第24号 2006.7.6発行 by 矢吹 晋
    失地農民

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 中国報道の第1線で活躍している『東京新聞』清水美和記者(よしかず、と読む。ミワさんではない)記者から、「失地農民」の問題について、ご教示を受け、『世界週報』(7月4日号)に書いたので、それを採録しておきたい。中国版エンクロージャー騒動は、イギリスで「羊が人を食う」話とは違っていて、「人が人を食う」話である。
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 現代中国語に「信訪xinfang」という言葉があり、「信訪人」「信訪工作」「信訪部門」と続けて使われることが多い。二〇〇五年に修正された「国務院信訪条例(五一カ条)」もある。辞書には「人民大衆が役所に手紙を書き、来訪すること」という説明がある。大衆はなぜ、どこへ手紙を書き、訪問するのか。国務院には国家信訪局があり、各省レベル政府にも、各市にも、この役所がある。そのホームページを開くと、「国内大衆と外国人士が来信来訪して問題を処理すること、来信来訪において提起された重要な提案や意見、そして問題を上級に報告すること、といった任務が説明されている。いわばもろもろの苦情処理受付機関である。日本の鎌倉・室町時代には「越訴奉行」という過誤判決の救済機関があり、百姓一揆も「越訴」の一つであった。江戸時代には「徒党強訴」「駆込み訴え」などの「直訴」は厳禁されていた。中国の農民が集団で北京にやってきて、裁判のやり直しや、地方幹部の不正を訴えるのは、まさにわが「直訴」のイメージだ。日本の直訴理由は、凶作年における年貢減免などが多かったが、中国の「信訪」で目立つのは「失地農民」、すなわち「土地を失った農民の陳情」騒ぎである。一説によると、その数はおよそ四〇〇〇万人であり、毎年二〇〇万人ずつ増えている(高勇「土地を失った農民はどのように生活しているか」『人民日報』二〇〇四年二月二日)。別な論者によると、「一九八七年から二〇〇一年にかけて、全国で非農業用建設のために一六〇万ヘクタールの耕地が転用され、少なくとも三五〇〇万人の農民が土地を収用された(崔砥金ほか「土地を失った浙江省農民を救え」『半月談(内部版)』二〇〇三年九期)。これらは「合法的な土地収用」だが、ほかに違法なケースがあり、合法分の二~三割、はなはだしい場合には八割に達する。違法部分を含めると、実際の転用農地は約二九五万ヘクタールだ。一人当たりの土地所有を平均五アールとすれば、五五二五万人の土地が失われた計算になる(廖小軍『中国失地農民研究』社会科学文献出版社、二〇〇五年一一月、九八ページ)。この数字は、もともと保有していた土地を失ったケースである。さらに中国農村には、「黒戸」と俗称される人々、すなわちもともと戸籍の登録されていない人々がいる。一人っ子、あるい長子が女児の場合は二人まで、といった人口制限政策に違反して子供をつくった場合には、戸籍登録が許されないケースが多い(ただし、罰金を払うことによって、登録を許されるケースもある)。こうして、正式の戸籍には登録されないが、実際には存在している農村の人々を加えると、「土地なき農民」は実際には、六〇〇〇万人を超える(廖小軍『失地農民』九九ページ)。では、今後の見通しはどうか。現在の都市化、工業化の進展から推測して、今後の土地収用は毎年平均二〇万ヘクタールの見込みであり、これは一人当たり四・六アールで計算すると四二九万人分の土地が毎年失われることを意味する。こうして一〇年後には、土地を失った農民はおよそ一億人の大台を突破する計算になる(宋斌文「都市化過程における失地農民の問題を論ず」『中国労働保障報』二〇〇三年一一月一三日)。

「失地農民」にやさしい都市化を訴える『人民日報』の記事
「失地農民」にやさしい都市化を訴える『人民日報』の記事(2003年9月18日)


 一九九〇年代から中国各地で始まった開発区作りブームで、その数は一時は八〇〇〇余に増えた。現在正式に認められている三八三七箇所の開発区の総面積は三・六万平方キロであり、これは台湾と海南島の面積よりも大きい(李曄ほか「専門家が失地農民のために弁ず」『解放日報』二〇〇三年九月八日)。国務院が認可した『一九九七~二〇一〇年全国土地利用総体規画綱要』によれば、二〇一〇年までに一二三万ヘクタールの耕地を非農業用に転用する予定だが、このうち九割以上は農村の「集団用土地」である。これを一人当たり平均保有面積で計算すると、一二〇〇万の農民の土地が収用されることを意味する。国土資源部がまとめた研究『二一世紀我が国の耕地資源の展望および保護対策』の指摘によると、二〇三〇年までに建設用に転用される耕地は、毎年平均一二万ヘクタール以上であり、二〇年間では二四〇万ヘクタールに達する。こうして今後三〇年間に、新たに三六三万ヘクタールの耕地が失われ、失地農民はさらに七八〇〇万人が増える計算だ(崔砥金ほか同上)。
 改革開放政策の導入以後、工業化と都市化のために、各級政府が農民の土地を安く収用して、それを高値で売却したが、そのために農民が蒙った損失は二兆元に上る。これは農産物が相対的に安く、工業産品が相対的に高いことに起因する工業農業産品の不等価交換、すなわち「鋏状価格差」によって、農村から都市へ移転された所得六〇〇〇~八〇〇〇億元よりも大きく、著しく農民の利益を損なったとする推計がある(王海明「広東土地の権威ある報告」『経済管理文摘』二〇〇三年五期)。中国でいま猛烈な勢いで進展している工業化、都市化の中で農地が大量に転用されていること、そこで土地を失った農民が大量に生まれることは容易に推測できよう。農業用土地が他の目的に転用されること自体を非難するのは、妥当ではあるまい。問題の一つは、農民に対価を払わない収用であり、厳しく制限すべきだし、関係者を処分すべきだ。もう一つは、「土地なき農民」に、雇用を用意できるかどうかだ。私は九〇年代初めに、江蘇省崑山市の開発区をいくどか参観した。そこには台湾資本が大規模に進出したこともあって、雇用労働者として大量に採用されたほかに、開発区のニーズを支えるさまざまのサービス業のために、「元農民」が雇われ、働いていた。これらを手配し、かつフォローアップを続けていた元人民公社幹部の采配ぶりに感動した記憶がある。その後、農民を騙して土地を巻き上げ、代価を支払わない悪徳腐敗幹部の話が少なからず聞こえてくる。モノマネ開発区ブームであり、開発区に名を借りて農民から土地を没収する構造腐敗の物語だ。農民の直訴に耳を傾けないと体制が危うくなる。
 

               
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