第65号 2011.12.28発行 by 矢吹 晋
    書評・服部龍二著『日中国交正常化』を評す
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『日中国交正常化』の表紙

 服部龍二教授の新著『日中国交正常化』は2011年5月に中公新書として出版された。2012年は田中訪中40年であり、その前夜に40年前の歴史を顧みて、未来の道筋を探ることは、時宜を得たテーマであるから、早速手にした。一読して、駄作と感じた。「田中角栄、大平正芳、官僚たちの挑戦」というサブタイトルが付されているが、本書の実質は「官僚たちの挑戦」の自画自讃に終始して、田中や大平の肉声は聞こえてこない、敢えていえば抹殺されたに等しい。「本当の政治主導とは」と帯封に書かれているが、私は「本当の官僚主導とは」と誤読したほどだ。私はこの本に深い失望を禁じ得なかったが、若い研究者を挫くことは老人としてあるまじきことと考えて、書評を控えていた。
 しかし、本書は毎日新聞アジア調査会の設けたアジア太平洋賞を得たかと思うと、ついには朝日新聞大佛次郎論壇賞を得た。前者の会長は栗山尚一元アメリカ大使である。官僚礼讃の手前味噌に賞を与えたとしても、ご愛嬌と一笑に付すべきかもしれない。ところが、大佛次郎論壇賞の審査委員諸氏は、佐々木毅元東大総長、山室信一京大教授、橘木俊詔同志社大教授、米本昌平東大特任教授、朝日新聞論説主幹大軒由敬等、日本を代表する識者と見られている人々だ。
 愚作・駄作がここまで持ち上げられると、もはや一人歩きして、この本に書かれた誤謬の数々が一人歩きするであろう。これは看過すべきではない。
 何が問題か。服部の「第11回大佛次郎論壇賞受賞」記念のエッセイから、三つのキーワードを選び、検討してみよう。まず、チャイナスクール外し。次いで尖閣諸島問題。最後に、日中講和の精神、である(『朝日新聞』2011年12月22日)。講和の精神を説いて、服部はいう。「日本人はあの戦争を忘れないし、そのことを前提に中国人は寛容の心で日本と向き合う。そして日中両国は、ともに善隣友好関係を築いていく。それが日中講和の精神ではなかろうか」。 「日本人はあの戦争を忘れない」----これを「日中講和の精神」と見なし、この精神で「善隣友好関係」を築く。これは一見、優れた見識に見える。では、服部は、新著で「日中講和の精神」をどのように描いたか。
 いうまでもなく田中角栄・周恩来会談のハイライトは、1972年9月26日午後に行なわれた第2回首脳会談である。冒頭、周恩来は、前夜の田中挨拶の一句「ご迷惑」に触れてこう批判した。「田中首相の『中国人民に迷惑をかけた』との言葉は中国人の反感をよぶ。中国では迷惑とは小さなことにしか使われないからである」。
 このシーンを服部は、こう描く。「その模様を橋本は、「(周総理は)怒髪天をつかんばかりの怒り方だったですからね。大平さんは一瞬蒼くなっちゃった」と述べる注1。この記述の典拠は同行取材した当時TBS田畑光永記者の30年後の回想からの引用だ。
 服部はこう続ける。「スピーチを酷評された田中は、言い返さなかったのか。日本外務省記録には出てこないが(a)、田中は「ご迷惑」を周に批判されると、その場で言い返していた(b)。田中自身が、次のように述べたと記している」と注2
 日本外務省記録には出てこないが(a)と、服部は、あっさり片づけるが、その結果、何がもたらされたか。服部が引用したすぐあとで田畑記者は、こう続けている。「この周発言に田中首相がどう答えたのか、あるいは沈黙したままだったのか。どこにも記録がないところを見ると、後者だったのではないかと思われる」注3 。この田畑記者の一文は、同行記者として田中の肉声を聞き、その後外務省記録を精査して30年、神奈川大学教授当時に書いたものだ。この田畑記者・教授の文章は誠実な元ジャーナリストの一例だが、日本外務省記録に記述のないことが、このような印象を残したのである。日本外務省記録には出てこない(a)事実の重みが服部にはまるで理解できていない。
