「とっぴな話になるが、飛沫感染の起こりにくさに日本語の発音の特徴も関係しているという、次のような仮説を考えた。これはSARS流行時に、中国専門家の矢吹晋・横浜市立大学教授に中国の状況についてうかがったときの会話のなかで生まれたものである。
英語・中国語には有気音がある。有気音とは、p・t・k(中国語ではさらにq・ch・c)の破裂音のあとに母音が来ると、息がはげしく吐き出されることをいう。口の前にハンカチをたらしておくとそれがめくれ上がることで分かる。息を出すときウィルスをふくむ飛沫もとびだすだろう。
いっぽう日本語では、p・t・kは息を出さない無息音として発音される。しかも日本語ではp音はあまり使われていない。ハ行音は、奈良時代p音だったのがのちf音に変わり、いまはh音になっている。現在、パ行音は外来語か擬声語・擬態語に使われるだけである。
米国人旅行者が中国で土産物屋に入ったとき、店員は英語で話しかけ、日本人旅行者には日本語で話しかけるだろう。もし店員がSARSウィルスに感染していて、まだその初期で咳をすることなく仕事をしていたとすると、英語を喋ればウィルスを飛沫でとばすが、日本語では飛沫は少ないだろう。
この仮説は世界中で誰も考えていないだろうから、どこかに発表しようと英国の医学週刊誌『ランセット』の通信欄に投稿してみた。驚いたことに、わずか一週間後に校正ゲラ刷りが届いた。いまは電子メールが使われ、さらに通信欄は編集者が掲載の可否を決めるので、返事が早かったのだ。ゲラ刷りはプリントアウトし、校正して署名したものをファクスで送り返すようになっている。
掲載されたのは2003年7月12日号だったが、冬になってSARSが再来するかどうかが話題になったとき、この仮説が日本の週刊誌で話題にされた。また、英国の週刊誌『教育ガーディアン』(2004年1月20日号)のコラムにも取りあげられた。その執筆者はノーベル賞のパロディ「イグ・ノーベル賞」の主催者M・アブラムス氏。イグ・ノーベル賞は「」人びとを笑わせ、そして考えさせた」研究に授与されるとのことで、日本人では「犬語翻訳機バウンガル」の発明者やカラオケの発明者がもらっている。アブラムス氏は、世界中が日本語を使えばSARS問題はなくなると茶化した。この記事のあと、言葉好き、物好きの外国人がネット上で議論を交わしたが、それを読むのは愉快だった。
じつはいま私は、上記仮説はSARSには当てはまらない、と考えている。前述のように、病院外でのSARSの伝播は飛沫よりも手によるものが主だろう。しかし、SARS以外の感染症のいくつかには当てはまるかもしれない。たとえば、髄膜炎菌による髄膜炎はむかし日本でたくさんあったのだが、最近は非常に少なくなっている。この菌はヒトの口のなかに棲んでいる。菌がいても咳は出ないので、伝播は、喋るときに出る飛沫、および口から手へ、手から口への経路で起こると考えられている」(34~36ページ)。
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