第13号 2006.5.22発行 by 渡辺 浩平
    遅ればせながら、「超女」について <目次>へ戻る
 昨年の「超女」の盛り上がりを見て、一度自分なりにまとめておきたいとおもっていた。
 「超女」こと「超級女声」は湖南衛星テレビによる女性歌手のオーディション番組だ。04年に始まった「超級女声」は昨年更にその人気は加熱し、年末、メディアによる05年のトピックとして上位に上げられていた。
 「超級女声」なる「スター誕生」のような番組があり、予選参加者は、04年は8万人、昨年は15万人にも及んだ。本選前からは、プロによるレッスンがつき、その様子も放映されるため、女性たちが磨かれていく姿に立ち会えることも、この番組の楽しみの一つとなり、放映のなされる金曜夜には数千万の人々がテレビの前に座ったという。決勝戦では視聴者にも審査の権利が与えられたため、メールを使った投票がのべ800万にのぼったのだ。
 確かに、数字を見れば異様とも言える盛り上がりを見せていることは理解できるし、ネットのニュースや、中国在住のかたのブログでも取り上げられており、大きな社会現象となっていることは知っていたが、私自身が直に番組に接していなかったので、その高揚がいまひとつ実感できずにいた。

「中国湖南衛視」の「超級女声」のページの画像
「中国湖南衛視」の「超級女声」のページの画像
 
女性像と社会の変化
 私が「超女」に強く興味を引かれたのは、「中国新聞週刊」05年10月3日の「中性之道」という記事だった。バスケットやテッコンドーに興じる活発な女性を紹介し、中性的魅力に若い人々が共感していることを述べたものだ。
 05年8月下旬に行われた「超級女声」で一位に輝いたのはボーイッシュで低音の魅力のあるコントラルト李宇春(四川音楽学院学生)であり、さらに二位の周筆暢も眼鏡をかけたショートヘアーだった。特に、李は視聴者投票で300万票を獲得し、若い女性からの支持により、優勝したと言われていた。李には「玉米(玉と宇、米は迷[ファン]はほぼ同音、とうもろこしの意)」、周には「筆迷」と呼ばれ熱狂的ファンがいるとのことで、メディアには、李のポスターをもった「玉米」の姿が紹介されていた。ちなみに3位の張靚頴、4位の何潔ともロングヘアーで、一般的に言えば女性的な雰囲気をもつ歌手であり、さらに、容姿端麗な候補者は、本戦で敗退したものの、すでにアイドル路線でデビューをしている娘もいるとのことだ。
 ボーイッシュ云々になぜ反応をしたかというと、当時、私の指導学生の台湾人女性が「資生堂の広告作品から読むジェンダー」というテーマで論文を書いていたからだ。1960年、70年代、80年代の資生堂のコマーシャルフィルムの全作品の登場人物を、立ち居振る舞いや衣装や言葉遣い、さらに、ナレーションといった各要素に分解し、分析したのである。その結果、60年代から70年代にかけての資生堂広告で描かれる女性像は、初期の頃の、男性ナレーションにのってお人形のように立ち居振る舞う姿から、次第に伝統的像とは異なる女性に移っていったというのである。しかし、80年代になると、逆に、伝統型のステレオタイプな女性に回帰したという。その分析手法は、広告作品分析の先行研究を踏まえて、客観的に行われており、人を十分に納得させるものだった。
 私も素材となったCFを幾度か通しで見ていたが、同様の感想を持っていた。私の感想は、彼女の科学的分析とは違い目の子の主観的判断だが、60年代から70年代にかけては、広告の女性像が多様化し、時に挑発的な試みがなされている、というものだった。特に、1966年の前田美波里のCFは、白黒の映像にも関わらずいま見ても新鮮だった。大柄でダイナミックな魅力を持つ前田の強い存在感と夏の太陽がまぶしかった。そこには、これまでの伝統的な女性とは切れた像があった。島森路子は前田の魅力を巧みに言葉にしているので、引用しておく。
 「(前田のポスターは)一種のピンナップ的要素を含みこみながら、ピンナップ特有の生々しい肉体性を、『表現』が消して、男たちよりはむしろ若い女たちが積極的に自分を仮託していける構造になっているのが巧みだが、それ以上に、このポスターの新しさは、単に目鼻立ちだけでなく、からだもまた、女の表情を表す大きな要素であることを、その表現を通して、私たちに認知させたことだろう」(『広告のヒロインたち』岩波書店1998年)その後の、真行寺君枝の目や、倍賞美津子の強さも印象深かった。広告作品には、その時代の社会や文化が映しこまれているものだとあらためて感じ入った。
 ここで言いたいことは、いささか短絡的に聞こえるかもしれないが、経済が発展し、社会が動いている時代は、性的イメージも大きく変化するのではないかという仮説だ。先の台湾人留学生の疑問は、日本の1980年代は男女雇用均等法の施行などに象徴されるように、社会的性差、文化的性差が薄まっていった時代であろうに、どうして、60年代~70年代のほうが、「新しい」女性像が提示されたのかということだった。
 李宇春がファン投票で一位になったということに、中国という社会が大きく変化をしているということを感じた。その感想は、昨年から発売された資生堂のブランド「マキアージュ」のモデル4人、篠原良子、伊藤美咲、蛯原友里、栗山千明が出演するバブル期の再現のようなCFを見るにつけ(確かに、栗山はタクシードライバーという特異な役柄ではあるが)強まっていった。  
 