 服部は続けてこう書く。「その場にいた橋本に確認したところ、「『ご迷惑』発言については、[田中自身が]周発言の直後にちゃんとやりましたよ(c)」とのことだったと記述し、その典拠として、服部自身による「橋本へのインタビュー2008年11月8日」注4 を挙げている。これはきわめて重大な証言なのだが、その深刻な意味に服部は気づいていない。
 なぜ、重大、なぜ深刻なのか。「その場にいた橋本」は、外務省首脳会談の記録に残す義務を負うからだ。にもかかわらず、その後情報開示によって明らかにされた記録には、この部分が削除されている。誰がなぜ削除したのか。それは許される行為か。公的記録の改竄ではないのか。
 後に外務省が情報開示した記録によると、田中は「大筋において周総理の話はよく理解できる」と述べたことになっている。田畑記者はこの文面を文字通り受け取って、「沈黙したままだったのか。どこにも記録がないところを見ると[下線は矢吹]、後者だったのではないかと思われる」と推測したのだ。
私自身は、「怒髪天をつかんばかりの怒り方」をした周恩来発言に対して、田中が「大筋においてよく理解できる」と答えたとは到底信じられない。この記録は修正が行われているに違いないと確信して、調査を始めた。2010年代初頭、折からの小泉首相による靖国参拝と江沢民主席による反日政策のもとで日中関係が急速に悪化していたときだ。
 私は、まず田中の帰国後の一連の発言を細大漏らさず集め注5 、ついで、中国に出向いて、中共中央文献研究室や中共中央党史研究室を訪ねて、日本外務省記録で削除された部分の復元を試みた。その内容を、私は春の定年を前にして、2004年1月26日横浜市立大学最終講義で「日中誤解は迷惑に始まる」と題して講義した。注6 では、 その場で言い返していた(b)という服部の表現は適切か。言葉尻をとらえるものと誤解されかねないが、敢えて書く。「言い返す」という表現は、当時の周恩来・田中会談の雰囲気に最もふさわしくない描写であり、ここに服部の問題認識が浮きでている。それは会談の文脈を調べると自明である。
 中共中央文献研究室の陳晋研究員が未公開資料を外国人に閲覧させることはできないが、該当個所を書き抜いた一節として、私に与えた紙片には、こう書かれていた。
 ・田中: 日本語と中国語とは、言い方が違うのかもしれない。
 ・周恩来: 訳文が好くないかもしれない。この箇所の英訳は「make trouble」です。
 ・田中: 迷惑とは、誠心誠意の謝罪を表します。この言い方が中国語として適当かどうかは自信がない。迷惑という言葉の起源は中国だが。
 ここで中国側が「誠心誠意の謝罪」と訳した部分の田中の日本語発言は、彼の自民党における報告会での記録によれば、「東洋的に、すべて水に流そうという時、非常に強い気持ちで反省しているというのは、こうでなければならない」[下線は矢吹、以下同じ]と語った可能性がある。あるいは二階堂長官のブリーフィングから推測すれば、「万感の思いを込めておわびするときにも使うのです」と説明、弁明したはずだ。
 さて、田中・周恩来会談で合意した内容をを確認したのは、9月27日夜8時の毛沢東書斎における会見であった。ここには田中のほか大平外相・二階堂官房長官のみが招かれ、日本側は通訳も書記もいなかった。会見の模様は、二階堂長官による記者会見のみが唯一の日本側資料である。2011年12月22日の情報開示に含まれていたのは、この部分であるが、内容は当時のマスコミ報道と変わりがない。
陳晋研究員が示した中国側記録を訳して見よう。
 ・毛沢東: あなた方は、あの「添麻煩」問題は、どのように解決しましたか。
 ・田中: われわれは中国の習慣にしたがって改めるよう準備しています。
 ・毛沢東: 一部の女性の同志が不満なのですよ。とりわけ、あのアメリカ人注7 は、ニクソンを代表してものを言うのです。」注8
