第89号 2016.07.30発行 by 矢吹 晋
    南シナ海におけるフィリピンと中国との仲裁裁判所「仲裁判断」の功罪
――内閣機密費に酔い痴れる新聞記者たちの判決誤解――
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前書き
ここではNHK以下のテレビ各社の報道は、論評の対象としないが、その無責任・無知・無恥は、確実に新聞を超える。
◆「国際法」の現実に無知の日本マスコミ
 南シナ海に浮かぶ島嶼群の領有権を巡り、フィリピンが2013年に申し立てた海洋法の仲裁裁判で、2016年7月12日に中菲間の国連海洋法付属書Ⅶに基づく南シナ海に関わる仲裁判断PCA Case No 2013-19注1が公表された。仲裁裁判所は中国が主張する南シナ海のほぼ全域にわたる管轄権(九段線nine dash line)について、「中国が歴史的な権利を主張する法的な根拠はない」と判断し、中国の主張を斥けた。
 裁定書は全文500頁に及ぶ膨大な文書であり、そこにはいくつかの注目すべき論点がある。この裁定公表の前日、ハーバード大学ケネディ・スクールのG.アリソン教授は「中国は他の常任理事国と同じく判決を無視するであろう」注2と論評した。なぜなら海洋法の成立以来、「常任理事国が自らの主権や安全保障上の国益が関わる問題において、国連決議を受け入れた事例はないからだ」「中国も米国を真似て裁定を拒否するだろう」と。ちなみに米国は海洋法を未だに批准していないのだ。これが国際法という世界の一つの現実だ。日本では「中国は国際法の裁判結果を受入れよ」という大合唱が起こった。日本の主要各紙が、この判決結果が沖ノ鳥島に対する岩判定に直結することを忘れて、中国敗訴を書き立てた珍事は、日中関係悪化に対してマスメディアの煽動の果たす役割の一例として記録に値するであろう。ここに各紙の7月13日社説のタイトルを列挙すれば、以下のごとくである。『朝日』は「南シナ海判決、中国は法秩序を守れ」、『読売』は「南シナ海仲裁、中国は判決に従う義務がある」、『毎日』「南シナ海判決、海洋の常識が示された」、『日経』「中国は南シナ海めぐる判決を尊重せよ」、とりわけ目立つのは、『東京新聞』論説副主幹長谷川幸洋記者の転落ぶりだ。末尾に『現代ビジネス』の論評をコピーしておく。『朝日』の転落するなかで『東京』に切り換えたという知人が少なくない。だが、「左派東京新聞」も、領海ナショナリズム病に罹り、理性を失った点では、他の論説記者と同じだ。彼らの脳裏には、判決で太平島が岩扱いされたという判決の核心の一つが認識されていない。当然、この判例が沖ノ鳥島の運命を決定することも眼中にない。なぜこのようなチョンボが起こるのか。多分、日本政府が彼らを接待して、このような論調で書くことを示唆したのではないか。御用新聞の舞台裏を見せてくれる珍事として特筆しておく。日中戦争を煽ったのは、彼らの先輩であり、その日中戦争の教訓として、中国にお説教する。このお説教を急ぐあまり、彼らの脳裏から、沖ノ鳥島の運命が消えている。
◆日本敗戦後の複雑な歴史的事情と「海洋法」の限界
