第67号 2012.03.27発行 by 矢吹 晋
    「ペリーの白旗」騒動
―どたばた劇を嗤う―
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 遅咲きの梅花のころ、北京から「衛三畏生誕200年シンポジウム」への招待状が届いた。このタイトルを見て、即座に「ペリーの白旗」事件を想起する読者は幾人おられるであろうか。寥々たるものに違いない。衛三畏とは、サミュエル・ウィリアムズが自ら選んだ漢字名である。サミュエルというファースト・ネームを「三つの畏れ」と訳すのは、いかにも敬虔なクリスチャンの人柄を想起させる。
 私は朝河貫一の旧友ジョージ・クラーク宛の書簡の紹介に依拠しつつ、ペリーの通訳サミュエル・ウィリアムスは、引退後イェール大学に中国学を創設した大学者であること、その子フレデリックもイェール大学准教授になり、父の遺産を整理する仕事すなわちThe Life and Letters of Samuel Wells Williams:Missionary, Diplomatist, Snologueを編集・出版したこと、その本のレビューを朝河貫一が書いたこと。フレデリックは、朝河貫一の博士論文指導教員であり、『日露紛争』には序文を寄せ、またイェール・メモランダムでは立役者の一人であること、などを紹介した。日本の歴史家によると、「日本語もろくろくできない中国語通訳」と軽視されてきたが、これは大きな誤解なのだ。日本の歴史家たちが問題を解けなかったのは、キーパーソン・衛三畏を軽視したためである。いわんやこのアメリカ人の思想が、海軍軍人ペリーのそれとは異なることまでは到底想像が及ばない。
 私はここで改めて、朝河貫一の至言を想起する。
 外交とは、相手の精神の理解を通して自分の目的を達成することです。
(Diplomacy consists in gaining one's point through an understanding of the view of the other party. K. Asakawa’s letter to Langdon Warner, Dec. 10, 1941. )

 だが、小著『日本の発見』出版後4年を経ても、松本健一の側からも、偽造文書として切り捨てた宮地正人(もと東大史料編纂所)グループからも、一切無視されたままだ。
一体どうなっているのか、と少し調べたところ、小さなドタバタ劇が繰り返されていたことに気づいたので、記しておく。
 まずは、劇画、みなもと太郎著『風雲児幕末編3』2003年には、白旗騒動が次のように描かれている。

 

 与力の身分にすぎない香山栄左衛門が「浦賀奉行伊豆守」を僣称して「日本高官」を演ずるあたり、細部までよく描かれている。ところが、みなもとが『ワイド版風雲児たち』第15巻ギャク注で「このエピソードは結局「ピルトダウン人骨」なみのつくり話に過ぎないことが判明、「幕末編」にはギャグ注欄がないので、とりあえず、ここに記しておきます」と書いて、この件をみずから否定してしまった。この劇画作家は、「何を根拠に2003年8月段階」でこのような方針転換をしたのか。
 当時の『新しい歴史教科書』を巡る議論で反対派の宮地正人が「白旗書簡は偽書である」と述べたことを踏まえたものであろう。つまり、この作家は、松本健一の問題提起を受けて、『新しい歴史教科書』2001年版のコラムに「ペリーが渡した白旗」と題して、白旗事件が書き込まれたことを踏まえて、このエピソードを劇画化したが、宮地正人らの偽文書批判を容れた。史実に疑問を抱いて、エピソードを否定したものに違いない。
 ところが意外や意外、2005年刊行の『新しい歴史教科書』改訂版から、突然「白旗書簡」のコラムが消えてしまった。
 代わりを埋めたのは、『日本遠征記』から抜粋・要約した「ペリーは日本人をどうみたか」と題するコラムである。
 こうして、「白旗書簡が偽書であったのかどうか、改訂へのコメントもなく、歴史学会側からも反応がない状態が今日まで続いている」と評したのは、「ペリー提督『白旗書簡』の真偽を問う! 」を書いたYoichi Yamashitaのホームページである。http://www.geocities.jp/pbgbf588/shirahata_intro.html

一連のドタバタ劇を年表にまとめてみよう。
① 松本健一の白旗論の総括である講談社学術文庫版は1998年5月。
② 『新しい歴史教科書』2001年版のコラムに「ペリーが渡した白旗」。
③ 宮地正人教授(前東大史料編纂所所長)の偽造文書批判『歴史評論』2001年10月号。
④ 劇画、みなもと太郎著『ワイド版風雲児たち』第15巻ギャク注。「このエピソードは結局、ピルトダウン人骨なみのつくり話に過ぎない」と白旗論の解釈を撤回。
⑤ 『新しい歴史教科書』では2005年改訂版で、突然「白旗書簡」のコラムが消える。代わりに『日本遠征記』から抜粋・要約した「ペリーは日本人をどうみたか」と題するコラムが登場。

 150年前の日本開国史をめぐって、21世紀の初頭に日本でくり返されているドタバタ劇は、何を意味するのか。「太平の眠りを覚ますジョウキセン、たった4杯で夜も眠れず」とは、黒船当時の皮肉屋のコメントだが、昭和になって「白旗事件」は、鬼畜米国のシンボルとして操作され、国民を日米戦争へ駆り立てた。
 その帰結として行なわれたミズリー艦上での降伏調印式に米占領軍は、ペリー旗艦に掲げられていた旧記念旗をあえて持ち込み、「第2の開国」すなわち占領開始の象徴とした。アメリカで事態を見守る朝河貫一は、降伏調印の数カ月前、米軍がペリーの二の舞を演じて、トラブルが起こることを危惧して、白旗を押しつけるような愚行に警告し、日本の再生と民主化を促進するような占領政策を期待していた。
 しかるに、降伏から半世紀以上を経た今日、右翼っぽい松本も左翼っぽい宮地も、一知半解、いまだ「白旗の真相」を理解しない。彼らは真実にはまるで無頓着、ひたすら党派的利害だけを守ろうとしているかに見える。学問や歴史的真実の追求を放棄して、ドタバタ政治劇を演じている。
 すでに指摘したことだが、松本も宮地も、そしてその応援団たちも日本側史料だけで論じようとして、致命的な誤謬を犯した。ペリー来航を契機とする日本の開国とは、日米関係なのであるから、日本側史料だけでは絶対に解けない。米国側史料との照合が不可欠である。それを朝河貫一は百年前にすでにやり遂げていたのであるから、朝河貫一に学ぶことが必要なのだ。先哲の分析から学ばず、半面の史料と思い込みから、相手の思想を理解せずに身勝手な結論を導く態度は改めてもらわないと困る。ここにあえて旧稿の白旗論を再発表する所以である。


 資料1 矢吹が受け取った「衛三畏生誕200年シンポジウム」への招待状
CALL FOR PAPERS 
Sponsored by
Beijing Foreign Studies University’s Research Center of Overseas Sinology
Kansai University’s Center for the Study of Asian Cultures
Macau Foundation
An International Symposium in Memory of S. W. Williams
Relations between East Asia and the United States in the 19th Century
Samuel Wells Williams (1812 – 1884) is an important figure in the relations between East Asia and the United States in the 19th century. He is one of the earliest missionaries to China, and the first university professor of sinology in US. He is also an eye-witness to the opening of Japan and a promoter of Protestant missions in Japan. He worked in Canton, Macau, Beijing and Japan for 43 years, and was one of the initiators of American rational diplomacy during the Tongzhi and Guangxu reign periods. In memory of the 200th anniversary of his birth, we cordially invite your active participation in this international symposium, which aims to re-examine the life and work of S. W. Williams and the relations between East Asia and US in the modern era.
Themes
1. Relations between East Asia and US in the 19th and Early 20th Centuries
2. American Missionaries in Modern East Asia
3. Early American Sinology (language, literature, history, etc.)
4. The Status of Macao in the Relations between East Asia and US in the 19th Century
5. Historical Experience of Mutual Learning and Constructive Interaction between East and West

Schedule
Arrival: Dec. 14, 2012 (Friday)
Meeting: Dec 15–16, 2012 (Saturday and Sunday)
Excursion:Dec 17, 2012 (Monday)
Departure: Dec 18, 2012 (Tuesday)

Place
Beijing Foreign Studies University
Expenses
Participants bear transportation costs to and from the meeting.
Food and lodging expenses are covered by the sponsors.
“19世纪的东亚与美国——纪念卫三畏诞生200周年”国际学术研讨会
邀请函
尊敬的专家学者们:
 卫三畏(Samuel Wells Williams, 1812--1884) 是近代东亚与美国关系史上的重要人物。他是美国最早来华的传教士之一,也是美国大学史上的第一位汉学教授,同时又是日本开国的见证人和新教赴日传教的推动者。他在广州、澳门、北京以及日本工作和生活了43年之久,是同光新政时期美国对华理性外交的代表人物之一。2012年9月22日是卫三畏诞生200周年的纪念日,为了重新检讨这位活跃于十九世纪亚洲太平洋舞台的历史人物,总结中美之间、日美之间以及东西方之间相互学习、平等对话和建设性互动的历史经验,北京外国语大学中国海外汉学研究中心、日本关西大学亚洲文化研究中心、澳门基金会联合召开此次学术研讨会。
 素仰先生在本会主题研究领域成果丰硕,影响巨大,诚邀您拨冗与会交流并发表论文。
会议议题:
1. 19世纪及20世纪初美国与东亚的关系
2. 美国传教士在近代东亚的活动
3. 美国早期汉学史(包括语言、文学和历史等)
4. 澳门在19世纪中、日、美关系中的地位
5. 近代东西方之间相互学习和建设性互动的历史经验
会议时间:2012年12月15-16(14报到,17参观, 19日离会)
会议地点: 北京外国语大学
参会费用:提供会间的食宿;往来交通费自理




