第12号 2005.10.7発行 by 高井 潔司
    やはり公的な追悼施設しかない
- 靖国判決をどう読むか -
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 小泉首相の靖国参拝をめぐる違憲裁判の第2審判決が9月から10月にかけ、各地で相次いで出た。判決内容が高裁によって食い違う上、大阪高裁判決で違憲と判断され、批判の矢面に立たされるべき小泉首相が「勝訴でしょう」と開き直ってみせ、マスコミもそれ以上の追及をしなかった。そのため、靖国判決の読み方は非常にわかりにくい状況になっている。小泉首相は、先の総選挙でも成功を収めた「議論を単純化する」、「争点をそらす」といった古い「世論操作」の手法(注1)を使った。巧みな“小泉マジック”に、マスコミも国民もうまくかわされた格好だ。一連の判決をどう読み、今後の靖国問題をどう考えるべきか、その読み方を検討してみたい。このままでは本当の意味で尊い犠牲となった戦没者に対する追悼もできず、60年を経たというのに、戦後にも決着を付けられない状況が続くことになる。


 まちまちの判決内容とその読み方

 同じ参拝に対する判決にもかかわらず、9月29日の東京高裁と同30日の大阪高裁判決は対照的な判断を示したものと受け止められた。一方は私的な参拝と認定し、他方は公的な参拝で憲法違反と認定した。しかし、その受け止め方が正しいかどうかは、どこに基準を置いてみるかによって、大きく異なってくる。確かに、参拝が「公的」か、否かという面では正反対だが、賠償訴訟という面ではいずれも原告の訴えは棄却されたのであり、この面では小泉首相が言うようにいずれも被告である国や首相にとって「勝訴」である。政府、首相側の全勝である。
 だが、違憲か合憲かという面ではどうだろう。東京は判断を避け、大阪は違憲と認定した。例え、一つの裁判所であっても参拝行為が違憲と認定されたという意味では、首相にとって、実質的は敗北であろう。一国の首相ともあろう政府の最高指導者が、違憲と認定される恐れがあるとあらかじめわかっていながら、そうした行為に及ぶことは許されないから。司法からその行為を憲法違反と認定されながら、「(私は)憲法違反であるとは思っていない。首相の職務として靖国に参拝しているのではない。それがどうして憲法違反なのか、理解に苦しむ」などとコメントするのは、全くの司法軽視であろう。以前なら三権分立軽視として、世論の批判を浴びるはずだが、国家・政府の権力に擦り寄り“第4の権力”に堕しているマスメディアは、すっかり「小泉マジック」にかかり、政治を監督する機能をすっかり放棄してしまっている。


 確認すべきは、「公式参拝は憲法違反」という事実だ

  結論から言っておくと、筆者は、首相にとってこれまでの判決は全敗だと考えている。というのは、首相は明らかに「公式参拝」つまり「公的」な参拝を目指していたからだ。小泉首相は、就任時に8月15日の参拝を公約した。そして、公的か私的かなどあいまいにして、「公的な参拝」を既成事実化しようとした。しかし、一審で、「違憲」判断を示す裁判所が出てからは「職務として行っていない」などと言い逃れを始めた。首相の参拝を支持している人々も、それが公式参拝だと認識して、支持してはずだ。小泉純一郎個人の私的な参拝を評価する右翼や保守派など存在しないだろう。2004年の元旦に靖国を「初詣」した時、保守派の評論家たちは小泉首相を非難した。初詣のついでに戦没者の霊を慰めるなどもってのほかである。
 東京高裁は首相の参拝を「私的な行為」と認定した。なぜそのような認定をしたのか。それは、「公的参拝」を憲法違反であることを前提にしているからだ。小泉首相の2001年の参拝は、@戦没慰霊祭のある8月15日を避けて13日に参拝したA献花代は私費で払ったB公用車使用は、首相が私的行為を行う場合も必要な措置――などとして、「私的参拝」として、原告の訴えを退けたのである。裏を返せば、8月15日の参拝は公的であり違憲、献花代を公費で払うことは公的であり違憲、といっているわけだ。
 憲法20条には明確に「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と書いてあるわけだから、公的活動としての参拝を、裁判所がいくらなんでも「合憲」などと認定できないだろう。せいぜい「私的」だから、違憲とはいい切れないと、かわすほかないのだ。石原慎太郎都知事のように、「公的ですか、私的ですか」という記者団の質問に、「くだらんことを聞くな」と恫喝で答える政治家もいる。これは公的だといったら憲法違反になることを知っていて、しかし、私的といったら、これまた味方から批判されるので、脅しで誤魔化すというこれまた古典的な「世論操作」の手法の一つである。
 蛇足ながら、「首相にも宗教の自由」があるなどという政治家もいるが、これは論外で、憲法やこれまでの靖国判決をもう一度読むべきだし、マスコミはこうした政治家をきちんと批判し、その誤りを追及すべきだろう。
 「公的か私的」をあいまいなままにするから、中国や韓国をはじめ、国の内外から、色眼鏡で追悼の本当の狙いを追及されるのである。以後、首相が参拝される場合は、「私的参拝」であることを明確にし、とくに「民でできることは民で」という首相なわけだから、できるだけ公用車も使わないことだろう。

