薄熙来氏を見送る人が沿道を埋めたという。現場にいたら、薄熙来氏の大連16年にわたる奉職への市民の思いが感じられたはずである。
 
 薄熙来氏は2001年から2004年まで遼寧省長の任にあったが、遼寧省最大の対外開放都市大連に16年間奉職した経験があるだけに、遼寧省のことを知り抜いていた。折しも、東北振興策(中国の地域発展戦略の第3弾)の発表があり、中国の東北三省(遼寧省、吉林省、黒龍江省)に内外の注目が集っていた。薄熙来氏に大連での経験が大いに生かせる活躍の舞台がお膳立てされていたわけである。

 省長として、薄熙来氏は国有企業の整理・再編、失業・待業労働者問題、鉄西新区の建設など、空前の困難な状況にあった遼寧省経済の建て直しに手腕を発揮している。また、今や中国を代表する博覧会として定着した中国国際装備製造業博覧会(瀋陽制博会)を省長着任の翌年に開催し、かつて、「共和国の長子」といわれた瀋陽市の製造業を内外にアピールしている。当時、筆者は瀋陽市を訪問するたびに、街角に草花が増え、街並みが明るくなっていくのをいつも感じたものである。

 注目すべきは、瀋陽市の「慕馬大案」注4に代表される「反貪打黒」(汚職・暴力の取締り)を厳格かつ迅速に進め、人心をつかみ社会矛盾を少なくした、とされる点である。薄熙来氏は、後に、中央直轄市である重慶市の書記になるが、ここで、薄熙来氏の名を高めたのが、徹底的な「打黒」であった。「打黒」は、大連で「民生」重視を貫き都市建設を進めた薄熙来氏が政治生命を賭けて取り組んだ指導者としての「マニフェスト」であったといえよう。
 2004年2月、薄熙来氏は商務大臣の任に就くため北京入りする。筆者は、この時、北京に駐在していたが、薄熙来氏を知る日本人駐在員は少なくなかった。大連時代に大連と日本の経済交流の促進に尽力した薄熙来氏の足跡あってのことであろう。
 
 商務省での薄熙来氏を、最初に印象付けたのは、「薄十五条」と呼ばれる内部通達であったといえよう。筆者はこの通達を見たことがないので的確にはいえないが、「公開の会議では全て録音し、終了後2時間以内に議事録を作成し大臣まで届けること、省内の幹部は24時間携帯電話をONにしておくこと」などが定められていたようだ。大連時代、市政府ビルで最も遅くまで明かりの点いているのは市長の部屋、といわれたほどの仕事熱心さは、大臣になっても変わらなかった。

 このほか、中国各地のブランドを発掘し国内外に紹介する「中国品牌<ブランド>万里行」プロジェクトを主催し中国全土を駆け巡ったり、中部地区博覧会を毎年開催し中国中部地区((山西、江西、河南、湖北、湖南、安徽の6省)の国内外との経済交流の促進を図るなど、目立った活動に本領を発揮している。薄熙来氏は「弁舌のさわやかさ」、「斬新な行動スタイル」もさることながら、職務遂行においても「目だってしまう」何かを感じさせる政治家である。

 福建省アモイで毎年開催される「中国国際貿易投資商談会」の薄熙来氏の言葉は圧巻であったと今でも記憶している。中国企業の海外展開が増え始め海外から警戒され始めたころであった。こうした空気を読んだのであろう。中国企業の海外展開のことに触れ、薄熙来氏は「明の時代に鄭和が大船団を率いてアジアからアフリカまで大航海したが、その主目的は行く先々での通商と観光であり、砲艦外交はなかった。今日の中国の海外展開はこの当時と同じで平和的なものである」とした。言葉には出してはいないが、『鄭和の大航海からほぼ100年後に始まる西洋の大航海時代で何が起きたか、皆さんは知っているでしょう』との暗示があったのではと、その場にいた筆者には感じられた。歴史的事実をもって現実問題に処する薄熙来氏の「弁舌のさわやかさ」に脱帽したものだ。

