第07号 2005.1.17発行 by 矢吹 晋
    王逸舟教授の中国新外交論
<目次>へ戻る
 昨年11月に行われたわがJCCシンポジウム「未来に向かう日中関係U」において中国社会科学院世界経済与政治研究所の王逸舟副所長が基調報告を行い、好評を博した。王逸舟報告のベースになっている考え方は同氏の著書『全球政治和中国外交』(世界知識出版社、2003年12月)の結論部分である。この力作を概観してみよう。

「全球政治和中国外交」表紙と王逸舟教授
http://www.globalizationforum.org/cn/zhici/cn_wyz1.htm より

 全14章からなる目次は以下のごとくである。
 1グローバル時代の安全保障観、2国家主権と国際社会、3多層からなる国家利益、4国際関係のなかの個人、5新奇にして複雑なNGO、6エコロジー政治というユニークな視角、7アジア金融危機再考、8公民社会と政府外交、9国際政治の等級構造、10海洋法とわれわれの進退、11国際組織の複雑なコミットメント、12マルチラテラリズムと多国間外交、13周辺国家と安全保障環境、14外交ニーズと大国の度量。
 本書の結論として書かれた第14章について構成を見ると、
第1節
第2節
第3節
第4節
「発展のニーズ---中国隆盛の礎石」、
「主権のニーズ---欠くべからざる伝統的安全保障」、
「責任のニーズ---大国の地位と度量の体現」、
「世界大国に向かう自覚」となっている。
 (2)中国外交の課題3カ条
 王逸舟教授は21世紀初頭の中国外交の課題を
 第1項「発展という挑戦」、第2項「挑戦を受ける主権」、第3項「責任への挑戦」
 の「3カ条の挑戦」としている。これらは、単に3項目を羅列したのではない。一方にグローバル政治を想定し、他方にこれからの中国外交の目標を置く。そして第三の極に中国という国家を置いて、この三角関係の構造のなかで全体の相関関係をとらえようとする野心的な試みである。実はここにもう一つの三角関係がある。それは「権利・義務・責任」の三角関係である。国際政治や外交の原則を単なる弱肉強食と理解すれば、権利のみをひたすら主張し、義務や責任を一切無視するのが「優秀な外交官」になりかねない。みずからに有利な事柄だけは声高な主張を繰り返すが、不利な問題については一切口をつぐむ、といった印象を与える記者会見はしばしば行われてきた。権利を奪われたまま、義務や責任だけを問われるのは不合理なことはいうまでもないが、国際政治上の特権を享受しながら、国際的義務や責任を忘れて、狭い国益だけを主張するとしたら、そのような利己主義が長期にわたって許されるはずのないことは自明である。
 王逸舟教授が「発展・主権・責任」という三つのキーワードでとらえようとしている「グローバル政治における中国の責任」という問題意識は、こうしてすぐれて現代的な状況における中国の位相を再考しようとする強烈な問題意識に裏付けられた強靭かつ柔軟な思考の結晶なのである。
 私は2003年のJCCシンポジウムにおいて、「外交とは、相手の精神の理解を通して、自分の目的を達成することだ」(Diplomacy consists in gaining one's point through an understanding of the view of the other party. 『朝河貫一書簡集』所収)と喝破した朝河貫一の箴言を紹介したが、近年の日中関係はまさに、朝河精神とはまるで逆に、「相手の精神の無視を通して、自分の目的を達成すること」に狂奔してきたように見受けられる。
 私は王逸舟教授の基本的な問題意識に接して、この箴言を想起するとともに、このような精神によって中国外交が裏付けられ、地域的regional世界においても全地球的global世界においても、「道義を踏まえた、情理を尽くした外交」と評価される日の来ることを念願している。
 中国がかつて「覇権なき外交」を強調していたことはわれわれの記憶に新しい。たとえば日中平和友好条約において、最大の争点はこの覇権条項にあった。にもかかわらず、近年このキーワードはほとんど忘れられたように見える。
 第1項「発展という挑戦」
 たとえば次の表現は、王逸舟教授の考え方の核心である。曰く、
 「中国はハードの面で遅れているばかりでなく、ソフトの面でも遅れており、『経済・社会・政治の"緊運行"の国家』である("緊運行"は経済用語を政治外交の世界に援用したもの)という。経済面ならば、たとえば、@電力不足を乗り切るために、市民の住宅区への送電を計画的に停電し、生産工場用に優先的に配分するような事例、A金利の引上げや引下げを通じて金融情勢を管理するようなソフトな管理に対して、貸出を直接禁止するような、軍事経済にも似た行政命令による規制をただちに想定できるが、たとえばB北京五輪開催に際して、市民の交通を強制的に停止させ、選手と外国観光客を競技場に優先的に運ぶことは想定されているのであろうか。