資料2 旧稿「ペリーの白旗」論争と朝河貫一     (原載、『日本の発見』2008年)
 松本健一氏の「白旗伝説」
  松本健一氏が「白旗伝説」を書いて一石を投じたのは、一九九三年であり(『群像』1993年4月号)、「発表したあとの波紋と、その後の展開」を含めて新潮社版にまとめたのは一九九五年五月であった。その後の「増補」を加えて講談社学術文庫版は一九九八年五月に出た。つまり、松本としてはこの学術文庫版が白旗伝説論の決定版のつもりらしい。松本はいろいろ史料を渉猟したが、肝心の史料をいくつか押さえていないので、決め手を欠いており、隔靴掻痒だ。その不備を補って正解へと導いてくれるのは、むろんわが朝河史学である。
 私は勤務先を定年で退いてから朝河貫一研究に取り組んできた。二〇〇七年は朝河のイェール大学講師就任百周年であり、これを記念して春に朝河シンポジウムが開かれ、招かれて「朝河史学と朝河平和学」について報告した。秋にはキャンパス内のセイブルックカレッジ中庭に朝河ガーデンが設けられ、その開園式に招かれて朝河顕彰協会の仲間たちとともにこれに参列した。こうして私は朝河学再評価のための資料提供をひとまず終えたが、そこで輪郭が明らかになった朝河史学に照らして見ると、古くは日本史における大化改新の位置づけから、朝河晩年の「天皇制民主主義」の構想に至るまで、朝河の巨大な歩みにいまさらながら、圧倒される。そこから大きな示唆が得られる一例を、ここでは「ペリーの白旗」に即して語ってみたい。
 松本は「学術文庫版まえがき」で、自らの旧説の不備を次のように修正した。すなわち「ペリーの白旗が日本側に手渡されたのは嘉永六年(1853)の六月九日ではなく、六月四日の時点だったのではないか」、という推定である。この推定に自信を込めて「このまえがきを書いている時点では、ほぼ確定と断言していいようにおもわれる」と強調した。
 松本の新しい断定の根拠はなにか。 松本旧説の「白旗差出六月九日説」では、『阿部正弘事蹟』や浦賀奉行所の他の記録などと矛盾するからだ。奉行所の「六月四日付け記録」には、ペリー側は、「[六月四日から数えて]四日目昼過ぎまで相待ち、御返答これなく候わば、今は致し方もこれなく、江戸表へ罷り越し候とも、又いかようとも存念通り取計うべく申し候。もっとも、その節に至り事平(ことたいらぐ)の用向きこれあり候わば、白旗を掲げ参れ、申すべく候、と発言している」。「このとき日本側は、白旗を掲げることが降伏・和睦を申し入れるさいのメッセージである事実を知らないのだから、ペリー側がじっさいにそのような発言をしたのでなければ、このような記録を残しようもないわけである」(文庫版5ページ)。
 松本は『大日本古文書』シリーズの『幕末外国関係文書Ⅰ』(東京帝国大学編、明治43年刊)所収史料119号「六月九日(?)米国使節ペリー書翰、我政府へ白旗差出の件」に基づいて、差出日をひとまず「九日」と措定したあと、奉行所の他の記録との矛盾を解くために九日から、四日に繰り上げたわけだ。なるほど、この修正によって奉行所の記録などとの整合性は保証できよう。だが、この重要史料のタイトルになぜ「六月九日(?)」と疑問符が付されていたかを松本は、説明できていない。


白旗差出の日付問題と朝河貫一
 実は松本を悩ませた白旗差出の日付問題は、一九四五年五月一三日付けG・G・クラーク宛ての朝河書簡で先刻解明済みなのだ。筆者を含む書簡編集委員会によって『朝河貫一書簡集』が出版されたのは一九九〇年一〇月である。いま該当個所を読んでみよう。
 「アメリカ人は下劣な動機に浸るとき、馬鹿げた行為に至ることがあります。おせっかいな人の中には、サンフランシスコ会議[当時、国連創設準備のサンフランシスコ会議が開かれていたことを指す]で、五月三〇日を国際祝日にすればよい、とまでいっている者さえある[朝河書簡の日付は五月一三日だが、この時点で米国の新聞はすでに沖縄戦の勝利を確定的なものとして伝えていた模様だ。事実、第一海兵師団第一大隊長Richard P. Ross中佐は一九四五年五月三〇日に首里城攻略の尖兵として、石垣に大隊旗を掲げた]。一八五三年にペリー提督は将軍の幕府に宛てて、通商を禁じた幕府の伝統的な政策は、「天理」を犯す「極悪犯罪」である故、アメリカの大艦隊が通商を求めに来航するであろう、その勝利は明らかである、そのさいに、もし貴国が降伏を望む[wish to capitulate]のであれば、ここで一緒に送る二枚の白旗[the two white flags he was sending therewith]を掲げよ、そうすれば砲撃はただちに止むであろう、と書いています。これは、六月四日に幕府の役人に対して口上で[said to officials]伝えられました。この趣旨を正確に記した英語・中国語・日本語の三通の書簡の形でおよそ五日後に[was sent about five days later in three letters of this exact import, English, Chinese, and Japanese]、それらは箱に収められた白旗とともに届けられました[arrived together with the flags in a box]。四日の会談に同席した二人の役人が書いた二つの日記[two diaries by two officials who took part in the interview of the 4th]と、英語を除く書簡[the letters except the English]とが現存しています。それらの書簡は当時、幕府の老中たち以外[no one at the time but to the inner councilors]には見せませんでした」( 『朝河貫一書簡集』早稲田大学出版部、1990年、675ページ)。
(念のために原文をそのまま引いておく。The American attitude can go a long way toward absurdity when indulged at weak moments. Some busy-bodies have said that it should be proposed at the S. F. conference that May 30 be made an international holiday. In 1853, Commodore Perry wrote to the shogun’s government that, since the latter’s traditional policy of prohibiting trade was “extreme crime” in violation of “Heavenly reason”, a vast American fleet would come to demand an accounting for it (アメリカ艦隊が大挙して押し寄せたら、日本はどうして交易禁止などできよう、アメリカ側は納得できる説明を断固求めるはずだ); its victory was certain; on that occasion, if you would wish to capitulate, you should hoist the two white flags he was sending therewith; bombarding would then cease at once. (This was said to officials on June 4, and was sent about five days later in three letters of this exact import, English, Chinese, and Japanese, which arrived together with the flags in a box. There exist two diaries by two officials who took part in the interview of the 4th , and the letters except the English. The letters were shown to no one at the time but to the inner councilors. p. 154, Letters Written by Dr. K. Asakawa, Waseda University Press, 1990.)


第一海兵師団第一大隊長Richard P. Ross中佐が一九四五年五月三〇日に沖縄首里城攻略の一番乗りとして、城の石垣に星条旗を掲げた。「この日を国際祝日にしよう」という一部のアメリカ人の発想を朝河は厳しく批判した。

 こうして日付問題への正解は、「(嘉永六年)六月四日にまず口頭で」伝えられ、「九日(ごろ)に書簡の現物と白旗二本が届けられた」と解するのが朝河の分析である。
 『幕末外国関係文書Ⅰ』を編集した史官が「九日」という差出日付に疑問符を付したのは、むろんそれ以前に、文書の内容・趣旨が分かっていたことを示す「六月四日栄左衛門とビュカナン艦長(中佐)の対話書」(20号)等の史料を意識してのことに違いない。朝河はそこを読み取って「およそ五日後にabout five days later」とアバウトをつけている。実は朝河はそれが「六月九日のこと」である事実を、はっきり認識していた。にもかかわらず、あえて「およそ(about)」を付したのは、当該史料の日付に付された「疑問符」を尊重してのことだ。朝河はそこまで周到なのだ。

