第80号 2014.07.04発行 by 矢吹 晋
    米比の新軍事同盟
――フィリピンの運命と沖縄の運命―
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 オバマ大統領の最後の訪問地はフィリピンだが、ここで大統領の訪問に合わせて、米、フィリピン両政府は米軍のフィリピンでの活動を拡大する「新軍事協定」に4月28日、署名した。米国の「リバランス=バランスの再調整」戦略の一環である。米軍は旧ソ連の解体を踏まえて冷戦体制の終焉を確認し、1992年に全面撤退した。その米軍が再び、「アイ・シャル・リターン」と、南シナ海の領有権問題をにらみ、フィリピンに拠点を設けるに至った。この日、マニラ首都圏の国防省で、ガズミン比国防相とゴールドバーグ駐比米大使が署名した。比軍関係者によると、協定の期限は10年。米軍による比軍の施設利用を拡大し、一時滞在する施設の建設も可能になる。米軍が拠点を置く場所は、南シナ海の監視にも便利な、フィリピン北部のスービック旧米海軍基地などが有力視されている(各紙2014年4月29日)。
この機会に、米比関係史をスケッチしておきたい。米軍にとって、沖縄とフィリピンはいつもそのアジア戦略において並べて論じられてきた経緯があるからだ。
(1)スペインからフィリピンを奪ったアメリカ
 まず前史だが、スペイン帝国からフィリピンとキューバを奪うアメリカの動きから始まる。世界的な強国として覇権を行使したスペイン帝国の地位は、19世紀後半までの数世紀の間に低下し続け、太平洋、アフリカおよび西インド諸島では、少数の散在した植民地しか残らなかった。その多くも、独立運動に悩まされていた。1898年にアメリカ合衆国とスペインの間で起きた米西戦争(Spanish-American War)の結果スペインは敗北し、アメリカが ①カリブ海、および ②太平洋のスペインの旧植民地に対する管理権を獲得した。20世紀のキューバの歴史家は1868年から独立運動を続けてきたキューバ独立軍との関係からこの戦争を「スペイン・アメリカ・キューバ戦争」と呼ぶ。スペインの覇権に挑戦する若きアメリカにとって、キューバは強力な援軍となったからだ。アントニオ・マセオやマクシモ・ゴメス、ホセ・マルティなどによりすでに数十年に渡るゲリラ戦争が展開されており、スペイン政府は、1898年にはキューバ島の約半分がマクシモ・ゴメス将軍の率いる独立軍に支配され、結局スペインの立場はもはや回復できなかった。他方、アジアのフィリピンではエミリオ・アギナルドによるゲリラ戦争が始まっていたので、アメリカ海軍は対西開戦1年以上も前からフィリピンでスペイン軍を攻撃する陽動作戦を計画していた。
 アメリカ国内の事情を見ると、西部への拡張は遂にカリフォルニアに到達し、アメリカインディアンとの大規模交戦は終了した。アメリカにとって「フロンティアの消滅」であり、同時にアメリカ陸軍にとっては、「国内の敵の消滅」を意味し、軍の指導部は新しい任務を国外に求めた。アメリカ人から見ると、キューバはキューバ人のものであり、スペイン人の覇権は許されない。ここに新たな目標を発見した。1898年2月15日にハバナ湾でアメリカ海軍の戦艦メイン(USS Maine, ACR-1)が爆発、沈没し266名の乗員を失う事故が発生した。当時の米国のメディアはスペイン人による卑劣なサボタージュが原因であると主張し、「メインを思い出せ!くたばれスペイン!」(Remember the Maine, to Hell with Spain!)」と感情的なスローガンで、米国世論を刺激した。これは「リメンバー、パールハーバー」の原型だ。
ウィリアム・マッキンリー大統領は、当初開戦に同意しなかったが、メイン号の爆発を契機として、4月11日、マッキンレー大統領は「内戦の終了を目的としたキューバへ米軍派遣」の議案を提出。4月19日に議会はキューバの自由と独立を求める共同宣言を承認、スペイン撤退を要求する軍事力の行使を承認した。スペイン側はアメリカとの外交関係を停止し、アメリカとの戦争状態を宣言した。
