第47号 2009.3.5発行 by 矢吹 晋
    恐慌下中国経済の根本問題
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 2年ぶりに香港をぶらついた。時事通信トップセミナーに招かれて、「世界恐慌下の中国経済と天安門事件20周年」について講演するためであった。前者については、いくつかの論点があるが、最も強調したのは、中国当局が2008年末時点で7000億ドルもの米国債を保有することは、中国の強みを示すというよりは、弱さの象徴だと見る観点であった。
 クリントン国務長官は、孫子の兵法から「同舟共済」の故事を引用して、債権国側に最大の敬意を表した。これは日本では「呉越同舟」の4文字で人口に膾炙している。呉越というカタキ同士が助け合うのはほほえましい光景だが、これがほとんど「泥舟」であることが問題の核心であろう。
 そもそも外貨準備とは、貿易が赤字に転じたときに、その差額を埋めるために必要なものであるから、通常は輸入額の3~4カ月分で十分だ。IMF, Direction of Tradeによれば、中国の2007年輸入額は8809億ドルで、香港から1402億ドル、日本から1102億ドル、EUから984億ドル、韓国から930億ドル、米国から652億ドル、台湾から624億ドル、アセアン4カ国(タイ、マレーシア、インドネシア、フィリピン)から608億ドルである。この輸入構造からすると、香港とは香港ドル、日本とは円で、欧州連合とはユーロで、韓国とはウォンで決済可能であり、8809億ドルの輸入代金の支払いの少なくとも半分4400億ドル相当分は、ドルを使わなくとも済む。半年分の備えを持つと仮定しても、2200億ドル程度あれば、支払いに事欠くことはない計算になる。
 中国はいま2兆ドル程度の外貨準備を抱えているが、現実の経済取引の需要から見ると、実際にはその1割で十分なのだ(話を分かりやすくするために、他の要素はさしあたり捨象して考える)。



表1 中国の輸入構造
単位億ドル  構成比
中国の輸入 8809 100
香港 1402 15.9
日本 1102 12.5
E U 27 984 11.2
韓国 930 10.6
米国 652 7.4
台湾 624 7.1
A S E A N 4 608 6.9
シンガポール 289 3.3
資料 IMF, Direction of Trade


 輸出競争力が強いので、ドルは自然に貯まる。無理に貯めたわけではない、とする反論が予想される。輸出競争力が強いのは、人民元が安すぎるからである。ドルが貯まりすぎないように、人民元レートを切上げる努力を怠ったために、ドルが貯まりすぎたのである。
 日本経済の復興過程を見ると、1964年にIMF8条国に移行して、経常収支レベルでの自由化を達成し、その9年後の1973年に資本取引レベルでの自由化も達成して、円はハードカレンシーになった。庶民にとっては、いわば海外旅行自由化の元年であった。
 中国は朱鎔基の舵取りが功を奏して、1996年にIMF8条国に移行した。日本の経験に照らせば、2005年にはハードカレンシーに移行してよい時期であった。そして2008年には悲願の北京五輪が予定されていた。そこで遅くとも北京五輪までには、人民元のハードカレンシー化は当然と見るのが常識であった。この計画を狂わせたのは、いうまでもなく1997年のアジア通貨危機であるが、危機を脱したからには、当然旧来のシナリオに戻るべきであった。
 ドルの貯まりすぎを防ぐこと、あるいはドル減らしの工夫を一切怠った結果、ドルは貯まりに貯まった。生産物の国内消費を押さえて、無理に輸出することは、通常飢餓輸出と呼ばれる。中国はひたすら飢餓輸出に邁進した。
 このような愚行を演じる代わりに、人民元レートを少しずつ切り上げていたならば、中国経済は強い元の輸入力を発揮して、より高度の生産財輸入のほかに、人民の生活を向上させるための消費財の輸入を増やすことができ、人々の消費生活は格段に向上して、社会の安定に貢献したであろう。消費生活の向上には意を用いず、逆に「バターよりは大砲を」という軍拡路線に邁進した。天安門事件以後の約20年、中国の軍事費は毎年2ケタで伸び、突出している。



表2 人民元のハードカレンシー化を急ぐべし
IMF 1964 1996
8条国移行 ここまでは順調、
(経常収支レベル) アジア通貨危機で足踏み
ハード・カレンシー化 1973 2008
(資本取引レベル) (9年後) 北京五輪までには半人前から脱却を期待