 最後の発言は毛沢東一流のジョークであろう。日本側通訳はいなかったが、毛沢東は日本語通訳二人(林麗韞、王效賢)のほかに、英語通訳も同席させていたことが分かる。いずれにせよ、毛沢東は冒頭、「どのように解決しましたか」と過去形で尋ね、田中が「中国の習慣にしたがって改めるよう準備しています」と答えたのは、一つは共同声明に盛り込む文言を指すであろうし、また会談記録で、「ご迷惑という日本語部分の中国語訳が不十分ならば、適当な表現を中国側から提起してほしい。それをもって田中自身の謝罪とする」とまで相手側の胸中に踏み込んだ田中の姿勢を説明したものと読める。
 こうして、田中・周恩来の間で誤解が解け、それを追認するセレモニーが毛沢東書斎で行われた経緯は、当時の二階堂長官の記者会見等からすでに明らかであった。とすれば、ここで醸成された相互理解こそが「日中講和の精神」と呼ばれるべきであろう。
 以上の文脈を顧みると、その場で言い返していた(b)という服部の表現は、まるで状況にそぐわない拙劣な表現である。ここで田中が「言い返していた」ならば、会談は決裂したに違いない。田中・周恩来会談の急所について、かくも安易な杜撰を行う著者が「日中講和の精神」を語っても、到底素直に受け入れられないであろう。
 次にキーワード尖閣諸島はどうか。服部の受賞エッセイは言う。尖閣問題は「そもそも議題にしなかった」、「中国は事実上、尖閣諸島を放棄したと見なされてもやむをえない」、「国交正常化で主張しなかった領土について、いまさら中国固有の領土に組み込もうとするのは不可解」と記している。これまた相当に乱暴な一方的主張であり、これが「日中講和の精神」ならば、いよいよ日中関係は危うい。
 最後のキーワード「チャイナスクール外し」の功罪は、あとで触れる。
本書は、日中国交正常化を論じるに際して、栗山尚一や橋本恕の一方的な主張・回顧を書きとめたにすぎず、中国側の対日政策・対日像はほとんど浮かび上がらない。これでは中国不在の日中交渉にならざるをえない。このような駄作・欠陥商品が、日中国交正常化40周年に出版され、二つの新聞社が持ち上げたことは、日中の相互誤解を促進するおそれが強い。日本外務省による資料改竄が日本の世論を誤って導いた一例を、私はTBS田畑記者の誤解に即してすでに説明したが、より深刻なのは、この改竄が中国側に与えた衝撃であるはずだ。
 改竄の嚆矢は、1988年9月外務省中国課が執務資料としてまとめた『日中国交正常化交渉記録』である。その後、情報開示法に基づいて公開された会談記録は、88年にタイプ印刷物に収められたものと同一であり、岩波書店等の資料集に収められたものはこれである。
 1972年の田中訪中から20年を経て、1992年には天皇訪中も行われ、日中間の歴史問題はすべて全面的に解決した、と日中双方の関係者が安堵したのは、天皇訪中が成功裏に終わった時であった。かつて青嵐会の闘士として田中訪中反対の急先鋒であった渡辺美智雄は外相として訪中に随行し、20年の歳月の変化を印象づけた。
 ところがまさに橋本恕が駐中国大使として尽力したとされる天皇訪中の直後から、日中間のさざなみが広まり深まる。最初の一石は「チャイナスクール外し」の中国課長として交渉の実務を担当し、その後ア ジア局長を経て中国大使を務めていた橋本恕の証言であった可能性が強い。
 92年9月27日にNHKが放映したテレビ番組で、当時の駐中国大使が田中訪中の往時を回顧して「ご迷惑」という言葉の選択は正しかったと繰り返したことだ。注9 国交正常化20周年に行なわれた橋本恕証言は、田中の必死の釈明、あるいは真意説明を帳消しにする役割を果たしたことで、責任はきわめて重い。日本語の”添了很大的麻烦,我对此再次表示深切的反省”と中国語”很遗憾的是。。。。给中国国民添了麻烦”、二つの表現のニュアンスの差異が問題になり、これは「外務省の翻訳間違い」ではないか、と「誤訳の問題」として中国側は処理しよとうした形跡がある。ところが、橋本は、意外にも「断じて翻訳の問題ではない(绝不是翻译的问题)」と断言してしまった。