フィリピンでの最初の戦闘は5月1日のマニラ湾海戦である。香港を出港したジョージ・デューイ提督率いるアメリカ太平洋艦隊が、マニラ湾でパトリシオ・モントーホ(Patricio Montojo)提督率いる7隻のスペイン艦隊を攻撃した。マニラ湾海戦の結果、フィリピンのスペイン海軍は壊滅したが、マニラでは1万人以上のスペイン陸軍が駐留していた。
 海戦後にデューイと会談したフィリピン独立運動の指導者エミリオ・アギナルド率いるフィリピンの民族主義者はアメリカ軍の支援と相互連携してスペイン軍を攻撃した。独立軍は1万人を超え、1898年6月にはルソン島中部を制圧し、アギナルドはフィリピン共和国の独立を宣言し、暫定政府を組織した。アメリカ本国のマッキンリー政権はマニラ市を占領するためウェズリー・E・メリット(Wesley E. Merritt)少将の指揮で大規模な派遣軍(正規軍5千人を含む2万人規模)を派遣した。6月30日に派遣軍の先発部隊、7月半ばにはメリット少将も現地に到着し、8月にはスペイン軍に降伏勧告を行い、14日に休戦協定が決定した。
 フィリピン人による報復を恐れたスペイン軍は、マニラへフィリピン軍が入城しないことを降伏条件としたため、スペイン降伏後のフィリピンの統治はアメリカが握ることとなった。これは独立運動側からすると不満な結果であり、独立運動の対象はスペインからアメリカへ移り、米比戦争へ繋がった。
1898年6月20日、アメリカ海軍の巡洋艦チャールストンおよび輸送船3隻の艦隊が当時スペインの植民地だったグアム島をカノン砲で砲撃し、グアムを占領した。スペインは太平洋艦隊、大西洋艦隊を失い、交戦状態は8月12日に停止した。形式上の和平条約は12月10日にパリで調印され(パリ条約)、1899年2月6日にアメリカ上院によって批准された。
 アメリカはフィリピン、グアムおよびプエルトリコを含むスペイン植民地のほとんどすべてを獲得し、キューバを保護国として事実上の支配下に置いた。
 以後、アメリカの国力は飛躍的に拡大し、南北アメリカ大陸と太平洋からスペインの影響力を一掃し、アメリカがスペインの覇権を継承した。1897年に大統領として選出されたウィリアム・マッキンリーは「海のフロンティア」開拓を推進する帝国主義政策を採り、同年、アメリカ合衆国上院にハワイ併合条約を上程した。ハワイ上院はそれに呼応して賛成の意を表明し、1898年3月16日、併合決議案が議会で採択された。こうしてアメリカはハワイ、グァム島を踏み石にしてフィリピンを領有した。
(2)太平洋戦争下のフィリピン、そして日本帝国の解体
 マッカーサーは1935年に参謀総長を退任して少将の階級に戻り、フィリピン軍の軍事顧問に就任し、高等弁務官を兼任して、「フィリピン軍元帥」として優雅な生活を送っていた。41年7月フィリピン駐屯のアメリカ極東軍司令官となったが、12月8日太平洋戦争が始まると、ルソン島に上陸した日本軍の攻勢を受けるや、「アイ・シャル・リターン」の名文句を残してミンダナオ島を経て、オーストラリアに脱出した。そこで南西太平洋方面の連合軍総司令官に就任し、44年のフィリピンへの反攻作戦を待った。
 太平洋戦争下のフィリピンについては、日本でもかなりの事柄が知られている。大岡昇平の『レイテ戦記』に書かれたような悲劇、あるいは「バターンの死の行進」のような捕虜虐待事件など、さまざまに語られている。
 マッカーサー将軍は、その後フィリピン反攻を経て、沖縄作戦を展開し、日本本土を目指す。厚木飛行場に降り立って以後は、GHQのトップとして、6年近く君臨した。とはいえ、意外に知られていない事実も少なくない。
 ここに国連がその公式ホームページに掲げている「The World in 1945」(1945年の世界)」と題した世界地図がある。この地図は、1945年10月24日に国連が創設された時点での「国連の描く自画像」として、極めて興味深い図柄を示している。
