第33号 2006.12.11発行 by 中村 公省
    上海日系工場立ち退き問題における中国リスク <目次>へ戻る
1. 事実確認が甘い中国リスク論議
 上海市の西北部郊外に位置する嘉定工業区の日系企業が、都市再開発計画で突然の立ち退きを要請されている。再開発計画は3年以上前から存在したのに日系企業には知らされていなかったとか。
 この問題について不案内の人のために、日本ではじめてこれを報道した2006年11月3日付『産経新聞』を以下に引用しておこう。

 上海郊外の有利な立地を売り物に外資企業を中心に誘致した上海嘉定工業区で、入居したばかりの上海ハウス食品など日本企業10社が都市計画を理由に立ち退きを非公式に通告されていることがわかった。今回は第1期分で今後さらに多くの日本企業が立ち退かされる可能性があり、外務省は在上海日本総領事館を通じ同市嘉定区政府に説明を求めた。上海進出を考えている企業の間で中国リスク論議が再燃する恐れもある。
 立ち退き通告文書は「上海市嘉定新城(街)建設管理委員会弁公室」の第10号文書(10月17日付)で、「都市計画の実現のため第1期分の立ち退き企業は次の通り」として24社が記され、その中にハウス食品、野尻光学、神鋼圧縮機製造-など日本企業10社が含まれていた。
 この文書は全企業に突然配布されており、台湾系企業などが立ち退きに応じる動きを見せる中で日本企業側では「このままでは操業を停止せざるを得ない」と、総領事館や日本貿易振興会を交え説明を上海市側に求めるなど対応を急いでいる。

 その後の経過は、上海の日本領事館が、上海市外事弁公室に口上書(嘆願書)を提出、これに対して「上海市外国投資工作委員会が嘉定区政府を積極的にサポートしている」という返答があったとの由。とうぶん、日系企業側と上海当局の間で、にらみ合い、交渉の駆け引きが続いている模様である。
 しかし、これまでの各紙の報道論調は情緒的である。またまた中国リスクが露呈したと結論することに急で、事実を虚心坦懐に見つめる観点が乏しいように思われる。そもそも日系10企業の社名すら明かされていないではないか。『産経新聞』では3社(ハウス食品、野尻光学、神鋼圧縮機製造)、11月3日付『日本経済新聞』でも4社(上海ハウス食品、上海呉羽化学、上海野尻光学、神鋼圧縮機製造)をあげているのみである。
 また、上海市及び嘉定区の11次5カ年計画(2006-2010年)や嘉定新都市開発計画の進展状況についての詳報がない。数年も前から論議、報道されてきた都市再開発計画がなぜ藪から棒に通告される羽目になったのか。

2. 立ち退きを要請された嘉定工業区南区の日系企業の
 21世紀中国総研編『中国進出企業一覧』は中国に進出している日系企業の基本データを網羅した大部のデータブックである。この2005-2006年版に、今回立ち退きを要請された嘉定工業区南区の日系10企業の基本データが載っているかどうか? 「載っていない」。 当該日系10企業の大半は2004年以後に設立・操業しており、『中国進出企業一覧』2005-2006年版を調査・編集した2004年後半にはまだ情報データを収集・確定できなかったのである。
 そこで、ただいまアンケート調査中の『中国進出企業一覧』2007-2008年版データベースで検索してみると、10社中6社が判明した。アンケート調査による確定前ではあるが、ほぼ正確なデータであると思う。ともあれ下表をご覧いただきたい。

表 上海市嘉定工業区で移転を迫られている日系現地法人10社中の6社
設立順 出資本社 本社所在地 上海現地法人 現地法人住所 業務内容 投資形態 資本金 投資総額 設立時期 操業時期
1 野尻眼鏡工業株 福井県鯖江市 非上場 上海野尻光学有限公司 上海市嘉定区洪徳路816号 主に金、銀、錫、銅、ニッケル、無電解ニッケルめっき(電鍍)、電着塗装、吹付け塗装、洗浄、酸処理、などの表面処理受注 独資 37万元 1998 2004年6月新工場完成
2酒井重工業㈱東京都港区東証一部上場酒井工程機械(上海)有限公司上海市嘉定区永盛路・白銀路西側乗用振動ローラーや小型の締め固め機械などの組み立て独資280万米㌦560万米㌦2003.022004.08正式操業
3㈱瑞光大阪府摂津市非上場・有価証券報告書届出企業瑞光(上海)電気設備有限公司上海市嘉定区洪徳路811号①衛生用品製造設備全般及び包装用設備②不織布加工設備及び電気制御装置③上記の研究開発、設計、製造・販売及びアフタ-サ-ビスの提供独資1000万米㌦1000万米㌦2003.032004.01
4㈱クレハ〔三菱商事と共同出資〕東京都中央区東証一部/大証一部上場上海呉羽化学有限公司上海市嘉定工業区高台路979号化学工業、炭素繊維製高温耐火材料の製造・販売独資2648万5000元2003.042005.05第2期工場完成・操業
5ハウス食品㈱〔味の素、三菱商事と共同出資〕大阪府東大阪市東証一部/大証一部上場上海好侍食品有限公司上海市嘉定区合作路1365号香辛調味食品(ハウスバーモントカレー)の製造・販売独資1000万米㌦2900米㌦2004.012005
6㈱神戸製鋼所〔〔コベルコ・コンプレッサと共同出資〕兵庫県神戸市東証一部/大証一部/名証一部上場神鋼圧縮機製造(上海)有限公司上海市嘉定区天祝路933号汎用圧縮機製造独資500万米㌦1250米㌦2004.022005.04本格操業

