第27号 2006.10.4発行 by 矢吹 晋
    安倍訪中の舞台裏を読む

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 安倍訪中については、さまざまの憶測が流れているが、『毎日新聞』(2006年10月4日)の報道が分かり易い。タイトルは「日中会談:”8日”日本が打診、中国受け入れ後、訪韓提案」である。
 『毎日』によれば、9月23~26日に東京で開かれた日中外務次官級の「総合政策対話」で日本側が首脳会談の開催日を8日に特定して打診した。中国側は首脳会談「再開の条件」として首相の「靖国神社参拝自粛」を求めつつ訪中案を、ひとまず持ち帰った。
 持帰りの背景を示すものは、26日午後の中国外交部秦剛スポークスマンの次の一言である。
 「報道によると、東京で行われた中日戦略対話の期間に、日本側は中国側に安倍首相の靖国神社に対する態度を説明し、この問題を政治化することを避けるために、参拝の是非を明確に表明することはしない、と説明した」と述べた。
 確かに安倍氏は8月3日に4月の参拝をリークしつつ、「参拝するかどうか、参拝したかどうか」を公表しない、いわゆる曖昧戦術を繰り返してきた。これは明らかに、参拝の「有無」を問題にする中国側の要求に対して、「有無」に直接答えることを避けて、「有」にせよ「無」にせよ、これを敢えて声高に叫ばない点で、小泉前首相の騒動を繰り返さない。鎮静化を意図したことは明らかであった。しかし保守回帰を強く示唆する安倍氏の立場から見て、靖国参拝の可能性は強いと見られていた。つまり黙って参拝し、事後に公表する作戦である。
 この文脈で、戴秉国次官は8日会談案に即答せず、帰国したわけだ。
 秦剛スポークスマンは、さらに安倍首相と胡錦濤主席との首脳会談が年内に行われるかどうか、その条件を問われて、「首脳会談の時期と条件の問題は、これまでに幾度も立場を明らかにしてきた。この立場に変化はない」というものであった。
 ここでいう「この立場」とは、具体的には、3月31日に胡錦濤が橋本元首相を代表とする日中7団体の代表に語ったものである(この欄の4月号を参照)。「日本の指導者が靖国神社を参拝しないという明確な決断を行いさえすれば、私は会う用意がある」。つまり「靖国不参拝」の「決断」が条件であった。この経緯からして、中国側の求める首脳会談の条件は明確であった。
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 他方、安倍首相の側からすると、「靖国不参拝」の「決断」を公言することは、メンツからして不可能だ。だが「靖国不参拝」の「決断」を公言することはしないが、胡錦濤に直接小声で語ること、すなわち、事実上参拝しない意向を伝えることは可能であろう。参拝を要求する右派に対しては、「適当な時期を判断する。未だその時期ではない」と説明すれば、足りるからだ。となると、安倍が公言はしにくいが、「事実上の参拝とりやめ」を来年のいつごろまでと見るかが一つの焦点になる。秋の共産党大会まで、参拝をとりやめれば、胡錦濤のメンツは最小限たつ。麻生外相は、北京から帰ったらすぐ靖国へいくようなことはない、と語ったが、このあたりが以心伝心なのであろう。
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 さて戴秉国次官の持ち帰った安倍メッセージに対して、「胡錦涛の決断」として「9月28日」までに中国は「安倍訪中受け入れ」を回答した。
 『毎日』は28日までにと書いているが、27日の麻生外相のインタビューを読むと、非公式には、その少し前に「内諾」を与えていたフシが濃厚だ。
 ちなみに麻生外相は27日に『読売新聞』などのインタビューに対してこう語っている。
 「10月、日中首脳会談をどこかでやりたい。安倍首相の訪中を視野に入れ、いろんなことを考えないといけない。首相が代わった時が、いいタイミングだ」(『読売新聞』9月27日)。
 この前日、温家宝首相は26日に国会で選出された安倍首相に恒例の祝電を送っている。となると、戴秉国次官は安倍首相就任を見届けて、帰国したことが理解できよう。
 こうした経緯、すなわち中国の事実上の安倍訪中受入れ内諾を踏まえて、日本側が「韓国とのセット訪問」を打診し、韓国も受け入れた経緯が透けて見える。
 私は当初、韓国と話合いをつけて、その雰囲気で中国を巻き込むものと見て、その芝居はありえないと見たが、事の順序はやはり、中国から韓国へ、であった。
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 これまでは小泉田舎芝居の終わり、の安倍一座の始まりに即してみてきたが、受入れ側の胡錦濤サイドの事情はどうか。ここにも実は、一種の権力交代があった。胡錦濤が江沢民の軛を脱した政治劇である。
 9月25日、私は外出先である知人の電話を携帯で受けた。彼が私を携帯で呼び出したのは、初めてのことだ。その日、私はホテルオークラにいたが、話は陳良宇書記の解任であった。ホームページの先月のコラムで「汚職まみれの上海幇」のことは、すでに書いていたから、上海に対する中央紀律検査委員会の手入れが進んでいること、この検査チームは江蘇省に臨時事務所を置いているとの風聞も耳にしていた。ところが、その後入ってきたニュースは上海衡山馬勒別墅飯店(Hengshan Moller Villa 陜西南路30号)に紀律検査委員会が臨時の調査事務所を設けたという話。それを聞いて、この摘発は茶番か、曖昧に終わるのか、と感じた次第である。つまり上海幇が守りを固める江沢民司令部の一角に乗り込んだところで、逆に封じ込められてしまうことは明らかではないか。ところがこれは陽動作戦にすぎなかった。実は江蘇省と上海市へ表裏二つのチームを派遣していたらしい。