 では、朝河がこのように書いた根拠はなにか。一つは、松本が言及したのと同じ『幕末外国関係文書Ⅰ』である。朝河はthe Kai-koku Kigen, I.(『開国起源』), and the Baku-matsu Gwai-koku Kwan-kei Mon-zho, I.(『幕末外国関係文書』)の二つの史料を挙げて、後者については「まもなく公刊されよう(soon to be published)」と付記している。朝河がこのように書いているのは、東大史料編纂所で編集作業が進行中であることを確認してのことだ。
 ここで問題は、朝河が松本と同じ史料を用いながら、なぜ「四日の会談に同席した二人の役人が書いた二つの日記と、英語を除く書簡とが現存」と、的確に読めたのか、であろう。おそらく朝河はアメリカ側の関連史料を読み切っていたからだ。それがSamuel W. Williams, First Interpreter of the Expedition, ed. by his son Frederic W. Williams, A Journal of the Perry Expedition to Japan, Transactions of the Asiatic Society of Japan, XXXVII, part 2, Tokyo, 1910.(洞富雄訳、東京雄松堂書店、1970年7月、新異国叢書、553ページ)および The life and letters of Samuel Wells Williams New York and London, G. P. Putnam’s sons,1889(宮澤真一訳『S・ウェルズ・ウィリアムズ生涯と書簡』高城書房、541ページ、2008年)である。朝河は前者が公表されるやただちに「書評」を書いている。すなわちK. Asakawa, A Journal of the Perry Expedition to Japan (1853-1854) by S. Wells Williams; F. W. Williams, The American Historical Review, Vol.16, No. 1 (Oct., 1910), pp. 136- 137 (review consists of 2 pages)である。この書評を読むと、白旗問題の所在は一目瞭然だ。
 汗牛充棟の白旗論だが、この朝河書評に言及して、問題を論じた文献は(管見だが)皆無と思われるので、まず短い書評の全文を掲げ、そこから要旨を読み取ることにしよう。
Williams had lived in the Orient for nearly twenty years and had acquired some knowledge of the Japanese language in addition to his familiarity with Chinese(通訳ウィリアムズの日本語能力が論点の一つとなったが、彼は20年近く極東に住み、中国語に精通するとともに、日本語についてsome knowledgeを習得していたことを指摘), when in 1853 he was persuaded by Commodore M. C. Perry to serve as the chief interpreter in his important mission to Japan. The great usefulness of Williams’s service is, in spite of his modesty, well reflected in his highly interesting Journal, now edited for the first time by his son.(通訳ウィリアムズは謙遜しているが、その貢献を朝河はgreat usefulnessと評価し、それがウィリアムズ日記に反映されていることを指摘) Professor Williams of Yale, with an introduction and notes.(イェール大学教授フレデリック・ウィリアムズが序文と注釈を付した)。Being the only American in the expedition possessing any first-hand acquaintance with the extreme Orient, the author throughout found himself playing the role of the moderator between the diffident Japanese and the exacting soldier-diplomat. (通訳ウィリアムズが「内に籠もりがちな日本」と「強引な軍人外交家ぺリー」の間で極東事情に通じた唯一のアメリカ人として「調停者の役割」を果たしたことを朝河は指摘)Williams also took an invaluable part in the making of the first international treaty of modern Japan, in which the historic mission culminated, for the editor says, it was due to the author’s suggestion that the extra territoriality clause was struck out from the original draft of the treaty and the most favored nation clause inserted in its final text.(通訳ウィリアムズの示唆により、治外法権条項が原案から除外され、最恵国条項が最終案に盛り込まれた、と編集者フレデリックがコメントしたことに朝河は注目している)。Apart from the question of the author’s place in the mission, his Journal affords some data confirming as well as supplementing to the beginning of Japan’s international career. (Among these sources are, on the American side, the Reports of Perry’s Expedition to Japan, the Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, and several articles published since by surviving members of the expedition; and on the Japanese side, the Kai-koku Kigen, I., and the Baku-matsu Gwai-koku Kwan-kei Mon-zho, I., soon to be published). ここで朝河は米国側と日本側の原史料がなにかを教えている)。In this Journal the memorable incidents of the expedition and the masterful manners of Perry are vividly narrated and freely and frankly commented upon.(ウィリアムズ日記の見どころがペリーの横柄な作風を生き生きと描き、自由かつ率直にこれにコメントを付した点にあることを朝河は読み取っている。このコメントは、われわれがペリーの公式遠征報告書やその日記を読むうえで恰好の指針となるはずのものだ)。Even more important would seem the suggestions to which the work, either by omission or throughout data unconsciously supplied for inference, gives rise in the mind of one who studies with care the complex and still very obscure historical process of the period, in which both Perry and Williams were to a large extent blind actors.(ペリーの遠征は、日米双方にとって異国との初めての交渉であるから、意図的な省略か、あるいは無意識のものかは別として、ペリーもウィリアムズもかなりの程度まで、「手さぐりの交渉」を続けざるをえなかった状況に、朝河は注意を喚起している)。If one compares Perry’s probable original expectations with his final results, a marked difference between them will be noted. For example, Perry was encouraged by the progress of the negotiations within the three weeks after Captain Adams’s conference with the Japanese commissioners at Uraga on February 22, 1854, to demand more favorable terms than he had intended to ask, and was later enabled to secure some of them(ペリーの予期した以上の成果としてアダムス船長の浦賀奉行との交渉を挙げている)。On the other hand, he never got a permission for American merchants to trade in Japanese ports, and never realized his desire to visit the capital, to see the “Emperor”( really, the Shogun), or to receive a reply from him to the personal letter President Fillmore had addressed to him, or even to deal with officials equal in rank to himself; Perry was in fact addressed by the Japanese commissioners in inferior terms and even failed to secure their signatures and seals on the treaty in the usual fashion.(期待したが実現できなかったものとして、将軍との会見やフィルモア大統領宛ての天皇 (実は将軍)宛て親書を得られなかったことを挙げている)。What made him in the former instance to advance beyond, and in the latter to recede from, his first intentions? On these points Williams’s Journal does, it would seem-provided it is studied in the light of other sources, especially Japanese----throw some light. These points are merely mentioned here in this brief notice, for a complete solution of these and other problems of the Perry mission is still to come. For such a solution, the present Journal must be considered as one of the most important primary sources on the American side.(ペリー遠征の功罪を論じるうえで、ウィリアムズの日記がいかに役立つかを指摘している)。

 実は、朝河学を少しでもかじった者にとっては常識なのに、遺憾ながら一般にあまり知られていないのは、父サミュエル・ウィリアムズの日記を整理して公表した子フレデリック・ウィリアムズは、父のポストを継いだイェール大学の研究者(準教授)であり、朝河の指導教授であった事実である。朝河の博士論文The Early Institutional Life of Japan(拙訳『大化改新』)を指導したのもフレデリックであり、また無名の朝河がThe Russo-Japanese Conflict(『日露衝突』)を書いたときに「序文」を書いてアメリカ社会に紹介したのも、フレデリックなのだ。この師弟関係もあって、朝河は特に「ペリー遠征隊の真実」に関わる米国史料に通じていた。イェール大学に中国学の講座を創設したウィリアムズの生涯、そしてペリー遠征記のさまざまな欠陥や、史実の歪曲に与しなかった『ウィリアムズの遠征随行記』、などアメリカ側の「第一級史料」を朝河は熟知していたのだ。それだけではない。朝河は一九〇六~〇七年の第一次帰朝に際して東大史料編纂所で幕府側史料を調べており、そのときに、後日『幕末外国関係文書Ⅰ』に収められることになる基本資料さえ調べていたのだ。書評を読むと、この間の事情がよく分かる。
 朝河は前に引用した一九四五年五月一三日付け書簡のなかで、「 [嘉永六年六月]四日の[旗艦サスクェハナ号での船上]会談に同席した二人の役人[浦賀奉行支配組与力香川栄左衛門と通詞堀達之助、同立石得十郎を指す。矢吹注]が書いた二つの日記[香山栄左衛門の「上申書」と立石得十郎の「覚書」を指す]と、英語を除く書簡とが現存しています。それらのペリー極秘書簡は、当時、幕府の老中たち以外には見せませんでした」と米国の親友クラークに書いている。この具体的な記述は、朝河が遊学中の東大史料編纂所で原史料を見ていることを示唆する。
 こうして、朝河は米国側原史料と日本側原史料とを対比しつつ、交渉経過を精査していた。このような綿密な史料調査を踏まえて、朝河は恩師フレデリックの編集したウィリアムズのペリー遠征『随行記』への書評を書いたことが分かる。ここで小さな疑問は、フレデリックによる航海日記の編集出版が父ウィリアムズの死去した一八八四年二月一六日から二六年後まで出版を待つことになった事情である。父の日記の整理を終生の課題としたフレデリックにとって、いささか仕事が遅すぎる印象を否めない。推測だが、朝河による幕府側資料の点検を待っていたのではないか。なお、フレデリックはアメリカ草創期の東アジア研究者としては恵まれた生い立ちにありながら、イェール大学では準教授にとどまり、弟子の朝河と違って正教授にならなかった事実も付加しておく。
 さて朝河自身は、フレデリック編による『ウィリアムズ随行日記』(のちに洞富雄訳『ペリー日本遠征随行記』)が出版されるや直ちに、恩師父子の本に対して書評を書いている。繰り返すが、フレデリック編集の『随行日記』が出版されるとすぐに書評を書いているのは、かねて出版計画を知っており、出版後直ちに読んだものと解すべきである。推測を重ねるが、当時横浜で出版されていた日本アジア協会機関誌を掲載誌としてフレデリックに紹介したのはほかならぬ朝河であった可能性も考えられる。というのは、朝河は博士論文の執筆に際して、この雑誌に掲載されたW・G・アストン訳の『日本紀』英訳版、B・H・チェンバレン訳の『古事記』英訳版を頻繁に引用しており、この協会の活動を熟知していたからである。朝河は一九一八年には、この協会で封建制について講演している(『朝河貫一 比較封建制論集』所収)。いずれにしてもフレデリックがこの掲載誌を選んだことに朝河の存在が無縁だとは考えられないのである。