 判明した日系6現地法人の出資親会社は、上場会社が4社、非上場会社が2社である。上場会社は酒井重工業、クレハ〔三菱商事と共同出資〕、ハウス食品〔味の素、三菱商事と共同出資〕、神戸製鋼所〔コベルコ・コンプレッサと共同出資〕で共同出資者を含めると、大会社6社がかかわっている。酒井重工業は乗用振動ローラーを、クレハは炭素繊維製高温耐火材料を、ハウス食品はハウスバーモントカレーを、神戸製鋼所は汎用圧縮機をそれぞれ製造している。一方、非上場会社は、メガネ枠製造の野尻眼鏡工業(福井県鯖江市)、包装用設備製造の瑞光(大阪府摂津市)である。業種ではすべて製造業で、非密集地の郊外立地工業と見なすことができよう。
 投資形態では6社とも独資である。日系10企業の所在地は、すべて嘉定区中心部(嘉定鎮)の南西、FIレース場の東部に広がる嘉定工業区の南区である。
 表中で最も注目すべきデータは、右端の設立時期と操業時期である。これらの会社が設立されたのは、1998年の上海野尻光学有限公司を例外として、すべて2003年以降である。工場を建設して操業を開始したのは例外なく2004年以後で、2004年操業開始が3社、2005年操業開始が3社。いわば、やっと工場を立ち上げ本格生産に入った途端に、「移転」を迫られたという次第である。

3.嘉定区の都市再開発計画
 上海市は都心部への人口集中・過密問題に悩んでいる。外環状線内部に現在110万人の人口が蝟集しているが、さらなる集中を抑制して17年年後に800万人にしようという意欲的な計画が進行している。2006年1月20日に上海市で議決された「上海市の国民経済社会発展第11次5カ計画要綱」の「第8章 社会主義新郊外区の建設を大いに推進する」では、以下のように規定している。
 「嘉定、松江、臨港を重点とする新都市建設を急ぎ、推進する。サービス機能が充実して、人口集積機能が強い現代化した総合都市を徐々に建設するという要請に照らし、産業基地、開発区、高速道路、軌道交通などの重大インフラをよりどころに、嘉定、松江、臨港の新都市建設を重点に推し進める。」
 即ち、上海都心部から見て、南(臨港)、西(松江)、西北(嘉定)の鎮(かつての県の中心地)に三つの副都心を建設して、これを人口流動調節のダムにしようという構想である。くだんの嘉定鎮の都市再開発計画は、この3副都心計画を具体化した計画であり、2005年7月にはすでに以下のように定められている。
 「嘉定新都市は、主都市区、安亭副都市、南翔副都市からなる。そのうち主都市区の計画面積は120万平方キロメートル、人口50-60万。主都市区は嘉定区新都市建設の重点区域で、スポーツ休養、観光レジャー、商業サービス、ビジネスオフィス、会議展示、文化娯楽、中高級住宅の機能を一体化した総合的な都心とする。この中心は嘉定区だけでなく嘉定周辺にもサービスし、嘉定新都市で最も活力・集中力がある地区とする。」(「人民網」2006年11月1日)
 そして、嘉定鎮の西南にあるF1サーキット場の東側に広がる嘉定工業区南区が、この嘉定新都市の主都市区内に線引きされているというわけである。嘉定区工業区には郊外環状線を挟んで南区と北区がある。1992年創立の南区には中国科学院ハイテク園区、上海光電子科学技術産業園区、上海台湾人工業区もあるが、全体的にはこう位置づけられている。
 「無汚染、ハイテク、省エネ産業を主とする都市型工業を発展させる。娯楽、レジャー、ショッピングなどの機能を一体化したサービス産業を主体に発展させ、工業区に優秀な人材を導入し、工業区の生活の基本的需要を満たし、工業区の産業サービス能力を向上する。」(嘉定区工業区ホームページ)
 南区の基本は商業区であり、工業は「無汚染、ハイテク、省エネ産業を主とする都市型工業」に限定されている。これに対して2003年に新たに増設された江蘇省寄りの北区の位置づけはハイテク工業区である。
 「工業設計を核心として、産業の技術革新能力を備えたサービス業を発展させる。区内の自動車部品、光電子、精密機械製造、輸出加工など産業発展の需要を満たし、リンケージを形成して、区内の産業の連鎖を整合し、区内の産業構造を整え、産業集積を形成する。区内の企業の成長力と鋭敏な市場更新能力を高め、影響力のある先進的製造基地とし、ひいては長江デルタのサービス業基地として役立てる。」(嘉定区工業区ホームページ)
 南区から立ち退きを要請された製造業の移転の受け皿が、この北区であることは明々白々である。