 中国政府は南シナ海のいわゆる九段線の内側に対して「歴史的権利をもつ」と主張したが、裁定書は、中国の主張する歴史的権利を認めなかった。これは海洋法の個々の条文に照らしてあてはまる箇所がないことから当然だが、中国はこのような結果になることを予想して、仲裁ボイコットを決定するとともに自らの白書を『中国は交渉を通じて南シナ海における中国とフィリピンとの争いを解決する道を堅持する 』と題して、判決の翌日に公表した。1980-90年代に成立した海洋法はそもそも新しい取り決めであり、歴史的経過は、たとえば歴史的水域(historic waters, historic bays)のような例外を除き、基本的に無視するタテマエになっている。旧日本帝国は1938~45年、スプラトリー諸島を新南群島 と名付けて領有し、サンフランシスコ条約および日華平和条約でこれを放棄した。「放棄した」だけで、「放棄後の帰属先」は折からの冷戦体制のもとで、「両陣営のゼロサム化」が進行しており、特定を避けることになった。仮に中華民国に帰属すると明記したとして、その中華民国が短時日のうちに中華人民共和国に吸収される成行きを危惧して、帰属先の明記を避けたと解するのが常識であろう。ただし仮に帰属先を「中華民国」と書いたとしても、その後、ベトナムが仏領から独立し、フィリピンが米領から独立し、マレーシア、ブルネイが英領から独立した後、それぞれの排他的経済圏を主張することはいうまでもない。このようなアジア現代史の歩み、複雑さを顧みると、日本から見て、日華平和条約の締結相手国がここで「なんらかな歴史的権利を生み出す歴史的権原をもつ」と主張することは、まったく根拠のない主張とはいえまい。
 とはいえ、この種の歴史的文脈が、現行海洋法の諸規定になじまないことも確かだ。これはむしろ「海洋法の限界」を示す欠陥と読むべきではないのか。すなわち海洋法の条項は万能ではない。その足らざるところは、歴史的経緯を判断して、関係諸国間の合意を形成するほかに道はない。南シナ海の領土紛争にかかわる複雑な要因を考慮するならば、現行海洋法の個々の条文のアテハメに終始して、それをもって裁定終了とした関係者には紛争解決への深い洞察を欠いたものと批判しないわけにはいかない。
◆仲裁裁判所判事選定の「公正性」と歴史的経緯無視の致命的欠陥
 仲裁裁定の開廷から結審に至るまで、紛争を解決するための仲裁裁判所の活用というよりは、これを利用して中国を封じ込める下心ばかりが浮かぶのを否定しがたい。特に全体を指揮した柳井俊二判事(当時、仲裁裁判所所長)が安倍政権の安保法制懇の座長であった経歴が暴露され、中立性に対する重大な疑惑が中国から提起されている事実は軽視すべきではない。5名の判事のうち、4名は柳井元所長が指名した。中国が仲裁参加を拒否し、指名権を放棄したから所長が選んだと説明するが、予断をもって法廷を組織し、そこに欠席したから欠席破棄裁判を行うような仲裁は、仲裁の名に値するであろうか。欠席理由を問い質し、欠席裁判を避けるような法廷運営にどこまで努力したのか、舞台裏は不透明だ。



