第66号 2012.03.06発行 by 矢吹 晋
    国交正常化40年に当たり日中相互不信の原点を探る・2
―外務省高官は、いかなる国益を守ったのか―
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 服部龍二著『日中国交正常化』に対する書評の形で、外務省高官(橋本恕中国課長、中国大使)に関わる諸問題は既に指摘した。小稿では、そこに書き漏らした外務省条約局に関わる諸問題をまとめて、日中国交正常化40年の覚書とする。日中共同声明の原案を執筆した条約局の中国認識はどのようなものか。彼らは対米従属の論理と心情に緊縛されて、あやしげな非論理を繰り返してきた。中華人民共和国が台湾を実効支配していない事実を一面的に強調しつつ、蔣介石政権の実効支配なき大陸について賠償問題は解決済みとしたのは、途方もない虚構に自縄自縛されたものではないか。


 田中角栄訪中を報告した1972(昭和47)年10月国会における大平演説から、台湾問題についての大平見解を読み直してみよう。年10月28日の第70国会初日に、大平外相は台湾問題について、こう述べている。「次に、台湾の地位に関してでございますが、サンフランシスコ平和条約により台湾を放棄したわが国といたしましては、台湾の法的地位につきまして独自の認定を行なう立場にないことは、従来から政府が繰り返し明らかにしておるとおりでございます。しかしながら、他方、カイロ宣言、ポツダム宣言の経緯に照らせば、台湾は、これらの両宣言が意図したところに従い中国に返還されるべきものであるというのが、ポツダム宣言を受諾した政府の変わらない見解であります。共同声明に明らかにされておる「ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」との政府の立場は、このような見解をあらわしたものであります」。
 大平見解が二つの内容から構成されることは、明らかである。
 一つは「台湾の法的地位 」について「(日本が)独自の認定を行う立場にない」と、自己認識していること。もう一つは、「カイロ宣言、ポツダム宣言の経緯」に照らして、「(台湾は) 中国に返還されるべきものである」と日本政府が認識していること、
 以上2点である。この2点を述べた直後に、大平は次のように、自らの信念を吐露している。この部分は、いわば日中国交正常化に臨んだ大平の信念を直截に語ったものであり、大平演説のカナメをなすと私は受け止めている。大平曰く、
 「私は、何をおきましても、日中相互の間に不動の信頼がつちかわれなければならないと考えます。われわれはお互いのことばに信をおき、かつ、お互いのことばを行為によって裏書きすることが必要であると思います。(拍手)」
 大平はここで「ことばへの信」と「ことばを裏書きする行為」を語り、「日中相互の間に不動の信頼(a)がつちかわれなければならない」と「不動の信頼」を指摘し、その信頼に基づいて「両国が、アジア地域の平和と安定、秩序と繁栄に貢献すること(b)が肝要である」と自らの信念を述べている。大平は、(a)(b)の認識のうえに、日本政府の決意を次のように披瀝した。「そのためにわれわれは何を行なうべきか、何を行なってはならないかについて、正しい判断を持ち、慎重に行動すべきである(c)と考えております」、「日中両国は、このような不動の信頼とけじめのある国交(d)を通じてのみ、両国間に末長き友好関係を築き、発展させることができるものと考えます。政府としてはこのためにせっかく努力をいたす所存であります。(拍手)」ここには、大平の政治的信念が吐露されている。私は核心部分を仮に(a)(b)(c)(d)の4カ条に分けたが、あえて要約すれば、「日中間の不動の信頼とけじめのある国交(d)」であり、それは「ことばを裏付ける行為注1」によってこそ実現できると大平は信じて日中国交正常化に当たった。これは非のうちどころのない優れた見識であり、田中角栄の率直な発言とともに、中国側に日本政府への信頼を抱かせたはずである。しかしながら大平は、この発言から8年を経ずして急逝し、田中は4年を経ずしてロッキード事件で逮捕され、85年2月脳梗塞で倒れ、政治活動が不可能になった。訪中から12年余、日中経済協力がようやく動き始めた時期であった。大平や田中が政治の舞台から消えたあと、政治家を裏方として支えた官僚たちが、日中交渉の記録を改竄し、官僚主導とも受け取れる裏話を語り始めた。それによって日中相互不信の構造が生まれたことは、看過しがたいので、日中国交正常化40年に当たり、覚書にまとめた。

第Ⅰ部 日中国交正常化交渉の問題点
 では、実際の交渉経過はどうであったか。高島益郎外務省条約局長の発言をみよう。
「日中共同声明日本側案の対中説明」として9月26日午前の第1回外相会談において高島条約局長が読み上げたものは、以下のごとくである注2
 日中両国間の戦争状態の終結問題。
 「日中両国間の戦争状態の終結問題は、日華平和条約に対する双方の基本的立場の相違から生じたものである。(a)中国側が、わが国が台湾との間に結んだ条約にいっさい拘束されないとすることは、日本側としても十分理解しうるところであり、日本政府は、中華人民共和国政府がかかる立場を変更するよう要請するつもりは全くない」、「他方、(b)日本政府が自らの意思に基づき締結した条約が無効であったとの立場をとることは、責任ある政府としてなしうることではなく、日本国民も支持しがたい」。「これまでの日中関係に対する法的認識について双方の立場に関して結着をつけることは必要ではなく、また可能でもないので、戦争状態終了の時期を明示することなく、終了の事実を確認することによって、日中双方の立場の両立がはかられる」。(a)が中国側の立場、(b)が日本側の立場である。ここで表向きのテーマは「戦争状態の終結」、すなわち、どの時点をもって日中戦争の終結と見るかである。日本は1952年の日華平和条約締結をもって日中戦争は終結したと主張している。これに対して中国側は、当然のことながら「日本が台湾との間に結んだ条約にいっさい拘束されない」と主張した。高島は、「日華平和条約締結をもって日中戦争は終結した」とする日本の主張を中国側に押し付けることは無理があることを承知しているので、「日本側としても十分理解しうるところであり、日本政府は、中華人民共和国政府がかかる立場を変更するよう要請するつもりは全くない」と、日本側の立場の説明にすぎないことを表明している。「日華平和条約の存在」を認めない中国と、それに基づいて過去20年にわたって日台関係を維持してきた日本の立場は、ここで鋭く対立する。
 そこで高島は、1952年の日華平和条約締結をもって終結したとする日本の主張と、1972年の日中共同声明をもって終結するとする中国の主張の妥協点として、「終了の時期を明示することなく、終了の事実を確認する」方法を提起した。
 高島条約局長自身の回想注3によれば、その内容は次の通りであった。「要するに日本としてはサンフランシスコ平和条約体制の枠内でどういうふうに中国と国交を正常化するという問題ですから、法律上、サンフランシスコ条約に違反するわけにはいかない。だから中国が台湾も中国の一部だってことを認めろといったって法律的に認めるわけにはいかない。・・・・もう一つ、中国は日華条約は無効だっていうんでね。これもできない。最初から向こう側がいうようにしたら、サンフランシスコ条約は根底からひっかかっちゃうからね。・・・・さらに、その結論として、賠償請求権なんていうものを認めるわけにはいかないと、そういうこともいった。相手がいやがることを」注4
 高島はここで①サンフランシスコ平和条約体制の枠内、②日華条約無効論、③賠償請求権、の三つを論じている。①と②は、1951年以来72年9月に至るまでの現実を踏まえたうえで、対中交渉に当たる話であるから、日本の立場としてそれを主張することには、一定の合理的根拠があることを否定するものではない。だが、そこから「その結論として、賠償請求権なんていうものを認めるわけにはいかない」という高島の主張は、論理が飛躍しており、とうてい説得的な論理とはいえないものだ。
 それは日華平和条約の適用範囲に関わる。すなわち第2条「1回」、第3条「2回」、第10条「3回」注5 、以上6回にわたって「台湾及び澎湖諸島」と、この条約が適用範囲を特定しているのは、いうまでもなくこの条約が結ばれた1952年時点で「中華民国」が実効支配していたのは、この地域に限られるからだ。つまり、この条約でいう「中華民国」とは、1949年に中国大陸に中華人民共和国が建国され、台湾に亡命した後の「中華民国」との条約であるゆえに、実効支配範囲に基づいて、条約の適用範囲を特定していることが、これらの条文から明らかである。これが日華平和条約の最も根本的な特徴である。日本語の表記で、台湾亡命前後の区別を明確に行わないのは、きわめてミスリーディングであり、両者は的確な英語による表現にならって「中華民国(大陸)」、「中華民国(台湾)」と区別するのがよい。両者の区別を曖昧にすることによって、実効支配の範囲を曖昧にし、その混乱に自縄自縛されたかに見えるのは、滑稽ですらある。

 この日華平和条約には、実効支配とは無縁の重大な虚構が、第4条および第5条に書かれている。すなわち第4条注6には「1941年12月9日前に日本国と中国との間で締結されたすべての条約、協約及び協定(all treaties, conventions, and agreements concluded before 9 December 1941 between Japan and China)は、戦争の結果として無効となつたことが承認される」と記され、また第5条注7には「日本国はサン・フランシスコ条約第10条の規定注8に基き、1901年9月7日に北京で署名された最終議定書並びにこれを補足するすべての附属書、書簡及び文書の規定から生ずるすべての利得及び特権を含む中国におけるすべての特殊の権利及び利益を放棄し、且つ、前記の議定書、附属書、書簡及び文書を日本国に関して廃棄することに同意したことが承認される」と明記されている。
 第4条の文言は、奇怪きわまる。「1941年12月9日前に」とは、真珠湾攻撃で日米開戦に至る前の時期を指す。そして「日本国と中国との間で締結されたすべての条約、協約及び協定」と書かれている。他の条文では、「中華民国」と明記され、英訳では「the Republic of China in Taiwan (Formosa) and Penghu (the Pescadores)」と特定されているが、日本語訳では単に「中国China」だ。ここでいう「中国」とは何を指すのか。これは「大陸における中華民国the Republic of China in Mainland」か、それとも「中華人民共和国」と読ませるつもりか。それとも清朝政府を指すのか。第5条も、奇怪な文言だ。「日本国はサン・フランシスコ条約第10条の規定に基き、1901年9月7日に北京で署名された最終議定書並びにこれを補足するすべての附属書、書簡及び文書の規定から生ずるすべての利得及び特権を含む中国におけるすべての特殊の権利及び利益を放棄し、且つ、前記の議定書、附属書、書簡及び文書を日本国に関して廃棄することに同意したことが承認される」。
 「1901年9月7日に北京で署名された最終議定書」とは、日本の外交文書における正式名称は「北清事変に関する最終議定書」であり、中国ではその年をとって辛丑条約、辛丑和約と呼び、欧米では"Boxer Protocol"の呼び名が一般的である。日本がポツダム宣言を受諾して降伏を受け入れるまでの約半世紀における中国大陸での「特殊の権利及び利益」の獲得が「北清事変に関する最終議定書(1901年)」に始まることは、歴史的事実だが、この半世紀に得た権限の放棄と賠償義務の責任を日華平和条約第4条および第5条の規定、およびサンフランシスコ条約の関連規定で帳消しにするのは、清朝の継承国家が中華民国である事実までは認めるとして、その中華民国政権が大陸から亡命を余儀なくされ、中華民国(台湾)に実質を変えた後で、引き続き大陸の代表権をもつとするのは虚構であり、現実的根拠をもつ合理的主張とは考えられない。
 それゆえ、台湾に亡命した後の蔣介石政権が「賠償を放棄した」とは、いかなる範囲の賠償かが問われなければならない。いわゆる「賠償放棄」とは、「日華平和条約議定書」第1項(b)に記されたものである。第1項(b)には、「中華民国は、日本国民に対する寛厚と善意の表徴として、サンフランシスコ条約第14条(a)1に基き注9、日本国が提供すべき役務の利益を自発的に放棄する」と書かれている。その根拠とされている「サンフランシスコ条約第14条(a)1」の内容は、注8に示したように、「日本国が、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に支払うべき賠償」である。中国が連合国の一員であることは明らかであり、ここでは「日本国が戦争中に(中国)に生じさせた損害及び苦痛に対して中国に支払うべき賠償」の意である。日中戦争の大部分は、台湾ではなく、大陸で戦われたことはいうまでもない。その範囲の賠償について、すでに亡命した立場にある蔣介石政権に交渉の権限があるとするのは、合理的ではない。したがって、蔣介石亡命政権との間で、台北で調印した条約をもって、中国大陸全体に適用できるとするのは、途方もない虚構であることは誰の目にも明らかだが、このような虚構・非条理を断固として主張したのが、わが外務省条約局であった。
 彼らは日華条約の歴史性、限界性の意味を再考することなく、これを絶対化することが即国際法を守ることであり、かつ日本の国益を守ることだと認識したごとくである。
 だが、ここで彼らが守ろうとしたものは一体何か。その内実は、アメリカが戦後アジアに構築した戦後体制であり、それが日本の国益と一致したものかどうかは、慎重な検討を必要とするはずだ。明らかに、ポツダム宣言を受諾した降伏日本がやむをえず甘受した枠組みにほかならない。

