第01号 2004.6.1発行 by 矢吹 晋
    胡錦濤体制の確立への道筋 <目次>へ戻る
 政治家にとって最も困難なのは、権力闘争に勝つことよりも自らの引き際を誤らないことではあるまいか。毛沢東はこの点で大きな失敗を演じた。その直接的被害者として、ケ小平は毛沢東の失敗から教訓を正しく引き出し、見事に「舞台裏からの引退」を成功させた。ポストケ小平の政治的混乱をあげつらう評論が横行したが、これらの論評はすべて外れた。彼らは単にポスト毛沢東との対比に熱中するばかりで、ケ小平の周到な配置を見きわめなかったからである。 
上将昇の軍人に命令状を発令する江沢民中央軍委主席 (CCTV国際2004.6.20)  http://w5.cns.com.cn/news/2004year/2004-06-20/26/450345.shtml より
 さて、ケ小平の後継者・江沢民は、ケ小平からその精神を学ばず、形式だけを模倣して、その結果、サルマネを演じることになり、大方の顰蹙を買っている。第16回党大会に際して、総書記のポストは胡錦濤に譲ったが、軍事委員会主席のポストは留任した。当時次のようなアナロジーが語られた。ケ小平は1987年秋の第13回党大会で趙紫陽に総書記のポストを譲ったが、軍事委員会主席には留任し、このから下りたのは1989年秋、すなわち党のポストを譲って2年後である。それゆえ、2002年に党のポストを胡錦濤に譲った江沢民が2004年まで軍事委員会主席のポストに留任するのは、ケ小平方式の踏襲である、と。
 だが、これは強弁にすぎない。三度び復活したケ小平はまず胡耀邦をトップに据え、次いで趙紫陽をトップに据えたが、軍事委員会主席のみは、ケ小平の個人的声望が必要であったためにやむなく、胡耀邦や趙紫陽の成長を見届ける形をとって譲ろうとし、それが果たせなかったのである。いいかえれば、ケ小平は党の主席や総書記にならず、国家主席にも就任しなかった点が重要である。あくまでも後継者養成の立場を堅持した。これに対して江沢民は、天安門事件の教訓を踏まえてケ小平があえてみずからの政治的信念にそむいて、総書記・国家主席・軍事委員会主席の3権を江沢民に集中したのであった。
 この脈絡で、江沢民が軍事委員会主席のポストに恋々としたのは、ケ小平流の後継者養成方式とは似て非ものだ。この違いを私は繰り返し、指摘してきた。そして胡錦濤は1992年以来まるまる10年間にわたって政治局常務委員として、帝王学を学んできたのであるから、2002年党大会の時点で十分にすべての権力を引き継ぐに足る指導者であると分析してきた。あれから1年半、新しい指導者としてのイメージを胡錦濤は着々と固めてきた。
 この過程で江沢民はいよいよスケールの小さな指導者にすぎない姿を暴露してきた。このような私の基本的な見方を裏付ける資料が三つ届いたので、改めてここで紹介してみたい。第1は『中国戦略』(4月30日号)、第2は「討伐中央宣伝部」、第3は江沢民の経歴疑惑である。