 対外的には、中欧繊維製品貿易危機を回避する交渉でリーダーシップを発揮し妥結に至らしめるなど、また、「政冷経熱」といわれ日中関係が冷め切らない2006年、中国の要人として真っ先に来日注5していることなどが特筆される。日本をよく知る今となっては数少ない中国の要人の一人と言えよう。
 今、重慶書記
  2007年、薄熙来氏は商務大臣の職から、中央直轄市重慶市の書記に就任する。筆者は2011年10月20日、重慶で薄熙来氏に面会した。その折、重慶の中心部を遠望した時、ふと、「北方香港」を目指していたころの大連が思い起こされた。
 超高層ビルの林立する景観は香港島のビル密集群の威容を凌駕しているのではと思った。今日、大連は発展のエネルギーと可能性において、北方香港の座を射止めたといえるが、重慶は少なくとも景観において、香港を凌駕していると思えた。薄熙来氏が大連で描いた北方香港が中国内陸最大の対外開放都市重慶で筆者の眼前に広がっていたのであった。

 重慶における薄熙来氏の市政を強烈に印象つけたのは、やはり都市建設であった。その要諦は、大連時代に強調した環境つくりと外資導入ということになろう。

 今年(2012年)3月、第11期全国人民代表大会(全人代、日本の国会に相当)第5回会議が開催されたが、その折、薄熙来氏が語った内容が3月7日付けの人民日報と人民網掲載されている(薄熙来談重慶発展:堅持民生導向縮差共富<薄熙来重慶の発展を語る:格差を縮め共に豊かになることを民生の柱としてこれを堅持する>)。今日の重慶市の都市建設の現状を余すところなく紹介していると思われるので、その要点を抜粋したい。

薄熙来談重慶発展:堅持民生導向縮差共富
 「ここ数年、一般会計支出の50%以上を直接民生関係に支出した。重慶市共産党委員会は何度となく全体会議を開き、利民恵民富民に関し、引き続き『5つの重慶』、『民生10条』、『共富12条』の3つの決定を発動するとともに、 『民生導向縮差共富』を3大政策とすることにした。『5つの重慶』の重点は重慶市の発展環境と生活環境を改善し全市民が同一の公共サービスを享受できるようにすること、『民生10条』では、都市部と農村部の市民の就業、住居、医療、教育、養老など解決の急がれる民生問題の解決に断固とした姿勢で臨むこと、『共富12条』では、小企業の育成発展、戸籍改革、地票交易などの体制メカニズムを刷新し『縮差共富』を促進する」。

 続けて、薄熙来氏は、「5つの重慶」、「民生10条」、「共富12条」は単なる「かけ声」でなく、既に効果を上げているという。
 「公租房(公営住宅、団地)11万部屋が賃貸され30余万人の低中所得者層のマイホーム実現している。また、330万人の農民工(都市への出稼ぎ農民)が都市戸籍を得て都市待遇を享受している。130万の農村留守児童(農民工の子供)、一人暮らしの200余万の老人に特別配慮がなされている。・・・・・」

 また、経済発展面においては、「重慶市のGDP成長率は3年連続して全国3位以内、2011年には1兆元を突破、その規模は2007年の2倍以上、一般予算収入は2.4倍、外資導入(実行ベース)は8.7倍、輸出総額は2.9倍に躍進した」として、最後に、「重慶を3300万人市民の幸福な家庭にするために努力しよう」と結んでいる。

 ここでは触れられていないが、2月の重慶市共産党常務委員会で、2007年には皆無であった重慶市の海外投資が2010年と2011年の累計で110億ドルになったこと、重慶市は今後3年間に全国最大規模(4000万m2)の公租房を建設する予定にある、また、都市建設関連では、過去3年間に植林30万本、旧家・危険家屋2000余m2の取壊し、改造し住民の住居環境を改善したこと、さらに、新たに大型広場、公園、緑地、散歩道など建設するなど、魅力ある都市つくりを進めてきたことを報告している。

 こうしてみると、筆者には、環境つくりと外資導入をテコにして大連の都市建設を進めた経験が、重慶でも大いに生かされ実践されていることが実感できる。例えば、大連の都市建設に関するキャッチフレーズを見ると、以下のような、比較が可能となろう。

