第75号 2013.02.16発行 by 矢吹 晋
    書評、ロナルド・ドーア著『日本の転機
―米中の狭間でどう生き残るか』
(ちくま新書、2012年11月)
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 碩学ドーアさんの新著を紹介したい。北京から一時帰国した友人がいきなり、ヤブキ先生の本をドーアさんが引用していましたよ、と語りかけた。まさか、そんな話は間違いに決まってるよ、とまぜかえしたところ、鞄から『日本の転機』を取り出し、冒頭の部分を示した。「実に吾人の胆を寒からしむ、この言葉を明治42年の日本の輿論を見渡して、朝河貫一が、その年に出版した『日本の禍機』の序文で述べている。当時おそらく唯一の、米国一流大学の生粋の日本人教授であった朝河は、封建制度形成期の比較研究で有名な歴史学者でありながら、国際関係のリアリストでもあり、立派な平和主義者だった」(序にかえて)。
 なるほど、関心はやはり『日本の禍機』でしたね。私は『日本の禍機』だけを読んで朝河を語る人々の一知半解にうんざりしていたので、興味を示さなかった。ところが、友人は「注1」を開いて示す。
「私は、半世紀前に日本通史の講義をしていたとき、「入来」という荘園の歴史を書いた、すばらしい歴史家としてしか意識していなかったが、『日本の禍機』の著者でもあったことを渡辺昭夫教授に教えていただいた。大いに感謝しています。朝河については、矢吹晋『朝河貫一とその時代』(花伝社、2007年)を参照した」。
 ホウ、『入来文書』を知り、私の本を読んでくれたのですか。それは光栄だ。

 帰宅後、忘れないうちに、と思い立ってアマゾンにワンクリックで注文した。翌々日、『日本の転機』が届いた。「朝河は、いわば米国民の『良識』を代弁して(偽善も交えているのを認めて)、米国輿論を無視する日本人をたしなめている。私[ドーア]のこの本は、逆に、米国の『悪識』を鵜呑みにしすぎて、世界をまっすぐ見ることができなくなった日本人をたしなめることを企図している」(10ページ)。
 朝河の本を「米国の良識」を代弁した本と呼ぶのは、その通りだ。私が気に入ったのは、ドーアの次の一句である。「私のこの本は、米国の『悪識』を鵜呑みにしすぎて、世界をまっすぐ見ることができなくなった日本人をたしなめることを企図している」と。米国の『悪識』を鵜呑みする日本の自称良識派をからかうドーアの警句は、実に心地よい。
 一例を挙げよう。「朝日新聞の元編集主幹〔主筆とすべき〕だった船橋洋一は、終生変わらないはずの親米派の立場を少し考え直している気配がある。2011年の5月、イギリスで講演ツアーをしたときに『ファイナンシャル・タイムズ』紙に書いた論文は面白かった。実はその投稿に対する反論を書いて、載せてもらえなかったことで、この本を書くことを決意させてもらった! 」「総体的にいって船橋はなんとナイーヴな歴史観、世界観の持ち主であろうか[ここでナイーヴとは「世間知らず、無知」の婉曲表現か]。米中関係はいつも対立の火種がくすぶりながらも、大人らしく相互規制された関係を築くのに成功したとしても、依然として通常の軍事力競争の激しさは逓減しないだろう。その時、日本がドイツを凌ぐ軍事力をもって、米国の戦争準備体制に100%統合されているとしたら、それにかかわらず、政経分離、軍経分離を貫徹して中国と親密な友好関係を保てるという主張である。船橋さんはお人好しとしかいえない」(125~127ページ)。
ドーアはここで「終生変わらないはずの親米派の立場」を堅持しているはずの船橋が、「日本は中国にくっつく以外に選択肢はない」などと、日和見そのもの、突然変身したことを揶揄しているのだ。一方で「日米安保の再強化」を呼びかけつつ、他方で「中国にくっつく」芸当なぞ、できるものか、とドーアは笑っている。
 ではドーアの主張とは何か。「要約すれば、日本の政界・メディアが前提としている、日本を取り巻く国際環境の想定は、甘いというか、自己欺瞞に満ちているというか、とにかく間違っている。厳しい現実をもう少し直視すれば、米国への従属的な依存が、永遠に有利な選択肢ではありえないという結論にしか到達しえないはずだ。そのことに気づけば、現在の核不拡散体制にかわる新しい核兵器管理体制を提唱して、米国との軍事同盟をゆるやかに解消することは、日本の安全保障にとっても、日本の国際的名声にとっても、人類のシンポにとっても、豊かな実りをもたらしてくれるように思う」「本書では日本が率先して言体制の代替案を提示することの合理性を説く。理由の一つは、『人類のため、平和のため』という理想主義の観点からの論法である。もう一つは、『国益のため、安全保障のため』というリアリズムの観点からの論法である」(136ページ)。
 日米安保は「ゆるやかに解消すること」を目指すのがドーア戦略であり、それが理想主義にかなうだけでなく、リアリズムの観点からしても、合理的だと説くわけだから、「日米安保の再強化」を語る輩とは、方向が正反対である。
 私自身は『チャイメリカ』で、「中国を仮想敵国とした日米安保は無用であり、すみやかに条件を整えて廃止すべきだ」と主張した(24ページ)。ドーアの主張と同じである。ただし、ドーアは「現在の核不拡散体制にかわる新しい核兵器管理体制を提唱」しており、その内容は実に興味深い。私にはそのような提案は欠けており、単に冷戦下に平和を求めた石橋湛山の所説に触れただけである。

