第03号 2004.9.3発行 by 矢吹 晋
    「狭い民族主義」に陥った愛国主義教育運動 <目次>へ戻る
 中国のいわゆる反日ムードはかねて「一触即発」などと形容されてきたが、アジアカップの重慶準々決勝戦、済南準決勝戦、北京決勝戦のブーイングを経て、日頃日中関係にはほとんど関心のない層にも、改めて問題の深刻さを知らしめたようである。たとえば9月1日の『朝日新聞』は「中国の印象、悪くなった61%」とする世論調査を大きく報じている。
――サッカー・アジアカップでの騒動に関連し、朝日新聞社の世論調査(8月28-29日実施)で聞いたところ、61%の人が中国に対する印象が「悪くなった」と答えた。中国で7月から開催された同カップでは、観客が日本の選手や観客に罵声を浴びせたり、日本が中国を破り優勝を決めた8月7日の決勝戦の直後には、日本大使館の公用車が壊されたりする騒ぎが起こった。
――「こうした行動をみて、中国に対する印象が悪くなりましたか。変わらないですか」と聞いたところ、印象が悪くなった人は「変わらない」(34%)を大きく上回った。男性では39%が「変わらない」と答えたのに対し、女性は29%。支持政党別では、自民支持層の69%が「悪くなった」と答え、民主の63%、無党派層の54%を上回った。
――騒動が起こった背景について二者択一で聞いたところ、「一部のファンの暴走」(49%)とみる人が「中国人全体の反日感情の反映」(42%)とみる人をやや上回った。
――「小泉首相や閣僚の靖国神社参拝がどの程度影響していると思うか」との質問には、「大いに影響している」が21%、「ある程度影響している」が61%で、「影響していない」は14%だった。
 なお、この〈調査方法〉について、同紙はこう説明している。8月28-29の両日、全国の有権者を対象に朝日RDD方式で電話調査した。対象者の選び方は無作為3段抽出法。有効回答は1939件、回答率は55%。
 この調査がどの程度に日本の世論を代表しているかの点検はさておき、少なくとも大マスコミに誘導された世論の一つとして、十分に検討すべき資料の一つであることは確かであろう。小泉首相や閣僚の靖国参拝が「ある程度影響している」と見る層が6割と出た由だが、では、これらの回答者に、小泉首相は靖国参拝を続けるべきかどうかを聞いたら、どんな答えになるのか。
 「参拝を続けるべき」派と「止めるべき派」は、伯仲かもしれない。つまり中国ナショナリズムに反発した結果生まれた日本ナショナリズムも、ますます刺激され、ナショナリズムのボクシングに翻弄されているのが、今日の日中関係である。
 一般論としていえば、日中双方のナショナリズムの衝突は、いわばニワトリとタマゴの関係である。どちらが先か後かを争うのは生産的ではない。喧嘩両成敗論が古来の智慧であり、この智慧を否定するつもりはない。ただし、ここでは、主として中国ナショナリズムを煽動する、いわゆる「愛国主義教育」に焦点を当てて考えてみたい。
 年表1から明らかなように、問題の発端を天安門事件あるいは旧ソ連解体から見ていくのが便利である。91年末の旧ソ連解体が中国共産党指導部に与えた衝撃は、建党以来、最大のものであったはずだ。「蘇東波」の俗称で呼ばれた、民主化の波が激震のように中南海を襲ったことは、疑いない。中国では保守派の姓資姓社論が大手を振ってまかり通った。ケ小平の改革開放路線は風前の灯火に見えた。老ケ小平が密かに深?特区を訪問して、改革開放路線しか生き延びる道はないことを訴える旅に出たのは、文字通り、彼にとって「最期の闘争」であった。
 保守派は改革開放路線が中国社会主義を崩壊させると危惧したのに対して、ケ小平は中国社会主義の生き延びる道は改革開放をさらに進める以外にはないと断定した。中国共産党にとって有史以来の存亡の危機にあって、ケ小平の立場は明確であった。