 さて、このような朝河の研究に導かれて問題の所在を考えると、松本が問題提起して、さまざまな論議を呼んだ白旗問題の真実は容易に解けてしまう。いな、これは朝河が一九一〇年の時点で基本的に解決していた課題なのだ。後学たちが百年後にほとんど無意味な論争を行ったのは、彼らの「知的怠慢」というよりは、先達の到達地点を無視してきたことにより知的復讐を受けたにすぎない。まことに真の学問ほど恐ろしいものはない。
 まず日米間で白旗問題はどのように話し合われたのか。日本側記録によれば、すでに触れた史料119号「ペリー書翰我政府へ白旗差出の件」が最も重要である。この史料の内容は、松本が学術文庫版(44ページおよび106ページ) で引いた通りであるが、念のために全文を引いておく。
 「先年以来、各国より通商の願いこれあり候ところ、[幕府は]国法をもって違背に及ぶ。元より[幕府の]天理に背くの至罪、莫大なり。されば蘭船より申し達しの通り、諸方の通商是非に希うに非ず。不承知に候わば、干戈をもって天理に背くの罪を糺し候につき、其方[幕府]も国法を立てて防戦致すべし。左候わば、防戦の時に臨み、必勝は我等[ペリー側]にこれあり。其方[幕府]敵対成り兼ね申すべし。若し其節に至り[幕府が]和睦を乞いたくば、この度[米国が]贈り候ところの白旗を押し立つべし。さればこの方[ペリー側]の砲を止め、艦を退いて和睦致すべし、と云々(『幕末外国関係文書Ⅰ』269~270ページ。以下、これを白旗書簡甲本と略称する)。
 松本はこの文書を書写した「高麗環というひとは外国奉行所と幕閣のあいだを往き来する下級役人」と解説したが、岸俊光『ペリーの白旗』(21ページ)に彼の経歴が詳しく紹介されている。史料19号には「七月一七日付(すなわち国書受領三日後)報告書」など詳細な記録や「アメリカからの贈物」や「アメリカ人への贈物」リストなど現場レベルでの贈答等の記録も含まれていることからして、高麗環雑記に収められた一連の史料の重要性は明らかである。問題は個々の史料の「読み方」であろう。
たとえば史料19号「聞書・其二」には、国書と白旗の手渡しを無事に終えたペリー艦隊の出帆のことが次のように記されている。「ご覧の通り、和交の白旗船に出し置き申し候間、必ずご心配これなきよう、かつ明朝四時(彼国の四時、今朝六時)出帆致し候旨、最早浦賀へ船留め申さず、ここより出帆致し候旨申し聞き候(この節の儀、ほかにカ条これあり候えどもしたためず)」。ここで明らかなのはペリーの旗艦もまた「和交の白旗」を掲げて去って行ったことだが、ここから「白旗は和交」の象徴とだけ読むのは、致命的ミスを犯すことになる。
 史料119号には、基本的に同じ内容だが、別のバージョンが活字のポイントを落として付記されている。「嘉永癸丑(みずのとうし)[一八五三]浦賀一件数条に左の一文を載す。参考のため、玆に収む」の注記のあとに書かれている白旗書簡(乙本)の全文を現代文で表記すれば、次のごとくである。
 「アメリカ国より贈り来る箱の中に、書翰一通、白旗二流、ほかに左の短文一通。
 皇朝古体文辞 一通、前田夏蔭これを読む。漢文一通、前田肥前守これを読む。イギリス文字一通、不文明。右各章句の仔細は、先年以来、かの国より通商願いこれあり候ところ、国法の趣にて違背に及ぶ。ことに漂流等の族を自国の民といえども[にもかかわらず]、撫恤(ぶじゅつ)せざる事、天理に背き、至罪莫大に候。よって[アメリカは]通商ぜひぜひ希うにあらず。不承知に候べしや、このたびは時宜により、干戈をもって天理に背きし罪を糺す。そのときにまた国法をもって防戦致されよ。必勝はわれにあり。敵対兼ね申すべきか。その節に至りて、和睦願いたく候わば、予が贈るところの白旗を押し立て示すべし。即時に砲撃を止め、艦を退く。当方の趣意はかくのごとし」(以下、これを「白旗乙本」と略称する)。
 甲本と乙本とを比較すると、両者に共通する文言は、(1)アメリカの目的は通商ではない。(2)天理に背いた罪は干戈をもって糺す。(3)和睦を望む際には、白旗を押し立て示せ、の三カ条である。甲本にはなく、乙本にのみあるのは、「自国の漂流民を撫恤しないのは、天理に背く」の一句である。両者を比較すると、甲本よりは乙本の文意がより鮮明である。甲本は「通商をしないことは天理に背く」と主張しながら、「通商をぜひに、と願うものではない」と、まるで矛盾している。これに対して乙本が「天理に背く」と糾弾しているのは、「通商をしないこと」ではなく、「自国の漂流民を撫恤しない」ことだ。両者の比較から、乙本にこそペリー側の真意、あるいはこの文書の筆者ウィリアムズの強い主張が現れていることが分かる。その意味を分析する前に、受取り状況を確認しておこう。

白旗受取りの日時と箱の数
 フィルモア国書および白旗受取りに話を進めるが、興味深いのは、史料121号「六月九日[七月一四日]久里浜応接次第覚書」である。筆者は明記されていないが、①久里浜出張の役人氏名、②上陸した米国人の氏名、③役人の着衣、④国書を入れたる箱、などを実に具体的に記録している。これによると④国書を入れた箱は「縦一尺五寸、横一尺三寸、青漆塗り、四方の縁は黒漆塗り」のものが一つ。もう一つは「幅一尺、厚さ八寸ほどにて、横文字をもって記し候、都合二箱」と記されている。史料の原典拠は「続通信全覧類輯」である。察するに、前者がフィルモア国書およびペリーの信任状であり、後者こそが「白旗二流」および「ペリー書簡」を入れた箱と推測してよいのではないか。周到なペリーは、フィルモア国書を収めた正規の箱のほかに、もう一つ、「白旗を収めるための箱」を用意していたのだ。
 国書を収めた箱が二箱であった事実は、史料121号の「応接次第」のほか、史料17号所収の「香山栄左衛門の聞書き」にも「国王の書翰二箱いずれも板三重にてねじ鋲にて留める」と記されている(71~72ページ)。
 P・B・ワィリーのノンフィクションYankees in the Land of the Gods, Penguin Books, 1990.(『黒船が見た幕末日本』興梠一郎訳、TBSブリタニカ、1998年)の記述を見ると、two rosewood boxes wrapped in scarlet cloth with the various letters enclosed( line 1-3, p.318) およびtwo rosewood boxes with gold hinges (line 37, p.318)と書かれている。箱の大きさについては、six-inch-by-three-inch solid gold boxesと記している(line 1-2, p.319.)。なおウィリアムズ随行日記では単にboxesとのみ記されている(pp.61-62.) ウィリアムズの書簡に基づく『生涯と書簡』では「二つの綺麗な箱two beautiful boxes」と書かれている(原書195ページ、宮澤真一訳、227ページ)。
 近年の論争のなかで、「箱が二つ捧呈された」ことに着目した論者が見当たらないのは、きわめて不可解である。私が気づいた二つの史料はいずも『幕末外国関係文書Ⅰ』に収められており、論者たちがこれらの史料の前後のものは、繰り返し引用しているにも関わらず、最も肝心の史料は無視されているのだ。甚だ理解に苦しむ事態である。
 さてこの白旗捧呈の一件が砲艦外交の象徴であり、フィルモア国書の精神を逸脱したものであったこと、それゆえ公式の『ペリー遠征報告書』ではボカされていることは、明治以来一部の識者たち、戦後は松本たちが示唆してきた通りであろう。
 朝河が六月四日[七月九日]に口頭で、と解しているのは、おそらく通訳サミュエル・ウィリアムズの日記には次のように記されていることを踏まえたものだ。七月九日(六月四日)の条に次のように書かれている。
The originals of the letter and credence were then shown them, and also the package containing the translations; they showed little or no admiration at them, but wished to know the reason for sending four ships to carry such a box and letter to the Emperor; yet whether …..They [栄左衛門と通詞たち]were clearly informed of the meaning of a white flag[この文意は、「白旗というものの意味」を明確に告げられた、であろう。aという不定冠詞は「一枚」というよりは「総称」であるから、日本側で記録された「二枚の白旗」と矛盾する記述ではない], and also that visits were out of season till after the flags were hoisted in the morning. [朝、白旗が揚げられる前は訪問不可であることも告げられた](p.51. 強調は矢吹)
 ウィリアムズは、白旗の意味するものは、幕府役人に対して明確に告げられた、と書いているが、具体的には「誰から誰へ」の説明か。「ビュカナン中佐から与力香山栄左衛門と通詞堀達之助と同立石得十郎に対して」であったことを明記しているのは、史料20号「六月四日浦賀表米船対話書」である。これは四日早朝に香山栄左衛門、通詞堀達之助、同立石得十郎の三名が旗艦サスクェハナ号に乗り込み、ビュカナン、アダムス、コンチーと「国書の受取り方法」について話し合った時の記録だ。念のために記すが、幕府側乗船者を三名に限定したのはペリーの固い指示によるものだ。一八四六年に浦賀に来たJ.ビッドル提督が無数の番船に包囲されて任務を果たせなかった失敗を教訓としたものであることをペリーは自慢げに書いている。
 香山が国法に基づき、「黒船は長崎へ赴くべしと諭す」のに対して、「将官(ビュカナン)」は「直ちに江戸へ行かん」と声言した。香山が貴意は江戸表に伝達するつもりだが、「江戸への往復だけで四日かかり、評議のために幾日かかるかは分からない」と説明したのに対して、「将官」は、「今日から四日昼まで待つ」と期限を通告した。その上で、「将官」はこう付加した。
 「四日目の昼過ぎまで相待ち、ご返答これなき候わば、今は致し方もこれなく、江戸表へまかり越し候えども、またいかようとも、存念通り取り計らい申すべく候。もっともその節に至りて、事平(ことたいらぐ)の用向きこれあり候わば、白旗を掲げ参るべく申し候」(『幕末外国関係文書Ⅰ』139ページ)。
六月八日昼までに国書受取りについての返事がなければ、「江戸へ直行するなり、他の方法も含めて勝手にやる」と脅迫したわけだ。そのような「場面に直面して、改めて話合いを求める際には、白旗を掲げて交渉に来られよ」と伝えたのであった。
 期限つきで国書の受領を強要された浦賀奉行所の当惑が青天の霹靂であったことはよく知られていよう。与力近藤良次が夜を徹して江戸へ連絡したところ、ペリーが設定した回答期限前日の六月七日、江戸表から「御指図」があった。そこでこの指図に基づいて、香山は通詞堀、立石を連れて再度ビュカナン、アダムス、コンチーと船上で会見し、国書受領の段取りを協議した。その記録が史料62号「六月七日浦賀表米船対話書」である。ここで米国側は国書の受領は、a.「高官之役人」に限ること、b.その役人は「帝よりの印書[信任状]を持参すべきこと、c.その印書の文意にはオランダ語の訳文を付すこと、などの条件をつけた。これに対して国書受領の責任者戸田伊豆守は、受領式の場所は「久里浜とする」こと、ただし当地は「本来外国人応接の場所ではない」ので、「国書受領式は、双方とも無言とすること」、すなわちここでは交渉は一切行わず、単に受領だけに限定することで協議が整った。
 「無言の授受」は、浦賀奉行戸田伊豆守の意を体した与力香山の主張である。香山はさらに「受領した国書への返書は長崎で渡したい」と提案したが、ペリー側はこれを一蹴して、「浦賀で捧呈するからには、浦賀で受領するのが当然」と譲らなかった。また返書の受領はできれば三カ月内に、「たとえ延びたとしても五、六カ月後には返事を受取るべく再度渡来する」と予告した。この予告も脅迫の一環とみてよい(『幕末外国関係文書Ⅰ』181~184ページ)。
 このような事前の協議に基づいて、六月九日ペリー一行は久里浜に上陸して国書捧呈の儀式が行われた。その模様は(1)史料15号「香山栄左衛門上申書、老中宛て」、(2)史料18号「六月オランダ通詞立石得十郎覚書」および(3)史料121号「六月九日久里浜応接次第覚書」に詳しい(『幕末外国関係文書Ⅰ』29~30ページ、91~92ページ、271~273ページ)。これらのうち(3)史料121号には、すでに触れたように、a.出張の役人名、b.上陸した米国人名、c.幕府役人の着衣、d.国書を入れたる箱などが記されており、箱数は「都合二箱」であったことが明記されている(『幕末外国関係文書Ⅰ』273ページ)。
 さてこれら二つの箱には何が収められていたのか。
 a.フィルモア親書とb.フィルモアおよび国務長官が連署したペリーの信任状、c.ペリーの七月七日付け書簡(大統領親書の意味を説明したもの、末尾に恫喝条項あり)、d.ペリーの七月一二日付書簡(捧呈日時の協議を求めたもの)、e.ペリーの七月一四日付け書簡(国書への返書受取りの見通しを述べたもの)、以上五通について、英語原文に添えて、オランダ語訳、漢文訳が付され、都合一五通の書簡が捧呈されたことは、ペリーの『日本国遠征日記』でも幕府側記録によっても確認されている。ここで争点は、甲本乙本の真偽問題である。その検討のためには、七月一二日付の「ペリー第一書簡」を綿密に読む必要がある。