4.中国リスクはどこにあるか
 「したたか上海市 日系企業困惑/再開発計画ありながら誘致 『中国リスク』露呈」という見出しで、11月29日付『日経産業新聞』が、この問題の核心を衝いている。
 「嘉定区の再開発はF1会場の東に商業地域を兼ね備えた百万人が居住できる都市を新設する事業。市の2010年までの第11次5カ年計画に盛り込まれ、9月下旬に正式に承認された。だが、計画は遅くとも04年始めにはできあがっていた。04年2月に地元紙が事業内容を伝える記事を掲載。同年8月には進出企業に立ち退きを担当する新会社も発足している。」

 嘉定区工業区は市級の開発区で1994年に建設されたが、上海市の西北辺境という立地で、競合他地区の開発区と比較して投資環境が劣り、外資誘致が思うに任せなかった。WTO加盟後の投資ブームによって2002年以後、外資が入居し始めたものの、2004年には嘉定新都市への編入が確定し、南区は商業区に指定された。
 日系10社企業は、先に見たように、ほとんど入居が2003年以降で、操業は2004年以降である。都市計画着手となれば入居した製造業企業は移転を迫られる。それを承知で嘉定区政府当局は日系企業を誘致し、入居に伴う事務的手続きをし、工場建設にともなうバックアップを行い、その間、工業区が商業区に変更になったことを開示しなかった。『日経産業新聞』の報道はおおむね、首肯できる。
 いわば、嘉定区政府は、欠陥開発区を外資に売りつけたのであり、その責任は負わなくてはならない。都市再開発計画の線引きの再検討が不可能ならば、立ち退き、移転に伴う交渉において、礼を尽くし、十二分の保障をすべきだ。日中投資保護協定(1988年締結)もこれを保証している。日本の常識では、こういう論理が成り立つであろう。
 しかし、果たして、この常識が、中国で、しかも地方政府役人相手に通じるものか、どうか。人民は搾るために存在し、外資は利用するためにある。開発区造成や都市再開発における汚職や農民・住民とのトラブルの頻発に明らかなように、そもそも日本的常識が通じないところが中国リスクなのある。ここでは政治的風土の問題は捨象して、商売上の慣行だけに言及しておこう。
 中国では品質保証・定価販売の日本の商習慣はなじまない。社会主義市場経済では、売り手の吹っかけ・買い手の値切りの駆け引きで価格が決まり、品質吟味は買い手の目利き次第である。売り手が買い手をだますのは常道であり、買い手は商品価値を値踏みする見識を持たなければならない。
 果たして、こうした商習慣を前提にして、当該日系企業は嘉定区政府と交渉をしてきたかどうか。
 「新しい都市開発計画があったとは寝耳に水です。……困ったとしか言えません」
 ある企業の嘆きである。(『夕刊フジ』2006年11月22日)
 知らぬが仏。極楽蜻蛉。
 企業関係者だけではない。上海には領事館があり、ジェトロ、日中経済協会をはじめ数々の投資支援機関が存在し、有象無象のコンサルタント企業がひしめいている。筆者は念のために、上海日本領事館、上海ジェトロ、日中経済協会上海事務所、日本商工会議所上海事務所、みずほコーポレート銀行、信金中央金庫など上海に常駐する、投資支援機関の過去のホームページに当たってみたが、嘉定区南区が商業区に指定されている事実を指摘し警鐘を鳴らした情報は皆無である。しかし、くだんの情報は、ほかならぬ嘉定工業区ホームページに掲載されている !
 中国リスクの根は深く、怒りを抑制した理性的対応が求められている。
 
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