 大連の「大連不求最高、只求最佳」(大連は最高を求めず、最良を求める)のキャッチフレーズは、薄熙来氏が重慶でよく口にした「重庆不求经济指标长得快,只求老百姓生活改善最明显,不求高楼大厦盖得多,只求老百姓生活过得最幸福」(重慶は経済発展の速度を求めず、市民の生活改善が明らかに認められるようになることを求めるのみ。重慶はビルの高さや多さを求めず、市民が楽しんで生活できるようになることを求めるのみ)に重なり、
 さらに、重慶の「5つの重慶」(「宜居重庆」(暮らしやすい重慶)、「畅通重庆」(交通渋滞などのない風通しのよい重慶)、「森林重庆」(緑多き重慶)、「平安重庆」(安心して住める重慶)そして、「健康重庆」(都市病のない重慶)のことであるが、このキャッチフレーズは、
大連の、「大連緑起来了、亮起来了、洋起来了」に重なっているのではないかといえよう。
 重慶での赤と黒
  重慶における薄熙来氏を強烈に印象つけたのは、なんといっても「唱紅打黒」であろう。

◆唱紅(紅歌傳唱)活動は重慶と薄熙来氏のソフトパワー
 唱紅とは、薄熙来氏の言葉(薄熙来氏と全国青聯委員との座談会での発言、2011年6月20日)を借りると、「抗戦時から建国、そして改革開放の新時代に至るまで、人民の中で広く歌い継がれてきた優秀で生命力のある歌曲注6」で、「こうした曲を歌い継いできたからこそ言葉を絶する過酷な数十年を乗り越え、貧困脆弱な半植民地、半封建的あった中国を自立に導き世界第二位の経済体を建設することが出来た」となる。さらに、薄熙来氏は、「ただ、社会には別の見方もある。唱紅は『左派』で、文革時代に戻るとする考え方だ。これは、情況を認識していないからだ」と、反論する。
 日本では、唱紅の歌曲を戦後に捜すとすると、さしずめ「リンゴの唄」や「青い山脈」といったところであろう。知っている人には、戦後の苦しい時代を共感させてくれると思うが、この歌曲を活動の一環として歌わされるとなると、違和感をもつ人は少なくないと思われる。ただ、市長、省長、そして大臣という要職を歴任し中国各地の実情に通じた薄熙来氏には、重慶市の現状を踏まえた上で「唱紅」が必要、との時代認識をもっているのではないか。「重慶の唱紅は、ますます多くの理解と支持を得てきており、新たに発展させる省や市は少なくない」と薄熙来氏はいう。唱紅の意義を認めているのは、重慶だけでないことが分かる。なお、2009年8月中旬までに延べ3298万人が唱紅活動に参加したとされる(中国新聞周刊 2009年8月20日)。

 唱紅活動は、少なくとも、政治家として、重慶を内外に知らしめる上で、大きな効果はあったと言えよう。目下、中国は、エコノミックパワーに加えソフトパワー(好感度アップ、知名度アップなど)発揮の時代を迎えたといわれるが、唱紅は重慶のソフトパワー発揮に大きく貢献したことは確かであろう。それ以上に、薄熙来氏のソフトパワーの発揮に大いにつながったと見たい。

◆打黒~命を賭した戦い
 打黒とは、主に“治官”(官吏を糺すこと)運動注7のことである。重慶の打黒が、なぜこれほど世間の関心を買ったのかというと、それが前代未聞といってよいほど大規模であったからであろう。薄熙来氏は、黒(汚職、暴力)の後ろ盾であった黒幕に打黒の照準を合わせている。即ち、公安(警察)局、司法局、交通管理局、検察院、石炭鉱山局などのトップ、高官を「黒」として一網打尽にしている。特に、公安局に対しては、厳しい対応がとられている。2011年3月には、公安機構改革を発動し、300余の課長職、3000余の係長クラスの職を解き、その空席には、2万3000人の警察官から自由公募している。正に、公安機関の大清掃(一掃、大粛清)という措置を採っている。