和約か兵端か、二者択一
 浦賀沖に姿を現す前夜にペリーが旗艦サスクェハナ号にて書き、翌七日付けの署名を付して九日に久里浜で国書とともに捧呈した「ペリー第一書簡」の末尾にはこう書かれている。
Many of the large ships-of-war destined to visit Japan have not yet arrived in these seas, though they are hourly expected; and the undersigned, as an evidence of his friendly intentions, has brought but four of the smaller ones, designing, should it become necessary, to return to Yedo in the ensuing spring with a much larger force.
But it is expected that the government of your imperial majesty will render such return unnecessary, by acceding at once to the very reasonable and pacific overtures contained in the President’s letter, and which will be further explained by the undersigned on the first fitting occasion( 『幕末外国関係文書Ⅰ』英文付録9ページ)。
 この箇所を近年の『ペリー日本遠征記』の訳本(一九九七年一〇月、栄光教育文化研究所刊、オフィス宮崎訳、加藤祐三監修)は次のように訳している。
 「日本を訪問するために派遣された多くの大艦は、まだこの海域に到着したことはありません。しかし、それは常に予期されているのです。本書状の署名者は友好的な意図を証明するため、比較的小さな四隻の軍艦のみを率いてきましたが、必要とあれば、来春にははるかに大きな艦隊を率いて、江戸に帰航するつもりです。しかし、大統領の親書に記載され、本書状の署名者が近く適当な機会にさらに説明することになる、非常に合理的かつ平和的な申し入れを陛下の政府がただちに受けいれることにより、このような帰航を不必要にすることを期待しています」(第1巻259ページ)。
 これはまあ、何たるふやけた翻訳か。まるでラブレターもどきの文体ではないか。およそ脅迫状の匂いから遠い。浦賀の奉行所が実際に受け取った書簡の「漢文本書」は、この文体とは似て非なるものだ。
ペリーから届いた第一書簡「漢文本書」の該当個所は次の通りである。
 「順此誠寔立定和約、則両国免起衅端、故先坐領四小船、来近貴京、而達知其和意、本国尚有数号大師船、特命馳来、未到日、盼陛下允準、如若不和、来年大幇兵船必要馳来、現望、大皇帝議定各条約之後、別無緊要事務、大師船亦不来(『幕末外国関係文書Ⅰ』257ページ)。
 上記の「漢文本書」は、幕府側によって「漢文和解(わげ)」された。
 「漢文和解」は、次のように訳してある。
 「この理に従い、真実に和約を取極め候えば、両国兵端を引き起し候ことこれなきと存じ候[和約が成れば、戦争は避けられる]。これに依りて、四艘の小船を率い、御府内近海に渡来致し、和約の趣意御達し申し候。本国このほかに数艘の大軍船これあり候間、早速渡来いたすべく候間、右着船これなき以前に、陛下御許容下され候様仕りたく候[本国の大軍船の到着以前に決断すれば、平和が保たれ、決断がなければ戦争になる]。もし和約の儀御承知なくござ候わば、来年大軍船を取り揃え、早速渡来いたすべく候[万一、和約が成らない場合は、明年大軍船で再度渡来し、成行きでは、戦争になる]。右につき、ただいま大皇帝の御評議相願い申し候。御承知下され候いて、右条約取極め候えば、ほかに大切の用事これなく、大軍船渡来いたさず候[和約が成れば、大軍船の派遣は取りやめる]。かつまたわが国主[大統領]和約規定の書翰持参いたし候(『幕末外国関係文書Ⅰ』260ページ)。
 もう一つ、ペリー側で用意したオランダ語訳を幕府側で訳した「蘭文和解」は次のごとくである。
 「日本へ存問(ミマイ)せんがための大軍艦数隻、未だこの海に到着せず、某(それがし)[ペリー]らいたずらにこれを待つのみ。某(それがし)[ペリー]今いささかその友愛の情けを表せんがために、四小舶をもって貴国に至れり。明春まさに事体に応じて[和約が成らない場合は]、尚数舶を増加し、再び航し来るべし。しかりといえども、日本国帝殿下の政廷[におかれては]、願わくば、某[ペリー]が再び来るを待たず、伯理璽天徳(プレジデント)が書中に載せたる公平和好の策を採用あらんことを。ただし、その書中の本旨は、近日便宜を得るを待ちて、某[ペリー]まさに自ら詳しく悉くすべし」(『幕末外国関係文書Ⅰ』264ページ)。
 ペリー第一書簡のこの部分は、加藤祐三監訳を読むと、気の弱い男が強盗役を演じさせられているイメージであり、まるで喜劇だ。この滑稽きわまる訳文をペリー側で用意したa中国語訳およびそれをb候文に訳したもの、およびペリー側で用意したオランダ語訳に基づいてc候文に訳した文体と比べて見よう。前者はあたかも喜劇の脚本だが、後者abcは明らかに脅迫状である。前者は「友愛の情け」と訳されたfriendly intentionsのような外交辞令にすっかり騙されており、脅迫か懇願か、そのニュアンスがまるで分かっていない。「和約を取極め候えば、両国兵端を引き起し候こと、これなきと存じ候」とは、「和約が成らない場合」は、「両国兵端を引き起し候」と和約を迫る文面である。「和約か、戦端を開くか」と二者択一を迫り、かつ返事の期限まで指定する話だから、砲艦外交そのものだ。ちなみにフィルモア国書では、ペリーに対する訓令がこう書かれている。I have particularly charged Commodore Perry to abstain from every act which could possibly disturb the tranquility of your imperial majesty’s dominions.(『幕末外国関係文書Ⅰ』付録1~2ページ)。大砲を備えた軍艦を派遣する以上、それ自体が軍事行動なのだが、「天皇の国土の平安を乱すこと」をフィルモアは厳しく戒めていた。これが大統領の立場であった。しかし国書の受領さえ拒否し、「用事があれば長崎へ願い出よとする国法」に従う浦賀奉行所の役人との応接がフィルモア親書の与えた枠内で可能であろうか。そのような状況のなかでペリーは浦賀入港の前夜に第一書簡を書いていた。こうして七月一四日[嘉永六月九日]に捧呈された七日付けペリー第一書簡[嘉永六月二日]の末尾にはペリーのホンネが現れている。すなわちフィルモア国書とその趣旨を説明した部分には、平和的外交辞令が連ねてあるが、末尾には「衣の下の鎧」が見え隠れしているのだ。このホンネ部分と、史料20号の「六月四日対話書」および史料119号の「白旗差出しの件」の異同を検討すると、白旗問題の真相が浮かび上がるしかけである。
 「六月四日対話書」(20号)には「事平(ことたいらぐ)の用向きこれあり候わば、白旗を掲げ参るべし」の文言がある。「白旗差出しの件」(119号)における表現は「和睦を乞いたくば、白旗を押し立つべし」である。「事平の用向き」と「和睦を乞いたくば」は、一見、文脈が異なるように見えるが、国書の受領を拒否すれば、それが「兵端を引き起す」危険性を示唆するのであるから、これら二つの邦訳文献の内容は、基本的に同一と見てよい。しかも、それはペリーの英文原文の精神に発するものだ。それゆえ、史料119号の「白旗差出しの件」と題された文面(乙本)は、親書の枠を飛び出すとはいえ、いささかもペリーの一連の行動と矛盾する事実が見られない。すなわち「白旗差出し」に滲む内容は、浦賀に到着して以来のペリーの一貫した行動を裏付けるものと解してよい。
 この文体について、119号注記(乙本)では「皇朝古体文辞」と呼ぶが、その含意は、後述のように「漢字交じりカタカナ」で書かれた文書のことではないか。これはペリー第一書簡の漢文訳、オランダ語訳のほかに存在するもう一つの文書、すなわち私のいう乙本が漢字交じりカタカナで表記されていたことを示唆すると解してよい。
 白旗にかかわる交渉過程を跡づけると、最も重要な折衝は、六月四日(七月九日)および六月七日(七月一二日)のやりとりであることが分かる。四日の現場にいたのは、与力香山栄左衛門と通詞堀達之助、同立石得十郎の三名である。七日の現場にいたのは、与力近藤良次と通詞(おそらく堀達之助と立石得十郎)である。ここで改めて、史料15号「香山栄左衛門上申書、老中宛て」から、その間の経緯を読み直してみよう。
 六月四日早朝、通詞堀達之助と同立石得十郎を伴ってサスクェハナ号に乗船したときの「形勢容易ならず」の雰囲気を香山はこう書いている。
 「船中の形勢、人気の様子、非常の体を相備え候につき、とてもこのまま書翰御受取りこれなくては、平穏の取り計らい相成り兼ね候」。「当所[浦賀]にて御受取りに相成らず候わば、江戸表にまかり越し相渡すと申すべし」。「江戸表へ相伺い候えても、当所にて御受取りに相成らず候わば、[ペリーは]使命をあやまり候、恥辱雪ぐべきなし」。
 「されば浦賀において余儀なき場合に至る[戦端を開くこと]と申すべし」。「その節に至り候とも、用向きこれあり候わば、白旗を建て参りくれ候わば、鉄砲を打ち掛け申すまじき段の存念、申し聞き候。相貌、将官はもちろん、一座に居合わせし異人一同、殺気面に相顕れ」(24ページ)。
 六月四日は浦賀奉行所与力とビュカナンとの最初の折衝であったが、奉行所としては「国法により安易な受領はできない」という立場であり、ペリー側はその国法に風穴を空ける決意で交渉に臨んでいた。彼らは「受領か、鉄砲[大砲]か」と、「殺気を顔に露わにして」与力に迫った。まさにこの時、ウィリアムズは漢字交じりカタカナ書きのメモ(乙本)を示しつつ、来航の趣旨を説明したのだ。ウィリアムズの当日の日記が示すように、栄左衛門たちはフィルモア国書にはいささかの敬意も表わさず、四隻の軍艦で来航した理由をしつこく問い糺した。これに対してウィリアムズは「通商の目的ではない」と幕府側の誤解を解きつつ、「幕府が自国の漂流民の受取りを拒む行為」は「天理に背くもの」だと厳しく批判した。これは、その一六年前(すなわち一八三七年)にわざわざ大砲を外したモリソン号に七名の日本人漂流民を載せて浦賀にやってきたとき、問答無用とばかり「打払令」により撃退された苦い体験をもつウィリアムズにとって、どうしても強調しておきたい論点であったことは、ウィリアムズ自身による随行記や、他の資料も加えて息子フレデリックが編集した『生涯と書簡』から明らかだ。
 ペリー側は固い決意を伝えようとして、内海に黒船一艘を乗入れ、測量を開始する。六月六日未明のことだ。これに気づいて与力近藤良次が通訳を連れて抗議に赴いた。先方の対応は「書簡ならば受け取るが、応接はせず」との返答であった。そこで近藤は船中に乗り込み折衝した。近藤は江戸への終夜の往来で疲労困憊していたが、アダムスに面会し、こう抗議した。「なぜ内海に乗り入れ候やと相糺し候ところ、右は書翰御受取りに相成らざる節は、内海に乗り入れ、騒動に及びし候ことゆえ、海底の浅深測量のため、差し遣わし候の趣申し聞き候」(26ページ)と答えた。
 書簡を受け取らない場合は、江戸に近づき、「騒動に及ぶ」[発砲を示唆する]つもりであり、その必要上、海深を測量しなければならないのだと、弁明ではなくさらなる威嚇であった。六月七日四つ時過ぎ、江戸表から「国書を受領してよい」との許可が届いた。そこで伊豆守が翌々九日に久里浜で受け取ることを決定し、それを旗艦に伝える。ところが国書の受取りだけでは事は終わらない。今度は「国書への返書はいつもらえるか」、と黒船側が迫る。「畢竟、手荒の申し分にて、昨年中通達に及び置き候ことゆえ、いまさら隙取り(ひまどり)候の義は、これなきところ[前年から申し入れてきた要求であるから速やかに返事が欲しいと、迫る構図だが、朱筆によるこの部分は一八五四年のやりとりのはず。「香山上申書」が書写される過程で書き加えられたものか]、右のように手重に申し候わば、本願の主意相叶わざる事にこれあるべし。速やかに一戦に及び勝敗相決す、と申すべし[要求が叶わない場合は、一戦に及ぶと、脅迫している]。あるいは浦賀奉行には兼ねて申し越し候義、存ぜぬことと相見候間、江戸表にまかり越し、御老中方に御直談申すべし[浦賀奉行には四日申し入れた白旗の件を老中に直接申し入れたい、と迫る]などと、種々難題申し聞き候」(27~28ページ)。
 六月四日から国書受領の協議が整う七日まで、浦賀奉行所がペリー側の恫喝を受けて戦々恐々としていた有り様は、以上のように、当事者によって細かく記録されている。

