第62号 2011.02.03発行 by 矢吹 晋
    王力雄著『私の西域、君の東トルキスタン』を読む
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王力雄著『私の西域、君の東トルキスタン』の表紙


 Ⅰ.王力雄という行動する作家

 友人の劉燕子さんが王力雄著『私の西域、君の東トルキスタン』(集広舎、2011年1月)を送ってくれたので、さっそく読んでみた。王力雄の名は、『殺劫—チベットの文化大革命』の著者ツェリン・オーセルの夫として、名前だけは記憶にあったが、どんな人物かまるでイメージがつかめなかった。書棚にはかつて『黄禍』(香港、明鏡出版社)があったが、目次さえ見なかった。今回の新書では、劉燕子が「監修・解説」のなかで詳しく紹介しているが、それに頼る前に、まずは自力更生、ネットで調べて見よう。
 劉暁波の書いたものを調べる過程でなじみになった「独立中文筆会」のホームページ注1によると、王力雄の略歴は、次のように紹介されている。

ホームページ(http://www.chinesepen.org/)より

 肩書は「中国独立筆会特別推薦作家」である。祖籍は山東省黄県、漢族である。1953年5月2日、吉林省長春市に生まれた。父親は国営企業・長春第一汽車廠の幹部であり、文革前は副工場長を務めていた。母親は長春電影製作所の「編輯」であった。長春第一汽車廠はいうまでもなく、ソ連援助の156プロジェクトのなかでも、最も有名な工場の一つだ。母親の務めた「長春電影製作所」も、中国で最も有名な撮影所の一つである。これは確か旧満映の後身である。両親ともに党員であり、しかも幹部であったことが分かる。1966年小学卒業時に文化大革命に遭遇し、中学には一日も通わなかったという。 1968年、「走資派」であり、「蘇修特務」だ、として長らく拘留されていた父親が自殺した。自動車工場の副工場長ならば当然「資本主義の道を歩む実権派(=走資派)」の扱いを受けたであろう。「ソ連修正主義の特務」とは、なにか。この工場は旧ソ連の援助で作られた工場であり、初期にはロシア語のマニュアル本が使われていた。この工場の生い立ちが旧ソ連と関わりがあるから、その幹部が「ソ連特務」扱いされたのは、当時の雰囲気からして不思議ではない(むろん冤罪であろうが)。1969年、「牛棚」から釈放された母親とともに「下郷」した。「牛小屋」とは、文化大革命期に幹部たちを収容した、一見牛小屋にも似た施設のことを指す。そこでの「隔離審査」を経て、母親は農村へ下放させられたのであろう。そして、王力雄は母親についていくことを許された。当時、王力雄は16歳だが、母親と共に下放することが許されたことと、父親の自殺との関わりはよく分からない。「挿隊4年、開始写詩」とあるから、農村へ下放して4年目、20歳のころから、詩を書き始めたのであろう。
 1973年に「工農兵学員」として吉林工業大学汽車専業に入学した。文化大革命の後半「復課閙革命」として、「授業を復活して、革命を続ける」という方針転換が行われ、下放させられていた一部の若者が、学力試験ではなく、地元推薦の形で「工農兵学員」という資格で、大学に入った。これは「労働者・農民・兵士」出身の学生という意味だ。1975年に「逐層逓選制A Successive Multi-Level Electoral System」のアイディアが生まれ、現在もその研究を続けている。その詳細は別のところで論じているが、要するに漸進的ステップを踏まえた政治体制の民主化提案注2である。
 1977年吉林工業大学を卒業すると長春第一汽車廠に「分配」され、まず「車間」で「工人」となり、一年後に「車間技術員」となり、小説や映画の脚本を書き始めた。 1978年に志願して湖北第二汽車廠への転勤し、コンピューターを用いて企業管理を行う仕事に参加した。王力雄は工業大学出身であり、コンピューターの知識をもつことが分かる。ちなみに、湖北第二汽車廠は、その後「東風汽車」と社名を変えたが、中ソ対立が激化する過程で、いわゆる「三線建設」の一環として設立された工場である。その間、王力雄は「民主の牆」活動に参加し、『今天』誌[油印]に初めての小説——『永動機患者』を発表した。 1980年に「借調」の形式で「二汽」(東風)を離れ、映画の脚本を書き、映画製作組の工作に参加し、ここで「体制を離脱した」。ここでいう「体制」とは、反体制ではなく、第一汽車における「技術系要員としての身分」であろう。 1983年に初めての長篇小説『天堂之門』[天国の門]を書いた。1984年に単独で黄河の源流に赴き、乗用車のタイヤを結んだ筏[通常は羊の皮で作る]を作り、下流まで1200キロ余漂流した。黄河上流のチベット族地区を通り、ここからチベットへの関心をもち始めた。1985~1986年ルポルタージュ『漂流』を書いた。1988年中国作家協会に加入した。1988年小説『黄禍』を書いて1991年に出版した(香港、明鏡出版社)。1999年『亜洲周刊』(香港、週刊誌)は、20世紀において最も影響力のある100冊の中文小説のうちの41冊目に数えた。
 1991~1994年『溶解権力——逐層逓選制』[溶解する権力—漸進的民主制](Dissolving power: A Successive Multi-Level Electoral System)と題した民主化構想を執筆し、1998年に出版した。1994年、彼は仲間と共に中国で初めての民間環境組織——「自然之友」の創立に参加し、今日までいくつかの長期プロジェクトに参加している。1995~1998年『天葬:西蔵的命運』を書いたが、それまでにちとチベット自治区と、青海省などのチベット族自治州などを計10回訪問し、チベット滞在は累計2年に上り、あらゆるチベット区を訪問した。1999年新疆を調査した時、「機密窃盗罪(窃密)で逮捕され42日間拘留された。その経緯を後日『新疆追記』にまとめて、ウェブサイトで発表した。同99年文集『自由人心路』を出版した。2001年公開声明を発表して中国作家協会から脱退した。2002年、「逓進民主」というウェブサイト注3を創設した。2002年4月『与達頼喇嘛対話』を出版した。

 ホームページには、そこまでしか書かれていない。その後、『我的西域、你的東土』(台北、大塊文化出版社、2007年)を書いて、その邦訳が今回、劉燕子さんから届いたものというわけだ。
 本書は4つの部分からなる。
 1.ムフタルとの出会い。これは1999年新疆で逮捕され、獄中でウィグル人活動家ムフタルと知己になった話だ。王力雄は獄友ムフタルを通じて、容易には入りにくいウィグル人の世界に導かれる。
 2.ムフタルを極秘に訪問。これは2003年夏、03年秋、06年春、06年夏、都合4回新疆を訪ねた記録である。
 3.ムフタルかく語りき。これはムフタルへの長時間聞き取りを録音し、それを起こしたものである。王力雄はさまざまの角度から鋭い質問を浴びせる。独立運動家ムフタルは、一つ一つ丁寧に答える。本書の白眉である。
 4.ムフタルへの手紙。この部分は、ムフタルとの対話を終えてから王力雄が考えたコメントを3通の手紙の形で、表明したもの。①テロリズムと民族的憎悪、②独立は最良の選択ではない。③「漸進的」民主主義に何ができるか。手紙の主題は、明快だ。