写真:moller villa
moller villa
 
 未確認情報だが、今回の陳良宇書記解任劇は、1976年当時の上海幇解体と似たところがあるとさえいう。つまり、作戦行動の主役は江蘇省書記の李源潮書記だ。
 
写真:李源潮江蘇省書記
李源潮江蘇省書記、共青団出身
 
江蘇省書記李源潮の経歴
1950年11月生まれ、江蘇省漣水出身。
1982年、復旦大学・数学部卒業。
1986年、北京大学・経済管理修士学位を取得。
1998年、中央党校・法律学博士の学位を取得。
1983年から共産主義青年団・中央書記処書記、全国青年聯合会・副主席、国務院新聞弁公室一局局長を歴任。
1993年、中国共産党中央対外宣伝弁公室・副主任に任命。
1993年5月~1996年3月、国務院新聞弁公室・副主任を担当。
1996年3月~2000年10月、文化部・副部長を担当。
2000年10月、中国共産党江蘇省委員会・常務委員、副書記に就任。
2001年10月、中国共産党江蘇省南京市委員会・書記に就任。
2001年11月、中国共産党江蘇省・第10期委員会第1回全体会議にて中国共産党江蘇省委員会・常務委員、副書記に選ばれる。
2002年12月、中国共産党江蘇省委員会・書記に就任。 中国共産党第16期中央候補委員、第7期全国政治協商会議・常務委員、第8期、第9期全国政治協商会議委員。
 
 李源潮書記が胡錦濤の密命を受けて、江蘇省の武警部隊を上海に派遣して、陳良宇書記を逮捕し、直ちに北京に身柄を送り届けた模様だ。上海市党委員会常務委員・公安局長の呉志明は江沢民夫人の甥だという。このような形で守りを固める上海幇退治に、李源潮書記が胡錦濤の意を体して大活躍したというから、まさに1996年の四人組逮捕劇の二の舞のような大活劇だ。
 先月のこのコラムで私が書いたのは、黄菊――祝均一のラインの汚職だが、実はこれも陳良宇書記を騙す作戦であったようだ。黄菊は政治局常務委員として現職であるとはいえ、基本的にはもはや過去の人だ。これに対して陳良宇書記は、93年には温家宝のマクロ・コントロール政策に公然と異を唱え、江沢民の権威を傘に着て、上海独立王国の勢威を誇示した。近くは、昨年の反日デモがある。胡錦濤は北京デモの直後に、騒乱取り締まりを厳命した。その直後に上海市で北京の偶発デモを上回るデモが発生したのは、上海市当局が取り締まりをやらなかったからであり、これによって胡錦濤に揺さぶりをかけたと見るのは、チャイナ・ウオッチャーの常識であった。しかも江沢民は反日デモがひとわたり済んだ後、敢えて南京の抗日戦争記念館を訪問し、デモ関係者を鼓舞するかに見える行動をとっていた。
 私はこのような上海幇の傍若無人に対して、かつて北京の陳希同書記を解任したように、上海幇退治をやらないと胡錦濤の権威は固まらないと、指摘してきたが、胡錦濤がようやく動いたわけだ。
 