 この枠組みが国際社会で明白な挑戦を受けたのは、1971年9月の中国の国連復帰を契機とする。元来中華民国は国連が発足したとき以来の創立メンバーとして、また連合国の一員として国連常任理事国の地位を占めていたが、1971年9月の国連第26回総会において、代表権を喪失した。
 この年、日本はアメリカとともに「逆重要事項指定案注10」の共同提案国となったが、これは否定され、中国招請・台湾追放を骨子とするアルバニア案が可決された。71年の国連総会でこのような投票結果に落ち着くことは、その前年70年の投票においてアルバニア案が過半数を得ており、その後アメリカがニクソン訪中を決めたことによって、その流れが加速した。この結果、71年にアニバニア案の可決は、ほとんど予想されていたが、佐藤内閣はこの問題で最後までアメリカに追随した。この佐藤政権が72年6月17日退陣を表明し、7月5日自民党総裁選で田中角栄が当選し、9月訪中が実現したことは周知の通りである。
 国連の場で蔣介石政権=中華民国(台湾)が代表権を失ったのは、71年であるから、49~71年の20余年は、国連代表権という資格は、台湾への亡命以後も蔣介石政権が保有した形である。これは国連という組織の「メンバー資格の認定」問題にすぎない。この国連代表権を拡大解釈して、日中戦争期の賠償請求権を交渉する当事者能力を蔣介石政権が持つとするのが外務省条約局の立場であった。分かりやすくたとえるならば、責任をとって辞めた子会社の社長が本社全体の利害に関わる重大事項について決裁するような話だ。このような虚構を当事者が許さないのは明らかではないか。

 国連の場において、中国代表権が中華民国(台湾)から中華人民共和国(北京)に変更されたことは、第2次大戦後のアメリカ主導の国際秩序作りが大きな挑戦を受け始めたことを意味する。しかし日本外務省、特に条約局はこの潮流に抵抗し、アメリカ主導の旧秩序に固執する対米従属派が支配していた。田中訪中に際して、彼らはサンフランシスコ条約と日華平和条約に抵触しない形での日中国交正常化を主張したが、40年後に、その後の国際情勢の変化を踏まえて往時を回顧すると、彼らの論理と行動の破綻は明らかである。彼らの論理は歴史の検証にたえられなかった。その帰結が日中相互不信の深化という形で遺されている。大平の急逝(1980年6月)、田中の発病(85年2月)と死去(93年12月)以後、外務省高官たちはきわめて饒舌になり、みずからの正当性を声高に主張しつづけているが、これは論理の破産に危機感を抱いてのことであるかもしれない。いまこそ大平の政治的遺言にも似た言明----「ことばに信をおき、ことばを裏書きする行為」の意味をかみしめるべきであろう。

 日華平和条約によって、中国大陸を含む全中国に対する戦争状態が終り、賠償請求権も消滅したとする高島見解は、当然のことながら、周恩来の猛反発を受けた。姫鵬飛回想録注11はこう記している。
 「当時の蔣介石はすでに台湾に逃げていた。いわゆる賠償要求を放棄したが、その時、彼は全中国を代表することはできないのであり、これは他人の褌で相撲を取るやり方だ(当时蒋介石已逃到台湾,表示所谓放弃赔偿要求,那时他已不能代表全中国,是慷他人之慨)」、「われわれは両国自民の友好関係から出発して、日本人民に賠償負担の苦しみを与えたくないので、賠償要求を放棄した(我们是从两国人民的友好关系出发,不想使日本人民因赔偿负担而苦,所以放弃了赔偿的要求)」、「過去にわれわれも賠償を負担して、中国人民が苦しみを受けたことがある(过去我们也负担过赔偿,使中国人民受苦)」、「毛主席は日本人民に賠償を負担させてはいけないと主張しているので、このことを日本人民にお伝えしたい(毛主席主张不要日本人民负担赔偿,我向日本朋友传达)」、「ところが高島先生は好意を受け取ることなく逆に、蔣介石が賠償を要らないといったと言いなしたが、これはわれわれを侮辱したものだ(而高岛先生反过来不领情,说蒋介石说过不要赔偿,这个话是对我们的侮辱)」、「私は穏やかな性格だが、この言い分を聞いて、憤激にたえない(我这个人是个温和的人,但听了这个话,简直不能忍受)」。
 日中国交正常化という重大な外交交渉において、日本外務省を代表した高島局長が交渉相手を激怒させたことは、歴史の教訓として記憶に値するであろう。
 この一幕は、田中の「訪中秘話」では、こう記されている注12。「その席で、中国側担当者がいきなりこんなことを言ってきたのである。『日中間の賠償問題はどうするのか』 いまにして思えば、一発、向うにかまされたということかもしれない。中国側の正式な要求である。高島[益郎]君は『その件はサンフランシスコ条約で解決済みであります』と答えた。そうしたら『そういうような代表団なら、即刻、お帰りいただきたい』と言われたという。即刻帰れ、というのは、外交上は完全な退去命令である」。
 当時、周恩来の助手を務めていた孫平化注13は1986年に次のように書いた。「日本側のある人が、蔣介石がすでに戦争の賠償要求を放棄しているということを持ち出した時、周総理は厳しく次のように指摘したといわれる。『我々は驚きと憤激を覚える』。蔣介石政権はとっくに中国人民にくつがえされており、彼が日本人といわゆる『平和条約』を結んだ時、賠償はいらないと宣言したことには悲憤慷慨した。しかし、我々は両国人民の友好関係から出発し、日本人民の負担を増加させないようにするため、賠償とりたて要求の放棄を宣言する。周総理はさらに、中国人民が過去において、賠償の負担によってひどく苦しんだ歴史的事例をあげて、中国は心から中日友好を増進させ、日本人民の経済的負担を増加させないようにするため、賠償をとりたてるという立場を放棄すると表明した注14」。
 孫平化の書いた「日本側のある人」とは、むろん高島条約局長である。この問題は、交渉の挙げ句、日中共同声明の賠償を条項を「中華人民共和国政府は、中日両国人民の友好のために、日本に対する戦争賠償の請求を放棄する」(第5項)とすることで合意に達した。
 ここで注目されたのは、竹入委員長の持ち帰った中国側草案には「賠償請求権の放棄」と表記されていたものが「賠償の請求」と、日本側が「権」を落とした点である。
 大平外相は帰国当日の1972年9月号30日、自民両院議員総会において、第5項をこう説明した。「第5項目は、賠償請求の放棄であり、日華条約でこれが放棄され、日本はこれを受けている立場に立っている。従ってこれは中国側が一方的に宣言し、日本側はこれを率直に評価し、受ける立場をとった。もし中国が『賠償請求権』の放棄という言葉にかかわると、私どもは厄介な立場になるところだったが、『賠償請求』という言葉にしてもらい、『権』という言葉はついていない注15」。
 この点について国際関係論の石井明教授は、こう解説している。「中国の立場に立てば、日中間の戦争状態は終わっていないのであるから、『賠償請求権を放棄する』となるべきところであるが、一方、日本側は日華平和条約は有効であったとの立場に立ち、同条約の中で請求権は放棄されているとみなしていた。したがって、『権』の字が付いていると、日華平和条約の不法性を認めてしまうことになるのであり、日本外務省としては認められないものであった注16」。
 この点について栗山条約課長は、当時こう記した。「過去の中国大陸における戦争が中国の国民にもたらした惨禍は、わが方として深い反省の対象となるべきものであることを考慮するならば、このような中国側の賠償放棄の宣言は、率直かつ正当に評価されるべきであろう注17」。
 「率直かつ正当な評価」とは、奇妙な言い回しではないか。日本が中国国民にもたらした惨禍に対して、「わが方として深い反省の対象とすべき」ところを「対象となるべき」と反省の主体をあいまいにし、中国側の賠償放棄の宣言は「正当に評価されるべき」と第三者的表現になっているのは、「率直な評価」とは、いいがたいし、この文脈であえて謝罪にわたる表現を一切避けたのは、日本語として不自然であり、中国国民の共感はえられないはずだ。奥歯にものの挟まったような日本語は、田中の謝罪を改竄した外務省高官のスタンスを象徴する。
 私はここで謝罪が足りないことを問題にしているのではない。交渉相手の中国の顔を直視していないことを問題にしているのだ。このスタンスは、対米関係における卑屈さの裏返しだ。米国政府に対して配慮を行うのと同じように、中国国民に対しても配慮せよ、というだけである。一方に対する過度の配慮、他方に対する高圧的態度、そのダブルスタンダードを批判しているのだ。