 大いに低下した江沢民の力
 アメリカのシンクタンクCSIS (Center for Strategic and International Studies, 現CEOは、John J. Hamre前国防次官)は、安全保障政策を提起することで知られている。このCSISがニューヨークに拠点をもつ中国問題の情報誌Chinese Media Net(多維媒体)と組んで発行しているニューズレター『中国戦略』(4月30日号)が面白い。タイトルは「胡錦濤と江沢民の権力関係の消長」(筆者宗海仁は仮名)である。結論からいえば、胡錦濤は一年余で速やかに権力を固め、江沢民の影響力は大いに低下し、もはや政治局や国務院の意思決定には干渉できない、というものだ。胡錦濤はまだ軍は掌握していないが、軍内でも胡錦濤の采配を望む声は根強い。元老たちは江沢民を大目に見ているが、もし胡錦濤との間で対立が生ずれば、江沢民が墓穴を掘ることを意味する、というものだ。これは私自身の観察結果と一致する。ただし内部に情報源をもつ書き手だけに、分析が具体的であり、おもしろい。江沢民は依然「ええかっこし、派手好き、手柄好き」であり、全国各地で外国人客と会見し、カネ使いが荒い。昨年の江沢民の「国内出張費」は、胡錦濤、呉邦国、温家宝、賈慶林四人分の総和を超える。胡錦濤が質素を旨とし実務的作風なのとよい対照だ。第一六回党大会直後、江沢民のリモコン能力は、かつてのケ小平よりも大きいのではないかという印象さえ与えたが、いまでは江沢民接見は、軍関係者といわゆる「老朋友」に限られる。外国賓客も国家主席胡錦濤こそがナンバーワンと認識して会見を望むようになってきた。一年余で江沢民の権力と権威はここまで落ちた。党大会においては江沢民が軍事委員会主席に留任し、曽慶紅、賈慶林、黄菊ら江沢民系の指導者が政治局常務委員に昇格し、党規約には「三つの代表」も書き込まれた。このときはブッシュ大統領までがわざわざ江沢民留任に祝電を送ったほどだ。当時ブッシュがこのような扱いをしたのは、江沢民の権力が大きく、しかもきわめて親米的であるのに対して、胡錦濤は権力基盤が固まっておらず、しかも親米的ではない。つまり「米中関係の処理において江沢民のほうが与し易いとみたから」と解する向きが多かった。
 実は、次の事情もあった。「三つの代表」は党規約に書き込まれたが、これには「江沢民の」というカンムリが落ちている。賈慶林や黄菊が政治局常務委員に昇格したのは、かならずしも江沢民の影響力だけによるものではなく、バランス人事の結果でもある。ブッシュ大統領の祝電に至っては、江沢民サイドが工作した結果なのだ。党大会直後に江沢民は、米国からの訪問団に対して「同志たちの求めにより、主席に留任した」と説明したが、これはみずからの留任画策への苦しい弁明にすぎない(この経緯は宗海仁著『曖昧的権力交接』明鏡出版社に詳しい)。またケ小平留任のケースとはまるで異なり、胡錦濤執行部は重大な意思決定において江沢民の決裁を仰ぐことは、口頭でも文書でも約束していない。
 党大会以後、胡錦濤は身軽ないでたちで地方にでかけ、食費はみずから支払い、伴食を許さない。政治局会議の議題や主な議事内容は新華社を通じて公開させ、中央紀律検査委員会の会議もみずから招集し、重大案件についても曖昧な処理はしない。胡錦濤はさらに政治局常務委員会が検討中の議題も随時政治局に通報して、現任政治局委員たちの「知る権利」(知情権)を拡大している。薄一波、宋仁窮ら引退した元政治局委員も「文件閲読」の点で現職政治局委員と同じ待遇を受けることからして、この措置は元老たちからも好感をもたれている。これは同時に江沢民が政治局の意思決定に干渉する道をふさぐうえでも役だっている(矢吹注。「元政治局委員も「文件閲読」の点で現職政治局委員と同じ待遇を受ける」決定は胡錦涛が始めたことではない。1982年2月の「中共中央関于建立老幹部退休制度決定」に基づくものであり、老幹部を引退させ、若返りを進めた際に代償として設けられた制度である。この決定の4項において、「文書閲読・重要報告聴取、重要会議参加などの政治待遇は一律に不変」とされた。『中国共産党組織工作辞典』2001年6月、中央組織部編によれば、その後もこの決定は有効だとされている)。

 今秋の中央委員会で完全引退か
二〇〇三年四月二六日、江沢民は中印両国の国境問題会談を斡旋して大得意であったが、午後には北海艦隊潜水艦361号の事故で七〇名の乗組員が死亡する事件に直面した。五月一日、犠牲者家族に通知が行われる際に、慣例を破って事故を公表しみずから現場におもむき、二つの情報を流して不満をなだめようとした。一つは私は情報隠しを好まない、サーズ隠しは江沢民と関係がない。もう一つは、江沢民こそが実権をもつ指導者であり、潜水艦事故を処理した。他方、胡錦濤は五月二六日〜六月五日の国家主席として初出国(ロシア等訪問)に先立ち、政治局会議で初めて国防問題を論じて江沢民の縄張りに足を踏み入れたが、これは郭伯雄(副主席)の進言によるものといわれる。六月五日帰国したばかりの胡錦濤に対して翌六日の軍関係非重要会議にあえてひっぱりだしたのは、江沢民のいやがらせであった。新華社はそれを示唆するかのように巧みに報道した。サーズ危機が爆発したとき、胡錦濤は事前に江沢民の意見を求めることなしに張文康衛生部長の解任を決定した。上海の富豪周正毅事件の摘発を胡錦濤、温家宝が決めたことは江沢民の上海の腹心黄菊、陳良宇らを震撼させた。夏の北戴河避暑会議をやめ、六カ国会議準備のために戴秉国(外交部副部長)を北朝鮮に派遣して外交分野での主導権を握った。こうして江沢民の腹心、賈慶林や黄菊の無能ぶりはますます明らかになり、劉淇(北京市書記)や陳良宇(上海市書記)など地方トップも冴えない。二人の国務委員唐家?や陳至立も同じ立場だ。胡錦濤はいまや中共中央外事工作領導小組組長、中共中央対台工作領導小組組長を兼ねて、香港マカオ特区工作も率いている。ただし軍権のみは依然江沢民が握る。軍内の腹心熊光楷(副参謀長)に変化が見られるならば、それが胡錦濤主席昇格へのシグナルだ-----。これが論文の骨子である。あえて蛇足を一つ付け加えよう。今秋の中央委員会で江沢民完全引退が決まるかどうか。これが当面の焦点である。