写真:「日本大阪高等法院認定 小泉参拜靖国神社違憲」を伝える黒竜江日報(2005.10.1)の一部
「日本大阪高等法院認定 小泉参拜靖国神社違憲」を伝える黒竜江日報(2005.10.1)のページの一部。ページの全体は、つぎのURLを参照してください。
 http://www.hljdaily.com.cn/gb/content/2005-10/01/content_340487.htm

 最も迷惑なのは、戦没者であり遺族ではないか

 では、国のために犠牲になった戦没者を、首相をはじめ国民が追悼しなくていいのか。これは真剣に考えなくてはいけない問題だろう。やはり、追悼しなくてはならない。「私的参拝」でお茶を濁すわけにはいかない。ならば、靖国神社を「公的参拝」できる施設にするか、新たに公的施設を作る以外にないだろう。前者は、すでに靖国神社が一宗教法人であり、これまでも国家護持法案の制定が試みられたことがあったが、結局失敗に終わった。
 やはり責任ある政治家の任務として、そしてこれだけの国民の支持を集めた首相として、新たな公的施設の建設を決断すべきではないのか。それによって、本当に戦没者の霊を慰めることができるのではないか。「靖国」にこだわることは、極めて政治的だとの印象を与え、だから中国や韓国も政治の問題として批判の声を挙げることになる。
 ちなみに中国の公式メディアでは、一連の判決について、私的と認定した東京高裁の判決は報道せず、公的として違憲判断を示した大阪高裁判決のみを報道している。その真の意図ははかりかねるが、中国の判断も、恣意的だし、政治的といわざるを得ない。それ以前に、硬直的といえるかもしれない。東京高裁の判決は小泉首相の参拝を支持したと読んでいるために、中国にとっては不利として、公式の報道で流したくないのだろう。中国の世論も、政府もどのレベルで小泉首相の参拝に反対しているのか、明確ではない。「私的」「公的」という区別をすることがどういう意味を持っているのか、自身わからないまま反対しているのだ。現在の日本では、どの裁判所においても、首相の靖国公式参拝は憲法違反にあたるということを前提にしている。この点を理解する余裕が彼らにはない。その意味で彼らも、全敗を全勝と言いくるめる「小泉マジック」に引っかかっているといえよう。
 小泉首相の参拝を支持する人々も、「私的参拝」で十分満足できるのかどうか、本当に戦没者の追悼といえるのかどうか、この際、改めて考えてみる必要があるのではないか。戦後60年、戦没者の霊をどう慰めるべきか、右も左も、真剣に考えるべき年ではないのか。

(注1) 9・11事件以降のアメリカ政府のプロパガンダを暴いた『情報戦争』(ナンシー・スノー著、邦訳・岩波書店)は、その古典的手法として、@争点の選択A立場の主張B単純化C表現の操作D非理性的な思考――を挙げている。
一連の判決の評価には、控訴の棄却がどうかという「単純化」ではなく、違憲なのかどうか、公的参拝の是非などさまざまな要素から検討しなければならないだろう。
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