 外務省条約局は、サンフランシスコ条約と日華平和条約で作られた戦後日本の国際関係の枠組みと矛盾しない、これに悪影響を及ぼさない形での日中国交正常化を構想したごとくであるが、特に日華平和条約との整合性を過度に強調するあまり、はなはだしい自家撞着に陥った。なぜか。日華平和条約には、二つの性格が存在した。一つは、台湾に亡命した蔣介石政権=中華民国(台湾)との平和条約である。もう一つは、蔣介石政権=中華民国(台湾)が中国大陸全体を代表すると見なす代表権の虚構である。両者が明らかに区別できることは、すでに指摘した第2条、第3条、第10条に、その実効支配地区として「台湾及び澎湖諸島」が特定されていることから明らかである。他方、第4条「1941年12月9日前に日本国と中国との間で締結されたすべての条約、協約及び協定は、戦争の結果として無効となつた」、第5条「日本国は、1901年9月7日に北京で署名された最終議定書並びにこれを補足するすべての附属書、書簡及び文書の規定から生ずるすべての利得及び特権を含む中国におけるすべての特殊の権利及び利益を放棄する」ことを台湾に亡命した蔣介石政権を相手に約束することは、はなはだしい虚構であり、現実にそぐわない注18。それゆえ、サンフランシスコ条約と日華平和条約で作られた「戦後日本の枠組み」を譲れないものとして真に守ろうとするのであれば、日華平和条約の二つの特徴を腑分けしたうえで、第2条、第3条、第10条に書かれた「実効支配」に関わる現実的な要素を継承しつつも、中国大陸の代表権に関わる虚構を再検討すべきであったはずである。
 「賠償請求権」の「請求権」という概念に固執して見たり、これが「日華平和条約」で解決済みとする立場に固執したのは、論理的に見て成り立たないばかりでなく、倫理的には、中国大陸の人々を深く傷つけるものであった。高島の「対中説明」を読みながら、実際の交渉経過を詳しく確認しておこう。

 台湾問題に関する日本政府の立場。
 「対中説明」に曰く、「台湾問題に関する日本政府の立場については、この機会にこれを要約すれば次の通りである。サン・フランシスコ平和条約によって、(1)台湾に対するすべての権利を放棄したわが国は、台湾の現在の法的地位に関して独自の認定を下す立場にない。中国側が、サン・フランシスコ条約について、日本と異なる見解を有することは十分承知しているが、わが国は、同条約の当事国として右の立場を崩すことはできない。しかしながら、同時に、カイロ、ポツダム両宣言の経緯に照らせば、(2)台湾は、これらの[カイロ、ポツダム両]宣言が意図したところに従い、中国に返還されるべきものであるというのが日本政府の変わらざる見解である。わが国は、また、「中国は一つ」との中国の一貫した立場を全面的に尊重するものであり、当然のことながら、(3)台湾を再び日本の領土にしようとか、台湾独立を支援しようといった意図はまったくない。したがって、わが国としては、将来(4)台湾が中華人民共和国の領土以外のいかなる法的地位を持つことも予想していない。このような見地から、日本政府は、台湾が現在中華人民共和国政府と別個の政権の支配下にあることから生ずる問題は、中国人自身の手により、すなわち、(5)中国の国内問題として解決されるべきものと考える。他方、わが国は、台湾に存在する国民政府と外交関係を維持している諸国の政策を否認する立場になく、また、米中間の軍事的対決は避けられなくてはならないというのがすべての日本国民の念願である以上、(6)台湾問題はあくまでも平和裡に解決されなくてはならないというのが日本政府の基本的見解である。共同声明案の第四項第2文の「日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、かつ、これを尊重する」との表現は、右に述べたような日本側の考えを中国側の立場に対応して簡潔に表したものである注19」。
 下線を付した重要と思われる箇所に番号を付して、摘記してみよう。
1.台湾に対するすべての権利を放棄したわが国は、台湾の現在の法的地位に関して独自の認定を下す立場にない。[降伏した日本としては、台湾の法的地位を語る立場にはない]
2.台湾は、これらの[カイロ、ポツダム両]宣言が意図したところに従い、中国に返還されるべきものである。[日本降伏を決めた両宣言の意図にしたがうならば、「中国に返還される」のが当然だ]
3.台湾を再び日本の領土にしようとか、台湾独立を支援しようといった意図はまったくない。[台湾の独立を支持するつもりはない]。
4.台湾が中華人民共和国の「領土以外のいかなる法的地位を持つこと」も予想していない。「台湾が現在中華人民共和国政府と別個の政権の支配下にある」ことから生ずる問題は、「(中国の)国内問題」である[これは(2)の論理的帰結である]。
5.中国の国内問題として解決されるべきものと考える。[(2)の論理的帰結である]
6.台湾問題はあくまでも平和裡に解決されなくてはならない。[これは日本政府の希望あるいは願望である]

 話を日中交渉の現場に戻す。9月26日午前に行なわれた第1回外相会談で高島局長は以上の主張を行ったが、その日午後に行なわれた第2回田中・周恩来会談で、周恩来は高島の主張を前述のように、「憤激をもって」反駁した。すでに姫鵬飛外相の回顧録を引用したが、日本外務省の記録では、以下のごく記録されている。
 「日華平和条約につき明確にしたい。これは蔣介石の問題である。蔣が賠償を放棄したから、中国はこれを放棄する必要がないという外務省の考え方を聞いて驚いた。蔣は台湾に逃げて言った後で、しかもサンフランシスコ条約の後で、日本に賠償放棄を行った。他人の物で、自分の面子を立てることはできない。戦争の損害は大陸が受けたものである。我々は賠償の苦しみを知っている。この苦しみを日本人民になめさせたくない。我々は田中首相が訪中し、国交正常化問題を解決すると言ったので、日中両国人民の友好のために、賠償放棄を考えた。しかし、蔣介石が放棄したから、もういいのだという考え方は我々には受け入れられない。これは我々に対する侮辱である。田中・大平両首脳の考え方を尊重するが、日本外務省の発言は両首脳の考えに背くものではないか注20
 この周恩来発言について、杉本孝教授はこうコメントしている。
 「高島局長に対する周総理の反駁の論点は二つある。第一に「他人の物で、自分の面子を立てることはできない」(周恩来の原文は「慷他人之慨注21」)という点である。ここには、敗戦により窮地に陥った日本に対し戦争賠償の請求を放棄してその負担を免除することは、中国民族の度量を日本に示すことに他ならず、民族の面目を大いに施す行為であるという考え方が前提として存在していることになる。既に指摘した通り、台湾政府の実効支配が及んでいる地域には日本軍の戦闘行為による被害はほとんど生じておらず、中国大陸で生じた莫大な被害に対する請求権をあたかも台湾が有しているかのような虚構に基づき、これを放棄したと称して台湾の面子を立てることはできない、と周総理は指摘しているのである。
 第二に、「蔣介石が放棄したから、もういいのだという考え方は我々には受け入れられない。これは我々に対する侮辱である」という点である。被害を蒙ったのは中国大陸の民衆であり、台湾に落ちのびた蔣介石には大陸の民衆の請求権を放棄する権限はない。にもかかわらず、既に蔣介石が放棄したから北京は放棄する必要はない、あるいは放棄する権限はないと日本側が考えているとすれば、日本に対する激しい憎しみを抑えて賠償請求放棄を決意した中国一般民衆の心の葛藤を日本は何一つ理解していないことになる。より正確に言えば日本側のこのような主張は、恩讐を越えて仇敵を赦そうとする中国民族の度量に対し、敢えて理解を拒絶しようとするものであると言える注22
 私は杉本のコメントに深く共感する。杉本の表現を用いるならば、「敢えて理解を拒絶しようとする」外務省高官によって日中交渉が行なわれた結果、日中両国間に深い相互不信が遺される結果となった。
 最後にもう一度「実効支配」に触れておく。復交第2原則について、台湾政府が台湾島と澎湖諸島を実効支配しており、中華人民共和国の支配がこの地域に及んでいない事実に留意するのは当然として、この実効支配論を自らの主張においては、まったく忘れたかのような扱いをしたのが、外務省条約局のもう一つの態度であった。日華平和条約が中国大陸を実効支配していない蔣介石政権との条約であり、その代表性には、重大な疑問が残ることについては、一言の反省もなく、単に日華平和条約との整合性のみを語るご都合主義的論理は、とうてい歴史の検証に堪ええないものである。

第Ⅱ部 「鳥なき里の蝙蝠」――外務省高官の饒舌(1)
 1972年国交正常化時点における日中誤解は、田中・大平という二人の政治家の人格をかけた約束によって解け、交渉は妥結を見た。しかしながら、大平首相の急逝と田中元首相の発病以後、二人はもはや日中会談の内幕を語ることはなくなった。
 奇怪なのは、その前後から外務省高官たちが「鳥なき里の蝙蝠」のごとく饒舌をもって振る舞い始めたことである。こうして田中・大平の肉声はかき消され、日中和解の精神を踏みにじられ、外務省高官たちの手前味噌ばかりが横行して、中国側の対日不信は、広がり深まるようになる。
 一例を挙げよう。大平没後7年目の1987年6月4日、鄧小平中央顧問委員会主任は訪中した矢野絢也公明党委員長に対し、日本政府の姿勢に不満を述べるとともに、賠償問題に言及してこう述べた。「率直にいうと、日本は世界のどの国よりも中国に対する借りが一番多い国であると思う。国交回復の時、我々は戦争の賠償の要求を出さなかった。両国の長い利益を考えてこのような政策決定を行った。東洋人の観点からいうと、条理を重んじているのであって、日本は中国の発展を助けるために、もっと多くの貢献をすべきだと思う。この点に不満を持っているしかし、この問題を高いレベルにまで挙げていない注23」。この鄧小平発言は、中曽根内閣時代の対中政策のブレを意識して行なわれたものである。
 国交正常化以後26年目を経た1998年1月29日、外務省を退官して早稲田大学客員教授となった栗山は、学内の研究会で日中国交正常化」の回顧を行い、それは後日論文の形で発表された注24。栗山は、国交正常化交渉四半世紀を経た時点で、72年当時を回顧し、1.背景、2.中国の復交三原則、3.台湾の法的地位、4.日華平和条約問題、5.日米防衛協力の新たな指針と台湾、の5項を語った。
1.まず背景について。
 栗山は、サンフランシスコ平和条約について、こう述べる。「日本がサンフランシスコ平和条約を締結して国際社会に復帰する・・(中略)・・ときに生じた一つの大きな問題は、日本が、実体的に生じた二つの中国、すなわち、一方は中国大陸に実効的支配を確立した中華人民共和国、他方は台湾に移った中華民国、そのいずれとの間で戦争状態を終結し、国交を回復するのか」であった。「サンフランシスコ講和会議に中華民国政府、中華人民共和国政府いずれを招待するかについて、連合国の問、特に米英両国間で意見の対立があり」、結局「どちらも招かない」ことになった。その結果生じた問題は、「日本はいずれの政府と戦後の外交関係を結ぶか」であった。51年暮、ダレス特使が来日し、「日本が中華民国政府と平和条約を締結するのでなければ、サンフランシスコ平和条約自体が米国議会の承認を得られない」と当時の吉田総理を説得した結果、同総理はやむを得ずこれに応じ、いわゆる「吉田書簡」をアチソン国務長官宛に発出し、日本は中華民国政府と平和条約を結ぶことを約束した。この吉田決断は「日本が当時の冷戦の状況下で国際社会に復帰するために払わなければならなかった一つの代償と考えられる」と栗山はコメントした。
 栗山が吉田書簡に言及したので、そのサワリを調べてみよう。吉田書簡(1951年12月24日)には「この二国間条約の条項は、中華民国に関しては、中華民国国民政府の支配下に現にあり又は今後入るべきすべての領域に適用があるものであります」と明記されている」。この文言は、日華平和条約交換公文第一号にも含まれている。
 「中華民国国民政府の支配下に現にあり」とは、むろん台湾と澎湖諸島を指す。では「又は今後入るべきすべての領域」とはなにか。これは蔣介石政権が「大陸反攻」を主張し、大陸をも含む全中国の代表を僣称していたので、その言い分をそのまま書いたものにすぎない。吉田茂の真意は、彼が1952年06月26日参議院外務委員会で行った答弁から知りうる。彼はこう答弁している。「もとより日華条約は、早く隣国との間に条約関係に入りたいという考えから入つたのであります。これが将来中共政権に対して云々ということでございますが、これは、日華条約は一に台湾政権との同の関係においていたしたのであつて、中共政権についての関係はないのであります。今後どういうふうな関係に入るか、将来の発展に待つよりいたし方ないかと思います」。
 このように吉田は「日華条約は一に台湾政権との同の関係においていたした」ものと対象を限定するとともに、「中共政権についての関係はない」と明言し、「今後どういうふうな関係に入るか、将来の発展に待つよりいたし方ない」と白紙のまま、選択の自由を留保したのであった。高島や栗山の解釈は吉田茂の政治判断を曲解したものであることは明らかなのだ。
 栗山の解説に戻る。この経緯を経て、1952年にサンフランシスコ平和条約が発効し、それからほぼ20年、日本は「台湾にある中華民国政府と国交」を持ち、そして「中華人民共和国政府とは政府間の関係を有しない」状態が続いた。1969年にニクソン政権が登場すると、米国の対中国政策が大きく転換し、日本の対中国交正常化が可能な国際環境が生まれた。その状況下で、1972年6月に佐藤内閣が退き、日中国交正常化を公約する田中内閣が誕生した。これは毛沢東・周恩来という中国指導者の「国際情勢についての戦略的な判断」から生まれた、中日国交正常化を早急に行いたいという中国の政策とが一致して、田中内閣の誕生からわずか2ヶ月で日中国交正常化が実現したものだ。
 栗山は、日中国交正常化の背景を以上のように説明した後、「以下本稿では、日中国交正常化が提起したいくつかの国際法上の問題について、田中総理・大平外務大臣を補佐する立場にあった外務省がどのように考え、いかに対応しようとしたかを改めて考察する」と前書きして「当時筆者は外務省において条約局条約課長として、省内の作業及び中国政府との交渉に参画した」体験を語った。
2.中国の復交3原則について。
 中国はかねてから「復交3原則」を公にしており、この3つの原則を柱とし、これを日本が受け入れるということによって正常化が実現できるという立場をとっていた。第1の原則は、中華人民共和国政府は「中国を代表する唯一の合法政府である」こと、第2は、「台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部である」こと、第3は、日本が台湾(中華民国)と結んだ平和条約は「不法・無効であり、廃棄されなければならない」こと、であった。
 この3原則が中国の立場であり、日本としては「この3原則にどのように対応するか」が基本的な課題となった。「日本は中国と一切の政府間の関係が存在しなかった」ため、この復交3原則に対して「中国が本当にどこまで柔軟な態度をとるのかが把握できなかった」ことが外務省を悩ませた。外務省(あるいは日本政府)が中国側の交渉姿勢について判断しうる材料になったのは、いわゆる竹入メモ注25である。栗山の証言によれば、「外務省事務当局としては、大平外務大臣を通じて示されたこのメモの内容を検討して中国の立場を判断せざるを得なかった」「(1972年)9月末に田中総理以下の日本政府の一行が北京に赴くまで、本当にこの交渉がうまくいくのかどうか、筆者自身個人的には余り自信がなかったというのが正直なところ」であった。

