第08号 2005.2.8発行 by 矢吹 晋
    趙紫陽の死
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 一九八九年の天安門事件で失脚した趙紫陽が一五年余の軟禁生活を経て、去る一月一七日死去した。趙紫陽の公開された最後の活動はハンドマイクを片手に天安門広場に座り込んだハンスト学生を涙を浮かべつつ、見舞ったことである。「皆さんはまだ若く、前途は長い。皆さんは健康に生きて、わが中国が四つの現代化を実現した日を見なければならない。われわれは老いたからどうということはない」(『人民日報』一九八九年五月二〇日)。学生に呼びかける趙紫陽を写した写真の右後ろには当時中共中央弁公庁主任であった温家宝(現国務院総理)の姿がある。この『人民日報』報道は写真とともに、われわれが昔編集した『チャイナ・クライシス重要文献』(第2巻、72〜74ページ、蒼蒼社刊)に収めたこともあって、特に印象に残っている。
 同じ日の夜、天安門広場の西方九キロ万寿路にある人民解放軍総後勤部行動で戒厳令布告のための大会が開かれたが、趙紫陽はこの会議への出席を拒否して失脚の道を選び、戒厳令布告から二週間後に天安門事件という惨劇が繰り広げられた。


 趙紫陽の告別式がどのように行われるかが注目を集めていたが、名誉回復を要求する遺族側と「腫れ物に触りたくない」、できれば「ヒラ党員扱い」としたい当局との間でなかなか調整がつかず、綱引きは一〇日以上続き、告別式はようやく一月二九日に北京西郊外の八宝山革命公墓で行われた。
 誰がどのような追悼の辞を読むのか、関心が高まっていたが、結局「悼辞なし」であった。新華社が流した五〇〇字余の報道がそのすべてであり、こう書かれていた。
 「改革開放の前期に、趙紫陽同志は相次いで中央と国家の重要な指導的職務を担任し、党と人民の事業に有益な貢献をした」。
 ここで「中央の職務」とは総書記であり、「国家の職務」とは国務院総理である。通常なら「元総書記、元国務院総理」と明記すべきところを、このような表現でボカしているところに、趙紫陽の扱いに苦慮する胡錦濤、温家宝執行部の苦衷が浮き彫りにされている。
 肝心の天安門事件については「一九八九年春から夏にかけての政治風波のなかで趙紫陽同志は重大な過ちを犯した」と書くにとどめている。この「重大な過ち」のゆえに、趙紫陽が総書記の地位を解任され、政治局から追放処分を受けた事実には言及しない。なぜか。この処分を明記した途端、「処分の当否」について議論がまきおこり、趙紫陽名誉回復騒ぎがおこり兼ねないからであろう。いわば寝た子を起こさないという細心の配慮をもって趙紫陽の告別式が行われた経緯を象徴するのがこの短い新華社電なのだ。まさに「死せる趙紫陽、活ける胡錦濤体制を揺るがす」の構図にほかならない。
 告別式には序列一位の胡錦濤(総書記)、二位の呉邦国(全人代委員長)、三位の温家宝(総理)は出席せず、四位の賈慶林(全国全国人民政治協商会議主席)が出席者のなかでトップであった。さらに賀国強(中央組織部長、政治局委員)、王剛(中央弁公庁主任、政治局候補委員)、華建敏(国務院秘書長)が地位の高い三名である。目立つ位置に飾られた花輪を贈ったのは、1.中共中央弁公庁、2.中央組織部、3.国務院弁公庁、4.全国政協弁公庁の四組織である。1.は「総書記趙紫陽」の元職場、3.は「国務院総理趙紫陽」の元職場、4.は賈慶林が全国政協の委員長である事実に対応する。そして告別式全体をとりしきっているのが2.中央組織部であることを示唆しているわけだ。 