「迷惑」を「麻煩」と訳したのは、誤訳ではなかったかというNHK記者の問いかけに対して、橋本は「決して翻訳上の問題ではなく、当時の日本国内世論に配慮したギリギリの文章であった」と答え、次のように補足した。「私は何日も何日も考え、何回も何回も推敲しました。大げさに言えば、精魂を傾けて書いた文章でした。もちろん大平外務大臣にも田中総理にも事前に何度も見せて、「これでいこう」ということになったんです」注10。実はこれはすれ違い問答である。橋本の念頭にあるのは「迷惑」の2文字だけで、その訳語ではない。にもかかわらず、誤訳か否かと問われて、誤訳ではないと橋本は答えてしまった。橋本が大平や田中に対して、訳語の話をした形跡はない。日本語の「迷惑」を基調として挨拶文を書いたという話だけなのだ。記者が問うているのは、日本語の「原文そのもの」ではなく、その中国語訳であるにも関わらず、聞き手の記者も、答える橋本も、そのすれ違いに気づいていない。これが国交正常化20周年の弛みきった日中関係であった。橋本がもし原文の推敲に費やしたエネルギーの一割でも、中国語訳文の推敲に費やしていたならば、歴史的誤解は避け得たはずだが、「チャイナスクール外し」によって手柄を独占しようとした橋本には、その核心が見えない。こうして橋本は日中誤解を無意識のうちに増幅する基礎を作った。
 すなわち20周年までは、「田中のご迷惑=誠心誠意的謝罪」と「橋本のご迷惑=添麻煩」、二種類の説明が玉虫色で併存していた。しかしNHK番組における橋本の断定および田中の発言を削除した日中会談記録が流布した結果、田中謝罪が消えて、「橋本流のご迷惑」が日本政府の公式見解に格上げされる結果となった。NHKは翌1993年、番組を活字化して『周恩来の決断』という本を出版し、これは翌94年に中国語訳された。
 この中国語訳に、日本語原本にはない、姫鵬飛外相の回顧録「飲水不忘掘井人」注11 が付されたが、これは意味深長な付加であった。私自身は、偶然のいきさつから注12 、この文章をまとめた李海文さん(中共中央党史研究室研究員)から直接教示を受けて、その意味を調べることになるが、それは、この本が出てから数年後のことだ。姫鵬飛回想録はその後『周恩来的最後歳月』(中央文献出版社、1995年)等に再録され、また張香山、呉学文等、中国側関係者も回想録等の形でこの問題に言及しているので、いまでは中国側の立場はほとんど明確になっている。これらの証言を率然と読むと、問題の所在が分からなくなる。実は、私が『東京人』2011年11月号で経過を書いたように、日本外務省による会談記録改竄を契機として発表されている。しかもNHK『周恩来の決断』中国語版の「付録」という実にさりげない形で発表されたことに注目したい。
 その後、1995年前後から江沢民流の愛国教育運動という形の反日運動が広範に展開されたが、そこで大衆を煽動する口実として最も広く用いられたのが「戦争を謝罪しない日本」という罵倒の決まり文句であった。大平は1980年に急逝し、田中は93年に死去したが、もし彼らが存命ならば、中国側の誤解と、誤解へ導いた橋本の解釈を激怒したに違いないのだ注13 。当時、外務省は誤解を解く努力をどのように行ったか、はなはだ疑わしい。会談記録改竄に責任を負う橋本や、栗山のような向米一辺倒の高官が外務省を牛耳るなかで、日中関係の悪化は、日本の防衛力増強、日米安保再強化の口実として逆用されることになる。日本側の会談記録改竄が中国側に与えた対日不信の大きさは、江沢民の反日運動 注14によって逆証明できるかもしれない。田中、大平亡きあとの、栗山や橋本の饒舌は、まさに「鳥なき里の蝙蝠」であり、見苦しい。
 服部は前掲『朝日』エッセイの冒頭で、日中交渉について、「チャイナ・スクールは(交渉あるいは意思決定から)外されていた」としたり顔に書いている。その直接的結果、何がもたらされたのかを補足しておく。「田中のスピーチを中国語訳したのは、小原育夫である。中国で生まれ育った小原は、母国語のように中国語を操り、東京外国語大学でも中国語を学んだ。その小原が、肝心なところで誤訳するだろうか」注15