 凡例が7色で示されている。凡例の最初(水色)は「国連の創設国」(The founding Member States of the United Nations)である。1945年の創設メンバーは49カ国である(このうちチェコとユーゴは、冷戦の終焉後にいくつかの国に解体した)。1アルゼンチン、2オーストラリア、3ベルギー、4ボリビア、5ブラジル、6ベラルーシ(白ロシア・ソビエト社会主義共和国)、7カナダ、8チリ、9中華民国、10コロンビア、11コスタリカ、12キューバ、13チェコスロバキア、14デンマーク、15ドミニカ共和国、16エクアドル、17エジプト、18エルサルバドル、19エチオピア、20フランス、21ギリシャ、22グアテマラ、23ハイチ、24ホンジュラス、25イラン、26イラク、27レバノン、28リベリア、29ルクセンブルク、30メキシコ、31オランダ、32ニュージーランド、33ニカラグア、34ノルウェー、35パナマ、36パラグアイ、37ペルー、38ポーランド、39ロシア(ソビエト社会主義連邦共和国)、40サウジアラビア、41南アフリカ共和国、42シリア、43トルコ、44ウクライナ(ウクライナ・ソビエト社会主義共和国)、45イギリス、46アメリカ合衆国、47ウルグアイ、48ベネズエラ、49ユーゴスラビア、以上49カ国である。
 いま世界の焦点の一つとなっているウクライナは、「独立国」としてロシア(ソ連邦共和国)とともに、メンバーである。通常の解説書には、国連は「50カ国の署名をもって発足した」と書いてあるが、これは正しくない。なぜか。インドとフィリピンは、1945年6月26日に署名しているけれども、独立時期は、フィリピン46年7月4日、インド47年8月15日である。この間の事情を、この地図では、色を塗り分けて区別しているのが面白い(本書では色分けが識別できないが、国連HPのhttp://www.un.org/Depts/Cartographic/map/profile/world45.pdf にアクセスされたい)。
 すなわち、凡例の2番目(橙色)は「国連の創設後」に独立して「創設メンバー」(United Nations founding Members which celebrated their independence after the creation of the United Nations)の資格を得た国である。

 国連「1945年の世界」http://www.un.org/Depts/Cartographic/map/profile/world45.pdf

 この説明だけで、「創設後に独立して創設メンバーの資格をもつ国」を問われて「イギリスから独立したインド」と「アメリカから独立したフィリピン」と答えられる読者はどれほどいるか。両者は共に、第二次大戦後の「独立の約束」と引き換えに、反英闘争、反米闘争を一時中止して、連合国軍に協力した歴史をもつ。英米はその約束を実行して、印比ともに、「栄えある創設メンバー」の資格を得ている。こうして国連の創設メンバーは49+2=51カ国である。これを単に50カ国と断定的に説明するのは、当時の国際情勢の機微を無視する言い方である。日本では知識人でさえも、インドとフィリピンが「国連創設国メンバーとしての誇り」をもつことを知らない。
 凡例の3番目(黄緑色)は「旧国際連盟の委任統治地域」(Territories administered under a League of Nations Mandate)である。これらは国連体制下では「信託統治地域(Trusteeship Territories)」と呼ばれることになった。太平洋諸島信託地域 (マリアナ諸島、マーシャル諸島、カロリン諸島を含む)(米)、ナウル(豪)、ニューギニア信託地域(豪) 、西サモア(ニュージーランド)、南西アフリカ(南ア) などである。
 凡例の4番目(紫色)は「国連加盟国と特別な条約関係をもつ国」(States with a special treaty relationship with a United Nations Member State)である。この定義も分かりにくい。地図を見るとアジアでは、ブータン、シッキム、モルディブ諸島、中東ではマスカットオマーン、トルーシャルスティト(アラブ連邦首長国の旧称)、バーレーン、クェート、トランスヨルダン(ヨルダンの旧称)、トンガがこの色で塗られている。つまりこれらの諸国は英国と「特別な条約関係をもつ国」であることが分かる。