 1. 「ムフタルとの出会い」から見ていこう。
新疆の人口は約2000万人であり、ウィグル族は900万人であり、最大だが、総人口の46%にすぎない。漢族は780万人で40%弱、カザフ族は138万人、回族が88万人、キルギス族とモンゴル族がそれぞれ10数万、その他の民族はいずれも数万以下注4である。新疆の地元民族中、五つの民族がテュルク系であり、多くの隣接国家の主要民族もテュルク系で、しかもトルコという「世界のテュルク人の祖国」につながっている。カザフ、タジク、モンゴル、ロシアの各民族は、国境の向こう側では自民族の独立国家を建てている。「新疆の民族問題とは、地政学、国際関係、イスラム世界、凡テュルク主義運動など多くの要因」がからむ複雑な問題である(15~16ページ)。
 新疆問題の核心は東トルキスタンの独立運動である。1933年11月に南疆に成立した東トルキスタン・イスラム共和国は、3カ月維持された。1944年11月に北疆に成立した東トルキスタン共和国は1年半維持され、その後ソ連の圧力により中国共産党に帰順した。中共統治の半世紀余、新疆で発生した民族事件は、ほとんどが東トルキスタンの旗を掲げ、亡命ウィグル人も東トルキスタンの名を冠している。東トルキスタンを活動家たちは「東土耳其斯坦」と書き、中国当局は「東突厥斯坦」と表記する。
 「今回の旅のもう一つの目的は、ウィグル人の友人を作ることだった。漢人サークルの中で新疆問題を研究するというのは、明らかに馬鹿げている。しかし大多数の中国の研究者はまさにそうしている」(18ページ)。私がこの本を真面目に読む気になったのは、この一語のためだ。そのような「研究」に飽きていたので、王力雄の一言に共感したわけだ。
 「私は新疆軍区に聞きに行った。私に応対した将校は、車は一台だけで南疆に行ってはならない。もしどうしても行くなら、『3ない原則』を守れと警告した。すなわちウィグル人居住地では『車を止めない、泊まらない、接触しない』原則だ。軍人はすべてこの『3ない原則』を守っていた」(18ページ)。この一文だけからも、新疆における中国共産党の統治の核心が浮かびあがる。
 新疆建設兵団は、14コ師団、185コ連隊で構成され、総人口254万人、うち9割が漢人である。兵団は省と同格の省級行政機関に位置づけられており、新疆自治区と同格である。兵団は自分たちの市町村をもち、警察・司法・検察をもち、独立の戸籍登録・結婚登記所・監獄・科学院、銀行、保険会社をもち、自己完結しており、地方政府の管轄を受けない私は以前書いた文章の中で、兵団を「新疆自治区内の漢人自治省」と形容した。鄧小平は兵団を新疆安定の核心と呼び、独立派は兵団を占領軍とみなしている(21ページ)。統治者が統治の核心と呼び、反対派が占領軍とみなす組織、まさにこれが建設兵団の特徴なのであろう。今日の市場経済において、多くの人々が兵団を「四不像」とみなしている。兵団は「政府でありながら納税し」、「企業でありながら社会事業を行い」、「農業戸籍をもちながら労働組合に入り」、「軍隊でありながら軍事費は自分で稼ぐ」(22ページ)。
 王力雄は問題の核心を知るためには、「兵団の法的地位」から着手すべきと直感した。中国憲法の行政区画には「兵団の規定はない」のに、現実には兵団は100以上の飛び地を新疆全域に散りばめ、総面積は7.4万平方キロで台湾2コ分よりも大きい。しかも「新疆の各級地方政府の管轄権限が及ばず」、「兵団の垂直指導・任命による権力システム」が作られている。
 中南海から発せられる各種の通知の宛先には各省市自治区と並んで新疆建設兵団が加えられており、省と横並びの機関注5であることは明らかだ。新疆は本来、民族区域自治を行う自治区であるはずなのに、この自治区の中に100箇所を超える別の自治区域が組み込まれて、本来の自治地域を引き裂いている。これを法律上どう解釈するのか(23ページ)。
 ---王力雄の問題提起は鋭い。私がかねて疑問に感じていたことをズバリ提起して、爽快極まりない。
 挑戦にあうたびに、兵団は大義名分をかざして人を威圧する。最もよく使われる言い分が新疆の主権の安定だ。かつて「ソ連修正主義反対の前線基地」であったのと違って、今日の最大の危険は「民族分離主義」だという。
 王力雄は、新疆統治の問題の核心を知るには、兵団関係の『通達集』を調べるのが早道と気づいて、つてを頼ってこれを入手し、コピー後に返却した。一連の行動はすべて秘密警察の掌中で行なわれたことが後に明らかになる。まず車を押収され、返却を求めてクムル交通警察に出向いたところ、そのまま42日間拘留された。取り調べのやりとり、眼鏡のガラスを割って動脈を切る方法で自殺を図るが、静脈しかきれずに自殺を失敗した経緯など、サスペンス劇、スパイ劇の面白さだ。「虎穴に入る行動力」も「それを描く筆力」も一流というべきであろう。
 取り調べの拘置所で、王力雄はムフタルというウィグル人と親しくなる。ムフタルは「民考民」である。これは少数民族の子供が少数民族の言語で「考」(試験)を受けるコースを指す。これと対比されるのは「民考漢」である。これは少数民族の子供が漢語で教育を行う学校に入ることだ。ムフタルは「民考民」であったが、中国内地の大学で学んだので、漢語を使わざるを得ず、ナマリがきつく、漢語の用語法も必ずしも適切ではなかったが、王力雄との意思疎通には問題がなく、彼らは獄友になれたわけだ(56ページ)。
 ムフタルの罪状は、「ウィグル人を組織して、北京でウィグル人差別に抗議する請願行動を組織しようとしたこと」だった。それは計画にすぎず、実施されなかったし、議論の結果、「実行しないこと」を決めていた。だから「中国の法律では有罪にはできないはず」であったが、すでに1年も収監されていた。彼は法廷で無罪を主張し続けたが、法廷が無罪判決を出してくれるとは期待しておらず、せめて刑期の短いことだけを望んでいた(57ページ)。
 歴史上、二つの民族の関係はあまりよくなかったが、いまは最悪の時期の一つだ。毛沢東時代には、新疆の地元民族に対して残酷な弾圧をしたとはいえ、マルクス主義のイデオロギーにより、「階級が民族にとって代わっていた」ために、民族矛盾はかなりの程度隠蔽されていた。彼らはそのころ、漢人が新疆にきたのは地元の少数民族の発展を支援するためだと本当に信じていた。しかし、ここ10数年の民族関係の悪化程度は驚くほど速く、その程度も深刻だ(57ページ)。民族関係の悪化を招いたのは、主に当局の政策と漢人の行動が原因である。新疆の漢人は統治者のまなざしで地元民族を見ており、同族以外に心を許さない。
 1997年に新疆で爆破事件があってから、爆弾を防止するために政府は公共の場所での所持品検査を行っている。検査官は漢人のバッグには簡単に目を走らせるだけなのに、地元少数民族のバッグは徹底的に調べ上げる。こうした露骨な民族差別はたちまち中国全体に広まり、どの都市でも新疆の少数民族らしい人を見つけるとむやみに引き止めて訊問する。新疆風の顔をした人がタクシーに乗ろうとして、あちこちで乗車拒否にあっている。旅館でもしばしば宿泊を拒絶される。
 ムフタルが会ったあるウズベク人の大学教授は、学者らしく上品な物腰の人だった。あるとき彼が上海に出張に行ったら列車が遅れて深夜に到着し、折悪しく大雨と雷の最悪の天気だった。傘を持っていなかったので、雨の中を駅の近くの旅館に駆け込んだときには彼は漸進ずぶぬれになっていた。旅館の店番は老婆だったが、彼の新疆人風の顔を見ただけで、即座に宿泊を断った。彼は怒りを抑えきれずに言った。「おまえたち上海人が文革期に何十万も新疆にきたとき、私たちは無償で食べ物と住むところを与えた」。「今日、私が上海で一泊するのに、カネを払っても泊めないとは、おまえたち上海人に良心はあるのか」。教授はこのことがあってから、二度と上海に行かないと誓った。
 君たちがわれわれを泥棒のように遇するなら、なぜ一つの国にとどまっている必要があろうか。新疆にテロリストが現れたからといって、なぜ新疆の少数民族をすべて犯罪者扱いするのか。罪を犯す漢人はもっと多いのに、なぜ漢人に対しては少数民族に対するのと同じ政策を採らないのか。
 西側社会にも民族差別があるとはいえ、もっとずっと目立たない形だ。少なくとも上海のようなあからさまの人種隔離政策は行われていない。ムフタルが請願しようと思ったのは、政府にこのような差別を改めてもらいたいと期待したからであり、政府に希望を抱いて、政府を矛盾解決の仲裁者とみなしたからだった。もし政府が請願を受け入れて政策を変更し、中国人の新疆地元民族に対する差別を改めたならば、矛盾は速やかに解消して民族間の敵対は避けられたはずである(58ページ)。
 ムフタルは、ある外国記者の記事の中の次の場面が忘れがたい。7歳になるあるウィグル人の子供は、夕方当局が掲揚を義務づけた中国国旗を降ろすとき、いつも足で踏みつけていたという。どんな憎しみがこの子供にそうさせるのだろうか。確かに、子供に民族的憎しみの程度が一番よく現れる。もし子供まで加わっていたら、全民族が漢人に対する憎しみを共有しているということだ。パレスチナの暴動場面ではどこでも子供がいるが、それはまさにこのことの反映である。この種の民族的憎悪の広がりを「パレスチナ化」と呼ぼう。私は新疆でまさに「パレスチナ化」が進行していると思う(59ページ)。

 中国共産党は1996年3月に「7号通達」を出した。「新疆の安定に影響する主な危険は分離主義勢力と不法な宗教活動である」。この文は、かつて毛沢東が述べた「新疆の主な危険はソ連現代修正主義からもたらされる」を模倣しており、矛先を国際関係から民族関係に変えただけである。この断定が近年強硬路線を採る指導イデオロギーであり、政策の基礎になっている。「7号通達」以後、「分離主義勢力と不法な宗教活動」に対する弾圧が強化されたが、その結果はどうか。

時期 死亡・人 負傷・人 爆発
(未遂)
暗殺 政府機関
襲撃
毒物投入・
放火
テロ基地 暴動
7号通達前
90~96年3月
12 73 13(3) 1 1 1
7号通達後
96年3月~01年
44 292 17 10 2 39 13 5

 上の表は、国務院新聞弁公室「東トルキスタンテロ組織は、その罪の責任を逃れられない」をもとに、王力雄が整理したものだ(64ページ)。
この数字をもとに王力雄は、7号通達という強硬路線こそが今日の死者3.6倍、負傷者4倍という衝突をもたらしたと解釈している。ただし、2001年の9月11日ニューヨーク同時多発テロ事件以後、新疆のテロ活動は顕著に減少した。当局は鎮圧強化の結果だというが、東トルキスタン独立派の説明では、9.11以降の国際環境がムスリムの抵抗運動に不利になったために、自発的に暫定休戦をして時期を待っているのだという(89ページ注18)。

 王力雄の文章が書かれたのは、2001年であり、06年12月に改稿されたが、果たして、「時期を待って」いたかのように、2009年7月5日ウルムチで大規模な騒乱が起こった。米議会報告2010年10月10日(Congressional-Executive Commission on China Annual Report 2010 One Hundred Eleventh Congress Second Session October 10)から、事件に関わる裁判状況を見ると、次の表のごとくである。