 討伐中央宣伝部
 中国共産党中央の重要な内部機構である中央宣伝部の体質をクソミソに批判したアピールが話題を呼んでいる。若手マスコミ学者焦国標が書いたものだ。焦は北京大学新聞マスコミ学院副教授、一九六三年生まれだから今年四一歳。河南大学で中国古典学の博士号をとり、その後中国人民大学で新聞学の博士号をとり、『中国文化報』記者を務めたこともある理論家だ。この勇敢な少壮学者の書いた原案に手を加え連署して、この意見書を広く普及させたのは民間シンクタンク「北京・大軍経済観察センター」を主宰する仲大軍だ。彼らは中央宣伝部を蝕む一五の病を分析し、その処方箋を提起した。第一の病は神がかりである。メディアは社会の公器であることを認めつつ、いつもブラックリストを用意してメディア弾圧を企てる。その基準には一貫性がなく、ほとんど神がかりのタブー作りだ。第二の病は中世のローマ教会もどきの権威主義である。宣伝部長は赤い衣を着た大主教のごとく、あるいは閻魔大王のごとく君臨し、部下を含めて法の適用を受けず、ブラックボックスの特権を享受する。第三は憲法無視の病だ。憲法は公民の言論の自由を保証するが、宣伝部は憲法を無視し違反した行為を憚らない。第四は共産党の理想を裏切る病だ。重慶『新華日報』や延安『解放日報』の社説をまとめて編集した『歴史的先声』を宣伝部は発禁とした。第五は偏向病、差別病である。茅于軾、曹思源、鐘朋栄、仲大軍など改革派知識人をブラックリストに入れて言論を圧殺する。民営企業家の姿をまともに描いたものは報道を禁ずる。第六は調査なしに断罪する病である。たとえば『中国農民調査』という本は三〇万部発行されたが、宣伝部は「禁止せず、宣伝せず、報道せず」の三カ条を指示した。冷遇は農民・農業・農村を重視する中央の方針に背くものではないか。第七は「貧乏嫌い、金持ち好き」である。出稼ぎ労働者(民工)の遅配欠配の報道を宣伝部は許さない。貧困層(弱勢群体)は陳情を繰り返してきたが、あえて無視し棚上げしてしまう。第八は冷血不感症である。資本家と権力者のイヌになりさがり、社会的弱者を抑圧する。第九は腐敗分子を庇護する病。彼らは二五カ条の宣伝ガイドラインを示し、たとえば雲南省宣伝部長の不正報道を許可しない。宣伝部のイメージを傷つけてはならぬという。第十は「日本の文部科学省」に酷似する体質だ。教科書を変えて「侵略」を「進出」といいなす。大躍進期の餓死問題や文化大革命期の被害をタブー化する。第十一は恩義を仇で返すやり口だ。「記者を縛る」ことはあっても保護したことはない。第十二は、表向き精神貴族、実は金銭奴隷体質だ。寧波普陀区は八〇万元でCCTVのある番組を買収した。天津のある加害者は数十万元で宣伝部幹部を買収した。宣伝部はBMW車が人身事故を起こした事件の報道を禁止した。第十三は中央の方針を歪曲する病だ。中央の方針をねじ曲げるのは台湾当局やアメリカ政府ではなく、法輪功や天安門事件の被害者家族でもなく、まさに中央宣伝部そのものだ。第十四に宣伝部は正義感や是非の感覚を圧殺している。第十五は冷戦思考の枠組にしばられる病だ。いまや中央宣伝部解体こそが上策である。ナチスドイツのほかに宣伝部がかくものさばった例をみない。下策は宣伝部の功罪を調査し活動報告を義務づけること、結果責任を追及すること、宣伝工作の透明度を高めることだ。文革を始めたとき、毛沢東は宣伝部を伏魔殿と形容したが、この体質はますますひどくなったという。中央宣伝部が総書記胡錦濤や総理温家宝の方針をねじまげるとはいかなる意味か。 江沢民居残りによる「会長派、社長派対立状況」を指すことはいうまでもない。前例をみない中央宣伝部討伐文の意味するものはなにか。江沢民に対して、完全引退を迫る勧奨にほかならない。胡錦濤・温家宝体制以後一年余、解放軍と宣伝部をにぎる江沢民の完全引退をめぐる綱引きはますます激しい。

