第95号 2017.12.12発行 by 矢吹 晋
    社会主義 初級 段階 の終焉
――中国 が向かうの は、 G・オーエル型監視社会か 、それとも福祉国家か(下)
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7.中国を「為替操作国」と認定しなかった米財務省報告書  
 2017 年 4 月 14 日、米国財務省は 2016 財政年度の財政金融報告書を公表し た。注11報告書の結論は、次の表に集約されている。

図表 5 米国の対中赤字は大きいが、「三つの基準」に照らすと
「中国=為替操作 国」論は成り立たない


 米国から見て 2016 年の貿易赤字の大きいのは、中国 3470 億ドル、日本 689 億ドル、ドイツ 649 億ドル、メ キシコ 632 億ドル、イタリー285 億ドル、韓国 277 億ドル、インド 243 億ドル の 7 カ国である(ちなみに EU は 1257 億ドルだが、グループ扱いなので、主題 にそぐわない)。この粗い数字だけを見ると、中国がケタ外れに大きい米国の赤字要因を作っていることが分かる。ところが、この赤字額をそれぞれの GDP で割ると、表の第二列(2a)が得られ、イメージは一変する。中国は対 GDP 比では1.8%にすぎない。これに対してドイツ 8.3%、韓国 7%、日本 3.8%の高さであり、トランプの不満はドイツ等に向けられる。対 GDP 比の基準では、台湾 13.4%、スイス 10.7%が目立つが、これら二つは、赤字総額が 200 億ドル未満なので、最初からトランプの視野外である。
 では最後に第三の基準、為替操作あるいは為替 介入の基準ではどうか。2016 年中に輸出価格を安く見せるために、対米ドルの交換レートを安くする操作を行ったか。自国通貨の「純買い越し額」の対 GDPを見ると、第五列(3a)のように、中国、日本、ドイツはいずれも「為替操作」の 定義に当てはまらない。この定義によれば、スイスだけが「為替操作国」の定義に当てはまる。
 この財務省報告書は何を教えるか。トランプ一流の貿易赤字対策が事実に基づ くものではなかった、という厳しい現実である。米国の対中国貿易赤字は、一見 とても大きい。しかしながら、その赤字額の大きさを GDP との比率で見ると、1.8%にすぎず、米国が定めた「3%基準」を超えてはいない。そして、為替を操 作したか、しなかったかという最後の基準で為替市場での「買い越し」額を見ると、中国はマイナスだ。2016 年中、中国は外貨の流出対策に悩まされ、人民元を売り、ドル買いに努めた。つまり、為替操作して「安売りを促す」どころか、 逆の操作により、「人民元の暴落を防いでいた」のであった。これは中国経済の変調を懸念した外貨が 2015~16 年に流出し続け、中国当局はそれを防ぐために 躍起となっていた事実を裏書きする。トランプはこの現状を認識できずに、少し前のイメージを根拠に、「安売り大国」として中国を非難し、結果は、「安売りではなかった」と証明した。本論冒頭で指摘したトランプの「対中甘言」からは、あげた拳の下ろし方に苦慮した苦笑いが透けて見える。


図表 6 趙紫陽政治報告から習近平政治報告まで 30 年の試行錯誤
文字数 主要矛盾 初級段階
1987 13回 趙紫陽 3.2万字 8 26
1992 14回 江沢民 2.6 2 4
1997 15回 江沢民 2.8 3 29
2002 16回 江沢民 2.8 1 3
2007 17回 胡錦濤 2.8 1 7
2012 18回 胡錦濤 2.9 1 6
2017 19回 習近平 3.2 5 3