「穢れた芸術」
 昨年、こんなことをつらつら考えていたのだが、「超女」ネタも鮮度を失い、書く機会を逃してしまっていた。今回、「超女」をあらためてとりあげてみようと思い立ったのには別の訳がある。4月20日、元文化部長で、政治協商会議の常務委員にして、演出家協会会長の劉忠徳が「超級女声」を称して、「穢れた芸術」と批判したのである。中国劇版「白鳥の湖」の記者会見の席だった。(華夏時報4月21日)
 劉の論拠はこうだ。
 文化はモノの商品とは異なり、市場原理にゆだねるわけにはいかない。労働人民を低俗な文芸に陶酔させてはならず、高雅な芸術に触れさせねばならない。それは文化関係者の責務だ。政府の文化部門は「超女」の類を許してはならず、広播電影電視總局には取り締まる関係文書があるはずだ、と「超女」の放送停止を暗に呼びかけたのである。同時に、劉は「視聴率末位淘汰制」を批判した。視聴率末位淘汰制とは、視聴率の低い番組は、打ち切られるという最近のテレビ局で見られる現象である。
 翌日の華夏時報では、SINAとSOHUという中国の主要検索エンジンのネットアンケートが、劉支持が多かったことを伝え、さらに、賛否両論の識者の意見を紹介する。否の筆頭は社会科学院新聞研究所の時統宇で、「超女」が、「一挙成名(一挙に有名になり)」「一夜暴富(一夜にして巨万の富を得る)」という意識を青少年に広げたとして強く非難する。さらに、清華大学新聞傳播学院副院長の尹鴻は、超女が低俗であることは認めつつも、その判断は公衆に任せるべきだとする。
 一方、行政監督機関である国家広播電影電視部總局のスポークスパーソンの朱紅は、「超女」が人民大衆の娯楽生活を豊かにしたと一定の評価を与える。さらに「以前の超女には学生の勉強や教育活動に影響を与えることがなかったわけではない」とし、今年に入ってから広電局は、参加者を18歳以上、参加者の言葉づかい、マナー、服装などは大衆の審美観に合うよう、低俗に流れず、審査も「実事求是」とするよう、番組を指導したことを明らかにしたのだ。審査の「実事求是」とは、審査員が出演者にかなり辛辣なコメントを下すことが、この番組の人気の秘密であり、そのことを指していると思われる。
 また、中国の同性愛研究で著名な李銀河は、同番組が憲法に違反してはいないのであるから、生存の権利があるとする。そして、中央電視台の同種の番組である「夢想中国」の名を挙げ、「夢想中国」は批判の対象とならないのに、なぜ、「超女」だけが問題となるのだと疑問を呈するのである。
 わが研究科の大陸からの留学生によれば、かねてから、中央電視台は湖南衛星テレビの今回の成功を苦々しく思っており、今回の劉の発言は、CCTVの意を汲んだものではないかとの見方を示していたが、その憶測は李の「夢想中国」への言及とも照合する。
 さらに、社会科学院の文化研究所の張暁明は、「超女」は、関係機関に多大な利益をもたらし、直接利益は7.6億元、周辺の経済波及効果を含めると何十億元にも上るとの試算を述べる。
 興味深かったのは、「超女」を俗悪番組と批判をする側も、「一棍子打死(一撃のもとに仕留める)」つまり、放映停止といった処置には反対をした点だ。
 報道は続く。
 制作会社である天娯公司の社長の王鵬は、「彼(劉忠徳)は自説を述べる権利があり、私もまた彼の述べることを無視する権利がある」と言い放ち、著名な演劇人である濮存昕(北京人民芸術劇院副院長)は、「子供の番組なのだから、非難すべきではない」と擁護論をぶつ。
 劉忠徳はあらためて記者会見を開き、「超女」は、「一夜暴富」といった射幸心をあおるものであり、子供たちへの影響を憂慮する声が自分のもとには数多く届いており、「憲法論」や「経済効果論」などの論を、「社会全体の破壊は、何十億の利益と引き換えにできるのか」と強く批判し、「超女」は教育の破壊であると言い切るのだ。さらに、広電局に対して、取り締まるべき文書があることを改めて指摘する。
 