 1990年代の初頭、中国がまず各省レベルで「国防教育条例」の作成を急ぎ、その集大成として、2001年4月28日に「中華人民共和国国防教育法」を採択・施行したのは、この文脈で理解さるべきである。こうして国防教育から始まった一連のキャンペーンは、90年代半ばに「愛国主義教育」キャンペーンに引き継がれる。国家教育委員会が「愛国主義教育実施綱要」を各級教育機関に通知したのは1994年9月23日であり、国務院民政部が「愛国主義教育基地」百カ所を指定したのは1995年3月のことであった。
 1996年10月10日、江沢民は14期 4中全会で重要講話を行い、「とりわけ青少年の間で愛国主義教育を強化せよとよびかけた。
 1994年9月から96年10月という時期に注目したい。これはまさにケ小平の「舞台裏からの引退」時期に相当する。ケ小平は天安門事件後に江沢民執行部が成立したのを見届けて、1989年11月、13期 5中全会で軍事委員会主席のポストを江沢民に譲った。これによって表舞台からは引退した。しかしこのとき、「重大な意思決定においてはケ小平同志の決裁を仰ぎたい」とする江沢民指導部の意向もあり、ケ小平は1989年秋5中全会の正式引退から1994年秋までの5年間は、政治局会議の重要資料を閲覧する立場にあった。しかし、1994年8月22日に満90歳の誕生日を家族で祝ったのを契機として「舞台裏からの引退」を明らかにした。ケ小平のこの申し出を受けて、14期 4中全会(1994年9月25-28日)は、「党の建設強化に関するいくつかの重大問題についての中共中央の決定」を採択した。ここで「党の建設強化」とは、ケ小平なき指導部、ポストケ小平期の指導部の構築の意味であった。
 ここから悲劇が始まる。江沢民指導部はここで全権を掌握したものの、二重、三重の意味で劣等感にさいなまれていた。第一に、天安門事件の恐怖はまだ去らない。彼がようやく胸をなでおろしたのは、1999年の天安門事件10周年の後である。しかし、この直後に法輪功の請願デモに囲まれ、驚愕のあまり、途方もない弾圧に乗り出した。
 第二に、中国経済はようやく高度成長の軌道にのったものの、GATTからWTOに続く、市場経済化への道は遠い。中国経済の行方に対して自信はない。第三に、米中関係もまだ不安定であり、基礎固めの時期であった。こうして内外すべての政策において自信欠如の執行部に対して、台湾の李登輝総統は訪米問題をつきつけた。
 江沢民は1995〜96年の台湾海峡でのミサイル演習を通じて、解放軍を掌握するとともに、台湾当局に対して、高圧政策を展開することを通じて、為政者の権威を示そうとした。台湾問題は愛国主義教育を推進するうえで、恰好の教材となった。台湾が日清戦争を通じて割譲されたことは誰でも知っている。そこから台湾独立批判は、直ちに日本当局批判に結びつけることができる。こうして台湾独立派およびこれを支持する日本軍国主義を仮想敵国扱いする江沢民戦略が固まった。1998年の訪日前後の事態については、細かな検証を必要とするが、おおづかみいえば、愛国主義教育運動を推進するうえで必須の「反面教師としての日本軍国主義」の一語に尽きるであろう。
 1990年代半ばの中国の舵取りを江沢民程度の指導者に委ねるほかなかったことは、中国の不幸だと私はかねて考えてきた。近年、ますますその確信を深めている。
 江沢民はケ小平路線の正統な後継者とはいいがたいのである。たとえば、愛国主義教育についていえば、ケ小平は確かに天安門事件の一因として語ったことがある。しかし、ケ小平の視野は空疎なイデオロギー教育に解決をゆだねようとしたのではなく、なによりも経済発展を通じて中国の老百姓の支持を勝ち取ろうとしていたことは明らかである。江沢民は愛国主義教育というケ小平の言葉をほとんど歪曲して、民族主義的排外主義に堕したと私は見ている。
 中共中央宣伝部が「愛国主義教育綱要」を作成したのは1994年9月のことだ。この「綱要」の趣旨を検討しておきたい。『綱要』は全8項40カ条からなる。すなわち、1項基本原則5カ条(第1-5条)、2項主要内容9カ条(第6-14条)、3項、重点は青少年5カ条(第15-19条)、4項基地建設6カ条(第20-25条)、5項社会的雰囲気の創造3カ条(26-28)、6項愛国意識の増強8カ条(第29-36条)、7項愛国先進典型の宣伝2カ条(第35-36条)、8項領導強化4カ条(第37-40条)、である。