第1原則について。
 条約局として「特に法的な問題がある」とは考えなかった。これは、日本政府が「政治決断をする問題」であり、その決断さえあれば、国際法上は「政府承認の変更」で済む。「台北に存在する中華民国政府」が「中国を代表している」というのが従来の日本の立場であったわけであるが、国交正常化というのは、結局のところ「中華人民共和国政府が中国を代表する正当政府であるという立場」を日本政府が新たにとることを意味する。すでに1949年以来中華人民共和国政府が実質的に中国大陸における実効的支配を確立していた以上、国際法の観点から、問題はなかった。いわんや国連総会では、中国代表権問題は1971年9月に結着していたのであり、中華人民共和国の実効支配は、国際的にすでに認められた原則であった。中華人民共和国政府を承認すれば「台湾との外交関係は終了せざるを得ない」ことで、その点が「政治的な決断を必要とした」が、法律的には「国際法上も、国内法、憲法上も、問題はない」と判断された。
 唯一の問題は、この「政府承認の変更」について「国会承認が必要かどうか」であったが、これは「外交権の範囲内の事項」であるというのが「内閣法制局及び外務省の判断」であった、と栗山は証言している。日中国交正常化を「外交権の範囲内の事項」として処理したことが妥当なものであったかどうか、疑問が残る。
 特にその後の会談記録改竄を想起すると、国会承認を省く手抜きが、正確な交渉記録を欠如させたことの一因ではないか、と私には思える。青嵐会に代表されるような自民党台湾ロビーの妨害工作は確かに存在したが、それは国会承認を不可能にするほどの勢力であったのかどうか、はなはだ疑問である。
 日中戦争は由来「宣戦布告なき泥沼戦争」と呼ばれてきた。明確な宣戦布告なき戦争であったからこそ、その敗戦処理は国会における承認事項として扱うべきであり、その過程を通じて日中平和の課題を徹底的に議論すべきであったと私は考えている。現実には、虚構に基づく日華平和条約の賠償放棄を根拠として、大陸との賠償問題を扱うごとき姑息な手段が用いられ、その後の日中相互不信の原点と化したのは、とわめて遺憾な成り行きである。国交正常化以後40年の歴史を省みると、この問題の安易な扱い方が禍根を遺したのではないか。国交正常化を急いだのは、日中双方の事情があり、これは日本側だけの事情ではないとはいえ、国交正常化交渉の「限界」を強く意識せざるを得ない。少なくとも中国側の主張を値切り国益を守ったと外務省高官たちが自慢話をできるほどの内容でなかったことは、その後の事態が示す通りである。

第2原則(台湾の法的地位)について。
 これは、単に「法律的な問題」だけではなく、「政治的に非常に大きな問題」が存在した。「日本の法的・政治的立場を維持」しながら、「中国の受け入れ可能な方式」を見いだすことが課題とされた。日本の「法的・政治的立場」は、サンフランシスコ体制注26を受け入れることによって、国際社会に復帰したことである。その「政治的意味」は、冷戦下の「東西対立の中で、西側の一国としての立場をとるという当時の吉田総理の政治的な選択」であった、と栗山は解説する。
 第2原則にどのように対応したのか。これは、「国際法上最終的な処分が完了していない地域、すなわち台湾の法的な地位」をいかに認識するかの問題であった。「わが国の法的な立場」は、「サンフランシスコ平和条約によって放棄した台湾」がどこに帰属するかは「連合国が決定すべき問題」であり、「日本は発言する立場にない」というものであった。わが国が中国の第2原則(台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部であるという立場)を認めることには、「重要な政治的な意味」が存在した。中国の基本的な立場、すなわち「台湾を武力で解放する最終的な権利を有しているという立場」の「正当性を認めることにつながる」ことであった、と栗山はいう。
 ここで栗山のいう、「正当性を認めることにつながる」とは、曖昧な表現だ。事柄は「台湾の解放あるいは統一」が、国際問題か、内政問題か、である。台湾に亡命した時点以後の「中華民国の大陸における実効支配」には口を閉ざし、中華人民共和国の「台湾における実効支配の欠如」だけをあげつらうのは、公平な態度とはいいがたい。「台湾における実効支配の欠如」を批判する論理の刃は、ただちに「大陸における中華民国の実効支配の欠如」と連動しており、これは「実効支配なき蔣介石政権による賠償請求放棄」の正当性問題につながる。この大問題において、実際にどのような交渉が行われ、現実にどのように妥結したのか。その真相を歴史の検証に堪えうる形で外務省当局は記録すべき義務を負っていたはずだが、その記録は中国側記録(部分的にしか公表されていない)と対比すると、欠陥が際立つ。明白な削除・改竄の跡が見られる。
 栗山の事後解説によると、佐藤内閣の大きな外交課題は、「沖縄返還の実現」であったが、対米交渉で大きな問題となったのは、「沖縄における米軍基地の使用問題」であった。国防省が難色を示した理由は、「沖縄の基地使用」について、1960年に改訂された「安保条約に基づく事前協議制度の制約」を受けることにあった。米国政府の懸念は「北朝鮮の武力攻撃」による「朝鮮半島における紛争再発」であった。加えて、万一「中国による台湾武力解放という事態」が発生したときにも、「沖縄に存在する米軍基地」の使用が制約されるならば、「米国が韓国あるいは台湾(中華民国)に対し負っている条約上の防衛義務の履行」に支障が生じかねない。
 そこで、米国政府としては、「日本政府の保証を取り付ける必要」を考えた折衝の結果が、佐藤・ニクソン共同声明(1969年2月)である。この日米共同声明第4項で「大統領は、米国の中華民国に対する条約上の義務に言及し、米国はこれを遵守する」と述べたのを受けて、「台湾地域における平和と安全の維持」も「日本の安全にとって極めて重要な要素である」との総理大臣の認識が述べられている。共同声明の第7項において、総理と大統領は、沖縄の施政権返還にあたっては「日米安保条約及びこれに関連する諸取決めが変更なしに沖縄に適用される」、「総理大臣は、日本の安全は極東における国際の平和と安全なくしては十分に維持することができないものであり、したがって極東の諸国の安全は日本の重大な関心事であるとの日本政府の認識を明らかにした」「総理大臣は、沖縄の施政権返還は、日本を含む極東の諸国の防衛のために米国が負っている国際義務の効果的遂行の妨げとなるようなものではないとの見解を表明した」と述べている。「米国の条約上の防衛義務は妨げられない」という理解を前提として「本土並みの条件で日本に返還するという基本的な合意」が佐藤総理とニクソン大統領の間で成立した注27
 ここで栗山は、上述の日米関係を踏まえた上での、「台湾の法的地位の問題」に戻り、こう解説する。「台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部にすでになっている」というのが仮に日本政府の立場であるとすれば、この佐藤・ニクソン共同声明あるいはその背後にある安保条約の問題が非常に大きな影響を受ける。中国が仮に台湾に対して武力を行使しても、これは国際法上は中国の国内問題であり、米国や日本がこれに関与する立場にない(あるいはそういう法的な根拠が存在しない)ことになり、上記の佐藤・ニクソン共同声明が、事実上有名無実になる問題があった。
 台湾の法的地位は、米中間の上海コミュニケ(1971年)でどう書かれたか。「台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部であるとの中国側の立場」に対し、米側は「その立場を“acknowledge”する」と述べた。外務省が“acknowledge”の意味を米側に照会したところ、「文字どおり“acknowledge”である」というのが先方の説明注28であった、と栗山は舞台裏を明かす。
 「米国が“acknowledge”の立場をとっている以上、日本がそれを越えて中国の立場を承認するわけにはいかない」、「台湾の地位から生じる問題は、米中間で話し合われるべきものであり、わが国が独自の立場をとることによって米国の立場を害することはできない」ので、「その前提で中国の第2原則にどのように対応するかということを考えざるを得なかった」と栗山は書いている注29
 米側に対して“acknowledge”の意味を確認し、その枠内でのみ、対中国交渉を行うとする外務省条約局の対米追随ぶりは、この箇所に端的に露顕している。日米安保の枠内での日中国交正常化は、当時としてはやむをえない現実的判断の側面も確かに存在したであろう。
 とはいえ、田中や大平は、真の日中和解のためには、この枠組みの限界への挑戦も必要だと認識していたのに対して、外務省条約局の発想は、対米追随そのものであり、日本の国益を守るというよりは、アメリカの冷戦体制を墨守する行為に近い。