 国書受領前後の経緯をこのように見てくると、白旗書簡問題の核心が明らかになる。すでに示唆したように、六月四日(七月九日)の最初の折衝において、単に国書を届ける目的のために、四隻の軍艦で来航した真意はなにか、と理由を問い質す栄左衛門の追及に対して、ウィリアムズはモリソン号による漂流民送還の失敗を踏まえて、「自国漂流民の受取りを拒否する幕府の悪法は天理に背く」ことを説いた。これは口頭により説明されたが、ウィリアムズの手許には慣れない日本語を話すのに備えたメモ書きが用意されていたであろう。このメモ書きこそが乙本であるはずだ。甲本ではウィリアムズが最も強調したかった「漂流民の受取り」に係わる記述が落ちており、乙本の変種であると推測してよい。
 こうして内容の検討から、乙本の筆者がウィリアムズであることは断定してよいと思われる。次にこのメモ書きが漢字交じりカタカナで書かれ、幕府側によって「皇朝古体文辞」と呼ばれたことの根拠を考えることにしよう。
 一八三七年八月末、漂流民を日本に送り届ける計画が挫折したあと、マカオにもどり、米国伝道協会(ABCFM)印刷所の責任者の仕事に戻ったウィリアムズは、日本語の勉強を開始した。「ウィリアムズ氏は、帰還後の冬場の間に、マタイによる福音書の日本語訳を準備したが、これは外国人のもとで雇用されることになった[日本人漂流民]七名全員にキリスト教を教えるためだった」。「その後日本語の小さな語彙集を完成させ、さらに二年経過する頃には、『創世記』の日本語訳を準備できた」。「こうした作業を進めていくなかで、少なくとも二名の日本人漂流民の改心を成し遂げて、キリスト教信者にした」(宮澤真一訳『生涯と書簡』114ページ)。
 ウィリアムズ訳の「マタイ伝」は火事で失われたと見られていたが、一九三八年に国語学者春日政治(当時、九州帝国大学文学部教授)が長崎の古書店で漂流民原田庄蔵の書写した「庄蔵本」を発見した。春日論文「一八五〇年和訳の馬太伝」を引用しつつ、春名徹は、ウィリアムズ訳の「文体はギュツラフ訳とは異なって、ケル、ナリ、アリ、ベシを用いて、文語を志向している。ただし、その志向は貫き得ず、口語化してしまっている部分がある」と評している(『にっぽん音吉漂流記』中公文庫版、251ページ)。