 これは問題の設定を間違えている。橋本の起草した「ご迷惑」を文字通り「添麻煩」と訳したことの是非は、一つの論点である。小原が田中の真意を知るならば、おそらくこの訳語にはなりえないはずだ。逆にいえば、小原は橋本に忠実に翻訳したが、それは田中の真意とは異なっていたことになる。
 より重要な問題は田中が第二回会談で必死に「万感の思いを込めて」と力説した時点の後で訳語をどのように訂正すべきかである。田中の「ご迷惑」を「添麻煩」と訳したことが大問題になったことを知る立場にありながら、「(訳語は)プラスもしなければ、マイナスもしない。にあった言葉を探してくるほかない」注16 と開き直る。これは外交官の言葉といえるであろうか。今どきのロボットでさえも、相手の表情を読み取り、言葉を選択するではないか。「ご迷惑」=「添麻煩」で済むとは、とんでもない開き直りではないか。少なくとも田中が「ご迷惑」=「誠心誠意的謝罪」と弁明した後では、田中の真意とずれていたことを認めつつ、ただし、翻訳した時点では田中の真意を知らなかったと正直に語るのが、人としての常識ではないか。
 栗山は、服部のインタビューに答えて、「小原育夫君という当時の外務省の中国語の第一人者が通訳をした」と述べている。注17 小原は1964年外務省に入省した。1972年には、入省8年目の若手である。中国語は得意だとしても、政治判断が可能かどうか。その判断は適切か。栗山が「当時の外務省の中国語の第一人者」と呼ぶのは、いわゆるチャイナ・スクールを外した人材の中で、第一人者の意か。中国語を解さない橋本の判断を、向米一辺倒の栗山が推す。これでは日中対話は成り立たない。「チャイナ・スクール外し」などと軽々しい自慢話をするから、馬脚を現す。
『楚辞集注』贈呈の意味
 毛沢東が田中に『楚辞集注』を贈呈したことについて、さまざまの解釈が行われてきたことは周知の通りである。では「毛は、なぜ田中に『楚辞集注』を贈ったのか」「橋本は、作詩の参考に供するためだったと解する」として、橋本の解釈をこう書いている。「田中さんが詩を作ったり、詩を勉強するのであれば、これがいいだろうと言って、『楚辞集注』を田中さんに詩をつくる参考になるようにということで上げた」注18 。田中から毛沢東への土産は、東山魁夷画伯の「春暁」(20号)、周恩来へは杉山寧画伯の「韵」(20号)であった。これに対して毛沢東が『楚辞集注』をお返しとしたことはよく知られていたが、橋本の解釈は「作詩の参考に供するため」というものであり、これは当時の時点で各紙がこの説を紹介し、同時に「もし作詩の参考ならば、『唐詩選』がよりふさわしい。『楚辞集注』はふさわしくない、と見る識者のコメントもしばしば行なわれた。服部は「2008年11月8日のインタビュー」として、橋本が国交正常化36年後も依然、「作詩参考説」を堅持したことを記している注19 。問題はその典拠である。服部の第8章注17を見ると、「通訳の周斌は、毛が『楚辞集注』をニクソンにも贈っており、他意はなかったと述べている」 と解説している注20
 私はこの記述に接してたいへん驚いた。「毛が『楚辞集注』をニクソンにも贈った」とする新説は、これまで見たことがないし、ありえない話と考えられるからである。服部が周斌の言として引いているのは、久能靖「角栄・周恩来会談、最後の証言」注21 である。久能の「なぜ毛主席がこの本を選んだのか、について、日本では、西の秦に責められ、亡びてしまった楚の政治家、屈原に[田中を]なぞらえたのだ、という解釈もありましたが」という問いに周斌はこう答えた(と久能は記している)。「いや、それは違います。毛主席はニクソン大統領にも同じ本を贈っているのですから。毛主席は大変な読書家で、単に愛読書を贈った、というだけのことです。全く他意はありません」と周斌が述べたという。