 王教授によれば、「ソフトな管理」への転換を図るためには、@「経済自身の構造変革と社会政治体制全体の変革を同時に推進すること」、A「対外開放意識を不断に拡大すること」が必要である。ただし、これまではその努力が必ずしも十分に行われなかったために、B「民族主義意識(とりわけやや極端なムード)が急激に生まれ」、C「旧体制の残した問題が解決できない」うちに「リストラや経済格差、教育格差、腐敗現象などの新しい問題が生まれた」と現状に潜む問題を鋭く指摘している。
 これらの課題の解決のために、D政治の民主化と法制化、E精神文明と物質文明の同時発展、F各種利益集団の利害のすり合わせ(磨合)が必要だ、と提唱する。これらの一連の考え方、特にFの「利益集団の利害調整」という考え方を王教授が初めて提起したのは、私の記憶によれば、1980年代の後半である。私は戦後日本において自民党政治が駆使してきたような「圧力団体」政治に着目した中国の政治学者の論説に接して、官僚による恣意的な資源配分からの脱皮もまた民主化への小さな一歩と感じたのであった。この20年近く、中国の政治経済状況も発展し変化を遂げ、王教授自身の認識も成熟したように見受けられるのは、喜ばしい限りだ。
 第2項「挑戦を受ける主権」
「挑戦を受ける主権」では、朝鮮半島の不安定問題とインド亜大陸の核武装問題に着目しつつ、中国自身の課題としては、「国防支出と経済建設のバランス問題」をとりあげている。ここには、経済建設に全力を挙げるべきはずの予算配分がややもすれば国防支出の肥大化によって望ましい配分が歪められているとする認識があるのかもしれない。これは教授に質したい一点である。「ケ小平は毛沢東の"戦争と平和"観を改めた」(『全球政治』153ページ)ことを特に重視し、さらに王教授は「新しい安全保障観」を論じ(『全球政治』1〜19ページ)、「中国国益の再思考」(『全球政治』43〜52ページ)を論じている。この思考に基づいて、「政冷経熱」の問題をより一歩進めて具体的に分析されることを望みたい。
 台湾問題については、その複雑性を指摘しつつ、「一方的な願望やタイムテーブルにしたがって行うことはできない」とし、「海峡両岸の民衆のアイデンティティ感覚の調整」を指摘し、「統一の日程表のアンパイにおいては、慎重さが必要」と強調しているのが目立つ。これは、王教授の柔軟な思考を示す一例である。
 「最大の努力を尽くして両岸の平和統一と両岸同胞のウィンウィン構造を勝ち取ろう」としているのは、ミサイル演習などのように武力をちらつかせる高圧政策への批判と、そもそも統一問題の解決は「両岸同胞によって歓迎されるもの」でなければならないという大前提がややもすれば、見失われている現状への警告と私は読む。
 著者は、この問題をより具体的に論じる。「私個人はこう考える。軍事上において台独に対して最悪に備えた準備をしなければならないとしても、台湾問題の解決は結局は政治とそれを補助する手段に依拠する可能性が強い。大陸側についていえば、過去数年の台湾に関わる事務は総括すべき多くの経験があり、そこから汲み取るべき教訓が少なくない」、「たとえば選挙の予測は実際の結果と大きなギャップがあり、各方面の工作が受け身になり批判にさらされた」(『全球政治』287ページ)。
 王教授のいう通りだ。見通しの大きな誤りは明らかであり、私はこの指摘に深く共感する。たとえばケ小平は楊力宇教授との会見(1983年6月26日)で、台湾との交渉においては「"中央と地方との会談"といういい方をしてはならない」と戒めた。「台湾は特別行政区とするが、地方政府とはいっても、その他の省市区とは異なる。台湾は独特の何らかの権力がある(原文=独有的某些権力)。統一の暁には「"連邦の性質をもつ"といってよい。ただし、連邦とは呼ばないけれども」(原文=可以有連邦的性質、但不能叫連邦)。(中共中央台湾弁公室、国務院台湾事務弁公室編『中国台湾問題』北京九州図書出版社、1998年、68、70、124ページ)。
 これらいくつかの引用を見ただけでも、1995年以来の高圧的台湾政策には強い疑念が生ずる。私見によれば、一連の高圧政策はケ小平路線の精神を体したものとは到底みなしがたいのである。言い換えれば統一戦線の精神で包摂するのではなく、アイデンティティ・クライシス(=認同危機)に揺れる台湾の人心を台独論に無理やり追いやったに等しいのだ。
 私は過去40年近く台湾海峡の両岸を観察してきたが、独立の可能性は経済的にも政治的にも皆無である。経済的側面を見ると、いまや台湾経済と大陸経済は日々結合を深め、一体化の道を歩んでいる。政治的側面を見ると、中国は安全保障理事会で拒否権をもつし、仮に総会の議題となれば、3分の2の多数の支持を得ることは絶対に不可能であろう。
 私が台湾問題における「政治と経済の股裂け」現象を見るたびに、想起するのは次の八文字である。「皮之不存、毛将焉附」。皮が残らないならば、毛はどこに付くのか、の意だ。
 ここで「皮」とは経済である。「毛」とは政治である。経済が日々一体化を深めている状況のなかで、政治だけが空虚な、実現の条件をまるで欠いた独立論をがなりたてる。私の理解では、これはほとんど「気休めの独立論」「癒しの独立論」にすぎない。このような空疎な議論が台湾で広まった大きな条件の一つは、大陸側の高圧的な台湾政策にほかならない。ミサイル演習に象徴されるような、誤った高圧政策が台湾の人々に、無用の恐怖心を与え、実現不可能な「独立教」の宣伝普及を助け、東アジアの平和を脅かしたとみるほかない。