 江沢民の経歴疑惑
 呂加平という論客がいる。原籍は上海嘉定である。1941年6月14日生まれであるから、当年63歳である。かつては軍人だがすでに退休した。現在は第二次大戦戦史研究会会員、フリーライターとして独自の立場から戦略研究に従事する無党派人士である。著作に『陰謀と抗争』(ケネディ暗殺を分析したもの)、『中国の戦略的誤謬』などがある。




江沢民の養父で叔父の江上青(1911-39)
江蘇省揚州の人。
1929年中国共産党入党、1938年中共皖東北特委委員。
1939年7月29日地主の武装襲撃にあって犠牲となる。
楊中美著『江沢民』(蒼蒼社)より

 新華社『参考消息』(2004年5月25日)が呂加平の書いた論文「江沢民の歴史問題と入党時間のいくつかの大疑惑」を掲げた。呂のまえがきによれば、彼はこの論文を3月26日に党内のチャネルを通じて政治局常務委員会のメンバー全員に送るとともに、中央軍事委員会、中央紀律検査委員会、政法委員会、中央組織部、国防部、公安部、国家安全部、人事部、高等検察院、北京市公安局など関連部門に送り、同時に彼の主宰するホームページkk8259.redi.tkに公表した。高橋博氏の示唆を受けて、私がこのホームページにアクセスしたときには、このページは開けなくなっていたが、いくつかのミラーサイトは生きており、たとえば張偉国(元『世界経済導報』編集長)の主宰する「新世紀New Century Net」
http://www.ncn.org/asp/zwginfo/ で読むことができる。江沢民の公表履歴によると、1943年に中共地下党組織の学生運動に参加したとされているが、この経歴には疑問があると呂加平はいう。抗日戦争期に日本占領区の学校では中共地下党の指導する学生運動はなく、地下反日抗日闘争があったのみだという。江沢民は当時17歳であり、高級中学を出て南京の中央大学に入学した。当時の南京では「中共の地下党組織の指導する学生運動は存在しなかったのであり、江沢民の経歴には疑問があるという。南京の中央大学には地下党組織が存在したかどうか疑問であり、もし江沢民がここで反日活動に参加したとして、誰がそれを証明できるかも疑問だという。
 江沢民の実父江世俊は日本が江蘇省を占領していた時期に日本軍の反中国宣伝機関の高官であり、正真正銘の漢奸であった。江沢民はこの漢奸の家庭という背景をもつために南京の中央大学に入学を許されたのではないか。45年9月3日日本が投降すると、国民党政府は同月26日に「接収地区における中等以上の学校学生の識別方法」を通達して、日本占領区にいた学生を審査した。同年10月、国民政府教育部は上海交通大学、重慶交通大学、南京中央大学の3校を合併し、徐家匯の交通大学を校舎に指定した。南京中央大学と上海交通大学など6大学は、漢奸の学校とされ、その学生はひとしく審査された。江沢民も審査対象の一人であったが、突然失踪した。江沢民は江西省永新県の綿花坪という部落に半年隠れていたという(ペンネーム西林残が呂加平に宛てたメールによる)。この雲隠れは何を意味するのか。もし党の地下活動に参加していたのならば、雲隠れの必要はどこにあるのかと呂加平は追及する。あるいは父の漢奸問題を恐れたのか。
 公表経歴によると、46年4月中共地下党入党とされているが、46年3月に江西省から上海交通大学に戻ったばかりなのに、どうして翌月に入党できるのか。もし交通大学で入党したのならば、どうして1カ月で入党できたのか。上海の地下党委員会が成立したのは45年8月9日であり、当時学生運動担当の指導者は呉学謙であり、喬石、銭其?、薛駒(元中央党校副校長)、銭李仁(元中央連絡部部長)、朱良(元中央連絡部部長)、徐維誠(元中央宣伝部副部長)、などがいた。46年5月国民党政府は重慶から上海にもどり、中共代表団も上海弁事処を成立させ、6月23日には周恩来が南京からリモコンして6.23大デモが行われた。もし江沢民がすでに入党していたのならば、参加して当然だが、これまでのところ参加した形跡はない。これは上海地下党に入党したという経歴に疑問が残ることを意味する。
 江沢民は47年に交通大学を卒業すると、48年にアメリカ資本系列の海寧洋行傘下の食品工場に就職し、動力科の技師になった。この工場は同年国民党に接収された、警備司令部所属の第1糧秣工場となった。そのとき江沢民は技師の地位を保ったが、国民党は軍事工業の従業員審査を厳しく行う。もし共産党の嫌疑があればむろん信任しない。江沢民は地下党のアレンジでこの工場に就職したのか。この工場に地下党は存在したのか。江沢民と国民党との関係はどうなのか。これもはっきりしない。
 実は江沢民は1956年に旧ソ連研修旅行から帰国した際に当時の鞍山鉄鋼公司総経理馬賓の紹介で集団入党したのではないか。呂加平は馬老が56年に江沢民が入党したと話したのを馬に近い人から直接聞いている。
 江沢民の入党時期は46年なのか。56年なのか。
 江沢民は実父江世俊は漢奸だが、父の6番目の弟江世侯=江上青は1928年に革命に参加し、39年に28歳で犠牲になった。この叔父は江沢民より15歳年上であった。江上青の死後、その家を継ぐために江沢民は養子になった、そこで江沢民は烈士の子弟になったというが、江家の長男の長男が6男の養子になるのは不自然ではないか。江沢民には姉江沢芬と弟江沢寛がいたのであるから、長子長孫たる江沢民が叔父の家系を継ぐ必要がどこにあるのか。
 つまり江沢民が江上青の養子だとする説は、江沢民が解放後にみずから主張した説であり、中国の家族制度の常識にあわない-----。呂加平の指摘する江沢民疑惑の経歴の核心は、以上のようなものだ。日本の政治家たちも経歴詐称ばやりだが、江沢民の「詐称」はもし呂加平の指摘する通りだとすれば、単に学歴を嵩上げしてみせた日本の政治家のそれとは比べられないほど重大である。これがもし一人の退役軍人の妄想にすぎない話ならば、指導者を揶揄するアネクドートで終わる。しかし新華社の『参考消息』が転載した事実は何を物語るのか。
 ここで指摘した三つの話題はすべて連動している。いずれも胡錦濤に有利であり、江沢民にとってはなはだ不都合なものだ。ここで指摘されたことが事実かどうか。これらのいまだ半信半疑の重大ニュースが『参考消息』に転載されたのはなぜか。チャイナ・ウオッチャーにとってこれほど面白い話題はない。