 周斌は、毛沢東が田中に『楚辞集注』を贈る前に、「ニクソンにも同じ本を贈った」と語った由だが、これは根拠のない憶測である。このような事実は、中国でも米国でもこれまで一切記録されていない。周斌の記憶違いと見るほかない。そのような間違った記憶に基づいた雑誌記事を根拠として、橋本の「作詩説」との関係は問わぬままに、安易に注釈に付記する服部の書き方は、まともな研究者のやることではない。実は久能靖のインタビューに対する周斌発言については、これが『文藝春秋』に発表された当時から、識者から疑問が提示されていた。その一つを紹介しよう----。
 「1972年9月の田中角栄訪中で中国側通訳の一人だった周斌氏(当時外務省職員)とのインタビューには、既に公開されている公式文書の内容と食い違う部分もある。「(田中訪中時の)一連の会談の中で、日米安保についての議論はなかったのですか」との(久能記者の)質問に対し、周斌氏は「1度も議論されていません」と答えている。だが、情報公開法に基づいて開示された日本外務省の記録によると、周恩来首相は田中との第2回会談で次のように述べている。「日米安保条約問題について言えば、わたしたちが台湾を武力で解放することはないと思う。(台湾防衛の方針を確認した)1969年の佐藤(栄作首相)・ニクソン(米大統領)共同声明は、あなた方には責任はない」「われわれは日米安保条約に不満を持っている。しかし、同条約はそのまま続ければよい。国交正常化に際しては、同条約に触れる必要はない。われわれは米国を困らせるつもりはない」。これに対して、田中は「大筋において、周総理の話はよく理解できる」と応じた。周は第3回会談でも「日米安保条約には不平等性がある。しかし、すぐに廃棄できないことはよく分かっている」と発言している。つまり、周と田中は一連の会談で、日米安保の問題を取り上げた上で、これを日中国交正常化の障害にはしないことで一致したのだ。田中・毛沢東会談(日本外務省は「記録は残っていない」としている)に関しても、周斌氏は、「儀礼的なもの」で政治的な話は一切なかったと語った(ただし、同氏は会談に出ていない)。確かに、田中に同行した当時の二階堂進官房長官も、記者団にそう説明していた。しかし、中国外務省と共産党中央文献研究室が編集した『毛沢東外交文選』(1994年)に掲載された会談記録(一部)には、以下のような毛の発言が収録されている。「あなた方がこうして北京に来て、全世界が戦々恐々としている。主にソ連と米国、この二つの大国だ。あなた方がこそこそ何をしているのだろうと思って、彼らはあまり安心していない」「彼ら(ニクソンら)は今年2月に(中国に)来たが、国交はまだ結んでない。あなた方は彼らの前に走り出た。(ニクソンらは)心中、あまり気分が良くないだろう」「われわれがもっぱら(外国の)右派と結託していると非難する人もいる。(しかし)日本でも、野党が解決できない問題、中日復交問題はやはり自民党の政府に頼るとわたしは言っている」。毛沢東は大国外交について論じていた。しかも、かなり生々しい話であり、田中・毛沢東会談が全く政治抜きだったとは言い難い、(とこのジャーナリストは論評した)注22
 『文藝春秋』(2007年12月号)に久能のインタビューが掲載された当時、この匿名のジャーナリストは、周斌発言の危うさを指摘した。この引用から分かるように、周恩来も毛沢東も、中ソの敵対関係の深刻化やニクソン訪中を意識しつつ、田中を歓迎していたことは、当時の国際情勢からして自明であろう。
 加えて、毛沢東は田中の「ご迷惑」という日本語に知的興味を示しつつ、「迷惑の使い方は、田中さんが上手だ」と苦笑し、中国語の「迷惑mihuo」は、『楚辞集注』に書いてある通り、日本語とはまるで意味が異なることを示す証拠として、6冊の線装本を用意していたのだ。
 毛沢東・周恩来の用意周到な気配りを考えると、橋本の作詩指導説は、根拠薄弱の曲解にすぎないことが分かる。チャイナスクール外しを行わなかったならば、外務省事務当局が毛沢東の真意を読みきれたかどうかは不明だが、外交とは、そもそも相手側の真意を読み切った上で、自らの要求を獲得することだ。相手側の意図がまるで分からない場合、外交はそもそも成り立たない。