 一方に故人の名誉回復を要求する遺族があり、他方に趙紫陽失脚の結果として総書記のポストが転がり込んだ江沢民前総書記一派の既得利益しがみつき状況があり、両者の綱引きの結果として、告別式の「格式」はきわめて慎重に時間を費やして決定された。それが「出席者リスト」や「花輪を贈る単位」によって示されている。まさにお葬式は政治そのもの、これが現代中国の政治である。引退した立場上、私人として出席した大物は、喬石と万里(ともに元全人代委員長)、田紀雲(趙紫陽の助手、元全人代副委員長)、そして任仲夷(元広東省第一書記)以下の広東省グループなどだ。趙紫陽の政治秘書鮑は「政治的発言をしない」という誓約を条件にようやく参列を許されたと香港『明報』が報じている。
 天安門事件の直後、改革開放路線が危殆に瀕したが、まもなくケ小平の春節講話を契機として、「趙紫陽なき趙紫陽路線」が復活した。その後経済面に関するかぎり、趙紫陽時代の積極政策はすべて復活しただけでなく、いわば「趙紫陽を超える趙紫陽路線」となった。
 趙紫陽の後を襲って総書記の地位についた江沢民は毎年「六月四日」を迎えるたびに薄氷を踏む思いで治安の維持に心を砕いてきた。力量に乏しい政治家にとって、旧ソ連解体という激動の時代の舵取りは余りにも重すぎる課題であったように見える。中国にとっての幸運は、経済発展の過程で社会の安定化が進み、事件五年後の一九九四年六月あたりには、中国的高度成長への自信がついたことだ。こうした雰囲気を見届けてケ小平が死去した。
 事件一〇年後の一九九九年六月は、香港返還がすでに成り、いまやWTO加盟が課題であった。もはや「天安門事件の二の舞」への期待や危惧はほとんど非現実的であった。中国は激動の二〇世紀に幕を閉じて二一世紀を迎え、一九一九年生まれの趙紫陽は八五歳まで長らえて消えた。
 ケ小平は八〇年八月に「党と国家の指導制度の改革」を論じたが、趙紫陽が八七年七月にケ小平の同意を得て「再発表」したのは象徴的である。不幸にして、この政治改革構想は天安門事件という鬼子を生む。趙紫陽のポストを引き継いだ江沢民は「政治改革」を禁句として、十余年の統治の基本とした。政治改革を排除したことの重大な帰結にいま中国はひどく悩まされている。すなわち汚職問題・腐敗問題だ。この姿は天安門事件を契機として、「経済改革から政治改革へ」というケ小平・趙紫陽路線が、「政治改革なき経済改革」「政治改革棚上げによる経済改革」に矮小化されたことの問題点をよく示している。ナショナリズムを煽り、そこに安住して政治改革を放棄した江沢民時代の功罪がいま問われている。胡錦濤の今後の舵取りが問われるのも、まさにこの一点であろう。
 『チャイナ・クライシス重要文献』に戻ると、われわれは第3巻に「趙紫陽総書記の最後の弁明」(1989年6月19日)を台北『聯合報』(同年7月5日)に依拠して翻訳した。「以下の報道は、趙紫陽講話のフルテキストを欠き、いまひとつ信憑性に乏しいが参考までに収録する。次の李鵬の趙紫陽断罪報告[同年6月23日に行われた13期4中全会における李鵬報告]と合わせて読まれるべきである」と註釈を付した。
 国家環境保護局のハリキリ幹部潘岳副局長が2月2日に公表したところによると、三峡総公司所属の金沙江溪洛渡発電所、三峡ダム地下発電所など13省市の30箇所の発電所関連プロジェクトに対して、環境アセスメント違反問題のために工事停止処分を行った。この事実は李鵬の固い地盤に対して、ようやく温家宝が地盤崩しを始めたことを示唆する。中国の「電力怪獣」退治がようやく始まったわけだ。
 趙紫陽失脚後15年、死去してもいまだこの間の事情が不透明なのは、それによって利益を得た江沢民・李鵬グループが依然居残りを続けているからにほかならない。
 これらは中国の政治改革の立ち遅れを示すもう一つの証拠であり、これらの病弊を隠蔽するために反日ナショナリズムが利用されたことは言を俟たない。まさに「安定第一」の名において、腐敗蔓延を許してきたのである。



               
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