 出所、Xinjiang Trials for Crimes Committed During the July 2009 Demonstrations and Riots




 Ⅱ. 新疆の経済発展と生産建設兵団の位置

 『私の西域、君の東トルキスタン』の紹介を続ける前に、少し知識を整理しておきたい。私自身は、『中国力』第20章で「少数民族」を扱い、新疆自治区における少数民族の問題を次のように分析した(321~329ページ)。王力雄の描く姿と比較するために再度掲げておく。王力雄の本の序文は2007年1月18日付で書かれているが、その2年半後にウルムチで騒乱が起こった。王力雄はウィグル族と漢族の緊張関係の激化を語り、ある意味では衝突を予言していたことになるが、私は2008年の北京五輪で噴出したチベット問題、ウルムチ7月5日事件で少数民族問題の深刻さを改めて認識し、ウルムチ事件の半年後に、以下の記述をまとめ、『中国力』第20章の一部とした次第である。

 中国の新華社通信が2009年7月15日に伝えたところによると、ウルムチの騒乱の「死者は192人、負傷者は1,721人」とされている。他方、7月29日に東京で記者会見した世界ウィグル会議のラビア・カーディル議長は、「デモに参加していた1万人近くが一夜にしてウルムチから姿を消した」と強調し、この暴動の真相を明らかにするため、独立した調査チームの派遣を国際社会に求めている(各紙報道)。
 死者については単に数字を挙げるだけではなく、固有名詞や漢族・ウィグル族いずれか民族までを含めて公表するのが、「和諧社会作り」にふさわしい情報公開と思われるが、中国当局は、由来そのような措置を講じたことはない。それゆえつねに当局の公表する数字は、疑いの目で見られてきた。民草の不幸な死に対しては、かくも冷淡ななかで、「(鎮圧の)使命に献身した忠誠衛士」の盛大な葬儀は際立ち、その対照が中国共産党の展開する少数民族の矛盾を象徴しているように思われる。
 世界に衝撃を与えた7月5日のウルムチ騒乱が、6月26日、広東省韶関の玩具工場における2人のウィグル族臨時工の死に対する抗議行動から始まったことは、すでによく知られている。ウィグル族の若者が故郷から遠く離れた、ウィグル語の通じない広東省まで出稼ぎに来ている現実、そしてウルムチ市内には漢族移民が溢れ、華やかな商店街が武警部隊のパトロールによって守られている事実の一端が、一連の事件を通じて明らかになった。

 新疆自治区は、1955年に成立し、2005年には50周年を祝った。この新疆自治区における漢族移民の数字をまず確認しておこう。表1から分かるように、1953年時点では32万人、6.9%しかいなかった漢族が、2000年時点では749万人まで増え、40.6%を超え、少数民族(非漢族)は、1097万人で6割を切った。
 どの段階でどのように増えたか。表2で漢族人口の増加率を見ると、新疆開発の断面が鮮やかに浮かび上がる。1953~64年は自治区の創設期であり、生産建設兵団の形成記である。漢族は毎年2割ずつ伸びた。1964~82年の前半は文化大革命期と重なる。紅衛兵のいわゆる「下放運動」が行なわれた。その後の1980年代は、生産建設兵団への見直しが行われ、他方で一人っ子政策が展開されたが、こは漢族に対するもので、少数民族には適用されなかった。1990年代は、鄧小平の南方講話を契機として、市場経済化が大いに進展した。この時期の人口増は、漢族商人を主とするものであろう。全体を見て、1953~2000年の47年間の年平均増加率は、漢族7%、少数民族2%であった。



表1  新疆自治区における漢族移民の増加(単位は万人、比率)
1953 1964 1982 1990 2000
センサス センサス センサス センサス
漢族 31.8 (6.9) 232.1(31.9) 528.4(40.4) 569.5(37.6) 748.9(40.6)
少数民族 430.0(93.1) 494.8(68.1) 779.7(59.6) 946.1(62.4) 1096.9(59.4)
(注1)1964-2000年は、『新疆統計年鑑』2008年版66ページ。
(注2)1953年は、新疆区委党校副教授热合曼•克比尔「中国共产党在新疆执政的实践与基本经验」(2009年07月28日人民网)


2 新疆自治区における人口増加率(年平均)
1953-64 1964-82 1982-90 1990-2000 1953-2000
漢族 19.8 4.67 0.94 2.78 6.95
少数民族 1.28 2.55 2.45 1.49 2.01
(注1)1964-2000年は、『新疆統計年鑑』2008年版66ページ。
(注2)1953年は、新疆区委党校副教授热合曼•克比尔「中国共产党在新疆执政的实践与基本经验」(2009年07月28日人民网)


 新疆自治区の総人口が2000万人を超えたのは2005年であり、2008年末時点では2131万人であった(『中国統計摘要2009』)。新疆自治区の面積は165万平方キロ、すなわち日本の4.5倍の広さである(面積では全中国の6分の1を占める)。この広さのなかに、日本の人口の6分の1が住むわけだから人口密度は日本の27分の1の「まばらさ」になる。一見余裕があるように見えるが、広大な砂漠が広がる地であるから、オアシスのような、水に恵まれた地域にしか人は住めない。こうして、人口密度の低さという数字とは逆に、オアシスの人口は過密になる。
 表3は新疆自治区の人口分布を地域ごとに見たものである(『新疆統計年鑑』2009年)。
 自治区は14の「地級行政区」に分かれ、うち1.ウルムチと2.クラマイは「地級市」と呼ばれる。このほか3.トルファン区(トルファン市)、4.クムル地区(クムル市=哈密市)、5.アクス地区(アクス市)、6.カシュガル地区(カシュガル市)、7.ヤルカンド県、8.ホータン地区(ホータン市)、9.ボルタラ・モンゴル自治州(ボルタラ市=博楽市)、10.クズルス・キルギス自治州(アルトシュ市=阿図什市)、11.バインゴリン・モンゴル自治州(コルラ市)、12.昌吉回族自治州(昌吉市)、13.イリ・カザフ自治州(伊寧市、奎屯市)、14.アルタイ地区(阿勒泰市)、15.塔城地区および「4県級市」、16.石河子市、17.アラル市(阿拉爾市)、18.トムシュク市(図木舒克市)、19.五家渠市、を表に掲げた。

 図4は漢族の比率の高い順に左から並べたものだ。五家渠市、石河子市、アラル市、クラマイ市、昌吉回族自治区、ウルムチ市、ハミ市、ボルタラ蒙古自治州、塔城地区、バヤンゴル蒙古自治州が漢族5割以上の地域である。漢族が50万以上住むのは、イリ・カザフ自治州、ウルムチ市、イリ州直属県、昌吉回族自治区、バヤンゴル蒙古自治州、石河子市、塔城地区である。これに対してウィグル族が60万以上居住するのは、カシュガル地区、アクス地区、イリ・カザフ自治州、イリ州直属県である。生産建設兵団の人口が10万人を超えるのは、カシュガル地区、イリ・カザフ自治州、塔城地区、昌吉回族自治区、イリ州直属県、アクス地区、バヤンゴル蒙古自治州である。
 中国共産党の支配下で開発が進められた結果、どのような変化がもたらされたかを知るうえで恰好の論文は、管見の限りだが、イリハム・トフティ注6の書いた「新疆の経済発展と民族関係についての若干の考察注7」ではないかと思われる。
 トフティの分析から、なぜ「世界が注目する中国の高度成長」から「新疆の少数民族が取り残されたのか」を検討した箇所を紹介しよう。新疆の少数民族にとって現金収入を得る道は「打工」(臨時工、あるいは出稼ぎなど単純な肉体労働)しかない。というのは、それ以外の職を得るには、次のような障害があるからだ。
 第1に、悪名高い戸籍制度という差別がある。第2に、学歴あるいは知識水準に由来する制約がある。教育程度の低いウィグル族「農民工」には、せいぜいサービス業、建築労働者、小商業のような産業しか開かれていない。報酬の高い産業や部門への就職は厳しい。仮にある程度の教育水準が満たされたとしても、軍隊、警察、財政・銀行機関、石油・化学工業などは、少数民族の受入れを制限しており、党組織の役人になる道もまた閉ざされている。トラック運転手、清掃工、綿摘み労働者などについていえば、現地ではなく、「内地の農村」で募集が行われる。石油・化学工業など資本集約型産業でも、ほとんど現地の少数民族労働力は用いられることはない。この結果、少数民族は所得向上の道を閉ざされている。「農村基金会」「信用合作社」のような農村金融組織も活発ではなく、農民の預金は都市に集まり、農民には借入れの道も狭い。「伝統的生産と生活は、少額の貸借に依拠するやり方だが、それさえも農民には無縁だ」。こうして新疆少数民族の農民にとっては、資本の原始的蓄積は、まるで見通しがつかず、絶望的な状況に置かれている。