 凡例の5番目(緑色)は「49年までに国連信託統治制になった地域」(Territories which by 1949 were under the United Nations Trusteeship System)である。中東ではパレスチナ(英)、アフリカではソマリランド(伊)、タンガニーカ(英)、ルワンダ(ベルギー)、ブルンジ(ベルギー)、カメルーン(仏)、カメルーン(英)、ナイジェリア(英)、トーゴ(仏)、トーゴ(英)などだ。
 凡例の6番目(黄色)は「国連の非加盟国」(Non-Member States of the United Nations)である。アジアでは日本、朝鮮、モンゴル、ベトナム、タイ、ネパール、アフガニスタン、イェメン、欧州ではドイツ、イタリア、スペイン、オーストリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、アルバニア、アイルランド、スェーデン、フィンランド、アイスランドである。この分類は枢軸国あるいはそれに近い諸国であり、国連の創設の際に排除された。まさに国連が勝戦連合国クラブであることを端的に示す。これを明記したのがいわゆる敵国条項にほかならない。これを削除する方向での努力は行われているが、いまだに削除するには至っていない。日本政府は、この事実を隠蔽して常任理事国入り工作を画策して、失敗した。
 凡例の最後(茶色)は「その他の従属地域」(Other dependent territories)である。アジアではラオス(仏)、カンボジア(仏)、ビルマ(英)、アフリカではモロッコ(仏)、アルジェリア(仏)、チュニジア(仏)、リビア(英仏)、仏領西アフリカ、仏領赤道アフリカ、スーダン(英)、ベルギー領コンゴ、ウガンダ(英)、ケニア(英)、アンゴラ(ポ)、北ローデシア(英)、南ローデシア(英)、モザンビーク(ポ)、マダカスカル(仏)などであり、このほか中米や大洋州に数多くの島々が「その他の従属地域」に分類されている。これら多くの従属地域がその後「自治あるいは独立」を勝ち取り、信託統治領は1994年のパラオ独立をもって存在しなくなった。そのため国連信託統治理事会は、機能を停止した。いまや国連加盟国は、193カ国である。信託統治地域だけでなく、「その他の従属地域」からも、相次いで独立国が誕生した。にもかかわらず、枢軸国あるいは枢軸系を差別する構造は生き残る。
(3) 冷戦体制下のフィリピン(クラーク空軍基地、スービック海軍基地)と沖縄――U字型の米国防衛線
 アメリカはフィリピンとの約束を実行して、独立を許した。しかし、第二次大戦後の世界は、ただちに冷戦体制によって二分され、フィリピンは沖縄とともに、その前線に立たされた。「鉄のカーテン」とは、チャーチルの名言だが、そのもとになった「X論文」の著者ジョージ・ケナン(国務省政策企画課)はマッカーサーとの3回にわたる濃密な対話によって、東アジアにおける冷戦体制の基礎を構築した。それを象徴する一文を紹介したい。

 「アリューシャン、ミッドウェイ、旧日本委任統治領【マーシャル諸島を指す】、クラーク空軍基地(フィリピン)、そして沖縄に至る「U字型の米国防衛線」のなかで、沖縄は最も先進的であり、かつカナメの地点をなしている。それゆえ北緯29度以南の琉球弧に対しては米国単一の完全な管理を堅持しなければならない。日本本土についていえば、平和条約以後は、本土のどこにも基地を保有する必要はない」「米国が『沖縄非保有』を選択するのは、連合国の他の国にも、『沖縄非保有』を要求するためにほかならない」。

 ケナンの見るところ、冷戦体制下におけるアメリカ防衛にとって、「沖縄—マーシャル諸島――フィリピンのクラーク空軍基地」という三角形こそが「U字型の米国防衛線」であり、沖縄は扇のカナメの位置にあった。
 2回にわたるマッカーサー・ケナンの対話を踏まえて、1948年3月23日、夕刻6時、GHQマッカーサーの事務室で、国防部副長官ドレーパー将軍、シャイラー准将らとケナンとの対話が行われ、ケナンはここで「日本再軍備」を提起した。ドレーパー将軍は冒頭、「占領軍の日本撤退」に呼応して日本に「小規模の防衛部隊」を用意することを米国軍事省では検討しているとして、マッカーサーの意見を求めた。