 再び交渉経過に戻るが、わが国の「法的、政治的立場についての基本的認識」を踏まえ、日本側が提示した当初の共同声明案は、「台湾の法的地位」については中国政府の立場を「十分理解し尊重する」というものであったが、これは「中国側が受け入れるところとならなかった」注30。中国側の拒否について栗山は「中国の強い姿勢は、ある程度予想されたことであった」「台湾に対する影響力が一番強い国は米国と日本である」「この問題については、日本に対して非常に厳しく迫る必要があるというのが中国の判断であろうと思われた」と記している。
 これを予想通りの成り行きとして、日本側は「準備していた腹案」「日本側のぎりぎりの案」を大平外務大臣が万里の長城視察に赴く車中で姫鵬飛外相に手交した。対日交渉を取り仕切っていた周恩来総理がこの案を了承し、漸く台湾の法的地位の問題は決着した、と日中交渉のハイライトを解説している。合意された内容は日中共同声明第3項後段に書かれた。「日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し尊重し、ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」という表現である。ではなぜポツダム宣言なのか。栗山によれば、第8項では、「カイロ宣言の条項は履行せらるべく」とされている。そのカイロ宣言では台湾は「当時の中華民国、すなわち中国に返還されるべきもの」と書かれている。したがって「ポツダム宣言を受諾した日本」は、「台湾が中国に返還されることを受け入れた」のであり、「その立場を堅持する」というのが、この共同声明第3項の意味である。
 念のために、この三段論法を分かりやすく説明しておこう。①1943年の「カイロ宣言」では「台湾および膨湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還すること」が謳われている。②「カイロ宣言」を継承した「ポツダム宣言」第8項は「カイロ宣言の条項は履行せらるべく、また日本国の主権は本州、北海道、九州および四国並びに吾等の決定する諸小島に局限せらるべし」と書かれている。③日本は「ポツダム宣言」を受諾して降伏したから、「ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」とは、「カイロ宣言」にいう、「台湾および膨湖島の如き日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還」するとした降伏条件に従うという意味になる。これが文言通りの意味だ。
 栗山は、ここには「言外に含まれる」意味があるという。それは、「中華人民共和国政府が実効的支配を及ぼしていない台湾」が「現実に同国の領土の一部になっているとの認識を日本政府は有していない」ことだと栗山は説く。なぜそうなるのか。①日本はポツダム宣言を受諾して、「台湾および膨湖島の如き地域を中華民国に返還」することを連合国により強制された。これは降伏の条件であり、日本がやむなく受け入れたものだ。②その後、中国で内戦が起こり、中華民国政府は台湾に逃れ、大陸には中華人民共和国が成立した。③国際法の「一国一政府」原則によれば、中華民国の継承国家は中華人民共和国である。④中華人民共和国は1949年以来1972年に至るまで、台湾、澎湖諸島を「実効支配」していない、という現実がある。⑤日本は、中華人民共和国を「中国の唯一の合法政府」として承認したが、これは「台湾の中国への返還にコミットした」にすぎない。⑥中華人民共和国が台湾を「実効支配」していない以上、これを「実効支配」したものと見なす中国政府の見解とは、見解が異なる。栗山の論理を分かりやすく説明すれば、こうなるであろう。
 栗山は、さらにこう解説する。日本側の立場は「中華人民共和国政府の立場とは異なる」ものであったが、周恩来総理は、このことを理解した上で、日本政府が、中華人民共和国政府を「中国の唯一の合法政府」として承認したことによって「一つの中国の原則」を受け入れ、その原則の下で「台湾の中国への返還にコミットした点」を重視し、「わが方の案に同意する決断をしたものと思われる」と。いいかえれば、「唯一の合法政府」を認め、「一つの中国の原則」を認め、「台湾の中国への返還にコミットした点」をもって、中国側は満足し、中国側の主張する「台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部であるとの中国側の立場」を日本側に認めさせることは断念した、というのが栗山の解説である。この解説から明らかなように、栗山は「台湾への実効支配の欠如」を根拠として、中国側要求をはねつけたのであるが、この「実効支配の欠如」論を、亡命以後の蔣介石政権に適用すれば、賠償放棄の論拠が崩れること、現に高島局長の説明に対して周恩来が鋭く反駁したことはすでに指摘した通りである。

 共同声明第3項の意味については、大平外務大臣答弁注31を援用して栗山は、次のように述べている。大平答弁は「我が国は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であるとの中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重するとの立場をとっております。したがって、中華人民共和国政府と台湾の間の対立の問題は、基本的には、中国の国内問題であると考えます。我が国としては、この問題が当事者間で平和的に解決されることを希望するものであり、かつ、この問題が武力紛争に発展する現実の可能性はないと考えております」「なお、安保条約の運用につきましては、我が国としては、今後の日中両国間の友好関係をも念頭に置いて慎重に配慮する所存でございます」というものだ。
 ここで大平が「基本的には中国の国内問題である」と述べた「基本的には」という文言には重要な意味が含まれて行くとし、栗山はこう敷衍する。「①要するに台湾の間題は、台湾海峡を挾む両当事者の間で話し合いで解決されるべきものであり、日本政府はこれに一切介入する意思はなく、当事者間の話し合いの結果台湾が中華人民共和国に統一されるということであれば、日本政府は当然これを受け入れるのであって、平和的に話し合いが行われている限りにおいてはこれは中国の国内問題であるということである」。「②しかし、万々が一中国が武力によって台湾を統一する、いわゆる武力解放という手段に訴えるようになった場合には、これは国内問題というわけにはいかないということが、この「基本的には」という言葉の意味である。
 栗山の解説と大平の説明は、著しくニュアンスが異なる。
 大平は「当事者間で平和的に解決されることを希望するものであり、かつ、この問題が武力紛争に発展する現実の可能性はないと考えております」と述べている。すなわち前半で「平和的解決への希望」を述べ、後半では「武力紛争に発展する現実の可能性はないと考えております」と、穏やかな現状認識を語っている。
 これに対して26年後の栗山発言は、大平が「現実の可能性はない」と述べた箇所について、「万々が一」という仮定のこととして、「いわゆる武力解放という手段に訴えるようになった場合には、これは国内問題というわけにはいかない」ことになる含意が含まれると強調している。栗山発言の背後には、95年6月の李登輝訪米、これを意識した中国の地下核実験(8月17日)、台湾海峡でのミサイル演習(8月15~25日および96年3月8~25日)など、一連のいわゆる台湾海峡の緊張があることは明らかだが、栗山の解釈は中国側の誤解を招く恐れがあると私には思われる。大平は、海峡両岸の対立が「武力紛争に発展する現実の可能性はない」との展望のもとに、「当事者間で平和的に解決されること」を希望すると表明していた。
 その後、1991年に旧ソ連が解体し、東アジアの緊張は一挙に緩和したはずである。この新事態において、「台湾経済の奇跡」を称賛する声が溢れ、台湾の李登輝総統のパフォーマンスとともに、初の訪米となった。一連のパフォーマンスを台湾独立への兆候と認識して、中国当局は、ミサイル演習の形で圧力をかけた。このようにして始まったいわゆる「台湾海峡の危機」あるいは「東アジアの危機」なるものは、旧ソ連解体後の安全保障として立法された周辺事態法とニワトリと卵の関係だ。
 旧ソ連解体によって潜在的な仮想敵は消滅したのであるから、当然日米安保の見直しへとシステム全体の再考が検討されるべきであった。しかしながら自民党政府はその方向での模索の代わりに、北朝鮮の脅威を煽り、台湾海峡の危機を煽る愚行を放任し、これにひきずられるのみであった。台湾海峡の緊張についていえば、1987年7月に戒厳令が解除され、大陸への親族訪問も許されるようになった。大陸の改革・開放政策は台湾資本に対しても投資を呼びかけ、海峡両岸の経済協力はしだいに発展の方向に向かい始めた。95~96年のいわゆる台湾海峡の危機は、まさにこの雪解けをつぶすために画策された形跡が濃厚である。私は97年夏休みに台湾金門島の前線基地を訪れ、半世紀ぶりの緊張緩和を体験していただけに、ポスト冷戦期にあえて地域紛争のタネを作ろうとする勢力の暗躍を憂慮していた。このとき、ヨーロッパでは冷戦体制の崩壊を奇貨として、ドイツ統一が行われたことは周知の通りである。
 旧ソ連の解体は、日中国交正常化後約20年のことだ。もし田中・大平の切り開いた新しい日中国交正常化の精神に沿った東アジア政策の展開へ、もう一つの可能性がありえたはずだ。遺憾ながら東アジアでは為政者の無為無策によって、絶好の機会を平和へのステップとすることに失敗した。日本がもし、北朝鮮との国交正常化に取組み、台湾海峡両岸の平和的解決にイニシャチブをとったならば、現実に起こった事態とは異なるもう一つの道がありえたはずなのだ。 

