第32号 2007.4.6発行 by 矢吹 晋
    中川涼司著『中国のIT産業』
(ミネルヴァ書房、2007年)に学ぶ
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中川涼司著『中国のIT産業』の表紙
中川涼司著『中国のIT産業』(ミネルヴァ書房 2007年) 表紙
 
 
 畏友中川涼司教授の新著に接して、深い感慨を禁じ得ない。「士は三日会わざれば、刮目して待つべし」を実感したからである。古人は三日での大きな変化を強調したが、これが10年となると、もはや言葉のアヤではない。中国IT産業の急成長とともに、中川教授の飛躍した姿をこの本に見ることができるわけだ。
 中川教授はいまから10年前に中国社会科学院工業経済研究所の客員研究員として北京に滞在した。そのとき彼は中国のコンピュータ産業に注目し、以後一貫してこの分野の諸問題を追求してきたが、その成果がこのような形でまとめられた。当時、私は学生の助力を得て個人のホームページを立ち上げたばかりであった。中国研究を業とすることからして、中国のコンピュータ産業にも注意を払い、さまざまな機会に若手の、情報通の中川さんから教えを仰ぐことが多かったが、それらはいつも断片的な業界事情にとどまり、その豊かな知識に感心することはあっても、それ以上のものではなかった。しかし今回モノグラフに接して、廬山の真面目に接した思いがする。
 本書は序章「分析フレーム」の検討に始まり、
 第Ⅰ部 中国の経済成長方式転換を巡る理論時期、
  第1章中国の経済成長方式転換を巡る中国内外の議論とIT産業
  第2章経済学モデルと経済成長モデル
  第3章「重化学工業段階」・「新型工業化路線」論争の意義
 第Ⅱ部 中国のIT産業と情報化の発展構造、
  第4章 中国IT産業の歴史的発展構造
  第5章 中国IT産業の労働、資本、技術、輸出入の構造
  第6章 中国経済の情報化と経済成長方式の転換
 第Ⅲ部中国IT産業諸領域の発展構造と課題、
  第7章 聯想集団の発展と転換点
  第8章 中台半導体産業と両岸関係
  第9章 中国電気通信業の発展過程と今後の展望
  第10章 中国における第3世代移動通信を巡る論争
 第Ⅳ部IT多国籍企業と中国、
  第11章 IBMとマイクロソフトの対中戦略
  第12章 対中サービス直接投資とITサービス
と議論を進めて、最後に終章で「中国IT産業の経済成長方式転換における意味」を考察して全体を結んでいる。
 用意周到な構成でIT産業論を中国の経済発展全体のなかに位置づけ、その理論的意味をも含めて考察したモノグラフであり、まさに知恵を象徴するミネルヴァ叢書にふさわしい。
 私が真っ先に読んだのは、第10章 中国における第3世代移動通信を巡る論争である。その動向を知りたいけれども、断片的な情報にしか接することのできなかった飢餓感を一挙に満たしてもらった感が深い。
 主として胡鞍鋼(中国科学院国情研究中心主任、清華大学国情研究中心主任)、闞凱力(北京郵電学院経済管理学院院長)、鄧寿鵬(国家信息化弁公室専家委員会副主任、中国信息化推進聯盟常務副理事長)ら三人を代表選手として行われた「第3世代移動通信」論争の論点紹介とそれらに対する中川教授のコメントは、問題の焦点を実に明快に剔抉している。
 ①いまや世界最大の移動通信ユーザーをもつ中国は、単に後からそれらを利用するだけではなく、開発や生産の試行錯誤にも加わるべきだ。それが世界にとっても中国にとってもいいことなのだ。
 ②時期の問題については、IMT-2000の技術はすでに成熟しているから、2008年スタートでよい。たとえ4世代への移行を考えるとしても、それは3世代=IMT-2000の規格を含んだものとして構築されるはずであり、特に問題にはならない。
 ③TD-SCDMAについては、中国政府としては開発と標準化に投資してきた手前、引くに引けない事情は分かるが、最大手の中国移動通信がW-CDMAを選択し、二位の中国聯通がCDMA-2000を採用するのであれば、やはり名誉ある撤退しかない(264-265ページ)。
 これらの技術選択の意味は、素人の評者にはよく分からないが、読者に親切な「テクニカル・ノート」が付されているのは、便利である(265-272ページ)。
 次に私がめくったのは、第8章「中台半導体産業と両岸関係」である。両岸の半導体産業の発展過程、近年の新たな展開と台湾側の大陸投資、大陸投資をめぐる国際政治経済学の動向が実に要領よくまとめられていて、実情が手にとるように分かるのはありがたい。
 第11章IBMとマイクロソフトの対中戦略も興味深く読んだ。ここで特に紹介しておきたいのは、NHK特集「世紀を超えて」(2000年10月22日放映)への苦情である。
 「これは中国政府等によるLinuxの普及の動きを紹介したものだが、紹介の仕方があまりにも極端で、視聴者にかなりの誤解を与えている。この番組を見たかなりの人が、中国政府はマイクロソフト社と全面的に対決し、WindowsからLinuxにむけて走り始めた、という印象を持っている。・・・それを鵜呑みにしたせいか、中関村で売っているPCのOSはほとんどがLinuxに換わったなどという大嘘を雑誌に平気で書く雑誌記者まで出る始末である。しかし、これは、中国がアメリカに対決して覇権を確立しようとしているという中国脅威論的視点から事実を一面的に紹介したものにすぎない。NHKは自社の影響力をよく考えて、もう少し慎重に番組作りをしてもらいたい」(301ページ)。
 このコメントは、私にとってたいへん印象深い。というのは、実は私もこの番組によってミスリードされた記憶をもつからだ。
 中国について、特にその新しい動向については、よく分からないことが多い。そのような場合に、根拠のない中国脅威論がはびこりやすい。根拠のない中国脅威論は、日本にとっても中国にとっても役に立たないだけでなく、日中関係を相互不信・疑心暗鬼の関係に引き込むだけである。中国側の間違いや勘違いについては、当然率直に批判してよいし、批判すべきである。それが研究者の責務であるべきだ。同時に根拠のない中国論についても、これを遠慮なく批判することが日中の相互理解を促進する道であり、研究者の責務である。
 中川教授の新著からいろいろ教えられたことが多いが、あえて一つ今後の課題としてお願いしておきたいことがある。
 中国経済であれ、どこの経済であれ、IT産業はそれ自体が独立した、自己完結的な産業ではなく、経済全体のなかでその役割を演じて、経済全体の情報化を通じてこれを牽引するという意味で、他の分野と不可分の関係にある事実である。なるほど著者はガーシェンクロン・シュンペーター・ジレンマを中心に理論状況の検討も試みており、これはこれで面白いが、中国の経済発展全体の今後の見通しをつけるうえで、中国IT産業との関係を考察してほしいという願望である。
 途上国の先進国へのcatching up過程の次には、「後のカラスが先になる」(後来居上)現象が続くことになる。このような大きな転換のなかでの問題を扱うに際して、IT産業は特殊な役割、位相を占めているように思われてならない。うまく表現できないのがもどかしいが、たとえば20年後の中国IT産業と中国経済全体との関係を想定するような大きな枠組での議論を期待したいのである。
 

               
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