 第4条では「愛国主義教育は対外開放の原則を堅持しなければならない。愛国主義は決して狭い民族主義ではない」と明記している。対外開放の原則を堅持すべきこと、狭い民族主義に陥ってはならないとする規定は、きわめて正しい文言と考えられる。この綱要が作成された時点で、これが明記されていたことは確認しておく必要があろう。問題はこの第4 条の精神が果たして活かされたのかどうかである。結果的には「狭い民族主義に陥ったとみるほかない。綱要第5条ではケ小平の次の語録が引用されている。「中国人民は民族的自尊心と誇りをもつ。祖国を熱愛しすべての力を社会主義祖国に貢献することを最大の光栄とみなし、社会主義祖国の利益、尊厳、栄誉を害うことを最大の恥辱とみなす」という考え方である。
 ここで中国を日本とおきかえ、社会主義という形容句を削除すれば、そのまま日本の道徳教育におきても用いることができよう。このような考え方自体に問題があるわげではない。だが、実際には、当時の中国指導部は「蘇東波」をおそれるあまり、「プロレタリア国際主義」を極力否定し、ついには国際主義、国際協調を顧みなかった。国際主義なき愛国主義が狭い民族主義に陥ったのは当然の成行きと見るべきであろう。
 第12条では国防教育と国家安全教育の必要性を論じて、「軍政・軍民団結を強化し、全人民が外敵の侵略に抵抗し、祖国独立を防衛し、国家主権と領土保全の自覚を高めよ」としている。また全人民を教育して、祖国の利益を売り、祖国の尊厳を損ない、国家安全に危害を加え、祖国を分裂させる言行と断乎たる闘争を行う」ようよびかけている。
 ポスト冷戦期の国際情勢において、核保有大国としての中国に侵攻しうる能力をもつのは米国だけである。国際的な安全保障問題を注視しているわれわれの感覚からすると、この認識は時代錯誤以外のなにものでもない。冷戦時代ならいざ知らず、ポスト冷戦期においてこのような国際情勢認識を示したのは、愛国主義教育問題を江沢民がどのように認識していたのか。その核心を雄弁に物語る。つまり、これは問題のすり替えなのだ。中国に「蘇東波」が及ぶかどうかは、国際的外圧の問題ではなく、中国の老百姓が中国共産党の統治を歓迎するかどうか。歓迎するとすれば、どのような共産党の統治を歓迎するのか。これ以外ではありえない。江沢民指導部は国内の民心掌握上の不安という国内問題を「外敵の侵入」という外圧問題にすり替えたことになる。
 ここで恰好の反面教師として選ばれたのが「台湾独立」論であり、「これを支持する日本軍国主義」という虚構である。米国にも日本にも、中国指導部との対決しつつ台湾独立を支持しようという動きは、一部の反共主義者を除いてほとんど存在しない。台湾統一が具体的な日程にのぼらないとすれば、それは「日米反動派の独立支援」の動きによるものではなく、2000万の台湾の人々の民意による。中国指導部としては、この台湾の民意を冷静に分析すべきであったにもかかわらず、李登輝の空虚な(実現不可能な)独立論を口実として、あえてミサイル演習を繰り返したわけだ。これはきわめて大きな過ちであり、その後遺症を癒すにはかなりの時間を要するであろう。
 私が空虚な独立論というのは、台湾経済と大陸経済の一体化の趨勢を直視していたからである。1990年代半ばのいわゆる台湾海峡の緊張が叫ばれた当時から、台湾海峡両岸の経済交流は拡大の一途をたどっていた。諺に「皮之不存、毛将焉附」(左伝・僖十四年)という。台湾経済が日に日に大陸経済との一体化を進めている状況にあって、政治的独立なるものが現実に実現可能かどうかは、小学生にも分かる真実ではないか。台湾独立論の虚実を見きわめることなしに、単に特定の指導者が独立を語ったから、祖国を分裂させる行為は許しがたいとしてミサイル演習に乗り出したのは、ほとんど暴力団が難癖をつけるやり方に近い。愛国主義教育は結局のところ、このように歪曲され、矮小化されたのである。これは為政者の間違った判断がいかに大きな害悪を残すかのよい教訓であろう。