 5名の判事の国籍は、上の図の通りである。フィリピンがドイツ国籍のウォルフラム教授を指名したほかは、ガーナ国籍のメンサ判事、フランス国籍のコート判事、ポーランド国籍のパウラク判事、地元オランダ国籍のスーンズ教授、これら4名は柳井所長が選んだ。柳井は中国の批判が伝えられるや、『朝日』鈴木暁子記者のインタビューで、「有能な法律家で、海洋法の知識を持つ一流の人たちばかりを選んだ」と述べた。もとより無能な法律家というのではない。仲裁裁定の課題を担う判事の選び方として、公正な指名、公正な法廷運営の名に値するか。そこが問われることになる。仲裁裁定の公正性が最初から疑われるような、仲裁は、政治裁判の批判を免れない。そして、そのように疑問の眼で見られている仲裁裁定を日本の主要メディアは、礼賛した。それが沖ノ鳥島の運命を決定したことも知らずに。繰り返すが、私が『南シナ海の領土紛争と日本』(花伝社、2016年)を書いて、領海ナショナリズムに溺れる人々と書いたのは、この事態を半ば予期してのことである。



 さて、判決内容だが、中国が主張する南シナ海のほぼ全域にわたる、いわゆる九段線を否定し、フィリピンの提訴を全面的に支持するものである。九段線の内側全体について、中国の管轄権が及ぶとするのは、そもそも無理な主張であるから、判決は「想定内」の部分もある。しかしながら、日本が一時「新南群島」(上図参照)と名付けて領有し、敗戦にともない、日華平和条約第二条「日本国は1951年9月8日に米国サンフランシスコ市で署名された日本国との平和条約第二条に基づき、台湾澎湖諸島並びに新南群島および西沙諸島に対するすべての権利、権原および請求権を放棄したことが承認される」という条項で放棄した新南群島の歴史的経過に判決が一切触れないのは、著しく説得力を欠くものだ。これでは日本が主導した仲裁法廷そのものの政治的偏向、現代史の無視と批判されるのを免れない。これは今回の仲裁裁定の致命的な欠陥はいわなければならない。
◆南シナ海には「島」はなく全てが「岩」である、とした思慮深い判決
 とはいえ、南シナ海には、排他的経済圏200カイリあるいは大陸棚延伸350カイリを要求できる「島」は存在しないと断定したのは、思慮深い判決だ。この点について、私は以下の理由から高く評価する。およそ40ヘクタールの広さをもち、200名の軍民が常住する太平島(台湾が実効支配)を「岩にすぎない」と認定したことの意味はきわめて大きい。なぜか。従来は海洋法の第121条「島の定義」について1項を基に「満潮時に水没するか否か」を論ずることが多かった。今回の判決は3項に基づき、「人間の居住又は独自の経済生活の維持」を重視した。その解釈として「外部からの恒常的補給」が必要か否かまで踏み込んだ。その結果、誰もが「島であるとする認識」を疑わない太平島を「岩」と断定した。この認定は関係各国によって行われてきた「埋め立て競争」に警告し、地球環境の保護(グローバルコモンズの思想)を強く意識した点で、特筆すべき意味をもつ。すなわち、
 ➊南シナ海最大の太平島が島の条件を欠くならば、他のすべての岩や礁は、排他的経済圏および大陸棚延伸の対象外になる。すなわち「領海12カイリ」だけに限定され、海上線引きが容易になる。この知恵は高く評価してよい。
 ➋この判断は「島の定義」に対する新判例として、当然日本の沖ノ鳥島や尖閣諸島にも適用される。日本は海洋法の成立以後に800億円近くの血税を費やして、沖ノ鳥島にいわゆる「波消しブロック」を建設してきたが、これはまるで無駄な投資であった。関係者への責任追及は避けられまい。
 ➌この判例は尖閣諸島にも適用されるので、今後は隣り合う国の沿海基線からの200カイリ線がより重要な協議の要素になる。南シナ海の各岩群の実効支配についていえば、既存の実効支配を前提として、それぞれの領海12カイリを踏まえた海上の線引きがこれから進められることになろう。
◆拒否権を握る国連常任理事国・中国の外交力
 では、判決そのものを受け入れないと主張している中国は今後どのような態度をとるのか。
 短期的には、硬軟両用さまざまの外交的駆け引きが予想される。しかしながら、中期的、長期的に見ると、結局は、判決を部分的に認めつつ、中国自らの、既存の実効支配を認めさせるための外交交渉に力を入れることになると思われる。その場合、歴史的権原(権利ではなく、権利を生む母胎)と現行海洋法の欠陥が協議の基礎となる。海洋法は戦後、ベトナムが仏領インドシナから、フィリピンが米領から、マレーシア、ブルネイが英領マラヤから独立後に成立した。そしてそれぞれの独立国は、沿海の排他的経済圏200カイリおよび大陸棚延伸を権利として保証された。
 ところで中国は前述のように、分断国家の一つが日華平和条約第二条で日本の「新南群島放棄」を明記しているのであり、「帰属先の明記」は折からの冷戦体制下で避けられたとはいえ、ここで「歴史的権原なし」という解釈には無理があると見てよい。それゆえ、判決では無視された歴史的経過を指摘することによって、中国が「権利の回復」を主張することは当然なのだ。しかも、海洋法のいわば親機関に当たる国連において、中国は安全保障理事会の常任理事国の一員であり、拒否権をもつ。このような大国を「管轄権のない仲裁法廷」が裁くことにそもそもボタンの掛け違いがあった。ちなみに超大国アメリカは未だに海洋法を批准していない。ハーバード大学ケネディ・スクールのアリソン教授が常任理事国の拒否権とはそういうものだと、コメントしたことは、冒頭に紹介したが、このような国際関係の上に国際法による法治が行われている現実を見失うと大新聞の論説のような空論になる。論説記者たちは、あたかも中国だけが埋め立てによる滑走路建設を行ったかのように書いているが、英『エコノミスト』の図解は、その間違いを糺してくれる。


 Source:The Economist, May 2nd 2015.The South China Sea: Making waves, China tries to strengthen its hand in a dangerous dispute,