 こうした間違った為替政策、経済運営の帰結を端的に示すものが次のグラフにほかならない。2007年の時点で、中国のGDPは世界第4位だが、一人当たりGDPは極端に小さい。マクロとしてのGDP大国、一人当たりでは、極端に貧しい小国-----これが中国の実像である。為政者の課題は、庶民の生活を安定させ守ることだが、中国当局の選択した路線は、人々の生活を向上させて、人々が自然に中国の社会に誇りをもてるようにすることではなく、貧しい人々を貧しい状態に止めておき、暴動を起こさせないために、ひたすら軍備を拡大することであった。
 中国当局はなぜ、このような愚行を演じたのか。問題の核心は、政治改革の欠如であろう。中国共産党という既得利益集団が既得利益の擁護のためにあらゆる政策をねじ曲げているからだと見るほかない。天安門事件以後20年、経済発展だけを考えて、政治改革を放棄した結果、(毛沢東流でいえば)官僚主義者階級の独裁が行われ、「もう一つの選択肢」を排除してきたのである。
 官僚主義者の独裁でよいのか、それとも庶民の多様な声を政策に反映させて、生活の向上や環境保護をより重んずる方向へ政策の重点を軌道修正することが必要なのだ。たとえば三鹿集団の毒粉ミルク事件は、被害者の抗議が企業や行政当局に届かない結果、被害をますます拡大した。企業は利潤追求の厳しい競争に直面しているので、往々このような問題を起こしがちだが、その発生を防ぎ、万一発生した場合にすみやかに発見し、是正していくためには、消費者の声を正確に伝えるマスコミが必要であり、機敏な行政指導が必要であり、悪事を処罰する厳正な司法が不可欠である。マスコミ、司法、行政といった関連部門をすべて共産党が壟断していることによって、問題の発見が遅れ、被害が拡大する一連の事態は、政治改革の遅れが諸悪の根源であることを雄弁に物語る。


 図3 愚策がもたらしたGDP大国・生活小国の矛盾
図3 愚策がもたらしたGDP大国・生活小国の矛盾ノグラフ
資料 IMF統計に基づき、中国当局の作図したもの。

 話を米ドルのたれ流しを支える人民元に戻そう。ドルは世界の基軸通貨(key currency)であり、米国を除く世界に流通するのは、約7770億ドルの全発行額のうち、5120億ドル(約66%)である。米国国内で約3分の1、国外で約3分の2が用いられている。米ドルは今回のトラブルで相当に傷ついた。とはいえ、近い将来に米ドルが基軸通貨の地位を失うという見通しはない。理由は簡単だ。無責任とはいえ、ドルに代替できる通貨がないからだ。それゆえ、世界経済の安定のためには、たとえ衰えたりとはいえ、ドルをひたすら支え続けるほか道はないとする議論が広く行われている。
 これは「世界経済の安定」と「ドルの支配」を混同した詭弁であろう。長らく双子の赤字を抱えて解決のメドのたたないドルを守ることによって世界経済を守る道は、たしかに一つの方法だ。しかし長期的に見ると、もう一つのより妥当な道がありうる。なによりも人民元はハードカレンシー化を急ぐべきだ。そして半人前の地位から脱却して、中国経済の飢餓輸出体質を改め、「大砲よりもバターを」政策の基調として選び、米国のグリーンカードに憧れる中国人に、中国人としての誇りをもてるような政策に転換すべきである。国を真に守るのは、実際には使えない核兵器ではなく、人々の真の愛国心だ。そのような中国であれば、周辺の諸国と中国とは、元・円・ウォンのアジア通貨圏を構成できよう。EUはすでにそのような世界を構築した。アジアにおいて類似の世界が創造され、さらに石油輸出圏もまたそれなりのオイルダラー圏を構築するならば、基軸通貨としてのドルの重荷は、それぞれの多極通貨圏に肩代わりできよう。弱り目に祟り目のドルを助ける道は、ひたすらドル国債を買い続けることではあるまい。ドルに依存するのではなく、各自が自分の足で立つこと、それが肝要であり、そうすれば世界経済にとってのドルの負担は軽くなる。これこそがドルを助ける道であり、世界経済の安定化への道であろう。
 最後に一言。中国の愚行は、もしかすると、日本の愚行を模倣したのかも知れない。とするならば、21世紀初頭の約10年間、日中は敵対感を露わにしつつ、愚行の競争を演じていたことになる。悲しむべし、嗤うべし。
 

               
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