 愛国主義教育を学校教育の場で実行するために、国務院国家教育委員会が作成した「愛国主義教育実施綱要通知」(1994年9月23日)は、「綱要は由来精神文明建設の大事、教育戦線の大事である。愛国主義は由来団結奮闘を動員し鼓舞する旗幟である」と説明して、子供たちに教えようとした。1994年9月9日には中共中央の学校の徳育工作強化改善についての若干の意見が正式に公布された。
 すなわち1.『綱要』を導きとして愛国主義教育を行う。各級教育部門は当該単位の実際と結びつけて学習を組織する。国家教育委員会がすでに発している『中小学近代現代史および国情教育の総体綱要』の精神を体して行う。2.教室での教学を主なチャネルとして行う。中国の歴史、文化、芸術、道徳、科学技術などの「選修課」を開設し、専題講座を開設する。3.国旗掲揚、国家斉唱を貫徹し、「中華傑出人物画像」を掲げる。4.歴史文化遺跡、革命遺跡、新中国建設の成果を参観する。5.関係部門と協力して、校外「愛国主義教育基地」の建設を強化する、などである。
 1990年代半ばに、このような愛国主義教育キャンペーンが始まると、今度は運動が運動を呼ぶ過程が始まる。愛国主義教育キャンペーンはますます広がる。元旦、春節、三八婦人デー、五一メーデー、五四運動記念日、六一児童節、七一建党記念日、八一建軍記念日、十一国慶節、これらの祝日には愛国主義教育基地の無料参観運動が行われるようになる。折からの国内旅行ブームとも連動して、「愛国主義教育」の大義名分のもとで、物見遊山がますます広がる。『綱要』の第30条から第32条は、中国国旗の尊厳や中国国歌(義勇軍行進曲)の斉唱などが指示されている。この精神を外国の国旗や国歌にも適用するという開かれた精神は教育されることがなく、外国の国旗を焼くことが愛国主義だとするごとき逸脱狼藉がみられたのは、キャンペーン全体が国際主義を忘れたことの帰結であろう。
 ではなぜこのような結果をもたらしたのか、その原因を考えてみよう。
まず第1に、旧ソ連の解体によって社会主義イデオロギーの正統性が崩壊したとき、中国共産党は中国ナショナリズムに逃げるほかなかったことは、論理的必然であり、ある意味では同情に値する。すなわち毛沢東はコミンテルンと戦いながら、中国の道を模索してきた。しかし、中国共産党が社会主義の旗を掲げるかぎり、イデオロギー的正統性を保ちがたいことは明らかだ。それゆえ、中国は中国であり、旧ソ連や東欧諸国とは異なるという理由づけが欲しい。こうして兄弟国との異質性を強調する必要上、国際主義あるいは国際連帯を極力避けようとする心理が生まれる。かつて中国共産党は愛国主義を利用してきたが、当時はいつもメダルの裏面に国際主義があり、これが民族主義的偏向への歯止めになっていた。しかし1990年代以後、この歯止めを意識的に外した。この結果、愛国主義教育は容易に「民族主義偏向教育」への道を転げ落ちることになった。
 ここで必要なことは、市場経済に基づいて国際主義あるいは国際協調であり、この方面への努力が必要であった。その場合には否応なしに日本経済との協調が主題の一つにならざるをえない。
 江沢民はひたすら愛国主義教育に走り、政治改革をあえて避けた。江沢民の功罪を分析するとき、朱鎔基による中国市場経済の成功と、江沢民による政治不改革の矛盾がしばしば挙げられる。政治と経済の股裂け現象についていえば、その通りだが、政治不改革、すなわち政治改革を棚上げしつつ、江沢民が最も力を入れたのは、愛国主義教育の展開にほかならない。これは中国を守るためというよりは、むしろ江沢民自身の地位を守るためにほかならない。このような形で強引にまとめあげた13億人の真ん中にいることで、江沢民は安心を得ようとした。だが、その結果はどうか。政治改革を無期限に延期した結果、腐敗の蔓延はとどまるところを知らない。江沢民の家族やその周辺の上海閥のなかで、「両袖清風」の人物は皆無だ。