陳希同
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
陳希同(ちんきどう、陈希同1930年6月 - )は、中華人民共和国の政治家。四川省安岳県生まれ。
1948年、18歳で北京大学中文学部入学(中退)、1949年12月に中国共産党入党。以来、北京市での工作に携わる。1953年から劉仁・北京市党委第二書記の秘書を務めていた経歴から「旧市委」の人間とみなされ下放される。1971年に復帰し昌平県党委書記。
1979年12月北京市の副市長、1981年9月北京市第4期委員会常務書記、1982年の十二大で中央委員に当選。83年北京市長、87年北京市党委員副書記、88年国務委員。第7期全人代常務委員会第8次会議では、1989年6月の天安門事件については戒厳令を支持し、学生たちの鎮圧を実行した。『動乱と反革命暴乱を制したことに関する状況報告』では6月3日に「数千台の装甲車、数万人の軍人、警官を出動させ」、「反革命暴乱を鎮圧した」という詳細な報告を行っている。92年10月の十四大で中央政治局委員、12月北京市党委書記。
1995年4月4日、汚職の審査を受けていた王宝森・常務副市長が自殺し、27日に監督責任で市党委書記を辞任する。その後、陳自身にも汚職の疑惑がかけられ、9月の中共第14期五中全会で中央政治局委員、中央委員の職務を解かれ、全人代の職務を罷免される。
1997年8月29日、中規委に党籍を剥奪される。1998年7月31日、一審の北京市高級人民法廷は汚職と職務怠慢で懲役16年を下す。政治局委員としては1981年の四人組以来となった。北京市長、市党委員書記だった91年から94年にかけて企業から55万5千元相当の高額品を受け取り、高級別荘の違法建設に3521万元の公金を使ったとされている。いわゆる長城公司事件と呼ばれるものである。
陳希同は天安門事件で功績が大きかったものの総書記には江沢民が選ばれ、彼が上海から朱鎔基や曽慶紅など腹心を次々と引き上げたのに対し、陳には全く論考行賞が無く、江沢民ら中央を無視した行動が多く、事実上の「北京独立王国」を潰す政争に敗北した結果だったという見解が一般的である。北京市党委書記は江沢民に批判的な陳希同が失脚した後は中規委書記の尉健行が兼任し、江沢民派の賈慶林に任されたことからもうかがえる。
2006年7月、ガン治療のため保釈されたと香港紙に報じられる。

 胡錦濤路線がこうして固まるのは歓迎すべきだが、このようなクーデタまがいの政治劇なしには、権力交代ができないことは、中国政治システムの貧困を示すものであり、厳しい批判を浴びないわけにといかない。共産党がこのような形でしか自らを管理できない病根を示す端的な例なのだ。
 ともあれ中国にとって対日政策は、江沢民路線と胡錦濤路線とを腑分けする試金石あるいは争点になっていた。したがって上海幇の崩壊は、胡錦濤が対日政策においてフリーハンドをもつことを意味する。このような中国側の政治劇がたまたま安倍内閣の成立と重なった。この意味で、まさに麻生外相のいうように「いいタイミング」であった。
 こうして滑り出した安倍首相と江沢民の軛を脱した胡錦濤が首脳会談に望む。「靖国へ行く、行かない」は、いわば象徴的な行為であり、肝心の内容は「歴史問題の認識」である。安倍訪中において、歴史問題を語り合い、共同声明が予定されているという。そこでどのような対話が行われ、どのように表現されるか。そこを注視したい。
 

               
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