第02号 2004.6.15発行 by 高井 潔司
   

「マルクス主義」が吹き荒れる中国メディア界

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  中国のメディア界にいま、「マルクス主義新聞観」という嵐が吹き荒れている。市場経済の浸透でメディア界にも市場化が進みつつある中国。それに伴って、報道にあたって金を取る有償ニュース、さらには興味本位のセンセーショナルな報道、米メディアの模倣、安直な転電などの風潮が目立っている。そこで、メディアを管理、指導する中国共産党中央宣伝部などが、メディア引き締めのための大々的なキャンペーンに乗り出した。
 そのベースにあるのが「マルクス主義新聞観」である。ここでいう新聞とはニュースペーパーではなく「ニュース」の意。「メディア」と置き換えることもできよう。この「マルクス主義新聞観」に加え、江沢民前総書記を中心に作り上げた「三つの代表」重要思想と、職業精神・職業道徳の三項目を学ぶ「三項学習教育活動」が昨年秋からメディアの現場で展開されている。活動は目下、「最高潮」を迎えており、今年末までキャンペーンを繰り広げる計画という。キャンペーンとともに、具体的なメディア規制の動きも出始めた。
 一連の動きはメディア界に目立つ商業主義の行き過ぎの是正にとどまらず、せっかく育ち始めた報道改革の芽まで摘み取りかねない勢いである。

 市場経済に逆行する「マルクス主義新聞観」

 「三項学習」のうち最も猛威を振るっているのは「マルクス主義新聞観」である。学習材料に使われている理論誌「求是」の李宝善・編集長の論文「マルクス主義の新聞観と党の新聞工作方針・原則」は、まず西側資本主義におけるメディアは「「客観報道」「政治的中立」「社会の公器」を標榜しているが、それは新聞の階級性、党派性、傾向性を覆い隠し、その目的は公衆の信頼を裏切る欺瞞にある。実際、西側メディアは資本家の金稼ぎの道具であると同時に、様々な集団間の利益、権力争奪の道具にほかならない」と切り捨てる。
 これに対して、社会主義のメディア事業は「人民全体の利益を代表する国家所有であり、人民は国家の主人であり、新聞事業の主人となっている」と「社会主義の優位性」を主張する。その上で社会主義体制においては「新聞事業は人民に服務する、社会主義に服務する方向を堅持し、社会の効率、利益を最優先する」とし、国家所有は「広大な人民の報道の自由とその客観、公正を獲得する根本的な保証となっている」と指摘する。
 中国の政治体制改革は、経済体制の分野に比べのテンポが遅れている。とりわけ報道分野は従来から保守的な傾向が強かったが、経済分野ではすでに死語となっている「マルクス主義」によって、メディアの諸問題を一刀両断に切り捨てようというのだから乱暴だ。市場経済の下で、メディア経営にここ10数年来、独立採算制を大幅に採用し、経営も報道内容も「産業化」「商業化」を進めてきた。誰の眼から見ても、中国のメディアは人民を代表していない。他方、共産党の独裁体制の下で、報道の自由も享受していない。だからこそ、メディア界においても腐敗現象、堕落現象が発生しており、こうしたキャンペーンを展開する必要性も生じているのだ。
 問題はその解決の方向である。「マルクス主義新聞観」はその解決策を古いやり方に求める。李編集長は「社会主義の新聞事業は必ず党性の原則を堅持しなければならない」と主張する。つまり@党が新聞事業を指導するA新聞事業は党に責任を負い、人民に責任を負うB党の新聞宣伝の規律を堅持する――を原則とする。その規律とは「政治的に党中央と一致し、無条件に党の路線、方針、政策を宣伝し、誤った言論をメディアに載せる道を提供してはならない」という。具体的な新聞工作の方針としては、@人民に服務する、社会主義に服務する、党と国家の活動の大局に服務するA団結、安定、鼓舞、プラス面の宣伝を主とするB主旋律を歌い上げ、積極的にこぶしを振り上げる――と、さながら文化大革命時代のような調子である。実際、「三項教育」で、報道の良いモデルとして取り上げられているのは、「模範的人物」を称揚、宣伝する報道である。このような報道はこれまでたびたび「個人崇拝」をもたらし、模範的人物の虚偽、腐敗、堕落を引き起こした。中国の人々は何度もその弊害を見てきたのではなかったか。