 現在の問題はなにか。2003年春から夏にかけてのサーズ騒動の過程で胡錦濤・温家宝指導部は急速に、その指導体制を固めた。ところが2003年秋から江沢民およびその徒党による巻き返しが始まり、胡錦濤・温家宝執行部はいたるところで、妨害されている。西太后(江沢民)が光緒帝(胡錦濤)をいびる構図と見る向きが多い。指導部が二つに割れていては、順調な舵取りは望みがたい。このような、いわば二つの司令部が並行して存在し、政治改革の行方が混迷するなかで、もろもろの欲求不満を包摂する形で中国大衆の反日ムードが形成される。このように見てくると、江沢民長期政権における愛国主義教育キャンペーンの意味は明らかであろう。それは政治改革を遅延させ、サボタージュするための隠れ蓑として機能したのであり、この文脈で、江沢民の主導した愛国主義教育キャンペーンは、ケ小平語録が指示した愛国主義教育とは異質なのである。
                                                                                                                                                                                    
年表1. 愛国主義教育運動の歩み(天安門事件から反日ブーイングまで)
 1989年6月4日   天安門事件
 1991年1-2月   ケ小平が朱鎔基らに保守派の「姓資姓社論」批判を語り、『解放日報』はこれに基づいて皇甫平論文を書く。
 1991年   中央宣伝部などが『文物を十分に利用して愛国主義と革命伝統教育を行うことについての通知』を発出。
 1991年12月   旧ソ連解体、いわゆる蘇東波という民主化の波浪が中国を襲う。
 1992年春節   ケ小平「南巡講話」。
 1992年6月19日   江蘇省人代常務委員会で『江蘇省全民国防教育条例』を採択(1997年7月31日修正)。
 1992年8月20日   『上海市国防教育条例』採択。
 1993年5月8日   『吉林省国防教育条例』採択(2002年8月2日修正)。
 1993年   中央宣伝部、国家教育委員会、広播電影電視部、文化部『優秀な映画テレビ番組を用いて全国中小学で愛国主義教育を行うことについての通知』(教基 [1993]17号)
 1994年8月23日   中共中央宣伝部は『愛国主義教育実施綱要』を頒布。
 1994年9月9日   中共中央の学校の徳育工作強化改善についての若干の意見公布。
 1994年9月23日   国家教育委員会が『愛国主義教育実施綱要』を通知。
 1994年9月25-28日   中共14期4中全会でケ小平の完全引退を確認し、ポストケ小平時代が始まる(ケ小平の死去は1997年2月19日)。
 1994年9月   中共中央宣伝部が「愛国主義教育綱要40カ条」を作成。
 1995年3月   国務院民政部は愛国主義教育基地100箇所を指定。
 1995年5月   中央宣伝部、国家教育委員会、文化部、新聞出版署、共青団中央は連名で『全国中小学百首愛国主義教育図書推薦についての通知を発出。
 1995年6月6-12日   台湾の李登輝総統が訪米。
 1995年7-8月   台湾海峡でミサイル演習(7月21-26日、8月15-25日)。
 1996年3月   台湾海峡でミサイル演習(8-15日)、実弾演習(12-20日)、陸海空合同演習(18-25日)。米空母インディペンデンスと原子力空母ニミッツが台湾沖に向かう。い わゆる台湾海峡の疑似緊張。
 1996年3月23日   台湾総統選挙で李登輝候補が当選。
 1996年10月10日   江沢民が14期4中全会で重要講話を行い、「とりわけ青少年の間で愛国主義教育を強化するようよびかけ。
 1996年11月   国家教育委員会、民政部、文化部、国家文物局、共青団中央、解放軍総政治部主任は全国中小学生と社会に愛国主義教育基地百カ所を推薦するように宣言。