 マックはトルーマン大統領が1947年3月、すなわち1年以上も前にこの話題を提起して、オーストラリアのエバットは支持し、マックも賛成し【後から明らかになるように、マッカーサーの理解する占領目的は日本の武装解除であり、これと逆行する日本再軍備には、彼は結局は反対した】、ソ連を除くすべての東アジア諸国は賛成したが、ソ連は拒否権こそ使わなかったものの、賛成しなかった、と指摘した。当時は米ソ対立はまだ公然化していない。その後、対日条約問題が国際環境の動向に遭遇してもつれている間に中国情勢が激変した。中華民国側が敗北し、のちゲリラ八路軍側が勢いを増した。

 「もし中華民国がいま平和条約の交渉に参加しているならば、日本に対して懲罰的、制約的な条項を主張して、日本経済の復活をいっそう傷つけたであろう」「ロシアは米国の指導性を減殺するであろう」「それゆえ講和会議からソ連【および中華民国】を排除すべきである」「そして現行の米ソ緊張のもとでは、『講和条約の最終決定まで日本における米国占領軍は保持すべき』である」。

 マッカーサーとの意見交換を踏まえて、ケナンは1948年3月25日、米国の対日政策に対する「勧告書」(Report by the Director of the Policy Planning Staff (Kennan), FRUS, 1948, VOL. VI, pp. 691-696. March 25, 1948. Recommendations with Respect to U.S. Policy toward Japan.)を書いた。ケナンは沖縄基地の「永久使用」をこう提案した。

 「米国はいま沖縄の基地を永久に保持する決断を行い、基地の発展を行うべきであり、沖縄諸島の戦略的管理を永久に行うための国際的承認を国務省は直ちに着手すべきである」。(The United States Government should make up its mind at this point that it intends to retain permanently the facilities at Okinawa, and the base there should be developed accordingly. The problem of obtaining international sanction for our permanent strategic control of the islands should be studied at once in the Department of State.)

 このケナン勧告書は、公職追放者の「追放解除」による経済復興、政治秩序の復活のほか、「共産主義に対する抵抗力の養成」などを論じた後、「日本は講和条約の成立前に、防衛力の空白を生じさせては断じてならない」と強調している【Explanatory Notes by Mr. George F. Kennan, March 25, 1948. FRUS, 1948, VOL. VI, pp. 712-719. March 25, 1948】。
 アメリカはフィリピンの独立と引き換えに「クラーク空軍基地」を残し、沖縄には日本本土の独立後も、米軍基地を配置し、「竹のカーテン」のカナメとした。クラーク基地と沖縄基地は、ともにベトナム戦争期には大きな役割を果たしたが、ベトナム戦争の終焉、そして冷戦体制の終焉(1991年12月)に伴い、クラーク基地は閉鎖された。ただし、沖縄基地はそのまま残された。何が二つの基地の運命を変えたのか。
(4)サンフランシスコ講和におけるフィリピンの位置
 米国はサンフランシスコ講和条約からソ連を排除したが、これを決定したのはいつか。1950年9月27日にニューヨークでフィリピン外相兼外務大臣ロムロ将軍とダレス、アリソン、スタントン・バブコック大佐との会談が行われたが、このときに用意された資料(MEMORANDUM ON THE JAPANESE PEACE TREATY, FRUS, 1950, VOL. VI, p.1310)に、「三つの選択肢」の検討結果が記されている。

 a案は、ソ連を含めて全戦勝国(all the victorious Powers, including the USSR)と日本との多国間講和である。