表3


 農民の抵抗騒動は、中国全体で起きており、不満を抱くのは新疆の農民ばかりではない。農民について、トフティは次のように分析している。
 ――農民の租税公課負担は、きわめて重い。これらの負担によって押しつぶされそうだ。なぜか。通常は農村工作の経験が皆無で、当地の言語・文化をまるで知らない者が村のナンバーワンの役人(党書記)に任命される。他方、農民の側にも知識を欠いており、村政府と地方ボスの結託により、ますます腐敗した政治が行われる。中央政府も地方政府(自治区レベル)も、「民族訪問団、慰問団、工作団」を民族地区に派遣して、党中央や国務院がいかに少数民族の生活に関心を寄せているか、漢族人民が「兄弟の誼みの感情」を抱いているかを表明し、民族団結や愛国主義の教育を行う。これらも受入れ側の負担となる。しかし政府を批判する言動は懲罰の対象になるので、少数民族の同報は、意見を述べず、批判も控える。「民族地域自治法」が存在するとはいえ、中央政府の高度に集権的な体制と、「地域自治」の思想とは衝突するので、法的にも保証されない。新疆自治区では「民族地域自治法」に基づく「自治条例」は、いまだにできていない。自治の権限は、ほとんどが中央政府か自治区政府に集中しており、法律の規定した自治権は実現していない。

図4


 農民はさまざまの名目で徴収される「費用」を「納税」の形に変えること[原文=費改税]を望んでおり、これによって農民の負担の減少することを期待しているが、これは根本的な対策には、まだ遠いものだ。
 イェイーク村では、集団の土地を分けて1戸当たり15ムー[1ヘクタール]分の農地を農民が自主的に経営することになったが、まだ実現されていない。ここでは「まだ計画経済がまだ行われて」おり、農業生産全体が依然として上級部門の指令によって行われている。



 その後、ホータンの他の村、カシュガル、アクス地区の若干の農村を見て、「南部の大部分の地域では、自主経営がすでに行われている」ことを確かめた。農村では「五つの統一」として、「耕地、播種、管理、潅漑、収穫の統一」を行っている。しかも種子、化学肥料、ビニール膜、農薬等も県郷政府から統一購入しなければならない。農民は勝手に買うことを許されない。イェイーク村のある幹部が私に収支メモを教えてくれた。ある農民が10ムーの小麦を作った場合、4500~5000元の収入になる。これに対して、耕地費、耕作費、水費、肥料代、管理費、地租、郷と村の基金、公益金は約4000元になる。これらの費用を控除すると、農民の手許には500~1000元しか残らない注8

 生産建設兵団について----
 トフティの生産建設兵団に対する分析は、この組織が中国共産党による植民政策と瓜二つの性格をもつことを容赦なく、描き出している。曰く、生産建設兵団はこの50年以上の間、中国の全体の6分の1を占め[165万平方キロ]、石油、ガスおよび31種の開発可能な鉱物の実際の資源の22%以上を埋蔵する「新疆自治区における植民地化」の最重要組織になった。
 新疆生産建設兵団とは、「党・政・軍・企の4者が合体した特殊な組織」である。その前身は解放軍の新疆進駐部隊である。1954年に10.5万人の将兵が「就地転業注9」したものを基礎としている。その後、全国各地から大学生、辺境支援青年、復員軍人らが兵団に参加した。それは屯田開墾により辺境を防衛する任務を担った。兵団には、独自の法院、検察院、公安[警察]、銀行、保険、大学など、すべての機関が作られた。新疆自治区政府の干渉は受けない、中央直轄の独立王国であった。傘下には、14個師団、174個の農牧場、517の独立再三の工商企業、3215の社会事業単位を保有していた。
 2002年末現在、土地総面積は、745万ヘクタール[自治区全体の4.5%を占める]、耕地は106万ヘクタール、総人口250万人、うち漢族が89%を占め、少数民族が11%を占める。人口の増加率は4.2%であり、当時の全国平均は0.6%程度であるから、3.6%程度は移民による増加であることが分かる。
 中国憲法によれば、あらゆる資源は、集団所有制の土地は別として、国家すなわち全人民所有制に属する。しかしながら「具体的な資源管理制度」を欠いているので、新疆の自然資源は、自治区・地区州・県の3級政府が、国・集団・個人の開発権限を確定しているので、各部門間の帰属権限には多くの不適切な境界区分が行われている。資源の所有権問題が混乱しているので、新疆の国有資源の合法的な代表は誰か、自治区政府なのか、新疆各民族なのか、それとも全中国人なのか、中央企業なのか、曖昧である。国有資源を開発している中央企業は無制限・無期限・無償の占有権をもつのか。資源は全人民に帰属するのならば、一人一人が開発する権限をもつのか。
 新疆の特殊な歴史的原因によるため、兵団と地方政府各部門の管理・管轄権限は複雑に入り組んでいる。各利益主体は無償による開発によって、大量の有価産物を生産し、経済成長を実現する手段としている。中国では長期にわたって「資源=価値なし、原料=ローカル価格、産品=高価」という価格体系を実行してきたために、資源・原料地区の新疆にとってたいへん不利であった。資源に価値なしの思想は、開発における浪費現象を伴った。「新疆における経済開発は一見すると、新疆自治区の人々の所得に貢献しているかに見える」。しかし実は計画・資金・要員・技術・設備・労働力など、「すべて自治区の外から導入され、産品は自治区の外に持ち出される」。
 これらの「経済活動は、現地の少数民族社会と隔離した状態で行われている」。たとえばタリム油田の開発は主として内地の大石油公司の地盤争奪によるものであり、新疆石油管理局は開発の隊列にさえ参加していない。コルラ市は「石油のために奉仕する」活動で若干の利益を得たものの、新疆南部地区全体への影響は、当局が宣伝したほどには大きくない。新疆の少数民族はこれらの利益集団のために巨大な代価を払いながら、国有資源の受益者にはなっていないのだ。
 新疆自治区における漢族移民は、生産建設兵団という独立王国を基軸として展開されている現実から判断すると、「漢族による新疆の植民地化」という批判が、あながち根拠のない主張ではないことが明らかになる。これらの既得利益と結合した形で移民が行われてきたとすれば、漢族と少数民族との和解がきわめて困難なものであることも容易に察せられるであろう。中国共産党が少数民族政策を根本的に改めないかぎり、問題は解決できまい。しかし中国共産党が利権と結合した新疆政策を改めうる展望は、どこにも契機すら見出すことができない。これが現実である。

 トフティはまずポスト冷戦期における民族問題の噴出のなかで、新疆における少数民族の問題が登場した背景を次のように分析している。
 ――ポスト冷戦時代に、世界の構造変化に伴い、長らく隠蔽されてきた民族問題が現れ、グローバルな政治生活に強い衝撃を与えつつある。民族問題は国家と地域の政治的安定に影響する重要な要素だが、国情の違いにより、民族問題の現れ方には明らかな違いがある。民族問題の基本要素は経済、民族、宗教、文化的伝統面における差異であり、これに由来する少数民族あるいは「弱勢群体注10」の不平等待遇および権益の欠如である。それゆえ、「平等を求め、自主権を求める」ことが民族問題の核心になる。新疆自治区に即していえば、新中国以後の半世紀に「大量の漢族移民」によって、「民族構造が激変した」ことだ。この結果、歴史上新疆に居住してきた少数民族の自治区全体に占める比重は急速に低下した。新疆の少数民族は総じて貧困と落伍の状況にあり、これではこの地域の長期的安定は期待しにくい。
 ――新疆自治区政府、人民代表大会(議会)、政協(政治協商会議)、法院(裁判所)、検察院(検察署)、県市レベルのナンバーワンとして新疆の少数民族幹部が選ばれることなど、民族自治に改善が皆無というわけではない注11。しかし、一部の部門も単位の幹部は、認識がはっきりしておらず、自覚が足りない。国家と地方、集団と個人、民族自治区の社会経済発展と各民族がそれぞれの利益を発展させることへの認識が曖昧模糊としている注12
 新疆の人口分布と民族関係
 ――人口密度には著しい差がある。イリ州などは平方キロ当たり44.6人、カシュガル地区は25.1人、最低のバインゴリアン・モンゴル自治州は2.4人にすぎず、10分の1である。ウルムチ、石河子、クラマイという3つの計画単列都市注13を考慮に入れると、その格差は一層大きい。新疆には54の民族が「大雑居、小聚居」の形で住む。すなわち民族のモザイクだが、それぞれの民族は聚居するケースが多い。全体としては、漢族が約4割、少数民族が6割である。
 (1)少数民族のなかではウィグル族が中心。
 ウィグル族は76%を占め、新疆全体の46%を占める。新疆南部、北部のイリ地区と東部に聚居し、北部の昌吉州、塔城地区には散居している。
 (2)漢族は広範に分布。
 15地区州市のどこにも一定の比重をもつ。北部の漢族は新疆の漢族全体の73%を占め、南部には27%しか住まない。ウルムチ市、イリ州、昌吉州では漢族の比重が高く、当該地区の総人口に占める漢族の比重は、それぞれ73%、45%、75%である。新疆の漢族全体から見ると、6割弱がこの3地域に住み、それぞれに漢族の1~2割強が住む。北部のクラマイ、石河子、奎屯、東部のハミ地区に住む漢族は当該地区人口の7割、いな9割を占める。
 (3)カザフ族の地域分布。
 カザフ族は主として北部に住み、北部のカザフ族は新疆全体の94.4%を占め、南部は5.7%にすぎない。なかでもイリ地区に最も集中しており、同地区人口の23%を占め、新疆カザフ族の37%を占める。アルタイ地区と塔城地区のカザフ人口は、当該地区の49%、25%を占め、新疆カザフ族の17%以上を占める。
 (4)回族の地域分布の特徴。
 北部に主として住み、新疆回族全体の83%を占め、南部では17%を占める。吉州には回族の22%、イリ地区は20.9%、ウルムチ18.7%、塔城7.7%、トルファン4.6%、バインゴリアン・モンゴル自治州は6.7%、アルタイ2.6%である。
 (5)キルギス族について。
 キルギス族は主として南部に住み、その比重は総人口の88.4%におよぶ。残りは北部のイリ地区に6.5%、アクスに5.1%が住む。
 (6)モンゴル族の分布。
 南部に32%、北部に68%が住む。北部では主としてイリ地区、塔城地区、ポルタラ・モンゴル自治州であり、当該地区の人口比重は1割を超える。
 ――1982年から98年にかけて、少数民族の人口年伸び率は2%であったが、漢族は1.5%であった。しかし90年代における漢族の人口増加率は、2.1%であり、80年代の0.9%よりも高い。これは漢族の移住の結果である。12の少数民族のうち、満族とロシア族の人口伸び率は、他の少数民族よりも高く、9.2%、15%となっている理由は、80年代に「民族成分」の変更が行われたためである。