 1997年2月25日   国家教育委員会が『小学,初中国防教育綱要』を頒布(2002年12月27日修正)。
 1997年7月   中共中央宣伝部は愛国主義教育示範基地百カ所から19箇所を選び、帝国主義の侵略と人民の闘争を反映するもの9箇所を選ぶ。革命闘争と中国人民の革命闘争 を反映するもの75箇所。
 2000年4月16日   李慎之、劉軍寧、樊綱、茅于軾ら4名の「自由派学者」に対する批判が北京で始められたと香港『亜洲週刊』が報道。
 2000年5月12日   江沢民の指示に基づき、丁関根中央宣伝部長が「警戒対象とすべき知識人リスト」を作成。リストには、李鋭、李慎之、曹思源、樊綱、劉軍寧などが含まれる( 『読売新聞』5月13日)。
 2001年4月28日   中華人民共和国国防教育法採択・施行。
 2001年8月13日   小泉首相靖国参拝@。10月8日蘆溝橋抗日戦争記念館に献花。
 2002年4月21日   小泉首相靖国参拝A
 2003年1月14日   小泉首相靖国参拝B
 2003年8月4日   黒竜江省チチハル市で旧日本軍遺棄毒ガス事故により、市民44人が重軽傷を負い、うち1人が死亡。
 2003年9月18日   広東省珠海市を慰安旅行で訪れた日本人団体客による集団買春事件。
 2003年10月29日   陝西省西安市にある西北大学の文化祭で、日本人留学生がわいせつな寸劇を行ったとして、同大学の中国人学生などによる大規模なデモが発生、暴徒化。
 2004年1月1日   小泉首相靖国参拝C
 2004年2月19日   山東省人民政府の批准を得て、済南戦役記念館、海軍博物館、台児庄大戦記念館、中日甲午戦争博物館、?蕪戦役記念館、孟良?国防教育基地など17単位を「山 東省国防教育基地」に指定。これは全省400箇所の国防教育基地から選ばれたもの。
 2004年3月22日   中共中央国務院『未成年者の思想道徳建設についての若干の意見』が愛国主義教育基地を小中学生に対して無料とするよう指示。
 2004年5月1日   『若干の意見』に基づき、無料扱いとなる(『中国少年報』第2393期)。
 2004年7月13-14日   中共中央宣伝部部長劉雲山が「全国愛国主義教育示範基地工作会議」で講話 北京など6省市宣伝部と西柏坡記念館など7つの「示範基地」責任者が発言。
 2004年7月15日   党中央の領導同志[江沢民を指す]の、愛国主義教育基地建設工作についての一連の重要指示をまじめに実行し、『若干の意見』(04.03.22)を貫徹し、西柏坡 中共中央旧址等34箇所の全国愛国主義教育示範基地の50名の先進工作者を表彰した(新華社北京2004.7.15)。
 2004年7月15日   『人民日報』評論員論文が愛国主義教育基地を称賛。
 2004年7月31日   重慶でアジアカップ対ヨルダン戦、反日ブーイング事件。
 2004年8月3日   済南でアジアカップ対バーレーン戦、反日ブーイング変わらず。
 2004年8月7日   北京でアジアカップ対中国決勝戦。試合後に日本公使車両の窓ガラスが割られた。
 2004年8月22日   ケ小平生誕百周年で胡錦濤が講話。
 2004年8月30日   中国で反日運動を展開している民間ウェブサイト「愛国者同盟網」が、中国の鉄道高速化プロジェクトの日本企業落札に反対する署名活動をしたため中国当 局によって閉鎖された。【北京8月31日共同】


                                                                                                                                                                                             
表2.全国愛国主義教育基地先進工作者50名(2004-7-20)
 北京  01于延俊  中国人民抗日戦争紀念館副館長  蘆溝橋