割れる民意
 その後の記事で最も興味深かったのは、「80年代生まれの人間からの、劉忠徳おじいさんへの公開状」なるものだ。どこかのサイトに貼り付けられたものだろうが、あちらこちらに転載され、またその「公開状」をめぐって多くの書き込みがなされていた。
 その手紙の始まりは、劉の青少年に対する「関心」への礼から始まる。香港「四天王」や金庸の武狭小説、アメリカ映画、香港のテレビドラマで育ったものとして、自分が「超女」に毒されているとは思わない、とし、「劉おじいさん」は、ご自身の孫の世代の識別眼と鑑賞眼を軽視している、と「80年代生まれ」は述べる。手紙の半ばでは、中国の青少年はただでさえ、「暗記機械」と呼ばれているのに、さらに、子供たちを無菌な状態においては、中華民族の復興は成し遂げられないとし、後段では、ハードルの低い(誰でも参加できる)「超女」を批判するのであるなら、「高雅な芸術」のチケットを安くし、学校における各種の費用徴収や、公学校の民営化路線をやめさせ、さらには、「超女」よりさらに低俗な、モーターショーなどのモデル選抜などに、文化関係者が審査委員となることは、おかしいのではないかと、皮肉たっぷりに語るのだ。
 なかなか読ませる文章だ。筆の運びに、若年者が書いたとは思えない巧みさがあり、「80年代生まれ」の人間の手によるものか疑わしい部分もあるが、見事に劉忠徳をおちょくった、寸鉄人を刺す文となっている。
 キャストコンサルティング社長の徐向東が日経のコラムで書いていたが、今回の「超女」は若い人々を見事に動かしたマーケティングの好事例である。また、新聞周刊か瞭望東方周刊で、今の若者は政治キャンペーンには動かないが、商業キャンペーンにはのりやすいということが明らかになったという趣旨の記事を読んだ。
 衛慧の翻訳で知られる在北京の翻訳家、泉京鹿のコラムによれば、乳製品メーカー蒙牛は2800万元でスポンサーの権利を買い、さらに800万元の広告費を投入したとのことだ。泉によれば、以前、このコラムで紹介した乳製品製造会社の伊利など他のメーカーの広告も、「超女」以降、増えてきたようだという。通信会社は、視聴者からの投票によって、これまた巨額な収益を得た。番組制作を行った湖南テレビ出資の企画会社天娯公司も、その名を高らしめ、さらに男性版、子供版、家族版の「超級」番組をすすめている。湖南テレビの広告費単価もうなぎのぼりだ。その後、同テレビ局は「チャングムの誓い」を放送し、ヒットさせた。その結果が先の、張暁明の何十億元という経済波及効果となった。これだけ稼ぐと、広電局としても、冷や水を浴びせにくいのではないか。当然、かなりの金額が、そちらにも行っていると邪推する。
 昨年後半、メディアでは、ビジネスの問題はあまり語られることなく、むしろ、「超女」というまさに庶民のアイドルの誕生と、その選考の「民主的」プロセスにより、「娯楽自由」「美学民主」さらには、「民主実践」という声さえ聞かれた。そのあたりのニュアンスは、さきの李銀河の言葉からも伝わってくる。
 中国は、数年前から「文化体制改革」という名の、文化産業の市場化を進めており、「超女」の成功はまさにその典型と言えるであろう。
 劉の主張は、古典的なマルクス主義者のものであるが、同時に、トクヴィル、ルボンそしてオルテガ、さらには西部邁と続く、集団となった大衆の愚かさ、凡庸さといういわゆる衆愚論と重なって見える。あるいは、ホルクハイマー、アドルノの共著「啓蒙の弁証法」において、独占的な資本主義体制のもとで、大衆文化は金儲けの手段と化して画一化され、特にテレビは、「美的素材の貧困化を極点まで推し進める」とする「文化産業-大衆欺瞞としての啓蒙」の章を思い出すのだ。
 むろん、かつて広告業界で禄を食んでたいたものとして、文化産業を欺瞞と決め付ける一報的な見方に、全面的に賛成するわけではないが、しかしながら、大衆はなぜナチズムにかくも容易に帰依してしまったのかという深遠なる問題を、「啓蒙」という視点から極限まで考えぬいた二人の碩学の議論は、ある一面の真理をついており、現在の日本においては、もはや、考えること際億劫になってしまった「大衆文化」「文化産業」についての論争が、中国において起きていることに感慨を抱くのだ。
 さて、「超女」をめぐる中国の民意はどうか。
 中国青年報社会調査中心とSOHUが共同で行ったアンケート調査によると、5425サンプルのうち忠徳支持派が51%、超女支持派が36.3%だという。(中国青年報5月15日)先の華夏時報のネットアンケートにおいても、忠徳支持派が上回っていたが、この結果をどう読めばよいのであろうか。昨年の過熱を経て、人々は「超女」にいささか食傷してしまったということか。
 今年の「超女」の予選はすでに始まった。テレビ局も、周辺をとりまく産業も、昨年を越える盛り上がりを期待していることだろう。そこに、劉の発言があった。
 「超女」のゆくえやいかに。
 

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