第16号 2005.11.9発行 by 矢吹 晋
    南からメディア改革の風が吹く
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 昔、夜来香の調べに載せて、「風は南から吹く」と即興のカラオケを香港の夜総会で歌ったことがある。そこへ私を誘ってくれたのは、学部長、学生部長の職務に忙殺され、過労で急死した守野友造教授(立命館大学、元ジェトロ香港・上海・北京事務所長)であったか。旧友との夜を想起しながち香港時代を少し振り返る。
 私は1979-1980年の1年半、香港に暮らした。そのころ改革開放の風が南から吹いていることを日々体感していた。「香港こそが中国市場経済の牽引力の一つである」事実を、私は香港という機関車の先頭に立ち、風を切る感覚で受け止めていた。これはしばしば舟遊びに出かけたとき、満身に潮風を受けた体験と重なって、私の脳裏に深く刻み込まれている。その後、『南方週末』や『南風窓』の現物に接して、広東省委員会機関紙『南方日報』広州市委員会『広州日報』のもとに、このような改革派メディアが育ちつつあることに深い関心を抱いた。というよりも、私は香港のメディアと大陸系のこれらのメディアを通じて、改革開放の潮流を実感していたわけだ。
 今回、広州の旅で『南方報業戦略』(范以錦著、南方日報出版社、2005年10月)に接して、これまでの曖昧な記憶が一挙に霧が晴れたかのように鮮明になり、気分爽快である。まず、著者范以錦を紹介しよう。范以錦は1946年マラヤ半島に生まれた。49年父母とともに帰国したマラヤ(現マレーシア)華僑である。69年広州の名門曁南大学経済系を卒業し、70年南方日報社に入社した。記者から総編輯まで出世階段をのぼりめ、現在は南方報業伝媒集団の党委員会書記兼同集団の董事長である。兼任ポストをいくつか挙げると、中華全国新聞工作者協会副主席、広東省新聞工作者協会主席、中共広東省委員会候補委員、省政協委員、広東省作家協会会員、中山大学、華南理工大学、曁南大学の兼任教授などである。
 69年に大学卒とは、文化大革命の嵐をまとに体験したはずだが、無傷であったように見える。脱文革期に新聞社の出世コースを順調に歩んだのは、おそらく中国の改革開放を外側から見る視点をもっていたからに違いない。ただし、この本は彼の自伝ではなく、個人の歩みは何も書かれていない。書かれているのは、南方日報の幹部になってからの活躍ぶりだ。 
 1949年10月23日に創刊された南方日報が多角化戦略の一環として、最初に試みたのは、『南方周末』の創刊(1984年2月11日)であった。それは一見、『南方日報』「副刊」のイメージであったが、通常の「副刊」とは異なり、独自の形で出版された。その体裁は通常の新聞と同じ大型であり、独自の全国レベル週末紙として発行された。創刊当時の4面から現在は20面に拡大されている。発行当初は7000部であったが、現在は130万を超えた。この『南方周末』こそが『南方日報』多角化戦略の嚆矢となった。  写真:『南方周末』表紙
 『南方日報』集団が『南方周末』の経験を踏まえて新型の都市報としてタブロイド版の週刊紙『南方都市報』を創刊したのは1995年3月30日のことだ。当初は8面構成であった。97年元旦を期して週刊紙から日刊紙に変身した。同年9月1日ダイアナ王妃が事故死したが、これを詳しく報じた『南方都市報』は完売した。7日には特集号で追悼したが、この時、発行量が倍増した。2002年9月13日南京の猫いらず毒入り事件で300余人が死ぬ大事件があり、これも詳報した。2003年2~3月サーズ報道で関心を集めた。4月25日27歳の大卒青年孫志剛の収容所内殴打死去事件が世間を世間を震撼させたが、同紙はこれを詳しく報じて読者の信頼感を高めた。
 2001年になると『21世紀経済報道』が創刊された。これはその後創刊された『21世紀商業評論』と補完し合いながら、経済と経営の報道で活躍中だ。
 2002年に創刊された『21世紀環球報道』は11月の第15回党大会人事を予想報道して当局からにらまれた。回収騒ぎを起こし、ついで03年3月3日号で元毛沢東秘書李鋭が党大会に「政治体制改革の意見書」を送ったこと、また党大会分化会で発言した事実を李鋭のインタビューとして報道して、再度回収され(時事通信北京電)、ついに停刊に追い込まれた。『南方日報』多角化戦略の大きな挫折であった。
 だがその多角化戦略はひるまなかった。2003年11月11日北京の『光明日報』報業集団との間で『新京報』を創刊した。これは都市報というタブロイド版新型新聞が広東省を越えて北京に進出することを意味した。創刊当初は発行量32万部であったが、現在は約50万部である。
 南方日報集団は元来広東省委員会の機関紙グループであり、その新聞『南方日報』と『南方都市報』は広東省内の読者を想定して、省内の読者獲得に努めてきた。しかし他方『南方周末』や『21世紀経済報道』は全国市場を当初から想定していた。このグループはいまや後者により広東省を越えた経験を総括して、一挙に北京進出を試みたわけだ。創刊2年の今日、『新京報』は確実に北京市民の支持を獲得したようである。
 ちなみに北京新聞部主編陳峰はかつて『南方都市報』記者として「収容された男孫志剛の死」を報道した体験をもつ(『新京報解読、永安路106号』新京報PRパンフレット)。
 『新京報』は現在、自費による予約購読者24万(48.6%)、小売り読者22万(45%)であり、党機関紙すなわち「党報」が政府機関やその他単位に強制的に割り当てられている姿と対照的だ。読者の地域分布を見ると、海淀区や朝陽区、西城区など知識人比率の高い地域に読者が多い。読者の特徴として「四高」が指摘されている。すなわち高学歴、高職位、高月収(個人ベース)と高年収(家庭単位)、そして高消費世帯である(ちなみにマイホームやマイカー保有比率が高い)。
 広東省の新聞が北京に進出することは「異地(世論)監督」という役割を果たす。中国の地方封鎖主義はもともと根強い。他省で生産した自動車や家電製品を売らせないなどは序の口だ。これは明らかに市場経済の原則を大きく歪めるものだ。そこで省レベルの垣根を越えた新聞の役割が大きい。しかし、他の省の新聞に自分の行政を批判することは許さないという感覚が中国のお役人には根強い。一方で「異地(世論)監督」の必要性が強調され、他方で現実にはこれが暗に陽にさまざまな形で妨害される。『新京報』の成功は一挙に「異地(世論)監督」のムードを盛り上げる結果をもたらし、このムードは全国的に盛り上がってきた。そこで地方政府のボスたちは、この世論圧力をはねのけるべく中央宣伝部に苦情を殺到させ、この動きにブレーキをかけようとしている。こうして中国では市場経済が大きく発展するなかで、これに対応した行政改革、政治改革を考える動きと、これに抵抗する保守派の動きが拮抗した形になっている。大きな潮流は変わらないと見てよいが地方役人たちの既得利益権益を守る闘争は中央の派閥抗争とも連動して、複雑な様相を見せている。
 