 市場経済化した中国メディアの問題点

 新聞業界で言えば、いまや人民日報のような党機関紙ではなく、市民のニーズにあった「都市報」「晩報(夕刊紙)」が主流になっている。県や村の弱小の党機関紙は、その権力を使って押し付け販売にたより、昨年、大整理が行われた。そうした新聞事業をめぐる変化が、様々な問題点を起こしているのも事実である。ところが、「三項教育」キャンペーンでは、だれも買わなくなった党機関紙を復活させて、その「正常化」を図ろうというわけだ。実際、党機関紙を販売する新聞スタンドを設置したとの報道もあるが、時代錯誤もいいところだ。
 本来なら党機関紙内部でやれば済むキャンペーンが全国のすべてのメディアに拡大されたのである。しかも、各地で「三項教育」が成果を挙げたなどといった報道がなされている。中央テレビ局では、一人も欠かさず教育を受けねばならないとして、海外の特派員にまで教材を送り、学習を求めた、と自局のHPで宣伝している。当事者が本気で臨んでいるかどうか別として、ほとんど「大政翼賛」のムードである。何しろ中央宣伝部などの通知では、2−3月を「学習・指導、認識向上」の段階、4−6月を「比較・検査、整頓・改善の交流」の段階、7−12月を「実践・創造、向上確立」の段階と位置づけ、年末に総括のための宣伝系統会議を開催することになっている。
 こうしたメディア界を襲った嵐は、教育に留まらず、引き締めのための規則が設けられたり、実際の報道にも余波を浴びせている。青少年の保護を目的としたテレビの番組規制の規則の制定、インターネットの不良・ワイセツサイト摘発のための通報センターの設置などがその例だ。
 面白い出来事は「人民日報」HPの6月9日付「人民網」に掲載された「人民時評」「中国メディアは誰の喉舌(代弁者)か」という記事をめぐる動きだ。この時評は中国のメディアが「ニューヨークタイムズ」や「ワシントンポスト」の転電をはじめ、アメリカのイエローペーパーに掲載されている「ゴミネタ」の転電で埋め尽くされていると指摘、「マルクス主義新聞観」が言うように中国のメディアは「党と人民の喉舌」でなければならないと主張している。面白いのは、なぜこんなニュースを転電するのかと批判的に紹介した記事の多くは、国営新華社通信のHP「新華網」で報道されたものだったこと。中国問題専門家の高橋博氏によると、この「人民時評」の掲載された当日朝、「新華網」は一時的に「人民時評」を掲載して、読者に意見を求めたが、昼前にはこの記事を削除したという。
 いまや中国で最も読まれている新聞は、新華社発行の「参考消息」である。周知の通り、「参考消息」は海外の報道を翻訳したそれこそ「転電新聞」である。それはいかに国内の新聞がつまらなく、信頼性に欠けているかということの現われではないのか。様々なサイトが海外のサイトを無断で転電しているのも、同様のことが言える。中国国内のメディアがつまらないのは、報道の自由がなく、情報が公開されておらず、実際の報道に様々な規制が行われていることが大きな原因であろう。真の原因を突き止めようとせず、古い道徳観で問題を解決しようとするから、問題をさらに深刻化、複雑化させてしまう。

 根っこある政治体制改革の遅れ

 報道というものは資本主義社会にあっても社会主義社会にあっても、様々な問題を抱えている。李編集長は自身「新聞は観念の産物である。客観的事実には価値を含まない。新聞は報道に当たって必ず事実に対する評価を含む。したがって純粋に客観的な報道は根本的に存在しない」と、この部分は非常に論理的に論じている。にもかかわらず、社会主義社会に客観報道が存在するかのように語るから、自己矛盾を起こしてしまうのだ。客観、公正ではあり得ないというメディアの根本的な欠陥は、実は「報道の自由」や「情報の公開」、「競争」などによって「多様な報道」を保証してこそ、多少とも是正され問題を軽減できる。その是正策として、事もあろうにすでに欠陥が明らかとなっている硬直した「マルクス主義新聞観」によって解決できるとか、権力によってそれを推進しようというのはアナクロニズムも甚だしい。それがまかり通るのも結局、政治体制改革の断行を決断できない中で、保守的なイデオローグが中央宣伝部を中心に新聞界に勢力を温存しているためといえよう。
 こうした動きに対し、中国国内の勇気あるメディア研究者からも批判が出ている。例えば「討伐中宣部」を書いた焦国標・北京大学新聞メディア学部助教授らである。この論文については、先述の高橋氏が『東亜』6月号(霞山会発行)で詳しく紹介しているので、ここでは触れない。ただ、焦助教授の批判は処分も受けなければ、前向きの反響もない。大々的な「三項教育」キャンペーンの中で全く無視されてしまっている。
 もっともキャンペーンはこの15年来の報道界の流れから完全に逆行しており、その影響力には疑問がある。現場の人々も本気でキャンペーンに参加しているとも思えない。「マルクス主義」を掲げると、誰もが面従腹背のポーズを取らざるをえないのだ。このような光景を眼のあたりにして、本当に読者、視聴者が中国のメディアを信頼するのだろうか。



                                                
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