第20号 2006.3.6発行 by 矢吹 晋
    二月二八日に、藍博洲著『幌馬車之歌』(増訂邦訳版)を
読む---日本人の台湾認識の軽薄さを嘆く
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 まだお会いしたことのない畏友・横地剛から知らせが届き、まもなく男一匹、草のような風のような本屋を営む内川裕から、宅急便が届いた。老母の介護をしながらできるのは、本を読むことだけだ。今日はまさに二月二八日。故戴國煇、故劉進慶のこと、藍博洲の鼻息、私の鄧小平路線擁護論を聞いて悲しそうな顔をした陳映真の顔、そして林書揚の皺などを想起しながら、書いた。江沢民の台湾政策なかりせば、今日の日中関係の閉塞状況はなかったはず。国民党に向かうべき「2・28の亡霊」を共産党に向けたのは、江沢民の失政にほかならない。
写真:戴國煇 写真:劉進慶
劉進慶
写真:陳映真
戴國煇 陳映真
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 侯孝賢監督の「悲情城市」は、たいへん分かりにくい映画であった。2・28事件を知らないからではない。実は私は1957年からこの悲劇を知っていた。四谷駅前にあった主婦会館で、「台湾亡命政府臨時大統領廖文毅」(?)のアジ演説を聞いて、驚いたことを今でもよく記憶している。浪人中のことで、知的刺激に飢えていたからだ。その後大学で中国語をかじり、台湾を初めて旅行したのは1969年であった。街頭の至る所で戒厳令下の憲兵の姿に接して緊張し、「2・28事件以来の戒厳令」という説明に、改めてこの事件を想起したことであった。
 さて件の2・28事件を扱ったという映画「悲情城市」を見て、正直のところ、画面のつながりがよく分からなかった。時は台湾映画ブームであり、いくつかの映画評などによると、分かったような、もっともらしい解説ばかり。私はいささか落ち着かない気分であった。
 1997年の夏休みを私は台湾で暮らした。「台湾客家の中原意識」を研究テーマに選んだ。「経営大台湾、建設新中原」のスローガンに触発されたものだ。台北郊外新店の国際学舎に落ち着いて間もないある日、故戴國煇が私に客家のルポライター藍博洲の電話を告げて、会うように勧めてくれた。早速あるケーブルテレビの応接室にロケから戻ったばかりの彼を訪ね、連れ立って近くの陜西レストランに出かけた。以下は旧稿の一部である。


 台北で知人〔後日の注記。むろん戴國煇を指す。当時彼は李登輝の国家安全会議顧問であり、『共産青年李登輝』の著者藍博洲の名をここで出すのを控えた〕の薦めで偶然、藍博洲と会ったが、私はこの名前さえ知らなかった。会って驚いたのは、先方が私の名を知っていたことである。私の『毛沢東と周恩来』(講談社現代新書)の台湾海賊版に「序文・藍博洲「中国近代史的両個幽霊--毛沢東和周恩来」」を書いた男であった(矢吹晋著、魏珠恩訳『毛沢東与周恩来』台北・倉頡出版社、九三年三月)。小著のもう一方の海賊版は現物を見ていたが、「藍序本」は存在さえ知らなかった。
 藍博洲は陝西料理を出す、文革期をなつかしむような、台湾青年のサロンとおぼしきレストランに私を案内し、他の仲間とともに飲みかつ食いながら、雑談した。彼から、九七年春に福岡を訪問した話と「福岡の友人」が訳したという『藍博洲・幌馬車の歌』(横地剛ほか訳、福岡・藍天文芸出版社、九七年三月)をもらった。この質素な造りの訳本を読んで、驚き、真偽を確かめたくなった。そこで早速、藍博洲『幌馬車之歌』(時報文化出版、九一年六月初版、九七年一月八刷)を求め、帰国後、田村志津枝著『悲情城市の人びと』(晶文社、九二年初版、九七年六刷)を求めた。