復交第3原則について。
 さて、復交第3原則に戻る。日華平和条約が「不法、無効であり、したがって廃棄されなければならない」とする中国の主張を正面から受け入れることは、法的にも政治的にも不可能である。その合法性を否定し、これを一方的に廃棄することは「国際法上も、また中華民国政府に対する信義上からも許されない」と栗山は説く。これはその通りであろう。他方「日中国交正常化後においても、同条約が引き続き有効な条約として存在するとの立場をとることは、とうてい中華人民共和国政府が受け入れるところではない」。こうして、外務省事務当局(条約局)に与えられた課題は、いかにして上記の「わが国の基本的立場を否定する」ことなく、「中国側にとっても受け入れ可能な方式」でこの問題を処理するか、ということであった。
 これは、法技術的には、「適法に締結され、かつ終了規定がない、平和条約という性格を有する条約」を「どのようにして終了させるか」という問題であった、竹入メモを通じてわが方が事前に得た感触では、中国側は、この問題については比較的柔軟に対応する用意があるやに思われたので、外務省は、それを考慮に入れつつ、内閣法制局との間で、考えられるいくつかの方式について検討を重ねた、と栗山はいう。
 こうした事務レベルにおける準備作業の前提となったのは、日中国交正常化は、国会の承認を要する条約によることなく、「行政府(内閣)に委ねられた外交権(憲法第73条2)の範囲内で行うという政府の基本方針」であった。そのために、日華平和条約の処理についても、「国会の承認を得る必要が生じるような方式は避ける必要」があった注32
 これでは論理がアベコベではないか、日華平和条約の廃棄がややこしいので、その国会承認手続きを避けたい。日華平和条約廃棄の国会承認を避ける以上は、日中共同声明(条約ではなく)も、国会承認を避ける方式をとりたい。外務省高官の脳裏には、未来の日中関係に関わる日中共同声明よりも、廃棄されるべき日華平和条約がより大きな主題となっていたように見える。
 上記の政府の基本方針を踏まえつつ行われた法制局との慎重な協議の結果得られた結論を、栗山は以下のように紹介した。
 ①日華平和条約は、基本的には処分的(dispositive)性格の条約である。即ち、同条約の中心的規定である法的な戦争状態の終結等の規定は、いずれも処分的効果を有するものである注33。②他方、その法的効果が条約の存続に依存する「実体規定」については、適用地域に関する交換公文に基づき、中華民国政府が「実効的に支配している地域(台湾)のみに適用される」注34こととされている。かかる規定は、わが国が中華人民共和国政府を承認することの「随伴的効果」により実体的に終了する注35と解される。このような政府承認の変更に伴って不可避的に生じる随伴的効果による日華平和条約の実体規定の終了については、中華民国政府との合意を必要とせず、また、国会の承認も要しない注36。上記①②は、いずれも、当然のことながら、日本政府内における考え方の問題であり、かかる考え方に基づいて中華民国政府との間でいかに日華平和条約を処理するかについては、これを何らかの形で共同声明に含めるか否かを含めて検討されたが、結論として、国交正常化が合意され、共同声明が発出された直後に行われた記者会見において「日華平和条約は、日中国交正常化の結果として、存続の意義を失い終了したものと認められる」との一方的声明を行うことにより処理することとされた。このように、大平外務大臣の一方的声明注37により日華平和条約の終了を確認することについては、事前に中国側に内報したのであるが、これに対し、先方からは何らの異議も提起されなかった。
 中国側としては、①日本側が日華平和条約は引き続き有効との立場をとらなかったこと、②戦争状態の終結に関しては、共同声明前文において、「戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現」を謳った上で、同声明第1項で、日中両国間の「これまでの不正常な状態は、この共同声明が発出される日に終了する」との合意が得られたこと、および③賠償についても、共同声明第5項に、中華人民共和国政府による「戦争賠償の請求を放棄する」との宣言が含まれたことを総合的に考慮し、中国の立場が基本的に確保されたと判断したのである注38
 栗山は中国側の立場を以上のように評したが、これは中国側の理解とは、大きなギャップがある。周恩来によれば「賠償放棄は日本人民に負担を負わせないため」であった。
 高島局長が「蔣介石が放棄したから賠償問題は解決済み」とする認識を提示したために、周恩来が激怒したことはすでに触れた。中国政府による「戦争賠償の請求を放棄する」との宣言が日中共同声明に書き込まれた事実を捉えて、「中国の立場が基本的に確保されたと判断した」と認識する栗山の論理と心情は、中国側の神経を逆撫でするものではないか。

第Ⅲ部 「鳥なき里の蝙蝠」の饒舌(2)
「日米防衛協力の新たな指針」で試された台湾問題の本質
 1997年9月に日米間で合意された「防衛協力の新たな指針(ガイドライン)」における台湾問題は、日中共同声明における台湾問題の試金石となった。1996年4月にクリントン大統領が訪日した際の「日米安全保障共同宣言」において、既存の「日米防衛協力のための指針」の見直しが合意され、97年9月に「新ガイドライン」が発表された。
 栗山によれば、中国側の反応は、「新ガイドラインの適用範囲が台湾を含む注39のであれば、中国の国内問題への干渉」であるから、「台湾を適用範囲から除外すべきである」というものである。これに対し、日米の外交当局は、「新ガイドラインは中国を敵視するものではなく、特定の国あるいは地域を対象とするものではない」との説明を行ったが、「中国は納得せず、依然として否定的発言が続いた」。その理由は栗山によれば、従来から中国側には「台湾が独立するのではないか」、そして「日米が陰に陽に台湾独立を支持するのではないかという強い懸念が存在するため」である。そうした懸念は当たらないということを明確にするために、日本政府は日中共同声明において、「ポツダム宣言第8項の立場を堅持する旨を宣明した」のである。その意味は、日本は「台湾が中華人民共和国に返還されるべきもの」と認識しており、その当然の帰結として、「台湾独立を支持せず、支援もしない」。換言すれば、日本は、「二つの中国」あるいは「一つの中国、一つの台湾」を支持しないということにコミットしているのである。日本政府のこの立場は、今日も変わっておらず、米国政府も、基本的に同じ立場である。
 このように、日米双方とも「中国が主張する一つの中国の原則を受け入れている」にもかかわらず、中国が懸念するのは、そうはいっても、「台湾自身が独立に向けて動き出すのではないか」、「それに同情的な国内勢力が日米双方に存在し、それが台湾の独立を支援することになるのではないか」ということである。そのような事態は絶対に容認できないというのが中国の基本的立場であり、中国が従来から一貫して、台湾の武力解放を究極的手段としては放棄しないとの立場を固持している理由も、まさにこのためである。
 台湾の扱いをめぐる中国側の対日不信は、ここで新たな争点に形を変えて、日中間の不信感を増幅した。栗山は「新ガイドラインに対する中国の懸念は、現状では何ら実質的意味を持たない」と指摘するが、中国は、その言い分に耳を傾けない。
 中国側の対日不信が高まる中で、「中国の懸念は、現状では何ら実質的意味を持たない」といって見ても水掛け論の応酬だ。一方は武力不行使を誓約せよといい、他方は、不行使を誓約した途端に、独立騒ぎが起こっては困るという。90年代半ばに、疑似緊張は高まったが、その後、台湾経済は大陸経済との補完構造のもとで繁栄し、経済的一体化は急速に進んだ。両岸の文化交流等民間交流は著しく進み、両岸関係は様変わりした。

栗山証言と台湾問題
 2007年は日中正常化35周年記念の年であった。この前後に栗山は「台湾問題についての日本の立場――日中共同声明第三項の意味」注40を書いて、さらに研究者のインタビューに答えた記録を残し、『外交証言録注41』として発表された。
 栗山曰く、去る4月注42、中国の温家宝総理が訪日した際に発出された日中共同プレス発表の第3項に、「台湾問題に閲し、日本側は、日中共同声明において表明した立場を堅持する旨表明した」という一文がある。ここでいう「日中共同声明において表明した立場」とは、何か。栗山は「英語でInstitutional memoryという言葉がある」とし、「特定の組織が、当該組織に属したことがある個人ではなく、組織として継承している過去の記憶」として、「日中共同声明において表明した立場」を位置づけている。
 栗山がこの論文で「個人ではなく、組織として継承している過去の記憶」として、対中国国交正常化の立場を位置づけようとするのは、妥当な判断と評価するが、その内容は、栗山の思惑とは異なって、日本国が継承すべき記憶というよりは、栗山個人、せいぜい外務省対米追随派の記憶に堕しているのではないかという疑いを禁じ得ない。もしInstitutional memoryを語るのならば、それに最もふさわしいのは、国交正常化当時の大平外交の精神だとみなければならない。
 ここで栗山は、「時間的経過によって忘れられた二つの誤り」を指摘する。
 「誤りの第一は、同項の日本国政府の立場表明の重点は、後段のポツダム宣言への言及部分ではなく、前段の「中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し」の部分にあり、かつ、その趣旨は、中華人民共和国政府の立場を受け入れたものとする解釈である。この解釈が正しくないことは、すでに述べたとおり、当該部分がまさに中国が拒否したわが方の第1次案であったという交渉経緯に照らせば明白である。中国は、「十分理解し、尊重し」の表現は不満足と考えたからこそ、受け入れなかったのである」。