 b案は、(米英案に)賛成する全戦勝国(all the victorious Powers, includ-ing the USSR)と日本との多国間講和である。ソ連は(賛成しないので)ソ連を除くことになろう(most likely to exclude the USSR)。
 c案は、日本と各戦勝国が個別に講和を結ぶ方式である。
 この文書は、これら三つの選択肢を挙げた後、現在の国際情勢からして、a案は除外して、b案とc案のいずれかを選ぶとした。ここで、c案のケースを「フィリピンと日本」について検討する。
 フィリピンのように、日本と比べて 「小さく弱い国」は、交渉過程で不利益を蒙るであろう。また戦勝国の間で、対日交渉において「競争とライバル関係」が生まれるならば、日本の地位を不当に強化する結果になる。こうしてc案が消され、結局は、b案に落ち着いた。ただし、b案の場合、「拒否権方式はありえず、すべての協定はすべての参加国の2/3の多数決で決定すべきだ」(There should be no veto, and all agreements should be by a two-thirds majority of all the participating States. FRUS, 1950, VOL. VI, pp.1310-1311)と拒否権方式ではなく、2/3多数決方式とされた。
 こうして「小国・弱国フィリピン」をケースとして、「ソ連を除く全戦勝国との講和」案を固めつつあった時、オーストラリアから参加国問題に問い合わせがあり、国務省北東アジア課のフィアリーは、「米国としては、他の利害共有国の同意が得られるならば、ソ連抜きで手続きを進めたい」と答えている。また中華民国については、現に極東委員会と対日理事会のメンバーを務めている中華民国が引続きこの地位にとどまることを、もし他の利害共有国の同意が得られるならば、堅持したい」と答えた(Answers to questions submitted by the Australian Government arising out of the statement of principles regarding a Japanese treaty prepared by the United States Government, FRUS, 1950, VOL. VI, pp.1327)。
 この文書に日付はないが、フィアリーからアリソンに宛てた覚書の日付は1950年10月26日であることからして、この辺りで「ソ連排除」と「中国代表としての中華民国」の地位を確認した。ただし、講和会議には招かない。というのは、英国はすでに中華人民共和国と国交を結んでおり、英国から見た中国代表は北京政府であった。
 ちなみにソ連が中華人民共和国と中ソ友好同盟条約」を結んだのは、1950年2月14日であり、この条約を前提として北京政府は朝鮮戦争に義勇軍を派遣した経緯がある。朝鮮戦争の6月開戦から約4カ月を経て、米国が中ソを排除しつつ対日講和を進める基本枠組はいよいよ固まり始めたと見てよい。ソ連排除のため、もはや全面講和はありえない。だが、片面講和はどのような形にするか。ソ連、北京政府等、米国から見て不都合な国を排除した残りの全員集合が一つの形だ。もう一つは、対日戦争の主な関係国が、一国ずつ日本との2国間条約を結ぶ形だ。日本と対等あるいは対等以上の諸国ならば、問題なく2国間交渉に委ねることができる。だが、フィリピンのような「小国・弱国」の場合、対日交渉は難しい。このように検討した結果、2国間の個別交渉方式を避けて米中等を除く諸国との講和が実現した次第であった。
 この文脈でフィリピンは2国間の個別交渉方式を避ける切り札となった。ここから分かるように、当時のフィリピンは米国の良き同盟国であり、したがって「戦勝国の一員」でもあった。クラーク空軍基地、スービック海軍基地の放棄、米軍撤退の裏には、この事情がある。敗戦国日本の沖縄と比して、フィリピンの国際法的立場は異なるのだ。


スカボロー礁をめぐる中国とフィリピンの争い