「藍博洲・幌馬車の歌」の表紙
「藍博洲・幌馬車の歌」表紙
草風館のホームページより


 田村のルポ『悲情城市の人びと』は、事情を知らずに読めば、面白い本である。ベネチア・グンプリに輝いた映画で歌われた一九三二年、一九三五年発売の満洲に関わる日本製「幌馬車の歌」を二・二八事件(一九四七年二月二八日)で銃殺された政治犯が歌ったのはなぜか、そこにはどんな秘密が隠されているのかを解くために著者が台湾各地を旅する話である。
 映画の感動的なシーンにまつわる話を折り込みながら映画のヒーロー鍾浩東の未亡人である蒋碧玉女史を探すことで終わる。よく構成された本であり、一気に読める。六刷まで版を重ねた理由もよく分かる。
 ところが、である。この歌の秘密は、藍博洲の手紙「致田村志津枝小姐」(原載八九年一二月二五日『自立副刊』、のち『幌馬車之歌』に所収)ですべて解かれていた。田村は「既知」をあたかも「未知」のごとく扱うフィクションの旅を続けたことになる。これはかなりシラケル話ですね。
 この事情を横地剛は以下のように告発している。
 「田村は自著でも藍博洲の手紙を完全に隠蔽している。また、このほかにもいくつか作為の跡がみられる。それは侯孝賢が藍博洲の『幌馬車の歌』をよく知らないように見せかけていること、『幌馬車の歌』の内容を伏せ、その一部を恰も自分が発見したかのようになぞっていることなどである。これらの作為なしにはこの本(『悲情城市の人々』)は成立しない」。
 私は横地のこの告発の口調に驚いて、関連箇所を読んでみたが、「横地の告発は正当である」、というのが私の判断である。私自身は、田村の本は、これしか読んだことがないので、彼女がなぜこのようなfakeをやらかしたのか、その間の事情はまるで分からない。察するに、侯孝賢ブーム、悲情城市ブームに「悪のり」したのかもしれない。これは読者をあざむくものであろう。同時に「映画の原作者」に相当する藍博洲の問題提起をすり替えることに、許されないであろう。
 このような欠陥をもつ本を通じて、台湾の心を理解したつもりになっている日本人の台湾ムード、台湾贔屓に危うさを感じざるをえないのである。
 台湾で戒厳令が解除されたのは八七年七月のことである。ドキュメント「幌馬車の歌」が陳映真の主宰する『人間雑誌』に掲載されたのは八八年八月と一〇月である。これは八九年一〇月二四日夜、舞台劇「幌馬車の歌」として民衆劇団「人間」によって上演された。映画『悲情城市』の記者会見が台北の来来飯店で行われたのは、八九年一〇月一八日であり、東京では九〇年春に上映され、話題となった。私も当時、見ているが、意味不明のシーンが少なくなく、理解できない箇所が多かった。その疑問が藍博洲の解説を読むと、よく分かる。戒厳令解除直後の台湾政治のなかで、最大のタブーに挑戦するための戦術なのである。映画は四五~四九年の台湾史だけでなく、五〇年代の左翼粛清(山村工作隊)をも描いている。にもかかわらず、字幕は国民党が大陸で敗北し台湾に撤退するまでの話としているのは端的な一例である。
 「幌馬車の歌」について藍博洲はいう。天安門事件当時、「インタナショナル」(国際歌)を歌った中国の学生たちが「国際主義者」であるとは限らない。「幌馬車の唄」を好んだ者が「日本軍国主義」の信奉者とは限らない。「幌馬車の唄」は日本が侵略行為を行った三〇年代に流行したにせよ、植民地台湾では、純然たる送別の歌に浄化された。ちなみに未亡人・蒋碧玉は「西洋の歌」(スコットランド民謡?)と思い込んでいた。
 台湾の映画監督・侯孝賢は、一方で「台湾人の尊厳を撮ろう」とし、他方で「中国の風格を備えた映画を撮ろう」とした。二つの間のアイデンティティの矛盾と重複の構造によって侯孝賢は引き裂かれている。では『悲情城市』は、そもそも何を語ろうとしたのか。「二・二八事件」説、「台湾のヤクザ一家の物語」説、「ヤクザ一家を通して四五年から四九年までの台湾の戦後を描いた」説、さまざまである。
 ここで「史実としての二・二八事件」と「映画に描かれた二・二八事件」との整理学が必要である。1.戒厳令のもとで史実としての悲劇が隠されていた。2.史実を聞き取りによって掘り起こした藍博洲の記録がある。3.このドキュメントを読んで触発され、イメージ化した侯孝賢の映画がある。3者の整理のためには、映画に描かれた登場人物や事件などから、その歴史を取り出す。さらに史実をもう一度映画に戻す。こうして初めて、歴史的真実と映画的真実の腑分け、議論の整理が可能になる。
 たとえば、映画の「何記者」は何康がモデルであり、彼は『大公報』記者であった。「林先生」のモデルは鍾浩東その人だ。彼はインテリのオピニオンリーダーではあっても、主要な登場人物ではない。映画の「林先生」は二・二八事件で「失踪する」が、歴史上の鍾浩東校長は五〇年一〇月に「処刑」されており、この間三年の時間差がある。『悲情城市』を見ようとする観客は(侯孝賢ファンを除けば)、ほとんどが「二・二八」がどう描かれているかを見にやってきた。そこで「体験した二・二八」と「映画の二・二八」とのギャップに話題が集中した。
 二・二八事件とは何かについての解釈も分かれる。一つは共産党煽動説だが、当時の台湾共産党は党員わずか七〇余にすぎなかった。これであれだけの騒乱を計画できるだろうか。次は日本帝国主義の奴隷化政策説(あるいは移民族侵略説)。台湾の人々は「日本の奴隷化政策」のゆえに、祖国を蔑視する偏見をもつに至った。そこで祖国の兵士を「異民族侵略と誤認して抵抗した。最後に、台湾独立運動説。これらの俗説を排して、藍博洲は林書揚の説を引いて「公正な論調」とは、つぎのようなものと説明する。
 陳儀による政権接収、駐留軍による権力を乱用しての汚職、治安の混乱、それに台湾の人びとの歓迎から失望、失望から怒りへと変化した被害者心理が加わり、その両者が上下にぶつかりあった結果、ヤミたばこ取り締まりの衝突が起こる。それは「役人の抑圧に耐えかねた民衆が反逆に立ち上がった」典型的な事件であり、二・二八の流血の悲劇は民衆が追い詰められた結果引き起こされたものである」(林書揚「二・二八的省思」『従二・二八到五〇年代白色恐怖』時報文化出版、九二年)。
 侯孝賢が「幌馬車の歌」を選んだのは「二人の獄友が再び帰らぬことを表すだけでなく、インテリたちの国民政府に対する失望と幻滅を映し出す」ためであった。しかし、この歌の登場が突飛であったために、「囚人はみなこの歌を歌った」かのように誤解させることになった。これはやはり侯孝賢の二・二八事件および「五〇年代の白色テロ」に対する認識不足を示す。これが藍博洲の結論である。映画の原作者による映画解説であるから、これほど分かりやすいものはない(旧稿「映画「悲情城市」と田村志津枝著『悲情城市の人びと』」『蒼蒼』98 年 2月10日を一部修正)。