宮地正人氏の見解について
 白旗書簡(乙本)の成立をこのように解すると、これを「明白な偽文書」と断定するだけに終始する宮地正人教授(前東大史料編纂所所長)の主張の誤りが明らかになる(『歴史評論』2001年10月号)。
 第一に宮地は書簡の文面だけを扱い、「白旗という実物」を一切無視している。ペリーが白旗二枚を贈りつけたという事実こそが重要であり、書簡はその「説明書き」にすぎないのだ。「説明書き」の欠陥だけをあげつらうのは、本末転倒ではないか。真に問うべきは、白旗贈呈の有無なのだ。宮地の議論には「木を見て森を見ない」欠点が随所に露呈している。宮地は白旗贈呈の事実を否定するが、では六月九日に久里浜で捧呈された「箱が二つ存在した」という記録をどう説明するのか。そもそも松本も宮地も「二つの箱」という重要史実に気づいていないのは、「最も根本的な証拠」を見落としたものと言わなければならない。白旗差出とはnonverbal comm.unicationであり、この事実が最も重要なのだ。
 第二に宮地は白旗書簡文面における不自然な箇所として、「蘭船より申し達候通り」の記述をあげる。これはおそらくペリー艦隊到着の報が事前に蘭船から予告されていたことを踏まえたものであり、ペリー書簡に書き込まれるのはなるほど不自然である。この記述は甲本にだけあり、乙本にはない。すなわち乙本をもとに、その趣旨を説明するために、甲本で書き加えたものであることは容易に察せられる。また書簡に前田肥前守の名が見えるのは不自然という指摘も、専門家の高見として認めよう。しかし別のバージョンでは筒井肥前守(松代藩重臣山寺常山の風説留「如坐漏船居紀聞」)であり、矛盾はない。文書の流通について、「八月以降に現れ、九月に各地方に伝播された」という知見も専門家ならではものだ。宮地はこれらの特徴をもとに「偽文書」と断定する。
 だが、宮地も書いているように、「偽文書論が往々にして面白くないのは、白か黒の決着にだけ固執して、グレーゾーンを問題としないからである」。では「偽文書の方が本物より信じられたのはなぜなのか」(120ページ上段)。この箇所を読んで私は笑いをこらえきれなかった。このコメントはまさに宮地論文への批評として最適ではないのか。宮地は白旗書簡の瑕疵を指摘して「偽文書」と断定してしまい、「面白くない」論文を書いたのだ。「偽文書の方が本物より信じられたのはなぜなのか」、宮地はまさにそれを問うべきなのだ。乙本は「限りなく本物に近い」、否、ペリー第一書簡の精神を踏まえて通訳ウィリアムズの書いたメモ、すなわちペリー第一書簡の趣旨説明文だからこそ信じられたのであり、これ以外に理由は見出せまい。
 なるほど宮地は「六月四日対話書」と「白旗書簡」について「両者の文章を比較すれば、その相似性は明らかである」と重要な指摘を行いながら、「斉昭に近い前田夏蔭の名が出ているが、偽文書というものはなんらかの痕跡を残す」と偽文書性の論証に関心が向いてしまう。宮地には初めに間違った断定がある。ペリーの通訳ウィリアムズに「皇朝古体文辞が書けるはずはない」という前提から出発するので、ウィリアムズの日本語能力を具体的に検討することはなく、彼が後日イェール大学に迎えられ、中国学の初代教授に就任するほどの研究者であるところまでは視野が届かない。国史家の視野狭窄の典型であろう。
 最後に宮地はこう結ぶ。「この文書を偽文書として確認した上で、しかもその上で日本の開国という未曾有の事態に直面した武士階級を含む三千万の日本国民の恐怖と不安、そして見通しのたないものへの激しい苛立ちを理解させるための恰好の材料として、我々はこの史料を活用していかなければならないのである」(121ページ、末尾)。
 話はあべこべではないのか。「国民の恐怖と不安」「激しい苛立ち」がこの文書に滲むことは確かだが、「書簡の核心」は、むろん「ペリーの恫喝」ではないのか。現実の白旗こそが恫喝のシンボルなのだ。宮地はせっかく白旗書簡の原型が「六月四日対話書」にみられることを指摘しながら、そのペリーの恫喝から目をそらして、「恫喝におののく側の不安と苛立ち」しか読み取れないのである。これは偶然ではない。白旗を降伏勧告ではなく、まるで友好の象徴であるかのように錯覚しているからだ。「フィルモア親書に書かれた思想」と「ペリーが実際に行った恫喝」とは似て非なるものだ。その緊張関係は、朝鮮戦争期に原爆投下を主張してトルーマン大統領から解任されたマッカーサーのケースと酷似したところがある。フィルモア大統領からピアース大統領への政権交代、数年後に勃発した南北戦争を視野に入れてこそ、アメリカの東アジア政策は的確に理解できよう。宮地に欠けているのは、まさにその視点である。
 三谷博教授(東大大学院総合文化研究科)の『ペリー来航』(吉川弘文館、2003年)も偽文書説である。曰く「(ペリーは)日本語と中国語の通訳としてウェルズ・ウィリアムズ」を「中国で雇い入れていた」。「彼は在清宣教団の一員で、かつてモリソン号で浦賀に来たことがあった。その時送還に失敗した日本人漂流民から日本語を習っていたが、再来までにはかなり忘れていたのである」(110ページ)。「かなり忘れていた」と断定してよいのか。ウィリアムズ自身の日記を調べて見よう。During the whole of this interview the bearing of these Japanese was dignified and self-possessed. (最初の船上対話全体を通じて、これらの日本人の物腰は威厳があり、冷静沈着であった)Yezaimon spoke in a clear voice and, through Tatsnoski, who put it into Dutch for Mr. Portman,(栄左衛門ははっきりした口調で語り、達之助がそれをポートマン氏のためにオランダ語に翻訳した) I could make out almost all they said(私には彼らのいうことがほとんどすべて分かった); but it would require considerable practice to speak that style(しかし、そのような武家言葉で話そうとすれば、かなりの訓練が必要であったろう), and I am not sorry that one of them knows Dutch so much better than I do Japanese(幕府側に私の日本語よりもはるかにうまくオランダ語を話す者がいてよかったと思う), for I think intercommunication is likely to be more satisfactory(おかげで対話がより満足できるものとなったからだ). p.51. ウィリアムズ日記から分かるように、彼には栄左衛門のいうことがほとんどすべて理解できていたのだ。ただし、威厳に満ちた武士の言葉で、「あたかも候文のように」語ることはできなかったのであった。ウィリアムズ日記はこう続く。At the close of the interview the interpreter said the officer present was the highest in Uraga, and his name Yezaimon(対話を終える時に、在席の役人は浦賀で最も位の高い栄左衛門だと通訳が説明した); “What is the name of the captain of this ship?”(そして艦長の名前を尋ねてきた) He was told, and nothing could be more polite than the whole manner of this incident.(名前を教えてやると、これ以上はありえないといった風にかしこまった) “Are you an American?”(あなたはアメリカ人か) ---“Yes, to be sure I am(然り、いかにもアメリカ人でござる), ” I replied in a tone to intimate some surprise at the question(その問いにいくらか驚いたかのように答えてやった), whereat these was a general laugh(そこで一同大笑いになった). pp.51-52.
 「白旗書簡」偽文書説の根拠として、三谷はこう書いている。「日米の間に直接言語が通じなかったことは」、「日米交渉に際して、アメリカが日本側に降伏の印として白旗を交付したという説に根拠がなきことも示している」。「この説の依拠する史料は、アメリカが日本側に皇朝古体文辞の文書を渡したと述べているが、当時、ペリー艦隊には、日本人漂流民を含め、そのように高級な日本語を綴れる人物は乗船していなかった」(110~111ページ)。要するに、ウィリアムズには「漢字交じりカタカナ文語調の文を書けなかったはず」だから、「漢字交じりカタカナ文語調で書かれた文書」があるとすれば、偽文書だという論理であり、宮地とまったく同じ論拠である。三谷の本では、私が利用した『幕末外国関係文書Ⅰ』から少なからず前後の史料を引用しているが、なぜか「箱を二つ受領した」と記す文書(17号と121号)までは目が届かない。素人の私が数時間の調査で発見できた史料に、この分野の専門家が気づかない理由(あるいはあえて無視する理由)がまるで不可解である。
 山本博文教授(東大史料編纂所)も疑文書説だ。「 [白旗の現物ではなく] 書簡を幕府に渡したといううわさが流布した」。「宮地正人氏は、ペリーが白旗書簡を渡したという証拠はなく、外交交渉の場で、ペリー自身が国家に報告していない私信を渡したとは考えられないから、白旗書簡は疑文書であると主張した」。「ペリーの部下が浦賀奉行所とやりとりをした時、白旗を交渉のしるしと説明し、江戸湾を測量する船にも白旗を掲げさせたさとは事実であった」。「しかし、これとペリーが実際にそのような文書を渡したかどうかということは別問題である。おそらく事実としては、宮地氏の主張が正しい」。「興味深いことは、白旗書簡のうわさを書き留めた史料が意外に多いことである」(『ペリー来航――歴史を動かした男たち』39~40ページ、小学館、2003年)。
 先輩宮地正人に追随して、三谷博も山本博文も見事にずっこけた。嗤うべし。
 最後に大江志乃夫教授『ペリー艦隊大航海記』(立風書房、1994年、朝日文庫2000年)を見ておく。大江は白旗差出しについては「徳川斉昭の老中阿部正弘あて建議書に書かれている」ことから、「このことは事実であろう」と解する(文庫版、167ページ)。しかし白旗書簡については、「史料の出所がはなはだ怪しい」とし、「書簡の内容にも信をおきがたい点がある」として、フィルモア国書の授受を困難にするような「最後通告めいた脅しをしたかどうか、おおいに疑問がある」と指摘した(169~170ページ)。さらに文面にある「蘭船より申達候通り」の箇所に触れて第二の疑問としている(170ページ)。大江は「白旗差出し」については「事実であろう」と推量し、白旗書簡については、「偽書ではないかという疑いが大きい」(170ページ)と主張した。「文庫版のための補注」では「真正の書簡である可能性も全面的には否定できなくなった」と動揺し、「白旗の授受があったのは紛れもない事実」であり、「白旗にその用法に関する書翰が添えられていたとすれば、それは七月九日に香山栄左衛門に手交されたと断定してよい」と解釈を変えている(353ページ)。
 朝河がすでに論証したように、七月九日に香山栄左衛門に「手交された」と解するのは誤りであり、当日はその含意を説明しただけであった。実際に白旗二枚とペリー書簡が差し出されたのは、「一四日久里浜に上陸したペリー一行によって国書とともに」であった。大江がまず白旗の授受を認め、次いで白旗書簡についても解釈を修正したのは歓迎すべきだが、問題の経緯を史料に即して具体的に検討していないのは、遺憾である。