 図表 6 は第 13 回党大会(1987)から今回の第 19 回党大会(2017)まで、30 年間 7 つの政治報告を社会主義の初級段階」と「初級段階の主要矛盾」という二つのキーワードについて、その出現頻度を調べたものである。いうまでもなく社会主義の発展にはいくつかの段階がある。
 中国は生産力の発展の遅れた状況下で革命を行ったので生産力の発展に努めなければならない。生産手段の私有制に対する社会主義改造を経て、中国はすでに社会主義国になったが、人々の生活の需要を十分に満たすことはできない状況にある。それゆえ、中国は社会主義の初級段階に位置しており、この初級段階における主要矛盾とは、日々増加する人民の需要と生産力の発展の立ち遅れとの矛盾(主要矛盾)である。趙紫陽報告は、初級段階を 26 回語り、主要矛盾を 8 回語ることによって、「生産力発展の立ち遅れ」という矛盾が解決された暁に、初級段階から次の段階に移行する、政治改革の道筋を提起した。
 しかしながら、趙紫陽の失脚後、総書記のポストに就任した江沢民と胡錦濤は、ソ連解体に象徴される「ポスト冷戦期」という国際情勢の大変化もあり、中国の行方について明解な展望を打ち出すことができなかった。すなわち 初級段階の先に何を想定するのか、➊資本主義市場経済か、それとも➋社会主義高級段階か。
 江沢民は 1992 年、1997 年、2002 年の三つの党大会で「初級段階を語り、その主要矛盾を説いた」が、その説 き方はますます「主要矛盾から逃走する自信喪失の道」であった。「主要矛盾の解決」へ議論を進めるのではなく、2002 年には「三つの代表」なる曖昧路線が提起された。➊ 先進的な生産力の発展の要求、➋先進的文化への要求、➌広範な人民の利益、これら三つの需要を満たすために中国共産党は活動すると、到達目標を曖昧化した。これが3 期におよぶ江沢民長期腐敗政権の迷路である。それは趙紫陽が提起した「初級段階を経て政治改革へ」という展 望を否定することでしかなかった。その帰結が汚職腐敗の蔓延、習近平の虎退治を必要とした背景にほかならない。
 胡錦濤執政の 2 期 10 年には「科学的発展観」という方法論についての提起は行われたが、具体的には地球環境の制約条件のもとで経済成長を構想すべきだという認識が提起された程度であり、「調和社会の建設」が政策として実現されることはなかった。要するに、江沢民は過渡期の指導者にすぎなかったが、この俗物政権を無理に延命させた結果、その桎梏のもとで「胡錦濤の10 年」が失われ、結局中国は 30 年にわたる遠回りを余儀なくされた。この彷徨の最中で「初級段階の終焉」という明確な展望を提起したのが習近平政治報告の功績にほかならない。あえて率直に評すれば、習近平 2017 報告でようやく趙紫陽の政治報告に直結する「社会主義初級段階」の認識を回復したことになる。すなわち生産手段の社会主義改造を終えたあとの主要矛盾は、社会主義的生産関係を支えるにふさわしくない遅れた生産力の状況である。➊低い生産力の水準と➋人民の増大する需要との矛盾が主要矛盾だ、生産力の発展こそが主要矛盾だという古典的命題への復帰である。

8. 習近平思想 の登場
 社会主義認識の枠組みは、党規約を読むとより明確である。2017 年規約は約 1.95 万字である。これは約 1.73 万 字の 2012 年規約と比べて、1 割強長い。主として規約前文(総綱)が修正されたことによる。習近平という 3 文字
 は、11 箇所に書き込まれた。
 人民の生活手段への需要と、これを保障する生産力の不均衡発展、不十分な発展との矛盾という認識は、1956 年の 第 8 回党大会で規定した構図と基本的に同じだ。そして階級闘争は一定の範囲内で残存し、時には激化することもありうるが、すでに主要矛盾ではない。これも第 8 回党大会当時と同じ認識である。あれから半世紀以上を経ているが、生産手段の資本家的所有を社会主義的改造によって改革したあとでは、階級闘争はすでに主要矛盾ではなく なり、そこでの新しい矛盾は、「人民の需要」に「生産力が追いつかない」ことだ、と認識したのが 1956 年の中国共産党の認識であった。その後、毛沢東はこの認識に大きな修正を加えて、階級闘争は依然、中国の主要矛盾だと
 する認識を 1960 年代前半の、いわゆる社会主義教育運動の過程で提起し、これを実践するために、文化大革命を 発動した経緯はよく知られていよう。そして、文化大革命の終了宣言以後 40 年を経て、ふたたび「増大する人民
 の需要と遅れた生産力の発展」を主要矛盾とする認識に戻したわけだ。 ただし、この間の中国の経済発展はめざましいものがあり、生産力の面ではドイツを追い越し、日本を追い越し、ついに米国をも追い越した。この文脈では、単に「遅れた生産力」を指摘するだけではすまない。その部分は「不均衡な発展、不十分な発展」と表現を改めている。要するに、人民の増大する要求を満たすには「不十分」な側面 を残し、かつ「不均衡」が残るという認識だ。
 筆者は 2017 年 9 月末から 10 月にかけて 3 週間、北京の街をぶらついて、スマホ決済の便利さを堪能した。日 本政府経産省の調査報告注12によれば、中国のキャシュレスは 6 割に迫り、世界一の水準だ。「愛客仕」によるスマホ決済を普及させたアリペイ、タクシー「滴滴出行」の配車サービス、モバイクの使い勝手の素晴らしさ。他方、中 国の経済成長は地球環境の制約にぶつかり、生態文明の建設が大きな社会問題と化してきた。PM2.5 が中国の大地を覆い、健康被害も現実の脅威となり、対策を迫られている。こうして中国ではいま、一方では生産力の発展の需 要に迫られ、他方では、その生産力の発展の生み出す地球環境の壁にぶつかり、生態文明を強調せざるをえない局面、段階に逢着している。これが生産力の側面から見た中国の矛盾である。ここでピッチを上げている EV 化シフ トは、一挙にエンジンやクランクシャフトの伝統技術を陳腐化させる可能性を秘めている。注13
 こうして中国経済はいまや工業技術、IT 技術においても世界の最前列に立つ。かつて経済学者顧準や孫冶方は経 済計算制(ロシア語=ホズラスチョット)基づく計画経済を提起して、毛沢東から弾圧された。しかしいまや中国経済は、キャシュレスの物流革命が金融構造を変え、庶民の生活が生産構造を変えるシステムをビルトインした。 顔認証によるキャッシュレスの新段階も実用段階に入った。中国はすでにジョージ・オーエルの描いた管理社会に突入しつつある。注14北京の街角をぶらつきながら、私の友人は、「あれもカメラ、これもカメラ、こちらは隠しカメ ラ」と街道や居民社区をカバーする監視網に首をすくめてみせた。コンピューターによる顔認識管理や監視がこのまま進行すれば、コンビニや街角の露天のすべての売買がスキャン決済化している今日、「需要に応じた生産計画 の体制」はすでに現実の姿である。株式会社が容認され、証券取引所が容認され、膨大な株式所有者の階層が誕生して、中国経済に占める非公有経済の比重は、毛沢東時代とは比較にならないほど大きな存在となった。これは「労働に応ずる分配」のみを配分基準とすべき社会主義の教義と明らかに矛盾する。すなわち初級段階なるがゆえに認められるとした「資本に対する配分」「株式配当」「不動産等財産」への配当をいつまで容認するのか、という新し い課題に習近平は直面しているのだ。いまや人々の生活需要に応じて生活手段および生産手段の再生産が行われ、 それがコンピューターによって管理されているから、脱税や漏税対策は、きわめて容易である。労働に対する配分 と資本に対する配分をどのように分けるか、その計算もコンピューターソフトをどのように書くか、それ次第だ。 生産力の発展水準がここまで到達したからには、初級段階を規定した前提はすべて覆る。初級段階はすでに飛び越 えられているのだ。