 「通訳の周斌は、毛が『楚辞集注』をニクソンにも贈っており、他意はなかったと述べている」と無知な周斌・久能靖に責任を転嫁しつつ、橋本の俗説を補強したつもりになっている服部の中国理解の危うさがここに象徴される。
結びに代えて
 繰り返すが、私が橋本中国課長(のち中国大使)による日中国交正常化記録改竄をきわめて遺憾に思うのは、まさに彼の改竄によって、中国側の対日不信の直接的根拠を作っただけでなく、日本側が江沢民流の反日キャンペーンに異議申し立てを行う論拠を失わせた点である。田中の謝罪は、元来中国側の対日専門家にとって自明の事柄であった。それが外務省記録の改竄によって新たな火ダネが日中間に生まれ、広がり拡大したことが、国交正常化20~30年の日中相互不信の大きな要因の一つであり、その後遺症が40周年の今日まで続いている。
 このような日中相互不信の内実にまるで無頓着に、日中講和の精神を語り、官僚の放言に近い談話をもって、「埋もれていた現代史」を繙くとは、百害あって一利なしではないか。国交正常化から40年、日本の若手研究者がここまで視野狭窄に陥り、国内の交渉体制、あるいは主張を論ずれば十分と認識しているかに見えるのは寒心に堪えない。服部が中国側文献をどのように読んだか、はなはだ疑わしいところがある。もしかすると日本語訳しか読んでいないのではないか注23 。私が超ドメスチックな議論であり、中国不在の日中交渉論ではないかと断ずるのは、このことだ。誤解であれば、幸いである。(2011.12.24)



 
1 石井明ほか編『記録と考証、日中国交正常化、日中平和友好条約締結交渉』岩波書店、2003年、241-2ページ。橋本の回想は、NHK2002年9月28日放映の発言と同じである。橋本の発言が同趣旨ならば、服部のインタビューによって新たに明らかになったものはなにか。追加された未公開情報はなにか。これがほとんど見当たらない。逆に、インタビュー対象者・橋本に感情移入した匂いが濃厚である。
2 服部龍二、『日中国交正常化』151-2ページ。
3 田畑、245ページ。
4 服部、153ページ、240ページ注。
5 田中一行は9月30日午後一時前に羽田着の日航特別機で帰国した。空港を出た後皇居で帰国の記帳を済ませ、自民党本部で椎名副総裁、橋本幹事長ら党執行部と懇談、引き続き午後2時20分から官邸で臨時閣議を開き、国交正常化考証の経過と成果を報告し、午後3時すぎから首相官邸でテレビ中継の記者会見に臨んだ。さらに4時すぎから自民党両院議員総会に出席し、共同声明について党の最終的了承を求め、台湾派の野次と怒号のなかで自民党は田中報告を了承した。この過程で田中は、迷惑問題について幾度も語っている。だが、服部はこれらを一切無視して、1984年11月号の『宝石』に寄せた「いま始めて明かす日中国交回復の秘話」から引用する。この「秘話」に特別の内容はなく、もし田中の真意を探るのならば、私が試みたように、帰国直後の証言が最もふさわしいはずだ。
6 その中国語訳は「田中角栄与毛沢東談判的真相」のタイトルで『百年潮』2004年2月号に発表され、次いで『新華文摘』2004年10号に転載された。この講義に大幅加筆したものが「田中角栄の『迷惑』、毛沢東の『迷惑』、昭和天皇の『迷惑』」のタイトルで『諸君!』2004年5月号に掲載され、のち、『激辛書評で知る中国の政治経済の虚実』日経BP社、2007年に収められた。
7 原注、英語通訳唐聞生を指す。
8 拙著、109ページ。
9 NHK取材組編『周恩来の決断』の中国語訳は、この件を次のように訳している。关于”麻烦”一语,当初有一种说法是外务省的翻译有错误。的确,日文的”添了很大的麻烦,我对此再次表示深切的反省”与中文的”很遗憾的是。。。。给中国国民添了麻烦”,在语感上有相当差距。但是,参加田中首相致词撰稿的当时外务省中国课长桥本恕却说,绝不是翻译的问题,考虑到日本国内舆论,那已经是到了极限的提法了。桥本恕说;”我考虑了不知多少天,推敲了不知多少次,夸大一点说,是绞尽脑汁写出的文章。当然也给大平外务大臣田中首相看了几次,得到了他们的同意。第105页。