むすび
 以上の検討を踏まえて、もう一度
白旗乙本を読み直しておきたい。
 冒頭に「アメリカ国より贈り来る箱の中に、書簡一通、白旗二流(しろはたふたながれ)、ほかに左の通り短文一通」とある。ここで書簡1通はいうまでもなく、ペリーの七月七日付書簡(いわゆる第一書簡)であることは疑いない。白旗二流とは,むろん白旗二枚である。「ほかに左の通り短文1通」とあり、その説明として「皇朝古体文辞一通、漢文一通、イギリス文字一通(不分明)」と書かれている。これをどう読むか。「短文一通」のなかに、「皇朝古体文辞一通、漢文一通、イギリス文字一通」が含まれていると読むべきである。つまり、「短文一通」は、
三つの言語で書かれていたわけだ。
 「短文一通」の内容は、ペリー書簡の結びの部分の英文要約を本文として、それをまずウィリアムズが
得意な中国語(漢文)に訳し、さらにそれほど得意ではない日本語(漢字交じりカタカナ文語調)に訳したものに違いない。つまりこれは、ウィリアムズの通訳メモであり、ペリー書簡の真意(ホンネ)を幕府側に伝えるために、ウィリアムズが用意したものと解してよい。内容は次の七カ条である。
(1)「先年以来、彼国[米国]より通商の願いこれあり候ところ、国法の趣きにて違背に及ぶ」――かねて米国から通商の要求があるが、幕府の国法と矛盾するので、受けいれられない。これは一般的な状況解説であり、ウィリアムズの言葉ではない。
(2)「漂流等の族を自国[日本]の民といえども、撫恤せざること、天理に背き、至罪莫大に候」――これは
ウィリアムズが最も強調した論点である。通商についてはそれぞれの考え方があろうが、自国の漂流民を引き取らない非人道的行為は、絶対に許されるものではない。
(3)「通商を是非是非に願うに非ず」――米国がいま求めているのは、「通商ではなく、
漂流民の引き取り」である。誰にも反対はできないはずの「人道問題」を接触の糸口として、そこから日米対話の突破口を開き、通商への道を開くことがウィリアムズの作戦であり、これはモリソン号の失敗から得た教訓であった。
(4)「干戈をもって天理に背きし罪を糺す。其時はまた国法をもって防戦致されよ」――人道問題では妥協の余地がないので、幕府が拒否するならば戦争は必至だ。
(5)「必勝は我[米国]にあり。敵対兼ね申すべきか」――艦隊の砲撃力からして米国は必ず勝つ。
(6)「其節に至りて
和降願いたく候わば、予[ペリー]の贈るところの白旗を押し立て示すべし。即時に砲を止め艦を退く」――降伏する場合の合図用として白旗を贈る。
(7)「当方[ペリー]の趣意は、かくのごとし」――ペリー艦隊の日本訪問の狙い、その意図を説明したペリー書簡の核心は、つづめていえば、これに尽きる。
 乙本の内容は、以上のごとくである。フィルモア親書ではなく、ペリーのホンネが実に的確に述べられていることが分かる。ペリーのホンネをこのように要約し、それを中国語と日本語で説明できる人物はウィリアムズ以外にはありえないし、ウィリアムズには語学力と、幕府役人との交渉体験(モリソン号事件)のあることは、すでに指摘した通りである。
 白旗乙本から
ウィリアムズの思想を読み取った、ある「アマチュア研究者鈴木健司」の論文「モリソン号の亡霊たち」に触れて結びとしたい。鈴木は春日政治のマタイ伝紹介を踏まえて、こう指摘した。「(1)ウィリアムズがペリー艦隊にいたことは、この時の外交交渉に重要な意味を持っていた」。「(2)漂流民を撫恤せざる事、という幕政批判を日本人に書けたかどうか疑問です」(岸俊光『ペリーの白旗』218~219ページ)。
 
このアマチュア研究者の分析能力は素晴らしい。(1)の着眼は、ペリー自身がウィリアムズの貢献を高く評価した書簡を書いて、「米国公使館書記兼通訳」に推薦したことから明らかである。(2)では、ウィリアムズの思想を実に的確に読み取っている。彼は宣教師としてではないが、The American Board of Commissioners for Foreign Missions (ABCFM)の活動に大きな貢献をして、中国布教史に名を残したウィリアムズ(漢字名・衛三畏)の固い信念に裏付けられた行動であった。つまり当時の日本には、このような偽文書を執筆できる書き手は存在しなかったのである。これをもってだめ押しとする。宮地の偽文書説は、ここでも否定される。




補1. 三輪公忠教授著『隠されたペリーの白旗』(上智大学刊、1999年5月)の瑕疵
 三輪教授は次のように書いている。「朝河がこの史料に言及して、アメリカの不条理な行動への批判としたのは、太平洋戦争集結直後の1945年8月19日の日付のある、エール大学総長クラーク(G. G. Clark)宛の私信においてだけであった」(同書第5章「ペリーの白旗の隠匿と使われ方」)
 日本の敗戦を開戦以前から予想していた朝河が、敗戦前夜に、最も親しいアメリカの友人に宛てて書いた書簡が、注目すべき内容を含むことはいうまでもない。この書簡は『朝河貫一書簡集』に収められたが、その後、この書簡に言及した論文等は現れなかった。三輪教授の高論は、その空白を埋めたものであり、朝河の役割に対する高い評価も大いに共鳴できるところだ。ただし、遺憾ながら、「エール大学総長クラーク(G. G. Clark) 宛の私信」という書き方は、明らかに誤解である。クラークは「エール大学総長」ではなく、「ダートマス大学99クラスの級友」である。朝河は旧友クラーク宛てに次のように書いた。この書簡の発信日付はポツダム受諾後の「1945年8月19日」ではなく、ヤルタ会談3カ月後の「5月13日」である(『朝河貫一書簡集』早稲田大学出版部、1990年、675ページ)。
 クラークについては、『書簡集』836ページ下段の注、すなわち書簡番号226号の注記(253)には「George G. Clarkはダートマス時代の同級生」と説明されており、さらに834ページ上段の書簡番号210号の注記(176)には「プリマス」の注記として「ニューハンプシア州ハノーヴァーの東北にある町。友人クラークの農場があった」と解説されている。ちなみに『書簡集』にはクラーク宛のものは、書簡番号226号(1940年12月1日付)、231号(1941年3月16日付)、233号(1941年6月29日付)、234号(1941年7月27日付)、235号(1941年9月20日付)、256号(1942年9月27日付)、263号(1944年11月5日付)、266号(1945年2月18日付)、269号(1945年5月6日付)、270号(1945年5月13日付)、272号(1945年9月23日付)、280号(1946年9月29日付)、計12通が収められている。クラークは渡米した朝河がダートマスで最初に知り合い、終生の親友となった人物で、朝河の没後は日本から資料を取り寄せて級友とともに英文の優れたObituaryを書いた人物である。晩年に自らの山荘をワーズボロに買うまでは、夏休みや冬休みにはしばしば農場で休暇を過ごす間柄であった。



補2. 朝河はいつ、どこで「ペリーの白旗」を知ったか。
 高名な三輪教授の本は、加藤哲郎著『象徴天皇制の起源』(平凡社新書、2005年)とともに、朝河の戦後改革構想に触れた数少ない専門書であり、影響力が大きいと思われるので、あえて指摘しておきたい。三輪教授は「朝河が、ペリーの白旗のことを歴史上の出来事として知るようになったのは、これら前後二回[一九〇六~〇七年と一九一七~一九年、矢吹注]にわたって東大史料編纂所で研究をしていたときということは十分に考えられることである」と推測している(149ページ)。この推測は妥当であろうか。三輪教授は、ペリー提督の通訳官サミュエル・ウィリアムズ(一八一三~一八八四)とその子フレデリック・ウィリアムズ(一八五七~一九二八)がいずれもイェール大学の教員・研究者であったこと、朝河がThe Early Institutional Life of Japan (邦訳『大化改新』)を書いて歴史学の博士号を得たとき、その指導教授はフレデリックであったことを失念しているようだ。そしてまた朝河が一九〇五年にThe Russo-Japanese Conflict を書いたときに、序文を書いて無名の朝河を紹介したのもフレデリックであることに気づいておられないようだ。たとえば『書簡集』八〇七ページ下段の注(書簡43号の注72)には「ウィルリャムス氏。Frederic Wells Williams (1857-1928)はイェール大学の東洋史講師(1893-1900)、東洋史助教授(1900-1925)。それ以後は昇進なく退職。朝河のイェール大学大学院入学当時は助教授で朝河の著Russo Japanese Conflictに序文を書いた」と明記されている。初期朝河の二冊の本は、いずれもフレデリックの指導のもとに書かれたのであり、そこから両者の師弟関係が分かる。師は一六歳年長であった。三輪教授がこういったフレデリック師と学生朝河の関係に注目されないのは不可解である。
 ところで、フレデリックは朝河に「ペリーの白旗」の故事をいつ語ったであろうか。フレデリックが父ウィリアムズの日記を整理して公刊したのは、一九一〇年のこと、掲載誌はthe Asiatic Society of Japan(日本アジア協会)の三七巻二号であった(朝河は後日1918年に慶応大学で開かれた同会の総会で「日本の封建制について」講演している。邦訳『朝河貫一 比較封建制論集』8~27ページ)。
 Samuel W. Williams, First Interpreter of the Expedition, ed. by his son Frederic W. Williams, A Journal of the Perry Expedition to Japan, Transactions of the Asiatic Society of Japan, XXXVII, part 2, Tokyo, 1910.
 ペリーによる史実の偽造に与することのなかった父ウィリアムズの日記を整理して公表した一九一〇年以降、英語世界の読者にとってその真相は明らかとなった。ただし、朝河の場合は、この公表に先立って、フレデリックから史料整理について、特に交渉の相手・日本側の事情について相談を受けていた可能性が強い。ここからは推測にわたるが、朝河は一九〇六~〇七年の第一次帰朝時に、日本側の対応する文献を調べた可能性が強い。この朝河の史料調査を踏まえて、フレデリックの編集作業が完成したと見るのが私の推測である。A Journal of the Perry Expedition to Japanには直接的言及は見られないようだが、それは朝河の関わりを直ちに否定することにはなるまい。学生に世話になったと明記する風習の有無と関わるからだ。


追記。小稿の執筆において畏友川西勝兄から数々の教示を受けた。記して謝意を表する(2008年8月)。

以上 

               
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