地図 生産建設兵団の所在地と14師所在地一覧
注14



 Ⅲ. 「ムフタルかく語りき」を読む

 王力雄の書いた『私の西域、君の東トルキスタン』の紹介を続ける。第2部をとばして、第3部「ムフタルかく語りき」を読む。これは2006年4月から12月にかけて行なわれた王力雄によるムフタルへのインタビュー録音を起こして、整理したものだ。
 1.地元民族の憎悪がこれまでになく高まっている。
 2.ウィグル人の心の中の歴史、
 3.民族間の矛盾、
 4.新疆漢人のお手上げ、
 5.抵抗者と抵抗組織、
 6.テロリズムと暴力闘争、
 7.東トルキスタン勢力が利用できる国際条件、
 8.東トルキスタンは何を基礎として建国するのか、
 9.「中道」線を選べないか、
 これら9つのトピックについて王力雄はムフタルの胸中を聞き出している。私にとって興味深い箇所1.~3.項から抜き書きしてみよう。

1.地元民族の憎悪がこれまでになく高まっている。
 新疆問題の中心は民族問題だ。これは、3つの視点から見るのがよい。1つは民族主義の視点。ここから国家の独立という命題が生まれる。2つは宗教者の視点。ウィグルの宗教者は異教徒(無宗教の中国共産党)の統治を拒否する。3つは、ウィグル人の社会的地位が低いこと。彼らは民族意識や宗教意識は強くないが、現状に不満のため、独立派や宗教者に追随する。民族主義者の大部分は知識人であり、民族の歴史的起源と発展の視点から、民族独立を支持し、自民族の国家建設を求める。宗教者は自分たちの国をもつことで初めて宗教を発展させられると考える。中国共産党は無神論に基づき、宗教弾圧を行っており、また仏教と道教はイスラム教とそりが合わない。現状不満派についていえば、主に失業と政治的地位の低さである。独立を望まず、現状に満足しているのは、5~10%ぐらいだろう。これに対して民族主義意識派は3割前後、宗教意識派は5割前後か。
 5割を占める宗教を意識するグループを細分すると、その一部は異教徒との衝突に敏感中国を排斥するが、大多数は公平な処遇ならば中立を保つ。この人々の内訳は7割程度と見てよい。というのは、「ウィグル人の民族意識は比較的弱い」からだ。文革時代は無神論を宣伝し、宗教者や宗教意識は攻撃された。
 私たちウィグル人は「自分をムスリムと思っている」けれども、「いま大部分の人は酒を飲む。こはイスラム教の教義では許されていないから、ムスリムとみなすことはできない」とも言える。「私たちの民族意識は大幅に弱められた」。
 改革開放以降、1980~95年は、学習し研究して各分野で成果を上げさえすれば、自分たちの「法的地位、社会的地位は漢人と同じ」になり、「自分たちの要求を出せる」と信じてきた。しかし、「生活水準は向上したが、漢人にはるかに及ばず」、「格差は拡大し続け、深刻な失業問題が生じた」。大量の漢人が新疆に入植してきて、地元民族の土地を占拠した。90年代後期には「ウィグル人と漢人の共同の発展の可能性はない」、「この目標は永遠に達成できない」ことを悟った。
 「7号通達(1996年)」は漢族の指導幹部に切り札を与えた。会議でも漢族ショービニズムを主張し、新聞も国の指導者も「黄帝や炎帝の子孫」と言い始めた。「この国は民族主義国家に変わり」、「この党は民族主義を代表する方向」に変わった。ここで王力雄が確認する。政府が漢族の民族意識を団結材料に使ったことは、他の民族にも連鎖反応したのか、と。ムフタルは、これを肯定し、「だからこそウィグルの宗教者は民族主義の側に立った」(257ページ)。私(矢吹)は、資本主義の密輸入により共産主義イデオロギーが否定されると、もはや民族主義を煽る以外には「国民を統合する手段」が失われるので、「狭い民族主義が横行し、摩擦を生む」と予測して、江沢民流の反日政策を批判してきたが、これはウィグル人に対してもウィグル民族主義を刺激したわけだ。
 教育分野では「2言語教育」を始め、ウィグル語で教育してきた小学校もウィグル語を除くすべての科目を漢語で教えるように変わった。教員は「競争就業」制度の下で、漢語の不得手な教師が毎年切り捨てられ、失業している。大勢のウィグル人教師は「民考民」だから、首になる可能性が高く、2言語教育は「同化政策」であり、民族問題と考えている。これは1997年ごろから始まったが、2003~04年あたりから試行制度ではなく、本格的に導入され、「民族教育はすでに滅亡の危機」にある。ソ連が中央アジア地域「でロシア語学習を強制し、その失敗が証明された」のに中国共産党はいまそれをやろうとしている(260ページ)。
 政府が新疆に投資して西部開発を進めるというが、地元の人間は何の利益も得られない。高速道路も同じだ。3~4年前に新しく作った道があるのに、また新しく高速道路を作り、多くの耕地を転用し破壊する。目的は「南疆の発展のため」だろうか。物資輸送速度を速める「国防上の考慮」ではないのか。一本の高速道路が少なくとも数百万ムーの耕作可能地を壊してしまう。
 2000年以降の国際情勢は、周辺国に変化をもたらした。とりわけ「上海協力機構注15」ができる前は新疆の抵抗者は中央アジアの協力を得られたのに、その道は断ち切られ、「9.11以降、国際情勢がイスラム世界に不利になった」。
 いま多くの人は国内・国際環境が不利で、犠牲になる価値がないから、「国際環境が変わるのを待っている」。イラクにせよ、チェチェンにせよ、ボスニア、セルビアでも内外連携してこそ成功することを彼らは理解した。いま中国は比較的落ち着いているが、この局面を20年も30年も維持させることは不可能だ。「中国の国内環境も必ず変化する」(270ページ)。

 2.ウィグル人の心の歴史
 新疆は有史以来テュルク民族の土地だった。ウィグル人は匈奴の末裔だ。テュルク人は匈奴の1つだ。中国史では武帝の使節・張騫が新疆に来た時から新疆は中国の領土だとしている。張騫はスパイとして10年間拘禁され逃げ帰っただけなのに、なぜそれで新疆が中国領になるのか。張騫が2回目に来た時は、他人の土地に来ると知っていたからこそ、商売人の名義あるいは外交使節の名義で来た。新疆が中国領になったという言い草には何の根拠もない。
 安禄山はソグド人の父とテュルク人の母の間に生まれた。唐朝は西「突厥に助けを求めた」のだから、「唐朝と突厥の間に隷属関係があった」はずはない。
 玄奘が国を出たころ、唐朝は自国民が長城外に出ることを制限していた。密出国の玄奘を唐の皇帝が見送るはずはない。玄奘の白馬はクムルの農民が玄奘に同情して与えたのだ。これはウィグル人の歴史学者トゥルグン・アルマス(1924~2001)の本に書いてある。彼は『ウィグル人』『匈奴簡史』『ウィグル古代文学史』の3冊を書いたが、当局は「汎テュルク主義を代表するもの」として批判し、以後彼は自宅軟禁された。
 元朝のころ、新疆はモンゴルに属していた。チンギズ・カンは中国人ではなく、外モンゴルの人だ。チンギズ・ハンを中国人だなどと言えるわけがない。明朝のとき、新疆北部はモンゴル人が支配していたが、南疆にはヤルカンド・ハン国があった。乾隆年間にジュンガルは清朝に服属した。新疆は清朝時代にその支配下に入った。わずか200~300年のことだから、皆が忘れず、はっきり知っている。
 「清朝の皇帝が漢人を妻とすることはできず、満洲人かモンゴル人だけを妻に迎えた」のは、彼らが自分たちを「中国人だと思っていなかった」からだ。
 1933年にカシュガルで成立した東トルキスタン・イスラム共和国は、ソ連と手を組んだ盛世才注16によって4カ月後に滅ぼされてしまった。1945年にはイリで東トルキスタン共和国が成立した。1949年にはソ連と中国が話し合って中国共産党の軍隊が進駐してきた。これが歴史だ。私たちは「中国史の一部ではなく、独立した歴史だ」と思っている。「中国に帰属したこと」はあったとしても、それは「漢人の中国じゃない」。歴史上、ある国が100年、200年別の国の属国になるのはよくあることだ。「中国は新疆を100年しか統治していない」のに、何で「中国の一部だ」なんて言えるのか(272~273ページ)。