[誤記訂正と補足コメント] 2004年6月13日
 上述の文章のうち、文末3行等の赤字で強調した部分は誤りであることが判明したので、お詫びして訂正します。すなわち、赤字部分の5行を削除します。新華社の『参考消息』が呂加平論文を転載した事実はなく、私がインターネットで読んだものは「新華社なりすましのホームページ」でした。ご参考までに、そのページを以下にコピーします。



 私の文章を読んだ幾人かの友人諸氏が調査した結果、ホンモノの『参考消息』には、この記事は見当たらないことが判明しました。共同通信社「共同網」の編集者古畑康雄記者が調べたところによると、このホームページの「ドメインの登録情報」は次のとおりです。登録情報の一部を摘記します。

Domain Name: XINHUANET.ORG[これが「なりすまし」の新華社です]
Created On: 15-Jul-2000 03:29:30 UTC
Last Updated On: 26-Mar-2004 21:23:44 UTC
Registrant Name: Jun Zhang [この人物がこのドメインの責任者です]
Registrant Street1: P. O. Box 3532 [連絡先は私書箱]
Registrant City: Rancho Cordova
Registrant State/Province: CA [カリフォルニア州のランチョ・コルドヴァ市]
Registrant Postal Code: 95741 [郵便番号]
Registrant Country:US [以上がこの人物の連絡先です]