◆今後は、「岩」の実効支配をめぐる二国間協議にゆだねられる
 上の地図は仲裁書の図4南シナ海の南部の一部を拡大したものである。
  左側の羽子板状の薄いブルーの部分は公海で左がベトナム基線200カイリ、右側のブルーラインがフィリピン基線の200カイリである。そしてフィリピンのパラワン島を挟む太い破線が九段線、すなわちNine-dash-lineである。
  裁定書は、九段線を否定し、フィリピンの200カイリを基準としたので、九段線とフィリピン200カイリの間に浮かぶ右からセカンドトマス礁、ミスチーフ礁、ヒューズ礁、ジョンソン南礁は、フィリピンに対する中国の権利侵害になる。羽子板状の中に含まれる下からクアテロン礁,ファイアリークロス礁、ガバン礁、スービ礁は、いずれも公海に浮かぶ4つの礁=Reefに対して、中国が不法な人工物を造ったという認定になる。さらにこの地図の上部に位置するスカボロー礁=黄岩島は、フィリピンの200カイリ内に位置するので、フィリピンの排他的経済圏に対する中国の不法な干渉になる。
 
  今回の仲裁裁定は、海洋法の排他的経済圏200カイリおよび第121条3項における島の定義を狭義に解釈して裁定の基準としたものだ。第121条3項の狭義解釈は、評価できる。最後に繰り返すが、南シナ海の実効支配の歴史を一切無視する前提の認識には、説得力がない。仲裁の名に値する二国間協議はこれからスタートすることになる。
 (2016.7.24記)
★附録:東京新聞論説副主幹長谷川 幸洋コラムからの抜き書き
 
以下は、ついに中国は戦争への道を歩み始めたのではないか、という「強い懸念」 戦前日本を思い出す 現代ビジネス7月15日(金)7時1分配信からの抜粋である。
 
「判決は紙くず」と切り捨てる恐ろしさ
 ・中国の完全な敗北である。中国はこれから、どんな行動に出るのだろうか。中国は7月13日、判決について「無効で拘束力がない」とする白書を発表した。外務次官は「判決は紙くず」と酷評している。
 ・米国は軍が南シナ海を定期的にパトロールして、中国の主張を実態的に崩していく。これに日本など各国も海と空から支援していく。当面はこれ以外の方策はない。
 ・欧州はこれまで距離を置いてきた感があったが、ここへきて南シナ海問題は他人事ではない、と懸念を強めているようだ。欧州勢の参加が実現すれば、日米欧豪が対中包囲網で協調する展開になる。
 ・加えて直接の当事者であるフィリピンやベトナム、マレーシア、シンガポールなど中国に距離を置く東アジア各国も対中圧力を強めていくだろう。
ヤクザと同じ発想
 ・相手に隙あらば自分の縄張りを拡大したい。いま南シナ海で起きているのは、本質的にそういう事態である。米国が南シナ海で航行の自由を完全に維持しようと思えば常時、空母を2隻は現地に派遣しておかなければならない、と言われている。だが米国にそんな余裕はないので、間隙を突いて中国はせっせと人工島に滑走路を建設してしまった。
かつての日本がそうだった
 ・ヤクザに法の順守を説教しても始まらないのと同じように、中国に「法を守れ」と叫んでみても何も変わらない。
 思い起こせば、かつての日本もそうだった。満州事変の後、日本は国際連盟が派遣した現地調査委員会(リットン調査団)の報告に同意できず1933年9月、国際連盟を脱退した。
 ・そういう考え方が満州事変後の連盟脱退、2.26事件、さらに盧溝橋事件から日中の全面戦争へと発展していったのだ。これは、まさにいまの中国ではないか。法の支配などといっても、中国を国際法に従わせる強制力や権威は仲裁裁にはもちろん、日米欧にもない。そうであれば、やはり力がモノをいう。
 ・私がこのコラムで言おう。いま中国は戦争への道を走り始めたのではないか。まさに「歴史は繰り返す」である。
東京新聞論説副主幹長谷川 幸洋記者

――東京新聞前論説主幹清水美和は、2012年4月10日に急逝した。あの日から4年3カ月、冥界の清水は、このコラムを読んだらどんな顔をするだろうか。


1 PCA Case No 2013-19 in the Matter of the South China Sea Arbitration before an Arbitral Tribunal constituted under Annex VII to the 1982 United Nations Convention on the Law of the Sea between The Republic of The Philippines and The People's Republic of China Award.
2 In ignoring an upcoming verdict on the South China Sea, Beijing is following well-established precedent by great powers. By Graham AllisonJuly 11, 2016

               
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