    02閻宏斌  故宮博物院展覧宣教部主任   
    03劉連成  北京自然博物館科普部副主任   
 天津  04董其荘  平津戦役紀念館副館長   
   05孫景雲  天津自然博物館館長    
 河北  06谷同偉  河北省博物館館長    
   07杜全忠  楽亭李大サ紀念館館長  李大サ  
 山西省  08朱秋元  太行太岳烈士陵園主任    
 内蒙古  09邵清隆  内蒙古博物館館長    
 遼寧  10王愛紅  旅順万忠墓紀念館館長    
   11張淑芬  撫順雷鋒紀念館館長  雷鋒  
   12劉琳琳  抗美援朝紀念館講解員  朝鮮戦争  
 吉林  13王明才  “四保臨江”烈士陵園管理処主任    
 黒龍江  14王鵬  侵華日軍731細菌部隊罪証陳列館館長    
   15劉仁  鉄人王進喜同志紀念館党支部書記  王進喜  
 上海  16流沙玲  中共第一次全国代表大会会址紀念館党支部副書記    
    17沈善良  陳雲故居曁青浦革命歴史紀念館館長  陳雲
 江蘇  18朱成山  侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館館長  南京事件
    19朱亜輝  沙家浜革命歴史紀念館館長  
 浙江  20章水強  南湖革命紀念館館長  
   21張莉英  解放━江山島烈士陵園管理処副主任  
 安徽  22王麗華  安徽省博物館群教部主任  
 福建  23林忠陽  陳嘉庚生平事跡陳列館宣伝接待科科長  陳嘉庚
   24劉雲剛  福建省革命歴史紀念館館長  
 江西  25法剣明  南昌八一起義紀念館館長  
   26李建軍  安源路礦工人運動紀念館副研究館員  
 山東  27張生亮  済南戦役紀念館館長  
   28元新泉  莱蕪戦役紀念館館長  
 河南  29畢保吉  林州紅旗渠紀念館館長  
   30周桂祥  河南博物院副院長  
 湖北  31趙暁琳  “八七会議”会址紀念館館長  
 湖南   32陳建明  湖南省博物館館長  
   33肖普剛  劉少奇紀念館館長  劉少奇
 広東  34李建賢  葉剣英元帥紀念館館長  葉剣英
   35何偉光  葉挺紀念館館長  葉挺
 広西  36黄志光  龍州県紅八軍紀念館館長  
 四川  37肖盛書  朱徳故居紀念館館長  朱徳
 重慶  38脂リ  重慶歌楽山革命紀念館館長  
   39何如茂  劉伯承同志紀念館館長  劉伯承
 雲南  40包雲燕  “一二・一”紀念館館長  
 貴州  41雷光仁  遵義会議紀念館館長  
   42杜蘭江  息烽集中営革命歴史紀念館館長  
 西蔵  43旺久  山南烈士陵園管理処副主任  
 陜西  44張明勝  延安革命紀念館館長  
   45呉永h  秦始皇兵馬俑博物館館長  秦始皇
   46王彬  陜西歴史博物館副館長  
 寧夏  47李進増  寧夏博物館館長  
 甘粛   48馬進林  会寧紅軍会師楼紀念館館長  
 青海   49陳革  中国工農紅軍西路軍紀念館館長  
 新疆  50郭宏強  烏魯木斉烈士陵園主任  


                                                                                                                                                                                                                    
表3. 愛国主義教育基地一覧(百カ所)
 北 京 9   01天安門広場 02中国歴史博物館 03中国革命博物館 04中国人民革命軍事博物館 05中国人民抗日戦争紀念館 06故宮博物院 07円明園遺址公園 08八達嶺長城 09周口店遺址博物館
 天 津 1   10盤山烈士陵園