 すなわち、カリフォルニアのJun Zhang なる人物のサイトです。登録者が米国在住であること自体についていえば、たとえば『人民日報』のミラーサイトが東京にもあることから分かるように、直ちにニセモノであることにはなりません。サイトの場所については、ミラーサイトの可能性も論理的にはありうるわけですが、今回の騒動で明らかになったのは、デジタル版の『参考消息』は(少なくとも公表されたものは)存在しないことです。『参考消息』が内部発行のタプロイド紙であった時代に、われわれは好奇のまなざしでこの新聞を読もうとしました。その後、普通の読者でも読めるようになり、興味は半減。昨今はほとんどの大報・小報がデジタル版も編集しており、『参考消息』デジタル版が存在しておかしくはないという思い込みがあったためにまんまとだまされました(むろん、論文に対して半信半疑であったのと同様、転載についても半信半疑であったことは、本文に書いたとおりです)。
 さて私の友人たちのなかには、江沢民の「経歴詐称疑惑」をあげつらうようなものが『参考消息』に載せるはずがないではないか、と難詰される方もありました。問題はそこです。権力者が権力の座にとどまる限り、このような論文を許さないことは明らかです。ところが、われわれは文化大革命期における大字報を知っているわけですし、ケ小平批判の際にどのような悪罵が行われたかも知っています。林彪四人組の罪状も記憶しています。そのような権力闘争史を顧みれば、ポスト江沢民期の現在、さまざまな兆候に耳目を集中する必要のあることは、いうまでもないことです。
 私自身の誤記の経過について、あえて詳しくご説明したのは、今後類似のケースがしばしば起こりうることが予想されるからにほかなりません。情報の真贋鑑定はいよいよ急務です。ここでは私の判断ミスの一例を明らかにすることを通じて、皆さんが今後「他山の石」とされ、「自山の玉」を磨いてくださるよう願うためにほかなりません。
 お詫びのご報告は以上のとおりです。今回の真相究明の過程でご教示を得たジャーナリストあるいは研究者の方々のご芳名を掲げて、謝意を表する次第です。
 北大大学院メディア広報科教授高井潔司氏、共同通信古畑康雄氏、『読売新聞』中国総局長藤野彰氏、佐伯特派員、その他の方々です。最後に、念のために記しますが、これは呂加平論文を新華社が『参考消息』が転載した事実はないということの確認にとどまります。呂論文に書かれた内容についての真偽の鑑定は、今後の課題です。呂論文の問題提起自体は、およそ1年前から氏のホームページや他のミラーサイト(たとえば『新世紀』)に掲げられています。これだけの疑惑が提起されたからには、公人として疑惑を晴らす説明責任が必要と思われます。もし事実に反する誹謗中傷ならば、名誉棄損で訴えるのもスジと考えられます。

[追記1]違法和不良信息挙報中心
 中国インターネット協会新聞信息服務工作委員会が設けた〈違法和不良信息挙報中心〉のサイトをご参考までに掲げておきます。類似の「なりすまし」が社会問題化しているためと思われます。
http://net.china.cn/chinese/index.htm

[追記2]江沢民経歴問題についての楊中美氏の教示
『江沢民伝』の著者楊中美氏のご教示によると、呂氏は元中央組織部に勤務した人物の由です。さらに元中共中央人事資料局長王剛は、「ケ小平が江沢民を三代目の指導者とすることを決断した時、江沢民に有利な資料を提供したといわれる。王はその後中央委員や中共中央辨公室主任にまで抜擢され、前例のない抜擢として話題になった」とコメントしています。王剛の「前例のない抜擢」の背景も知りたいところです。

[追記3]「中国メディアは誰の喉舌か」事件
 6月9日朝、高橋博氏から至急メールあり。
 「9時半頃に新華社網を開いたところ、同首頁の左側、〈言論角〉の最初に〈中国媒体是誰喉舌〉の題名が出ていた。開いて見たところ、〈すでに削除済みの通知〉が出て、論文は消えていた。すなわち、新華社網は人民網のトップ記事を一度転載し、直ちに削除した。いま現在、新華社網にはその痕跡も残されていない」。
当日10時すぎに私が確認して見ると、確かに『人民網』には「資深記者」といわれる丁剛記者の、あまりにも時代遅れの報道観が掲げられており、それは開明的な新華社報道を批判したものと読める。新華社は当初そのエッセイの含意を理解せずにそのまま転載し、その後、刃が自らに向けられていることに気づいて削除したようだ。ここから『人民日報』のスタンスと新華社のスタンスの差の一端が伺われる。というわけで、どなたかこの問題もフォローしてくださるように期待したい。
(2004年6月13日矢吹晋)




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