 東トルキスタン共和国の成立と・崩壊----『ウィキペディア(Wikipedia)』から要点を抜き書きすると、次の通りである――。東トルキスタン共和国亡命政府国章東トルキスタン共和国(ウイグル語:شەرقىي تۈركىستان جۇمۇھۇرىيىتى、Sherqiy Türkistan Jumuhuriyiti)は、テュルク系イスラム教徒によって、20世紀前半に中華民国の新疆省であった中央アジアの東トルキスタン地方において樹立された政権。歴史上2度にわたり、それぞれ別々の地域を拠点として樹立された2つの政権があり、いずれも一定の期間東トルキスタンの一部において実効的な独立政権を実現した。現在はアメリカ合衆国に東トルキスタン共和国亡命政府の本部が置かれており、中国を侵略者であるとしている。第2次の東トルキスタン共和国は、中国国民政府との新疆省連合政府を経て中華人民共和国に侵略されて消滅したが、それ以降、主に国外を中心に東トルキスタンの独立を主張するウイグル人活動家たちによって復興が試みられている。例えば、天安門事件の翌年1990年、新疆西部のアクト県バリン郷において起こった「バリン郷事件」では郷政府を襲撃したウイグル人住民が、「東トルキスタン共和国」の樹立を宣言したものの、わずか2日間で鎮圧されたと伝えられ、2004年にはアメリカで同名の東トルキスタン亡命政府が樹立されている。
第1次(1933年~1934年)
 第1次の東トルキスタン共和国は、1930年代始めに東トルキスタンを支配していた新疆省政府に対してウイグル人が主体となって現地のイスラム教徒の独立運動を糾合し、タリム盆地西南部のカシュガルに建設された政権である。この政権の発足は、1931年にクムル(ハミ)、1932年にトゥルファンで、当時新疆に進出してきた甘粛省のイスラム教徒(回族)軍閥である馬仲英に触発されて起こった反乱が契機であった。クムルのホージャ・ニヤーズらに率いられた反乱勢力は、省政府軍の攻撃を受け、西方へ逃亡した。一方、回族軍閥の侵入を受けなかったタリム盆地南部のホータンでも1933年初頭に、ムハンマド・アミーン・ブグラらが、在地の宗教指導者をリーダーに戴き、反乱を起こした。ホータンの反乱軍は漢族の官吏を追放してホータンを支配すると、西のヤルカンド、カシュガルへ進軍し、クムル、トゥルファンから逃亡してきた勢力を糾合して11月12日に東トルキスタン・イスラーム共和国の建国を宣言した。東トルキスタン共和国の大統領には、クムルの勢力を代表しホージャ・ニヤーズが、首相にはホータンの勢力を代表しサービト・ダーモッラーが就任した。彼らはイギリス、トルコなどの諸外国の承認を得て独立を国際的に認めさせようとしたが失敗している。このとき、トゥルファンを占拠する馬仲英に脅かされていたウルムチの新疆省政府はソビエト連邦に介入を要請。翌1934年の初頭に新疆に入ったソ連軍によってトゥルファンを追われた馬仲英の軍は、ホータンに侵攻し、東トルキスタン・イスラーム共和国の軍隊を壊滅させた。共和国崩壊を受け、大統領のホージャ・ニヤーズは、ソ連を通じて省政府督軍の盛世才と交渉を行い、首相のサービト・ダーモッラーを新疆省政府に引渡し、自らは省政府副主席に就任した。第1次東トルキスタン共和国は宗教指導者に率いられた反乱をきっかけとするが、共和国の設立に中心的に活躍したのはロシア領の西トルキスタンで1910年代に行われたジャディード運動に影響を受けた商人・知識人層であり、20世紀初頭から始まった東トルキスタンの民族運動のひとつの結実を示す事件であった。
第2次(1944年~1949年)
 第2次の東トルキスタン共和国は、第二次世界大戦期にソ連の支持を得て高揚した東トルキスタン独立運動によって、新疆省の北部に樹立された政権である。中華人民共和国では、中国革命の一環として行われた反国民政府運動のひとつと見なされ、彼らの政治運動はイリ、タルバガタイ、アルタイの三地区を支配したことから「三区革命」と呼ばれているが、実際には中国からの独立政権を目指していた。1944年にイリ渓谷のグルジャ(伊寧市)で蜂起した独立軍が同年11月12日に建国した。反乱軍にはソ連赤軍が、装備、要員面で協力しており、12月までにイリ地区の全域が反乱軍の手に落ちた。また、翌1945年には、ソ連領の西トルキスタンで教育や訓練を受けたカザフ人のゲリラ勢力が、アルタイ地区、タルバガタイ地区を占領し、東トルキスタン政権に合流した。共和国の元になった反乱軍は親ソ派ウイグル知識人のアブドゥルキリム・アバソフが指導していたが、共和国政府は、ウイグル人だけではなく東トルキスタンに居住する全テュルク系ムスリムを糾合させる汎テュルク主義を標榜していた。共和国の主席には親ソ派ウズベク人の宗教指導者アリー・ハーン・トラが、副主席にはクルジャの名家出身の有力者アキムベク・ホージャが就任し、ムスリム社会の上層部の人々が積極的に政権に招聘された。しかし実際には、共和国は軍事部門を中心に、ソ連国籍を持つロシア人やテュルク系民族出身の要員に指導されており、ソ連の強い影響下に置かれていた。共和国政府では、中国国民党との交渉で台頭した親ソ派のアフメトジャン・カスィミが次第に実権を掌握していった。1945年9月、東トルキスタン軍が、ウルムチへの進軍を始めたため、新疆省政府はソ連に和平の仲介を要請した。「独立国」東トルキスタン共和国の頭越しにソ連と国民政府の直接交渉が行われ、ソ連はアリー・ハーン・トラ主席を自国に連れ去ってしまった。この結果、東トルキスタン共和国は1946年、ソ連の意思に従って新疆省政府に合流した。しかし、新疆省政府と東トルキスタン共和国政府が合同して成立した新疆省連合政府は1年後に崩壊し、副主席アフメトジャンをはじめとする旧共和国派はイリ地方に退去して、かつての東トルキスタン共和国の領域を再び支配しはじめた。1949年、国共内戦を制した中国共産党は、新疆の接収を行うために、鄧力群を派遣し、イリ政府との交渉を行った。毛沢東は、イリ政府に書簡を送り、イリの首脳陣を北京の政治協商会議に招いた。しかし、8月27日、北京に向かったアフメトジャン、アバソフ、デレリカン・スグルバヨフ、イスハクベグ・モノノフらイリ首脳陣の乗った飛行機はソ連領内で消息を断ち、首脳を失ったイリ政府は混乱に陥った。残されたイリ政府幹部のサイプディン・エズィズィが、急遽政治協商会議に赴き、共産党への服属を表明した。9月26日にはボルハンら新疆省政府幹部も国民政府との関係を断ち共産党政府に服属することを表明した。12月までに人民解放軍が新疆全域に展開し、東トルキスタンは完全に中華人民共和国に統合された。