10 『周恩来の決断』日本語版、152ページ。
11 この姫鵬飛回顧録は、末尾に「李海文整理」と注記されている。李海文によると、これは姫鵬飛の談話をまとめた形になっているが、実は膨大な関連資料から、姫鵬飛外相に直接関わる部分を李海文がまとめて姫鵬飛の校閲を得て発表したものである。日本外務省による記録改竄を意識しつつ、中国側資料を整理した点に着目すべきである。
12 その経緯は、「周恩来『19歳の東京日記』から始まる歴史のif」『東京人』2011年11月号に記した。
13 たとえば田中訪中直後の1972年10月国会における大平演説(第70回国会、昭和47年10月28日に大平は、次のように信条を吐露している。「私は、何をおきましても、日中相互の間に不動の信頼がつちかわれなければならないと考えます。われわれはお互いのことばに信をおき、かつ、お互いのことばを行為によって裏書きすることが必要であると思います。(拍手)さらに、両国が、アジア地域の平和と安定、秩序と繁栄に貢献することが肝要であると思います。そのためにわれわれは何を行なうべきか、何を行なってはならないかについて、正しい判断を持ち、慎重に行動すべきであると考えております。日中両国は、このような不動の信頼とけじめのある国交を通じてのみ、両国間に末長き友好関係を築き、発展させることができるものと考えます。政府としてはこのためにせっかく努力をいたす所存であります。(拍手)」下線は矢吹による。国交正常化交渉に臨んだ大平の信念はここに明らかだ。
14 その直接的根拠は旧ソ連解体と東欧圏の崩壊という激震に対して、中国指導部が深刻な危機意識を抱き、国内体制の引き締めを反日ナショナリズムによって乗り切ろうとしたことは明らかだが、もし田中や大平のような精神で日本が導かれていたならば、反日運動はたとえ試みたとしても困難であったはずだ。
15 服部、140ページ。
16 服部、141ページ。
17 栗山尚一『外交証言録、沖縄変換・日中国交正常化・日米密約』岩波書店、2010年、130ページ。
18 服部、174~175ページ。この『楚辞集注』に服部は「そじしゅうちゅう」とルビを振る。これは「そじしっちゅう」と読むのが日本漢学の伝統だ。さらに「中国古典の注釈集」と形容句を付しているが、これも一知半解である。なお、ジャーナリスト横堀克己は当時通訳を勤めた王效賢のインタビューをもとに「主席はこの本が大好きだったからに違いありません」と、王效賢説を紹介している(岩波、264ページ)。だが、毛沢東の愛読書は、この本に限らない。なぜこの本を選んだのかは、当時の通訳にも不可解であったことが分かる。
19 服部、241ページ注17。
20 服部、同上。
21 久能靖「角栄・周恩来会談、最後の証言」『文藝春秋』2007年12月号、365ページ。久能は日本テレビのアナウンサーとして田中訪中の同行取材陣の一人であり、そこで面識を得た周斌を「日中国交正常化35周年の今夏」(すなわち2007年夏)にインタビューし、この文を発表した。
22 「日中メディア批評」第8号、筆者はジャーナリストXZ氏。サイトは、http://www.21ccs.jp/xz/xz_08.html
23 服部、152ページで、「田中[角栄]が真意を説明すると、周[恩来]は納得した」とする箇所に倪志敏「田中内閣における中日国交正常化と大平正芳」『龍谷大学経済学論集』しか挙げていないが、その博士論文を指導したのは矢吹であり、そこでは矢吹の指示した資料が用いられている。服部のスタンスが日本官僚から見た日中国交正常化の色彩が強いのは、そもそも中国側文献を読まない、あるいは日本語訳のみに依拠したためかもしれない。
以上 

               
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