 スカボロー礁(Scarborough Shoal = Scarborough Reef = Bajo de Masinloc = Kulumpolng Panatag、Karburo =黄岩島)はフィリピンのルソン島の西220km、フィリピンの排他的経済水域(EEZ)内に位置する。水深3500mの海盆上、海底の山が水面に露出した部分にある周囲55kmの三角形の環礁で、最高点は標高約3mの岩礁である。地質構造上でみると大陸棚の自然延長にある。礁湖の面積は130km²、水深10~20m、礁湖を含む面積は150km²である。礁湖の南端には外海と繋がる長さ400m、水深9~11m、幅360~400mの水路があって、小型中型の船が漁業活動を行なったり風を避けることができる。
 主権争い、フィリピンの主張 スカボロー礁は遅くとも16世紀には、すでにその付近海域はフィリピンの漁民の漁場だった。スペインがフィリピン諸島をアメリカに割譲した1898年のパリ条約、1900年のワシントン条約、1930年の英米条約では、東経118度をフィリピンの西限としており、スカボロー礁はこの範囲の外側にある。1935年のフィリピン共和国憲法及び1961年の領海基線法にも同様の規定がある。しかし、フィリピン外務省は、スカボロー礁は「島」ではなく「岩」であって、これらの条約等の対象とされていないと主張している。そして、フィリピン外務省は、パルマス島事件を代表とする常設仲裁裁判所での国際公法上の判例を踏まえると、領有権は歴史的な主張や領有ではなく、管轄権の有効な行使 (effective exercise of jurisdiction) に基づいて判断されるべきであるとしている。
 中華民国(台湾)・中華人民共和国の主張 スカボロー礁は中国人が最も早く発見した。1279年、天文学者郭守敬が「四海測験」を行った時、南シナ海ではこの島を測量地点とした。1935年1月、中華民国水陸地図審査委員会はスカボロー礁を中華民国の版図へ入れた。1947年末、中華民国内政部の正式に編纂出版した『南海諸島位置図』でスカボロー礁を「九断続国界線」内へ入れた。この線を法的効力のある歴史的境界線として、中華民国は線内の島、礁、浅瀬、砂州の主権を主張した。1983年、中華人民共和国地名委員会は「我国南海諸島部分標准地名」を公布して「黄岩島」を標準名称とした。
 主権争いの経過 1980年以後、フィリピン政府はスカボロー礁を200海里排他的経済水域内とした。1997年、フィリピンが軍艦と軍用機を出動して中華民国の民間組織のラジオ局による領海侵犯を追跡、監視する。1997年4月30日、フィリピンの2人の衆議院議員が軍艦に乗って上陸、旗と碑を立てる。1998年1月から、中華人民共和国海南省の4艘の漁船が2カ月の間に領海侵犯しフィリピン海軍に拿捕され、51名の漁民がフィリピンに半年間拘禁される。1999年5月23日、フィリピン軍と中華人民共和国の漁船が衝突。中華人民共和国外交部スポークスマンはフィリピンへ抗議し、交渉を呼びかけた。1999年6月、フィリピン教育部は新しい地図の中で、スカボロー礁と南沙諸島を版図へ入れた。8月、フィリピン政府は「南沙諸島はフィリピン領土」である旨の憲法改正を行った。1999年11月3日、フィリピン海軍の1艘の艦船がスカボロー礁のパトロール中に座礁。フィリピンは艦船は救援参加時に故障が発生したと発表。中華人民共和国は座礁した艦船の撤去を求め、フィリピン側は撤去した。島周囲の領海・経済水域は主にフィリピンの艦船が監視している。2000年、フィリピン海軍が領海侵犯した中華人民共和国の漁船船長を射殺した。2012年4月8日、フィリピン海軍がスカボロー礁近くに中華人民共和国の漁船8隻が停泊しているのを発見し拿捕した。中華人民共和国の監視船が現場に急行、フィリピン海軍の進行を阻止し、睨み合う状況となる。4月17日、フィリピンのデル・ロサリオ外相は国際海洋裁判所に判断を仰ぐ提案をしたが、中華人民共和国外交部辺海局の鄧中華局長はこれに対し抗議した。2012年9月3日、人民日報(海外版)は、中国国家海洋局がスカボロー礁(黄岩島)、西沙諸島と尖閣諸島の周辺海域を人工衛星や航空機で遠隔監視する「海域動態監視観測管理システム」の範囲内に組み込んだと報じた。2013年9月3日、フィリピン国防省は、中国が約30個のコンクリートブロックを設置していることを発表した。


 

               
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