 河 北 6   11楽亭・李大サ紀念館 12渉県129師司令部旧址 13唐県・白求恩、柯棣華紀念館 14清苑・冉荘地道戦遺址 15平山・西柏坡中共中央旧址 16隆化・董存瑞烈士陵園
 山 西 3   17陽泉・“百団大戦”紀念館(碑) 18武郷・八路軍太行紀念館(八路軍総部旧址) 19文水・劉胡蘭紀念館
 内蒙古 1   20呼和浩特・烏蘭夫同志紀念館
 遼 寧 5   21瀋陽・“九.一八”事変博物館 22大連・旅順万忠墓紀念館 23錦州・遼瀋戦役紀念館 24丹東・抗美援朝紀念館 25撫順・雷鋒紀念館
 吉林 1   26通化・楊靖宇烈士陵園
 黒龍江 4   27哈爾濱・侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館 28哈爾濱・東北烈士紀念館 29大慶・鉄人王進喜同志紀念館 30黒河・愛琿歴史陳列館
 上 海 4   31中国共産党第一次全国代表大会会址紀念館 32宋慶齢陵園 33龍華烈士陵園 34上海博物館
 江 蘇 7   35南京・中山陵 36淮安・周恩来紀念館(故居) 37塩城・新四軍紀念館 38南京・侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館 39南京・雨花台烈士陵園 40徐州・淮海戦役烈士紀念塔(館) 41南京・《南京条約》史料陳列館
 浙 江 5   42紹興・魯迅故居及紀念館 43紹興・禹陵 44嘉興・南湖革命紀念館 45寧波・鎮海口海防遺址 46余姚・河姆渡遺址博物館
 安徽 1   47歙県・陶行知紀念館
 福 建 5   48上杭・古田会議紀念館 49福州・林則徐紀念館 50廈門・陳嘉庚生平事跡陳列館 51廈門・鄭成功紀念館 52泉州・泉州海外交通史博物館
 江 西 4   53萍郷・安源路礦工人運動紀念館 54南昌・八一起義紀念館 55寧岡・井岡山革命紀念館 56瑞金・中央革命根拠地紀念館
 山 東 4   57聊城・孔繁森同志紀念館 58棗荘・台児荘大戦紀念館 59威海・中国甲午戦争博物館 60曲阜・孔子故居
 河 南 3   61林州・紅旗渠紀念館 62蘭考・焦裕禄烈士陵園 63安陽・殷墟博物苑
 湖 北 5   64武漢・二七紀念館 65武漢・辛亥革命武昌起義紀念館 66武漢・武昌中央農民運動講習所旧址紀念館 67?春・李時珍紀念館 68紅安・黄麻起義和鄂豫皖蘇区革命烈士陵園
 湖 南 3   69韶山・毛沢東同志紀念館 70寧郷・劉少奇同志紀念館 71炎陵・炎帝陵
 広 東 4   72広州・孫中山故居紀念館 73広州起義烈士陵園 74広州・三元里人民抗英闘争紀念館 75東莞・鴉片戦争博物館(虎門炮台)
 広 西 2   76百色・中国工農紅軍第七軍軍部旧址 77興安・紅軍長徴突破湘江歴史紀念碑園
 海 南 1   78瓊山・中国工農紅軍瓊崖縦隊改編旧址
 四 川 5   79広安・ケ小平同志旧居 80儀隴・朱徳故居曁朱徳銅像紀念園 81宜賓・趙一曼紀念館 82中江・黄継光紀念館 83都江堰・都江堰水利工程
 重 慶 3   84紅岩革命紀念館 85銅梁・邱少雲烈士紀念館 86歌楽山烈士陵園
 雲 南 1   87昆明・“一二・一”四烈士墓及“一二・一”運動紀念館
 西 蔵 1   88乃東・山南烈士陵園 89江孜・江孜抗英遺址
 陜 西 7   90延安・延安革命紀念館 91西安・八路軍西安弁事処紀念館 92西安・西安事変紀念館 93西安・陜西歴史博物館 94西安・西安半坡博物館 95臨潼・秦始皇兵馬俑博物館 96黄陵・黄帝陵
 寧 夏 1   97銀川・寧夏博物館
 甘 粛 3   98嘉峪関・嘉峪関 99会寧・会寧紅軍会師旧址 100敦煌・莫高窟
 青 海 1   101西寧・中国工農紅軍西路軍紀念館
 新 疆 1   102烏魯木斉・烏魯木斉市革命烈士陵園
 貴 州 1   103遵義・遵義会議紀念館



          
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