 朝河の『日本の禍機』をまくらとして『日本の転機』を論ずるドーアの核心的主張に触れよう。「米ソ冷戦は死んだが、その遺された子として、米中対立と米ロ対立という二つの冷戦が産まれた」「それと、米国とイスラムのゲリラ熱戦と」(135ページ)。
 「政治・レトリック面はさておき、かたや経済面となると、対立の構造は二面的である。対立の一面は”市場原理主義・米国”と”国家主導資本主義・中国”というイデオロギーの対立として描けるが、もう半面は経済利益の対立として描くことができる」「米中のあいだには、思想的、価値的、経済的な衝突が存在する。こうした対立は深刻ではあるのだが、米ソ冷戦と同様に、米中冷戦においても最も重要なのは、軍事的な腕比べである」(39ページ)。
 この一節は、そして本書全体が、『金融が乗っ取る世界経済』(中公新書、2011年)の「あとがき」部分で、3ページを費やして提起した「西太平洋における覇権の交代」に伴う3カ条の問いをさらに発展させた問題提起である。
 イギリス人ドーアにとって、「米ソ冷戦の悪夢」は、いまだに後遺症として残るほど大きく、彼の描く現代世界は、「米ソ冷戦」構造に似せて「米中冷戦」を描くシナリオになっているように見える。ゴルバチョフのペレストロイカとともに、米ソ冷戦は終焉したが、「遺された子」として、「米中冷戦」が現代世界を揺るがしている。
 「米中冷戦」と「米ソ冷戦」との大きな違いは、グローバル経済体制下の米中経済の「相互補完、相互依存関係」だと私は見ているが、「米ソ冷戦」とのアナロジーにひきずられて、ドーアは”市場原理主義・米国”と”国家主導資本主義・中国”というイデオロギーの対立の一面と並べるもう半面として、「経済利益の対立」のみを描いている。「対立統一」の弁証法が肝要だ。米中経済は「対立」と同時に、「相互補完、相互依存」関係で結ばれている。この視点が欠けている点がドーア所説の大きな欠陥と私は考える。
 この欠落点は、スブラマニアム(Arvind Subramaniam)の『日蝕---中国の経済支配下を生きる』(Eclipse:Living in the Shadow of China’s Dominance, 2011)に対するシザーズ(Derek Scissors)の批判(The Wobbly Dragon, Foreign Affairs, Jan/Feb.vol.91)を紹介する箇所でよく見える。(スブラマニアムの)大きな欠点は、中国の債権国としての側面を過大評価している点である」「しかし、中国経済の総生産が米国の半分以下であって、生活水準は10分の1であることに比べると、中国が債権国であることがとりわけ重要であるわけではない」「北京は、せっかく積み立てた外貨を国内では使えないため、米国の国債を買うしかない。中国が債権国であることは国の強みというよりも、国の弱みに起因している。」(108ページ)。
 シザーズの指摘は、事実としては正しいが、その解釈は間違っている。「国内では使えないため、米国の国債を買う」のは、事実である。私自身は、中国のドル貯めを飢餓輸出という文脈でとらえてきた。ただし、これを「強み・弱み」といった価値評価で語るのは間違いであろう。中国経済の過少消費(過剰貯蓄)体質と、米国経済の過剰消費(浪費)体質とが、相互補完関係を作り上げているのだ。米中いずれが強い、弱いと語るのではなく、そのようなもたれあい構造として米中両国経済が存在するのだ。それを私はチャイメリカ体制と呼んだ。
 ドーア教授は「理想主義とリアリズム」の両側面から、日本の転機」を分析し、あるべき姿を提案していて、学ぶことは多々ある。それはさておき、私の「チャイメリカ」と、ドーアさんの「米中の狭間で日本はどう生き残るか」との大きな違いは、「米中冷戦」の構造認識にあることに気づいたので、この書評を書いてみた。(2013.2.14)
以上 

               
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