 ここで栗山が日本政府の「立場表明の重点」と、「重点」「非重点」を区別するのは、恣意的だ。当時は「法律的立場」と「政治的立場」と区別した。これは重点・非重点とは異なる。いわんや「政治的立場」として、一見法律的立場を凌駕するかのごとき表現さえおこなった、ポツダム宣言への言及を軽視するのは、許されまい。なぜなら、日中国交正常化は、「法律的立場」と「政治的立場」とのセットによって実現されたものであるからだ。これは栗山の強弁ではないか。前段と後段とは、「立場表明」の重点・非重点の問題ではない。(1)日本はまず法的には、中国の主張を認める権限がないから認められないとこれを退け、しかしながら、(2)カイロ・ポツダム宣言の経緯は認めると、いう条項をポケットから出して、「政治的に」中国の立場を認めたはずだ。両者を対立させて、前者が日本の立場、後者が国際政治の現実といった強弱はない。仮に誤解が見られるとしたら、それは虚構に虚構を重ねる論理構成のためと解するのがスジであろう。
 「第二の誤りは、同項全体が中国の立場を認めたものであるから、台湾の地位をめぐる問題は中国の国内問題と認識されるべきであり、したがって、台湾は安保条約の対象外注43とする議論である」。この点について栗山は、前述の大平外務大臣の国会答弁(1973年衆議院予算委貞会議録第5号) の一語「基本的には」に留意せよと注意を喚起して、「武力紛争の可能性がないと考えられる現状注44では、台湾をめぐり安保条約の運用上の問題が生じることはない。しかし、将来万一中国が武力を用いて台湾を統一しようとして武力紛争が発生した場合には、事情が根本的に異なるので、わが国の対応については、立場を留保せざるを得ない」と栗山は敷衍する。
 すでに触れたように、大平の言い方と、栗山の言い方は、ニュアンスがまるで異なる点に注目したい。大平は武力紛争の可能性がないと考えられると現状を認識したのに対して、栗山は「武力紛争が発生した場合」を想定して、日本は「立場を留保する」という。これは、政治的文脈では、大きな違いをもつ言い方に変わる。ここが大平亡き後、栗山が突出して、大平の肉声を覆うかに見えた箇所にほかならない。栗山のいう「立場の留保」とは何か、この種の言い方が誤解を招くのであり、大平ならばそのような言い方は断じて避けたはずである。大平の国会答弁を援用しつつ、微妙なところで文意を変えるのは、正しい解釈ではあるまい。 
 その後35年間に生じた二つの変化を栗山はこう分析する。
 一つは、米中国交正常化が実現し、米国の条約上の台湾防衛義務は消滅したことである。しかし、米国の行政府は、国内法注45によって、有事に際しては適切な対応を義務づけられているから、米台関係の問題の本質は変わっていない。米国は、条約上の台湾防衛義務は、米中国交正常化により消滅した。これは理解できる。が、「米台関係の本質は変わっていない」とはいかなる意味か。これは「条約上の(法的)義務」は消滅したが、政治上の義務は消滅しないの意味か。なぜ「問題の本質」は変わらないといえるのか、疑問である。条約局の高官の言とは思えない。
 二つ目の、「より重要な変化」は、台湾における民主主義の定着である。その結果、台湾住民の圧倒的多数は政治体制に関する「基本的価値観が異なる本土との統一を望まない、という現実を無視することの不条理」が一層明らかになってきている、と栗山はいう。「台湾における民主主義の定着」と栗山が呼ぶ事態は、「72年以来35年間に生じた変化」というよりは、88年の蔣経国死去に伴い、李登輝が後継総統に昇格して以来の出来事である。これは確かに重要な変化ではある。だが、「基本的価値観が異なる本土との統一を望まない」といった断定を安易に行うことは、誤解を招き易い。40年前に、大陸政権の台湾に対する実効支配の欠如を、あたかも交渉の取引き条件であるかのごとく扱って、不信感の原点を作り出した往時を顧みると、大平の初心に回帰することこそが問題を解くカギであることが明らかになる。
 最後に、栗山の『外交証言録』にコメントしておきたい。
1.賠償問題。
 「中華人民共和国との賠償問題について、田中内閣が発足する前、要するに佐藤内閣までに外務省で具体的に検討したことは、私が知る限り、ありません。田中内閣が発足した当時、私は条約局にいました。いまの国際法局です。そこで検討するときに、当初から外務省の基本的な方針として、条約局がまさにそう考えていたわけですが、中華人民共和国の対日請求権というものは認めていませんでした。日中間の賠償問題は、中国から見れば当然言い分はあるわけですけれども、これは日華平和条約で処理済みであるというのが、外務省の既定方針でした。私自身もそう考えていましたので、そうでない可能性について、例えば大蔵省などと相談をしたとか、協議をしたとかいうことは、一切ありませんでした注46」。中国の対日賠償請求権は、日華平和条約で処理済みとするのが外務省の「既定方針」であり、栗山自身もそれを肯定したとする証言である。
 ただし、この外務省の「既定方針」を支持しない人々も外務省に存在したことは、外務省の名誉のためにも記しておく必要がある。栗山は「小川平四郎、岡田晃氏等いわゆるチャイナスクールの先輩たち」との関係をこう証言した。
 「意見を聞かなかったという理由は非常にはっきりしておりまして、こういう方々と私らの意見が基本的に違たことは、初めから分かっていたからです。基本的な問題は、中国の復交3原則にどう対応していくか、さらには、日本がサンフランシスコ平和条約以後コミットしてきたサンフランシスコ体制と日中国交正常化をどう両立させるかということでした」「それらの方々の意見をそのまま受け入れれば、論理的には、日中国交正常化は成り立たない話だということでして、そのような協議をしても意味がないという意識を非常に私どもは強く持っていました」注47
 基本問題がサンフランシスコ体制という枠組みのなかで、中国の主張する復交3原則とどのように折り合いをつけるかであったとは、その通りだが、ここでチャイナスクール即中国の主張をそのまま繰り返す者といった断定を行うのは正しいか。ここは自らの対米追随派ぶりだけが印象づけられる。
2.共同声明の形か、条約の形か。
 「1972年の時点で日中共同声明を条約形式でない形で処理するということについて、日中双方で合意していた」「日本側はもちろんそれを望んでいたし、中国側もおそらくいろいろ考えたのでしょうけれども、それでいいということになりました。それでも、中国側は政治的には条約と同じような重さを持つと明らかに認識していて、だからこそ周恩来と田中角栄の両首脳が署名することを中国側が望んだ注48」。
3.吉田茂路線。
 「私自身は、日中国交正常化賛成論者ではありましたけれども、サンフランシスコ体制から日本が離脱しなければならないという形での日中国交正常化というのはあり得ないと確信していました」「日本が置かれていた国際的な環境、まさに吉田さんが敷いた吉田路線ですね、それがやはり戦後の日本の復興、繁栄、安全保障、そういう面から見て、事実上、現実的に考えると唯一の選択肢であった」「そこから離脱しなければならないという形での日中正常化はあり得ない」「要するにアメリカの政策が変わることになったときにのみ、日中の正常化というものはあり得るのだというのが私の認識であった。72年に現実に国交正常化をやろうとした時は、アメリカが71年のキッシンジャー訪中で、まさにニクソン政権の対中政策というのか基本的に変わったということなのです。そこに日中正常化のチャンスが出てきた注49
4.中国代表権問題と日華平和条約
 「なぜ中国代表権問題が重要だったかというご質問ですけれども、戦後日本は外交3原則というものを国連に加盟した時から掲げて、その3原則の一つは、国連中心ということだった」「国連中心というのが外交政策の指針としてどれだけ意味があるのかということは、また別問題なのですけれども。しかし少なくともそういう旗印を掲げて、国内的にもそういうことが受け入れられて、政治家もそれが少なくとも日本の外交政策の一つの指針だということで、歴代の総理大臣がそういうふうに自分の頭作りをしていた注50」。
 「頭作り」という表現が面白い。これは一種の洗脳か。国連という組織の代表権問題と日中戦争の当事者としての中国との問題を「国連中心主義の外交原則」でオブラートに包むやり方は、まさに中国から目をそらし、ニューヨーク経由で北京を見る外務省の体質を象徴したものに見える。
 「サンフランシスコ平和条約ができて、それですぐ日華平和条約ができますね。吉田さん自身がそれらを推進しました」「現実的に考えれば、中国大陸を実効支配したのは中華人民共和国だというものでした。したがって戦後の日本と中国との関係というのは、あくまでも日本と北京との関係であるのが自然である、あるべき姿だろうと思った人は非常に多いのです。しかし、吉田さんが非常に苦労したわけですけれども、サンフランシスコ平和条約をアメリカの議会で通すためには、そうも言ってはいられない。吉田さん自身が中国との関係は残しておかなければいけないと考えながら、やむを得ず台湾と平和条約を結んだ注51
 ここで誰もが中国大陸を実効支配したのは中華人民共和国である事実を認めており、吉田茂がやむなくサンフランシスコ平和条約と日華平和条約を結ぶに際して、「中国との関係は残しておく」ことを条件としていたことを栗山が証言している点が重要ではないか。だが、72年の北京交渉で高島や栗山の立場は、吉田の路線とは異なっていたことに、栗山は気づいていないように見えるのは、深刻な錯誤だと思われる。吉田がもし、この場にいたならば、高島や栗山のような対中発言を行ったかどうか疑問が残る。蔣介石政権の実効支配が中国大陸に及ばないことを強く意識しつつ、やむなく日華平和条約を選んだのが吉田の立場であり、そのような吉田の論理からすれば、中国代表権問題が結着した時点で、大陸を実効支配する中華人民共和国との国交のあり方は、当時の条約局のごとき姑息な対応とは違っていたはずだと考えざるを得ない。吉田の名を用いつつ、論点をずらすのはよくない。