 この前代未聞の大規模打黒のため、遼寧省時代に打黒の辣腕をふるった王立軍を公安局長に据え、身辺警護は大連から移動させた護衛をあてたとされる。重慶の打黒で薄熙来氏は、身の危険を賭していたことが分かる。

 重慶の打黒はこれで片付いたのか、と問われれば、終わることのない闘争のとりあえずの一区切りといえるかもしれない。打黒の「黒」には、表に出ない巨大な黒幕の存在がちらつく。それが何某なのか、機構、体制にあるのか定かではないが、薄熙来氏も、「黒」として反撃を受けるとも限らない。命をかけているといったが、政治生命もかかっているわけである。中国改革開放時代、ここまで徹底して打黒した政治家は、筆者の知る限り、薄熙来氏を除いてほかにはいない。この点で、薄熙来氏は稀有の政治家といえよう。

 後に、王立軍問題が発生し、薄熙来氏は苦しい立場に立たされるが、重慶市民は薄熙来氏の「打黒」運動に拍手喝さいしている。「打黒」の目的、意図が何であれ、「民生」の向上に大きく貢献したことだけは確かである。
 次は、何色
 2011年10月、筆者が重慶を訪問した折、薄熙来氏は現在の重慶を次のように紹介してくれた。

 重庆是中国西部的直辖市,经过多年努力,正步入健康、科学的发展轨道。我们的发展思路是,要科学地规划发展城市这个综合体,既要抓经济,又要改善环境,更要不断提高全体市民的生活水平。我们建森林城市、盖公租房、修塑胶跑道和登山步道,实施贫困儿童“蛋奶工程”,都是为了让市民过得更健康、更幸福。多年的实践证明,在社会主义市场经济条件下,“共同富裕”之路不仅可以走通、走顺,而且越走越宽,还能有效促进经济发展。关于对外开放,我们一方面加大吸引外资的力度,由2007年的10亿美元,增长到去年的63亿美元;同时积极“走出去”,去年对外投资50亿美元,今年力度不减。
 重慶は中国西部の直轄市で、長年の努力を経て、健全かつ科学的発展の軌道に乗った。我々の考える発展とは、都市という総合体を科学的に計画発展させるということだ。即ち、経済をしっかりおさえ、環境を改善し、市民全体の生活水準を高めることにある。森林都市を実現し、公租房を建設し、全天候型の遊歩道や登山道をつくり、貧困児童の食(生活)を保障してきたが、人民がより健康的かつ幸福に日々過ごせるようにするためである。社会主義市場経済の下で、共に豊かになる道とは、ただ、その道を整然と歩けるというだけでなく、歩くほど道が広くなるようにすること、効果的な経済発展を推進することにある。対外開放については、我々は外資導入を拡大してきており、2007年の10億ドルから昨年は63億ドルになった。同時に、積極的に「走出去」(対外投資)を行っている。昨年の対外投資額は50億ドルに達した。今年も増える威勢にある。


 最後に、日中両国の交流が強化され、協力が深まることを希望すると締めくくられた。
 薄熙来氏の紹介を聞いていて、改めて、大連時代同様、薄熙来氏の環境整備、そして、双方向での対内外投資(大連時代はほぼ外資導入のみ)の積極化による民生向上を都市建設の基本的な柱としていることを実感した。

 目下、中国が積極推進する「都市化」の「最佳モデル」を薄熙来氏は提示してきたことは間違いない。中国の都市化とは、日本のように一極集中的なものではなく、複数の大都市が各地で都市化の核となり、それを高速鉄道網など交通ネットワークで結んでいこうという方向にある。都市化の過程で、今後、中国では時間的距離が縮小され、大きな経済的効果が生まれ、そのもとで人々の価値観もまた大きく変化し、中国を変えていくことになると考えられる。敢えて言えば、中国の都市化は、中国を前代未聞の「都市国家」へと変身させていくといっても過言ではないであろう。

 薄熙来氏は、大連で都市化の原型を提示し、それを重慶で発展させつつあると言えよう。本稿では、その歩みのほんの一部を記したに過ぎない。はっきりしているのは、薄熙来氏の市政がなかったら、対外開放都市大連の、そして、内陸最大の対外開放都市重慶の輝きは今日の照度を放っていなかったであろう。