 イリ、タルバガタイ、アルタイの三地区を支配したことから「三区革命」と呼ばれている第2次東トルキスタン共和国独立の舞台裏についてのムフタルの証言は、興味津々である。ウィキペディアは「毛沢東は、イリ政府に書簡を送り、イリの首脳陣を北京の政治協商会議に招いた。しかし、1949年8月27日、北京に向かったアフメトジャン、アバソフ、デレリカン・スグルバヨフ、イスハクベグ・モノノフらイリ首脳陣の乗った飛行機はソ連領内で消息を断ち、首脳を失ったイリ政府は混乱に陥った。残されたイリ政府幹部のサイプディン・エズィズィが、急遽政治協商会議に赴き、共産党への服属を表明した」と書いている。
 この経緯についてムフタルは、こう主張している。
 「この事故について、9割以上の者が疑問をもっている。当時アフメトジャン・カスィミの秘書を務めていた人が書いた文章が、独立後の1992年にカザフスタンのウィグル語新聞『新生』に発表された。それによると、三区革命の指導者たちがモスクワに着くと、スターリンは彼らに「中国共産党の要求を受入れて」、「三区革命の立場を放棄しなければならない」と告げた。彼らはその時、「これに反対したという」。
 「三区革命が勃発した時、農民蜂起で最初の銃を撃ったのウィグル人のアイニだった。彼は当時連隊長で、教育はあまり受けておらず、戦争しかできない人だった。ある人が彼も北京の建国交渉に参加させるよう提案した。彼は、もし自分が行くなら、飛行機には乗らない、ロバで行くならいいが、ソ連に行く飛行機には乗らないと言った。彼はスターリンを疑っていた」。
 「当時五人がソ連に行ったが、全員死んだ。アフメトジャン・カスィミ注17は親ソ派だ。アブドキリム・アバソフ注18はサイプディン注19と親戚関係で中共派だ。もう一人はイスハク・ペグ・モノノフ注20で軍のトップだった[他の二人は、デレリカン・スグルバヨフ注21と、羅志注22]。サイプディンは当時は、部長級ではなく、庁長クラスの中級幹部にすぎなかった。1992年にアフメトジャンの秘書が書いた回想録によると、彼はソ連解体後に機密資料を見つけて買ったが、そこには、そこには「モスクワに行った三区革命の代表がスターリンの意見を受け入れなかったので、麻袋に入れて殴り殺された」と書かれていた。つまり「モスクワで殺された」のであり、「飛行機事故は作り話だ」。その後、この秘書もアルマトゥで殺された。
 アフメトジャンが死んだ後、毛沢東はサイプディンを北京に招いた。三区革命には、ソ連派、中共派、中立派(民族派)の3派があり、ソ連派が主流で、中級・下級幹部は中立派であった。重慶政府から張治中が派遣されて三区革命側と交渉したときは、この中立派(民族派)が主流だった。当時、軍の最高司令官はマスード・サブリ注23の弟・ラフムジャン・サブリだった(274~276ページ)。
 アフメトジャンは1949年スターリンと協議して、新疆独立を支援するよう求めた。ソ連は供給した銃と弾丸すべてについて支払いを要求した。「歩兵銃一丁が羊3匹、自動小銃が牛2頭」だ。約束が違うとアフメトジャンが問い詰めたので、彼は暗殺された。サイプディンが北京でどんな密約を結んだのか、知らない。いまだに明らかになっていない。
 王震は進駐したとき、ウルムチでこう演説した。「私たちが新疆にきた目的は侵略ではなく、新疆で社会主義を行うためであり、それが終われば戻る」と。宣伝ステッカーにも、「われわれは新疆に与えるために来たのであり、目的は社会主義の建設だ。社会主義を作り終わったら、撤兵する」と書かれていた。
 新疆建設兵団を造るのを見て、定住かと疑い、51名の連隊長以上の高級将校が秘密裏に会合を開いた。これが漏れて全員が逮捕された。1952年に東トルキスタン解放連盟が組織されたが、当時新疆主席兼新疆軍区司令官のサイプディンが摘発し、三区革命と全新疆の運命を彼が中国共産党に売り渡した。いまでも7割以上のひとがサイプディンを非難している(279ページ)。
 1990年にアクトゥ県バリン郷で農民蜂起が起きた。政府はこれを鎮圧するために、戦車やヘリコプターを出動させた。小さな郷に5~6万の軍隊を派遣し、全新疆で臨戦態勢を取った。一つの郷がつぶされ、生き残った者はごくわずかだ。きっかけは産児制限だ。政府はそれを強制し、注射を打って流産させたりした。バリン郷の農民蜂起は宗教者を中心とした行動で、彼らはアクス、ホタン、カシュガル、ウルムチで同時に蜂起しようとした。彼らは1990年のラマダンの17日目、予言者ムハンマドの従兄弟アリーが暗殺された日の一斉蜂起を計画していた。バリン郷事件の後、1年に3~4回は事件が起きた。政府と関係の良い郷長が暗殺されたり、どこかのモスクでアホンがクルアーンでは産児制限を呼びかけていると聞いて、そのアホンを暗殺した。1995年、ホタンで東トルキスタン・イスラム党が設立された。その第1の任務は「橋落とし」であり、政府と少数民族の橋渡しをしている人、民間の事情を政府に報告している裏切り者を皆殺しにする、橋落とし作戦だ。1997年2月7日にグルジャで武器を持たないことを示すために、シャツだけのデモ行進が行なわれたが、翌日全員逮捕された(290~291ページ)。

 3.民族間の矛盾
 王力雄がいう。「中国は新疆・チベット・内モンゴルなどの広大な領土を失うことを許さないだろう。もし失えば、人口の9割以上を占める漢人に4割の領土しか残らない。安全保障の視点から容認できない」と。
ムフタルが反論する。「そんなことを言ったら、日本が中国を侵略したことも正当化されてしまうじゃないか」。王力雄がいう「問題は中国の庶民に、他人が中国を占領するのは許せないが、中国が他人を占領するのは構わないと思わせていることだ」。ムフタル「当時ロシアは中央アジアの石油パイプラインをチェチェンを通ってヨーロッパに送るためにチェチェン独立を認めなかった。だが、そのために6000億ドルを失った。これはチェチェン全部を売り出しても引き合わないほどのコストだ」。
 王力雄曰く「チェチェンは小さいし、新疆は大きいから、その論理で中国人を説得できない」。ムフタル「それなら中国だって日本を責められない」(294ページ)。
 この対話は実に面白い。
 中国共産党はかつて、そしていまでも日本帝国主義の満洲国を非難し続けているが、それと同じ間違いを新疆で実行し、ウィグル人から批判されている。
 この点について王力雄が「民族問題に関しては漢族ショービニズムが非常に深刻だ。民主派、リベラル派、独裁派、いずれもたいした違いはない」と、中国知識人、中国文化の欠点を剔抉している。
 ムフタル曰く「漢人はイスラムに対して理解が足りないし、理解しようとしない。漢人は外の世界に対する理解が貧弱だから、物事を考えるときに一面的になり、自分たちの文化圏の発想で物事を考える。孔子がどう言ったとか、唐代の詩人がこういったとか」「私たちがこの問題を話しだすと、民族主義者とか分離主義者とみなされる。
 民族主義者とみなされるのは構わないが、私を分離主義者というとき、彼らは国の宣伝に乗っているだけで、問題を考えていない」。「漢族の知識人に比べて、ウィグル族の知識人は、国際情勢や各国の状況、各民族の状況、人種問題についてもっとよく知っている」。「新疆の公務員の5割以上が元軍人で、退役の際に公務員職を斡旋されたものだ。新疆教育委員会は大量の漢族学生を養成しているが、内地の大学に進学したら9割以上が戻らない。
 もしこのカネを少数民族の学生に投資したら、9割以上が戻ってくる。上海みたいな高給でも振り向かず、新疆で月給1000元の仕事を選ぶ。国家公務員のウィグル人は8割が学部卒以上だが、漢族は2~3割だ。残りの5割は退役軍人、3割は中等専門か、親のコネだ。彼らは一言もウィグル語を話せないくせに、「学力はことばに現れると抜かす」。ウィグル族と漢族の共存は本来可能だ。「いまの相互不信は制度が生んだもの」だ。
 「いかなる信仰も持たず、いかなる慎みも持たない民族」と、「信仰をもつ民族」が共存することは難しい。「彼らは社会主義の道をすでに放棄したから、いまや頼れるのは民族主義だけだ」。「自分たちの地位と共産党の存在を守るために、党の名義と民族の名義を一つに結びつけた」。「この宣伝の結果は、ナチスのような状況を生み出すだろう。当時のドイツ人はヨーロッパのすべての民族と共存できず、自らがすべてを統治するか、滅ぼされるかしかなかった。中国も共存できる空間がどんどん狭くなっている」(296~298ページ)。


 王力雄とムフタルの対話を長々と紹介したが、ここで止めよう。ムフタルの結論が私の認識とほとんど同じことが明らかになった。それは、
 第一に、中国共産党が社会主義の道を放棄したからには、辛うじて堅持されてきた「民族主義と国際主義の均衡」は破壊され、いまや頼れるのは民族主義だけだということ。そして、
第二に、その帰結は「ナチスのような状況を生み出す」ほかない、
 という展望である。本書の第四部「ムフタル宛ての3通の手紙」で、王力雄は必死にウィグル族との対話を求め、彼らに「中道」路線の採択を求めている。
 だが、遺憾ながら、王力雄の本は台湾でしか出版できない現実があり、彼の意見を中国共産党が取り入れる希望はほとんどない。