図表7

9.初級段階 の終焉と習近平思想
 今回、党規約のなかに、「中国共産党はマルクス・レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論、「三つの代表」という重要思想、科学的発展観、習近平の、新時代の、中国の特色をもつ社会主義の思想」(原文=習近平新時代中国特色社会主義思想)を自らの行動指南とする、と書き込まれた。この長い形容句は、冗長だ。顧みると 1956 年の第 8回党大会で党規約改正を報告したのは、鄧小平であった(政治報告は劉少奇)。当時、中国共産党の「行動指南」とされたのは、マルクス・レーニン主義だけであった。1969 年第 9 回党大会で林彪が初めて、マルクス・レーニン主義と並べて毛沢東思想を書き添えた。1997 年 2 月に鄧小平は死去し、江沢民が「鄧小平理論」を行動指南に加えた。江沢民はさらに 2002 年に「三つの代表という重要思想」を書き加えた。2012 年胡錦濤は自らの見解を「科学的発展観」と呼び、これを挿入した。こうして 2017 年の習近平政治報告は、➊马克思列宁主义、➋毛泽东思想、➌邓小平理论、➍“三个代表”重要思想、➎科学发展观、❻习近平新时代中国特色社会主义思想を「行动指南」とする長いものとなっている。
 これはいかにも長たらしい悪文であり、5 年後には簡約された表現になる可能性が強い。すなわち➊马克思列宁主义、➋毛泽东思想、➌邓小平理论、➍习近平の新时代思想であり、中間の➊三つの重要思想、➋科学的発展観は消えるのではないか。今回の党規約において毛沢東 13 回、鄧小平 12 回に対して習近平は 11 回だが、江沢民、胡錦濤は各 1 回にすぎない。これは「三つの重要思想」と「科学的発展観」というキーワードが5年後に消える運命を示唆しているように筆者には見える。すなわち、➊マルクス・レーニン主義、➋毛沢東の「革命」思想、➌鄧小平の「発展」理論、➍習近平の「新時代社会主義」の思想、これを党規約に政治的遺言として残し、政治の舞台から去るならば、習近平の名は中国共産党史に残るはずだ。すなわち、毛沢東の革命思想と鄧小平の発展戦略を止揚したものが、習近平の名を冠した「中国的特色をもつ社会主義思想」として、21世紀の中国を導く。


注11 Department of the Treasury, Agency Financial Report: Fiscal Year 2016.
注12 日本政府経産省『FinTech ビジョン』報告書、2017 年 5 月。
注13 トヨタ以下、日本の自動車メーカーはハイブリッド方式による延命策を追求しているが、これは短命策に終わる危険性が強いのではないか。
注14 2017 China International Big Data Expo May 26, 2017,
 https://www.prnewswire.com/news-releases/the-2017-china-international-big-data-expo-opens-in-guiyang-300464495.html
 GUIYANG, China, May 26, 2017 /PRNewswire/ -- The 2017 China International Big Data Expo opened on Friday in Guiyang, capital city of southwest China's Guizhou
 Province. Chinese Premier Li Keqiang sent a congratulatory letter while Vice Premier Ma Kai addressed the opening ceremony.
 Premier Li pointed out that the digital economy is transforming mankind's way of production and living and is increasingly becoming a new engine powering economic growth. Guizhou Province followed the trend and pioneered in the process with remarkable fruits. China is willing to work with other countries to promote innovation and cooperation in digital economy. Data has become one important fundamental and strategic resource and China should go further in big data innovative application to speed up transforming the manufacturing sector, according to Ma Kai. With "Digital Economy Drives New Growth" as the theme, this year's expo will feature two summits, one exhibition and one contest. A total of 78 forums and 15 other activities will be held throughout the Expo.
   
(2017年11月15日稿)

               
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