 私自身は当時、横地剛監訳の旧邦訳版と『幌馬車之歌』中文版を眺めながら、ようやく原作と映画の関係を理解したのであった。戒厳令が解かれたばかりの状況のもとで侯孝賢はあえて「虚実を重ねて」2・28事件の真実を台湾の人々に伝えようとしたわけだ。
 さて増訂新版は原文・邦訳ともども、とても読みやすい本になっている。とりわけ著者・藍博洲は「後記」で次のように補足している。
 「1.客観的に政治タブーが存在し、2.話し手の心には白色テロの被害が暗い陰を落としている。この二重の制限がある以上、歴史事実全体を再構成するには一定の時間が必要である。このため私の「鍾浩東探し」の旅は『幌馬車之歌』の発表によって終わることはなかった。むしろ両岸関係の緊張緩和に伴い、探訪の足跡は海峡を越え、広東省恵陽、梅県、蕉嶺、韶関、南雄、始興、羅浮山区から桂林、北京など各地に及び、そこで私は歴史の現場を確かめ、史料収集に励んだ」。「島内の政治タブーが緩むのにしたがい、話し手のなかの数人にも、それまで語ることをためらっていた内容について全面的な証言を行う空間が確保された。こうして本来探訪しえなかった、あるいは名を出すことが憚られた歴史の証人と加害者についても、今回はさまざまな方式を以て、彼らが体験し、あるいは彼らが知り得た歴史について、貴重な補充を行うことができた」。
 「『幌馬車之歌』増訂版は史料を改めて確認し、史料を充実させ、初版の三万余字、4楽章を、拡充して、六万余字、8楽章としたものである」「歴史としての真実性と文学としての読みごたえを兼ね備えるためにもともとの叙事形式を踏襲したうえで、史料を加え、証言の出所には注釈を、歴史背景には説明を加え、さらに関連年表を付した」「これは『幌馬車之歌』は、小説なのか、歴史なのかという論争に答えたものだ。『幌馬車之歌』は歴史であり、小説形式を兼ね備えた非虚構性の文学作品である。正確に言えば、理想主義を抱く歴史と人物を素材にした報告文学とすべきであろう」(242ページ)。
 以上が藍博洲の増訂版後記である。今回の邦訳は、原文を忠実に訳しており、『幌馬車之歌』決定版と評してよい。著者、訳者、出版社の努力に敬意を表したい。
  

               
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