 次の話題は海洋法をめぐる狂想曲である。同条約第121条第1項と第3項によれば、島嶼は排他的経済水域(専管経済区)あるいは大陸棚をもつが、岩礁にはこの権利はない。両者を区別する根拠は「人類の居住に適しているか否か」である。だが、島嶼と岩礁とは何を基準として区別できるのか。「人類の居住」といっても、長期か短期か、居住の基準とはなにか。人工島嶼と天然の島嶼はいかに区別するのか。さらに「無主地・実効支配・象徴的占領・連続的平穏な占領」など若干の概念は曖昧である。こうして異なる当事者がそれぞれに都合のよい条項を持ち出して自己の立場を主張することでいま東アジア世界には無用の摩擦が拡大しつつある。ここで王教授はいう。「海洋法の権威性と合法性は尊重すべき」だが、「柔軟な立場で現実を処理しなければならない」ことも確かではないか(『全球政治』237ページ)。
 中日間には釣魚台(=尖閣列島)の帰属問題がある。これは大陸棚の延長範囲と関わる。中国(日本)は海洋法のいう大陸棚原則をとるのか、それとも等距離原則(中間線)をとるのか。仮にここで中国が有利な大陸棚原則をとるとした場合、今度は中韓の線引きでは、韓国が有利になる。また中国は「日韓の連署した大陸棚共同開発協定」に抗議し反対している事情もある(『全球政治』236〜239ページ)。
 日中韓3カ国の利害関係を見ただけでも、あちら立てればこちらが立たず。論理はすべて諸刃の刃である。ここには矛を売る者と盾を売る者の矛盾を絵に描いたような現実がある。加えて日本は中国にとって主要な貿易相手であり、投資国ではないか。これらもろもろの条件を列挙したあと、王教授が想起したのは、古典的な「中庸の道」であった。あるいは「小さなものに固執して、大きな利益を失ってはならない」(=因小失大)の教えである。ここで説かれる「中庸の道」は強い説得力をもつと思う。現実の国際政治は決して一刀両断というわけにはいかないからだ。
 第3項「責任への挑戦」
中国の果たすべき「国際的責任」というレベルで王逸舟教授が想定しているのは、国連安全保障理事会やWTO、核非拡散クラブなどであり、「地域大国としての責任」というレベルで想定しているのは、経済安保、軍事的安定などである。アジア太平洋地区の諸問題はいずれも「中国と直接的利害関係をもつ」として、「創造的思惟」により、「建設的な責任大国」の役割を果たすべきだとしているが、これは歓迎すべきスタンスであろう。
特に「中国自身の発展」(原文=壮大)と「隣国の懸念払拭」(原文=安撫)という「異なる要求」をいかに調和させるか。「強大になった中国に対して、国際社会はどのような責任を期待しているのか」と自問している点が重要であろう。問題の所在を明確に自己認識できたからには、おのずから答えを導く方向もみえてきたというべきであろう。
 90年代末に至るまで、中国は比較的受動的に国際社会に対応してきたが、いまやみずからの地域的regional責任、 全地球的global責任を明確に問い直す段階に至り、責任を明確に自覚するに至ったのは、歓迎すべき事態であろう。
 国際組織についていえば、中国はすでにほとんどすべての国際組織に参加しているといってよいが、いまだ参加していないのは、別名先進国クラブともいわれる「グループ8」程度である。これまで中国は「発展途上国」に属するという理由で、みずから先進国グループとは一線を画してきた。なるほど中国全体を平均すれば、明らかに「途上国」である。しかし沿海地域の工業化・都市化に着目して問題を考えるならば、中国はもはや途上国ではない。こうして「輸出競争力に示された経済力」から見た先進国中国の顔と、一人当たりGDPをモノサシにした途上国中国の顔は、まるで怪人二十面相のように複雑である。これまでは二つの顔の使い分けでやりすごしてきたが、中国経済の地域経済や世界経済に占める影響力に鑑みて、このような便宜主義は随所に破綻を見せている。
 たとえば地球温暖化問題について見ると、中国のCO2 排出量は日本の3倍程度と推計されているが、京都議定書においては削減対象に含められていない。東アジアの環境問題を考えるとき、これは看過できない問題である、と日頃の疑問を脳裏に浮かべながら、王教授の本を読み進めると、こう書いてある。「未来のある時に、わが国は国際的な場で正式に温室ガス削減の義務を担うことを表明すべきである」(『全球政治』321ページ)。
 また同じページには国連に対する中国の分担金を増額すべきことも、責任のとり方の一つとして掲げてある(『全球政治』321ページ)。ちなみに『国連ハンドブック1995年』によると、日本の分担金13.95%、韓国0.8%、中国0.72%という実績も明記してある(『全球政治』199ページ)
 これらの例を一瞥しただけでも、王教授の目配りの広さ、新しさが理解できるわけだ。



               
<目次>へ戻る