 薄熙来氏は、常に最前線に立って政治を指揮するタイプである。そのことで、派手さが目立ち、時に、噂の対象として事欠かない。事に当たり、首尾一貫してぶれないところが潔い。それが、また、薄熙来氏の魅力であろう。輝きは増せば増すほど陰影も増えるが、薄熙来氏のようなスタイルをもった政治家にはめったに出会えない。筆者のつたない知識ではあるが、中国史にその人を求めるとしたら、三国史の英雄、曹操といえよう。「子治世之能臣亂世之奸雄」(治世の能臣、乱世の姦雄)注8と称された。今の時代は「治世」であり、「乱世」は知らない。

 大連で「緑」を増やし、重慶で「紅」を広め「黒」を少なくした。
さて、“薄さん、次は何色”。

 
 
注1 この頃の大連と最も密接な経済関係を構築していたのが日本である。大連には「大連経済技術開発区」、「大連保税区」、「大連ハイテク区」、「金石灘国家リゾート区」などが外資企業の受入拠点として、またレジャー・観光地として内外の関心を集めていた。外資導入の拠点となった「大連経済技術開発区」内には、1992年に「大連日本工業団地」の建設が着手されるなど、当時、大連は中国における日本の最大の投資先地であった。
注2  こうした資金調達にあたり、地方政府の多くが土地譲渡収入を「融資平台」の債務返済の原資としている。
注3 このほか、「北方香港」、「ファッションの町」、「北方明珠<北方の真珠>」、「スポーツ・サッカーの町」、「海上大連」(水産業が盛んなこと)、「リンゴの郷」、などが、大連を形容した代表的キャッチフレーズであった。
90年代の大連は、「北方の真珠」とならんとして「北方香港」化(中国北方を代表する観光、ビジネス、港湾、金融都市)を希求していた。大連の街角には「東方之珠」(香港のこと)の曲が流れ「北方の真珠」の応援歌になっていた。「吃在広州、玩在上海、穿在大連」(食は広州、遊びは上海、ファッションは大連<着倒れ大連>)といわれるほど、大連はファッション性でほかの都市をリードしていた。中国で真っ先にモデル学校が開校されたのは大連で、毎年、「国際服装節」(国際ファッション祭)が盛大に開催されている。かつて大連は「東方巴黎」(東洋のパリ)と形容されていたが、今日、広場の多さなど西洋の都市機能美を前面に押し出すなど「ハイカラ」性にも富んでいる。騎馬婦人警官が高層ビルの立ち並ぶ街中を颯爽と行く勇姿がみられるのは、中国の都市にあって大連だけであろう。「スポーツ・サッカーの町」のいわれは、当時、世界の陸上競技において大連出身の選手が数々の金メダルを獲得したこと、大連のプロ・サッカーチームが中国最強であったことなどによる。
注4 慕綏新元瀋陽市長、馬向東瀋陽市元常務副市長など関係者100余人が連座したといわれる一連の汚職事件(贈収賄、公金横領、賭博など)のこと。
注5 東京で開かれた「日中省エネ・環境総合フォーラム」へ出席するため。
注6 義勇軍進行曲、大刀進行曲、防衛黄河、歌唱祖国、我們走在大路上、雷鋒之歌など。なお、薄熙来氏は唱紅と同時に、「讀経典、講故事、傳箴言」を提唱する。その意味するところは、国内外の偉人(マルクス、毛沢東、鄧小平、岳飛、鄭和、玄奘、トルストイ、キューリー夫人、アインシュタインなど)の足跡、著作などに通じることにあるとする。
注7 暴力団、マフィアなどの一掃も含む。重慶の打黒はその後ろ盾となっていたとされる公安(警察)幹部、その他市関係機関の高級官吏を徹底的に叩いたとされる。
注8   (『三国志』魏書巻・武帝紀第一にある裴松之の註で引用された孫盛の『異同雜語』の逸文による~ウィキペディア『曹操』より引用)
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