1 http://www.chinesepen.org/
2 《递进民主制规则》(草案)
第一条 1、社会公权组织以n(注)为基数逐层递选,以三分之二之多数产生当选者,任期不限,可随时以选举更换; 2、选举人不得选举自己。 第二条 各层块选举人和当选人组成其层块(含下属层块)的委员会; 第三条 众权组织可自愿采用或不采用递进民主制。 第四条 1、采用递进民主制的众权组织可自愿纳入公权组织委员会,其当选者为所纳入的公权组织委员会委员; 2、众权组织纳入公权组织的层次和层块取决于其成员人数及其所在区域,由法律具体规定; 3、任何组织不得重复纳入公权组织。 第五条 1、公民个人可同时参加多个公权组织委员会; 2、每个公民须至少参加一个公权组织委员会; 第六条 各层块(含下属层块)构成自治体,拥有上级层块未明确禁止的一切权力和不与上级法律相违反的自治。 第七条 委员会是各层块(含下属层块)最高决策机构,委员会以三分之二之多数通过、修改或撤销自治体的法律或法律性决定,以二分之一之多数撤销本层块行政首长的行政决定。 第八条 公权组织委员会制定的法律或法律性决定对辖区所有组织(包括众权组织和私权组织)及个人有效。下级层块与各类组织通过的法律或法律性决定如与所属上级层块的法律或法律性决定相违反,上级层块有权予以撤销,必要时给予制裁。 第九条 公权组织委员会选举的当选人为该层块(含下属层块)及其辖区的行政首长。 第十条 行政首长在本层块是委员会立法和决策的执行者,同时自动代表本层块成为上一级委员会委员。 第十一条 第二层级以上各公权组织委员会之当选人除担任本层块行政首长和上一级委员会委员外,不得兼任其他职务。 第十二条 协助行政首长履行公务的权力委让人、公务人员和职能机构组成人员由本层块行政首长或其委托人任命或聘用。其中重要职务人选需经本层块委员会以二分之一以上票数通过,并可随时由委员会以二分之一票数罢免。 第十三条 各级司法官由相应公权组织委员会以三分之二之多数选举产生,不得由该委员会成员兼任。司法官任期不限。委员会不得干涉司法官日常工作,但可随时以三分之二之多数对其罢免更换。 第十四条 1、各级检察官由相应的公权组织委员会以三分之二之多数选举产生,不得由该委员会成员兼任。检察官任期不限,委员会可随时以三分之二之多数对其罢免更换; 2、各级检察官负责确认下级层块的选举结果,接纳众权组织加入公权组织委员会,保证所有公民参加公权组织委员会,监督下级层块执行上级层块法律,并代表公权组织起诉。 第十五条 经逐层递选产生的公权组织递进委员会之最高层块为国家管理委员会。国家管理委员会通过国家法律,制定国家大政方针,选举国家元首,决定建交、断交或宣战、停战。 第十六条 国家管理委员会选举的国家元首为国家最高行政首长、主权代表及武装力量统帅。 第十七条 凡与本规则相违反的法律、法规、命令、决定及行为无效或违法。 第十八条 以上各条款的相关细节与操作程序由国家管理委员会以法律制定。 第十九条 各级法律的解释权属于制定其的委员会所选举的司法官。 第二十条 对按过渡条款第五条获得通过的《递进民主制规则》进行任何修改,须获得1、国家管理委员会全票同意;2、全社会十八岁以上有行为责任能力的公民二分之一以上票同意。 (注):n是一个范围,由法律确定和调节。确定n的原则为:此范围内所有人皆可实现充分的直接沟通。
附:过渡条款 第一条 现有公权组织及众权组织得以按原权力结构自发进行逐层递选,组成递进委员会;各级委员会自动取代原权力机构,在更高层块形成前进行内部自治,同时与原社会管理系统进行合作。 第二条 公民得以按本规则草案自发成立组织,在更高层块形成前实行内部自治,并与原社会管理系统进行合作。 第三条 凡实行递进民主的委员会皆得以按区域或系统自动组合为高一层委员会,继续逐层递选,直至产生国家管理委员会。 第四条 国家管理委员会完善本规则草案,制定配套法律,行使权力,健全递进民主制。 第五条 国家管理委员会成立五周年后,提出《递进民主制规则》定稿,经全民讨论后交全民表决,直至获得1、国家管理委员会全票同意;2、全社会十八岁以上有行为责任能力的公民二分之一以上票同意,为正式通过。 王力雄系列政论随笔:《递进民主—中国的第三条政治道路》第二篇 递进民主制第二章 什么是递进民主制(之二)。
3 http://www.dijin-democracy.net/, a website, A Successive Multi-Level Electoral System.
4 2004年現在、訳書15ページ。
5 これを「計画単列都市」と呼ぶ、日本の政令都市が都道府県と同格なのと似ている。
6 イリハム・トフティ(IlhamTohti,伊力哈木・土赫提) は、ウィグル族、38歳、経済学修士である。事件までは中央民族大学経済学院で「国際貿易理論と実務」や「新疆の社会経済」などを講義していた。東北師範大学を経て中央民族大学を卒業。その後韓国中央大学、パキスタン国家発展研究院(PIDE)などで研鑽を深めた。かつて北京市「師德先進個人」(優れた教師に与えられる),北京市「愛国立功標兵」,「中央民族大学優秀(共青)団幹部」などの表彰を受けたことがある優秀なウィグル族研究者だ。公開発表した論文は17篇だが、これらには「国家社会科学基金プロジェクト」や「国家民族委員会主宰の部级科研プロジェクト」のレベルに合格したものが含まれ、うち2篇の論文は北京市と新疆自治区の哲学社会科学論文2等賞に入選している。ここで紹介したい講演は、2005年12月9日に民族大学で行われた。新疆自治区成立50年を祝う記念イベントの一つとして行われたものであろう。ただし、7月5日事件以後、彼自身の作ったサイト「ウィグル・オン・ライン」(http://www.uighurbiz.net/)がブロックされ中国国内では閲覧できない。トフティ自身も逮捕され、釈放を要求する署名運動がこのサイトで行われている。
7 www.uighurbiz.cn/bbs hSG
8 この記述は、バイフティ・アルトルソン「新疆南疆地区社会経済発展の直面する問題、対策、意義」『西北民族研究』2003年2期からの再引。
9 戦争が終わったので、軍から他の民間産業に当該地区で職業転換する、の意。
10 社会的に弱い立場に置かれたグループを指す。身障者、少数民族など。
11 自治区政府主席や法院長など表向きトップの地位を少数民族に譲り傀儡政権扱いし、表向きナンバーツーの漢族党書記が事実上の権限を掌握する体制をとっている。
12 これは傀儡扱いに無自覚な、無邪気な、あるいは腐敗した少数民族幹部への苦言である。
13 これは日本の政令指定都市に似たもの。自治区と同じ資格で中央政府と折衝する特権をもつ。いいかえれば自治区政府とは無関係に独自の経済活動を行う独立王国的存在である。
14 01.农一师: 阿克苏市总人口26.6万人。02.农二师: 库尔勒市总人口19.7万人。03.农三师: 图木舒克市师市合一总人口8.3万人。04. 农四师: 伊宁市22万人口。05. 农五师: 博乐市总人口9.97万人。06. 农六师: 五家渠市师市合一总人口28.5万人。07. 农七师: 奎屯市人口总计20.6万人。08. 农八师: 石河子市总人口58.2万人。09. 农九师: 额敏县塔城地区总人口7.1万人。10. 农十师: 北屯镇阿勒泰地区总人口7.1万人[11なし]。11. 十二师: 乌鲁木齐市人口5.5万人。12. 十三师: 哈密市总人口7.8万人。13. 十四师: 和田市总人口2.5万人。14. 建工师: 乌鲁木齐市总人口6.0万人。15.农三师四十三团麦盖提县喀什地区。以上計229.9 万人 約230万人。
15 上海協力機構(漢:上海合作組織)は、中華人民共和国・ロシア・カザフスタン・キルギス・タジキスタン・ウズベキスタンの6か国による多国間協力組織。2001年6月15日、上海にて設立。2001年10月にアジア太平洋経済協力(APEC)首脳・閣僚会議が上海で開催されたが、これに先立ち上海の存在を国際的にアピールする結果となった。第1回設立会議が上海で行われたためこの呼び名となった。
16 盛世才は中華民国の新疆地区の政治家・軍人。1933年から1944年にかけて新疆を事実上の独立国のように統治した。その独裁的な治世から、「新疆王」とも呼ばれた。
17 ウィグル族、グルジアで生まれ、ソ連に留学。三区革命臨時政府委員、新疆省連合政府初代副主席を歴任。
18 ウィグル族、三区革命臨時政府委員兼宣伝部長、民族軍政治部主任を歴任。
19 セイプディン・エズィズィ(ウイグル語:Säypiddin Äzizi、中国語:賽福鼎 艾則孜、1915年3月12日~2003年11月24日)は、中国のウイグル人政治家。カナ表記では、サイフジン、サイプディン、セイピディン等とも表記。1915年新疆省アトゥシュ生まれ。アトゥシュで教員となり、教育改革運動に参加後、盛世才政権の留学振興政策により、1935~37年までタシケントの中央アジア大学に留学。帰国後、タルバガタイ区で出版活動に携わり、ウイグル文化振興会の秘書長を務めた。1944年にクルジャに東トルキスタン共和国が樹立されると、共和国政府の教育庁副長、1945年1月政府委員、教育庁長。1946年、親ソ派政治組織としてアブドゥルキリム・アバソフらにより設立された東トルキスタン人民革命党の中央委員、宣伝部長。1946年、東トルキスタン共和国政権と中国国民党系の新疆省政府が合同し、新疆省連合政府が発足し新政権の政府委員、教育庁長。1947年、省政府主席張治中の辞任を契機に、新疆連合政府が崩壊、アフメトジャン・カスィミら旧東トルキスタン共和国派とともに、イリに戻り、新疆人民民主同盟を組織。国共内戦後の1949年、イリ政権首脳陣が、北京の政治協商会議出席のための移動中に遭難すると、イリ政権を代表して、中国共産党政権への合流を表明、同年9月に政治協商会議に出席、政協委員に選ばれた。同月、中国共産党入党。中華人民共和国では、ウイグル族を代表する政治指導者として1949年12月新疆省政府副主席、新疆軍区副指令員、1951年中国共産党民族部部長、統一戦線部部長、新疆省幹部学校校長、中ソ友好協会副会長。1955年に新疆ウイグル自治区が成立すると、初代自治区政府主席、自治区共産党委員会書記、一級解放勲章受章、中将。文革中の1972年、自治区革命委員会主任、1973年6月自治区党委員会第1書記、新疆軍区第1政治委員。その後、中国共産党中央政治局候補委員(第10期、第11期)、1954~1993年まで、全国人民代表大会常務委員会副委員長(第1期~第7期)、1993年、中国人民政治協商会議全国委員会副主席(第8期)。賽福鼎『賽福鼎回憶録』華夏出版社 1993年。
20 キルギス族、ソ連のフルンゼ軍事学院に留学。盛世才時代に旅団長、三区革命の才に総司令官。
21 カザフ族、民族軍の副総司令官。
22 漢族、元東北軍、ソ連に留学、新疆共産主義者同盟副書記。
23  ウィグル族、新疆省連合政府主席、中共政権によって処刑された。



(2011年2月1日擱筆) 
以上 

               
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