 さて広東省党委員会の主管する機関紙集団の動きをみて、これに対抗するかのように積極的な動きを見せたのは、お膝元の広東省広州市委員会機関紙『広州日報』のグループである。ここではまず月刊誌『南風窓』の創刊に踏み切った。1985年4月のことだ。その読者は9割以上が企業幹部や弁護士、医者、教師などのインテリ層からなっていた。時折政治的に敏感な話題をも含めて、知識人層を対象として文字通り、南方に向かって開かれた窓の役割を果たした。鄧小平が深?経済特区を視察して「経済特区は改革開放の窓である」と語ったのは、1984年春節のことだが、この窓論が雑誌名の源泉と思われる。
 このグループは『信息時報』(情報)、『足球報』(サッカー)、『?週刊』(ビジネス誌)、『老人報』などを出版し、多角化に努めている。
 広東省ではさらに『羊城晩報』グループがあり、『新快報』『民営経済報』などを出版している。かつては『羊城晩報』が広東の市民たちから愛読されたが、いまや『南方都市報』と『広州日報』の大衆化路線に挟撃されて苦戦しているように見受けられる。
『南方周末』旧ソ連解体10周年特集記事
写真:『南方周末』旧ソ連解体10周年特集記事
 
『南方都市報』はダイアナ妃特集で売上げ倍増
写真:『南方都市報』のダイアナ妃特集(その1) 写真:『南方都市報』のダイアナ妃特集(その2)
 
『南方都市報』は孫志剛事件も詳報した。
2003年4月25日付
『新京報』創刊号エイズの子を抱えるクリントン大統領
2003年11月11日付
写真:『南方都市報』は孫志剛事件の記事  写真:『新京報』創刊号エイズの子を抱えるクリントン大統領
 
張芸謀監督の新作『単騎、千里を走る』の高倉健
2004年12月8日付
世界ミスコンで中国娘大活躍
2004年9月7日付
写真:張芸謀監督の新作『単騎、千里を走る』の高倉健  写真:世界ミスコンで中国娘大活躍
 
南方報業集団の機構一覧
写真:南方報業集団の機構一覧
 
 

               
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