結びに代えて
 1972年の日中国交正常化交渉の時点で、日本政府が日米安保の枠内でしか問題を処理できない限界を毛沢東も周恩来も熟知していた。つまり、中国側が日本に求めたのはその限界内での対応にすぎなかった。ところが、外務省高官たちは、あまりにもサンフランシスコ体制と日華平和条約を観念的に扱う結果、これに自縄自縛されて、無用の混乱を作り出した。その後遺症は40年後も残り、その不信感はいまだ解消のメドがたたない。
 このような東アジア環境のなかで、中国当局は、天安門事件と旧ソ連解体以後、とりわけ軍備拡張に邁進した。台湾解放を旗印として、「富国強軍」の道を歩み、いまや米露に次ぐ世界第二の軍事大国となり、日本の安全保障を脅かすに至った。中国がこのような路線を選択したことは賢明な選択とは思えないが、日本の東アジア安全保障についての間違った選択、すなわち周辺事態法に象徴される安全保障論が中国の軍拡路線の根拠の一つとされてきたことは明白な事実である。
 春秋の筆法を用いるならば、中国の民主化を妨げ、軍拡路線を促進したのは、日本の対米追従型外交であったと見るべきである。憂慮に堪えない。(2012.1.15)







 
1 日本政府の対中円借款は、大平首相が79年訪中の際に提示した第1次円借款(1979~83年の5カ年)総額3309億円供与を皮切りに、第2次円借款(1984~89年の6カ年)総額4700億円、第3次円借款(1990~95年の6カ年)総額8100億円、第4次円借款(前3カ年=1996~98年)総額5800億円である(10年据え置き、30年償還の低利借款。ただし、この間、円高が急激に進行したために、実際の償還に困難ありとする苦情もあった。第1次の対象プロジェクトは鉄道、港湾、電力など6案件、第2次の対象プロジェクトは、鉄道、港湾、通信、電力、都市整備など7案件、第3次の対象プロジェクトは電力、鉄道、港湾、空港整備、通信、都市整備、農業など40案件、第4次の対象プロジェクトは、農業、鉄道、航空、港湾、道路、通信、エネルギー、都市交通、環境など40案件、累計で2兆円を超える円借款は、中国のインフラ建設のために大きな貢献をなし、90年代の中国投資ブームの基礎固めができた。対中経済協力は、「大平3原則」(1.欧米諸国との協調、2.ASEANとのバランス、3.軍事協力はしない)に基づく。「大平3原則」は、91年12月「新4原則」(1.日中友好、世界平和のために、2.経済改革、対外開放を支援して、3.経済発展による不均衡の是正のために、4.人口、国土の規模に配慮して、中国援助を行う。『中国・国別援助研究会報告書』国際協力事業団、92年12月)に修正された。筆者はこの研究会の委員として起草に参加した。
2 日中共同声明日本側案の対中説明、『記録と考証—日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉』岩波書店、2003年、110~116ページ(以下『記録と考証』と略称)。
3 『サンケイ新聞』1985年2月7日。
4 高島局長の発言について、姫鵬飛外相「饮水不忘掘井人」は次のように証言している。「第二天上午,我和大平外相会谈,具体地讨论联合公报的内容。日方条约局局长高岛益郎首先发言:第一、不同意我方方案“自本声明公布之日起,中华人民共和国和日本国之间的战争状态宣告结束”认为这样日华条约从一开始就是无效的。第二、对我方提出的复交三原则,他认为应分开写。第三条“日华条约是非法的,也是无效的,必须予以废除”不能上。第三、关于台湾问题,他认为根据旧金山条约的日本已放弃了对台湾的一切权力,现在已无必要对此再作法律上的认定。第四、关于赔偿问题,他说我们对于中国方面主动提出放弃赔偿要求,给予高度评价和感谢。但认为蒋介石在日台条约中放弃了赔偿,如果现在声明上的文字表达上出现明确,意味着“日本和台湾缔结和约从一开始就无效”,日方则不赞成。高岛发言的中心是台湾问题,他只拘泥法律条文,他的发言给中日谈判带来了阴影。」166ページ。
5 田中一行は9月30日午後一時前に羽田着の日航特別機で帰国した。空港を出た後皇居で帰国の記帳を済ませ、自民党本部で椎名副総裁、橋本幹事長ら党執行部と懇談、引き続き午後2時20分から官邸で臨時閣議を開き、国交正常化考証の経過と成果を報告し、午後3時すぎから首相官邸でテレビ中継の記者会見に臨んだ。さらに4時すぎから自民党両院議員総会に出席し、共同声明について党の最終的了承を求め、台湾派の野次と怒号のなかで自民党は田中報告を了承した。この過程で田中は、迷惑問題について幾度も語っている。だが、服部はこれらを一切無視して、1984年11月号の『宝石』に寄せた「いま始めて明かす日中国交回復の秘話」から引用する。この「秘話」に特別の内容はなく、もし田中の真意を探るのならば、私が試みたように、帰国直後の証言が最もふさわしいはずだ。
6 日華平和条約第4条1941年12月9日前に日本国と中国との間で締結されたすべての条約、協約及び協定は、戦争の結果として無効となつたことが承認される。Article 4. It is recognised that all treaties, conventions, and agreements concluded before 9 December 1941 between Japan and China have become null and void as a consequence of the war.
7 第5条「日本国はサン・フランシスコ条約第10条の規定に基き、1901年9月7日に北京で署名された最終議定書並びにこれを補足するすべての附属書、書簡及び文書の規定から生ずるすべての利得及び特権を含む中国におけるすべての特殊の権利及び利益を放棄し、且つ、前記の議定書、附属書、書簡及び文書を日本国に関して廃棄することに同意したことが承認される」。Article 5. It is recognised that under the provisions of Article 10 of the San Francisco Treaty, Japan has renounced all special rights and its interests in China, including all benefits and privileges resulting from the provisions of the final Protocol signed at Peking on 7 September 1901, and all annexes, notes, and documents supplementary thereto, and has agreed to the abrogation in respect to Japan of the said protocol, annexes, notes, and documents.
8 サンフランシスコ条約第10条「日本国は、1901年9月7日に北京で署名された最終議定書並びにこれを補足するすべての附属書、書簡及び文書の規定から生ずるすべての利得及び特権を含む中国におけるすべての特殊の権利及び利益を放棄し、且つ、前期の議定書、附属書、書簡及び文書を日本国に関して廃棄することに同意する」。
9 サン・フランシスコ条約第14条(a)1は次のごとくである。「日本国は、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認される。しかし、また、存立可能な経済を維持すべきものとすれば、日本国の資源は、日本国がすべての前記の損害又は苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在充分でないことが承認される」。
10 サン・フランシスコ条約第14条(a)1は次のごとくである。「日本国は、戦争中に生じさせた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認される。しかし、また、存立可能な経済を維持すべきものとすれば、日本国の資源は、日本国がすべての前記の損害又は苦痛に対して完全な賠償を行い且つ同時に他の債務を履行するためには現在充分でないことが承認される」。
11 周恩来発言は、以下の通りである。「关于赔偿问题,周总理批驳高岛的说法;当时蒋介石已逃到台湾,表示所谓放弃赔偿要求,那时他已不能代表全中国,是慷他人之慨。我们是从两国人民的友好关系出发,不想使日本人民因赔偿负担而苦,所以放弃了赔偿的要求。过去我们也负担过赔偿,使中国人民受苦。毛主席主张不要日本人民负担赔偿,我向日本朋友传达。而高岛先生反过来不领情,说蒋介石说过不要赔偿,这个话是对我们的侮辱。我这个人是个温和的人,但听了这个话,简直不能忍受」。『周恩来的決断』中国語版、168ページ。
12 田中角栄『宝石』1984年11月号。
13 孫平化(1917~1997)、日本留学、元中国日本友好協会会長、著書『中国と日本に橋を架けた男―私の履歴書』日本経済新聞社、1998年。
14 『世界知識』1986年第6期、『中央公論』1987年8月号掲載の石井明訳による。
15 「自民党両院議員総会発言録」『ドキュメント日中復交』時事通信社政治部編、時事通信社、1972年、203ページ。
16 石井「中国に負った無限の賠償」171ページ。
17 栗山「日中共同声明の解説」『ドキュメント日中復交』218ページ。
18 1952年にこのような虚構を含む条約が行なわれたのは、一つは日本が敗戦国として外交の自主権を持たなかったことによることは明らかだが、もう一つ、見落としてならないのは、蔣介石政権は「大陸反攻」を国是に掲げており、台湾への亡命は一時的な戦略と見なされていたからだ。しかしながら、1971年に中華人民共和国は国連に復帰し、中華民国は国連を脱退した。その1年後には、蔣介石政権の「大陸反攻」論は、完全に実現不可能なことが誰の目にも明らかであった。この時点で日本外務省条約局は、この虚構に固執したのであり、その時代錯誤ぶりは、歴史に特記されるべき愚行と評すべきである。
19 「日中共同声明日本側案の対中説明」『記録と考証』112~13ページ。
20 「第二回首脳会談」『記録と考証』56~57ページ。
21 「慷他人之慨」とは、他人のカネで気前よく振る舞う、他人の褌で相撲をとる、という意味の慣用句。
22 杉本孝『日中の真の融和をどう達成するか』(未定稿54ページ)。
23 『朝日新聞』1987年6月5日。2004年に出版された『鄧小平年譜』(1975~97年下巻1192ページ)には、こう記録されている。「6月4日上午,会见矢野绚也率领的日本公明党代表团。在回答对中日关系有何见解和忠告时说;总的前提是两国没有任何理由不友好下去。从新中国建立到一九七二年邦交正常化之前,中日虽然没有外交关系,但两国民间的交往还是比世界任何国家都多。一九七二年建交后,总的来说关系还是正常的,特别是经济关系发展的比较快,在中国对外贸易额中日本占领先地位,但并不完全令人满意。从历史的角度来看,日本应该为中国发展做更多的事情」。「坦率地说,日本是世界上欠中国的账最多的国家。中日建交时,中国并没有因此提出战争赔偿的要求。中日是两个伟大的国家,又是近邻,从两国人民的长远利益考虑,我们作出了不要赔偿的决策」。
24 口頭発表は1998年1月29日、早稲田法学会で行われ、『早稲田法学』74巻4-1号、1999年5月号に発表された。
25 これは当時の公明党の竹入委員長が、田中内閣が誕生すると間もなく田中総理の意を帯して訪中し、周恩来総理との会談を通じて得られた中国側の考え方をメモにして帰国後に田中総理に提出したもの。
26 栗山は「米国が提示した平和条約と旧安保条約のセット」と定義している。
27 「本土並み」とは、1960年に改訂された安保条約の第6条に基づく交換公文(いわゆる事前協議制度に関する合意で、わが国に対する武力攻撃が行われていない場合において、戦闘作戦行動のために在日米軍基地を使用するには、米国政府は日本政府との事前協議を必要とすることが定められている)がそのまま沖縄にも適用されることを米国政府が受け入れたことを意味した。なおこの間題については、共同声明発出(1979年11月2日)に際し、佐藤総理が、ワシントンのナショナル・プレス・クラブにおいて行った演説において、次のとおり述べていることにも併せて留意する必要がある。「台湾地域での平和の維持もわが国の安全にとって重要な要素であります。私は、この点で米国の中華民国に対する条約上の義務の遂行の決意を十分に評価しているものでありますが、万一外部からの武力攻撃に対して、現実に義務が発動されなくてはならない事態が不幸にして生ずるとすれば、そのような事態は、わが国を含む極東の平和と安全を脅かすものになると考えます。したがって、米国による台湾防衛義務の履行というようなこととなれば、われわれとしては、わが国益上、先に述べたような認識を踏まえて対処していくべきものと考えますが、幸いにしてそのような事態は予見されないのであります」。
28 栗山の解説によれば、「(米側は)中国の立場がどういうものであるかを認識している」。しかし「承認したわけではない」というのが、この“acknowledge”という言葉に込められた意味である。栗山はさらに、「英語では、手紙を出すと、先方が手紙を受け取ったことを「確認」するという意味で同じ表現が用いられる」と敷衍した。
29 栗山はさらに「なお、日中国交正常化交渉を始めるにあたって、田中総理はその年の8月末にハワイでニクソン大統領と会談し、これから中国と国交正常化を行うが、それは日米安保体制と関わりない態様で実現するつもりである旨を説明し、大統領の了解を得た経緯がある」ことも付記している。
30 栗山は、「外務省は上海コミュニケ後に中国と国交正常化を行った若干の国の共同声明の内容を把握していたが、いずれも上海コミュニケの表現を踏襲し、中国の立場を“acknowledge”するということで中国と合意していた。しかし中国は、この上海コミュニケ方式を日本に適用することは強く拒否する姿勢であった」ことも付記している。
31 1972年11月8日衆議院予算委員会。
32 栗山によれば、「国交正常化への合意を、発効までに時間を要する国会承認条約によらず、共同声明形式で行うことについては、中国側にも異存がないことは、あらかじめ竹入メモの内容から明らかであった」由である。ここで大きな問題は、日華平和条約の処理が仮に国会の承認を必要とする「条約扱い」する形を採った場合には、中華人民共和国との日中平和条約も国会の承認を必要とすることになる。当時の与党・自民党の台湾ロビーの勢力からして、承認が否決される可能性もありうる。このような判断のもとに、内閣の外交権として処理したごとくである。そもそも日中戦争は「宣戦布告なき戦争」と呼ばれたが、その敗戦処理においても、日本政府はこのような姑息な手段を用いたわけである。 
33 栗山によれば、「かかる規定の内容は、条約発効と同時に最終的効果が生じ、その後における条約の存続の有無によってその法的効果が変わることはない」。したがって、わが国としては「当時中華民国政府によって代表された中国との間の戦争状態」は、「日華平和条約(第1条)によって終結しているとの立場を維持せざるを得ない」「中華民国政府による対日賠償請求権の放棄についても同様である」。
34 当然ながら、日華平和条約は大陸には及ばない。にもかかわらず、この条約によって、大陸の賠償請求権まで解決されたと、条約局は主張し続けたが、この論理にいかなる正当性があるのか。
35 栗山曰く「台湾に実効的支配を及ぼしていない中華人民共和国政府との間で、かかる実体規定を実施する方法がない」。
36 栗山曰く「承認を得る意味がない」。
37 このような「大平談話」の形で問題を処理したことについて、当時アジア局参事官として台湾との折衝に当たった中江要介(のち条約局長、中国大使)は、「憲法違反」だと述べている。「あの『大平』談話を作ったのは、栗山条約課長だと思います。日華平和条約は堂々と新憲法下の国会で法律と憲法にしたがって締結されたものです。その国際約束を、たった1回限りの記者会見で、しかも外相談話で、「なくなった」、「存在の理由を失ったものと認めます」、「これが日本政府の立場です」などといい加減な扱いをしたのは憲法違反だと思います。憲法98条には、締結した条約は忠実に遵守することとあるでしょう。にもかかわらず、日華平和条約については、忠実に遵守していないのです。一回の記者会見でしかも外相談話で、それこそ弊履のごとく捨ててしまいました。私は、ああいうやり方はおかしいと言っていましたが、当時は議論もされなかったですね」。中江要介著『アジア外交動と静』蒼天社出版、2010年、152ページ。
38 栗山曰く「上記のような日華平和条約の処理方式については、将来の米中国交正常化に際し、台湾との米華相互防衛条約を処理しなくてはならないという問題を抱える米国政府も関心を持ち、わが方の理論構成等を非公式に照会してきた経緯がある。しかし、米華相互防衛条約は、日華平和条約と異なり、処分的性格の条約ではないために、同様の処理方式をとることはできなかったと思われ、米国政府は、中華民国政府との間で相互防衛条約の終了規定に基づき条約終了の手続きをとった上で、七九年一月に米中国交正常化を行った」。
39 日米防衛協力の対象に台湾が含まれる、の意。
40 栗山尚一(元駐米大使)「台湾問題についての日本の立場――日中共同声明第三項の意味」『霞関会会報』2007年10月号。 
41 栗山尚一/中島琢磨・服部龍二、江藤名保子編『外交証言録 沖縄返還・日中国交正常化・日米「密約」』岩波書店、2010年。
42 2007年4月。
43 同条約で言う「極東」 の範囲から除かれるの意。
44 これは1972年時点での国際情勢認識であろう。
45 台湾関係法を指す。
46 『外交証言録』99~100ページ。
47 同上101ページ。
48 同上102ページ。
49 同上102~103ページ。
50 同上106ページ。
51 同上107ページ。
以上 

               
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