第14号 2010.12.20発行 by 高井 潔司
    ノーベル平和賞をめぐる不毛な対立 <目次>へ戻る
 2010年のノーベル平和賞は、受賞者の劉暁波氏が不在のまま授賞式が取り行われた。中国で獄中にある本人だけでなく、親族も出国を認められなかった。ノーベル賞委員会は、劉氏が「中国における人権のため、長年にわたり非暴力闘争を行っている」として、平和賞の授与を決めたわけだが、同じ行動を中国当局は「国家政権転覆扇動罪」として訴追しているわけだから、ノーベル賞の授与は、対立の溝を深めこそすれ、解消することはない。
 だが、天安門事件を実際に検証し、劉氏のその当時の行動をもう一度振り返ってみれば、中国当局自身にとっても、劉氏が平和賞受賞に強いふさわしい人物であり、本当は事件を見直す良いきっかけだったのではないかと私は考える。今回の受賞をめぐるボタンの掛け違いは、不毛な対立を煽り、中国当局にとっても事件を見直すきっかけを逃してしまう結果となったと言えよう。
 私が中国当局にとっても受賞にふさわしいといっているのは、1989年6月4日未明の最終局面で、つまり百台を超える戦車が天安門広場を包囲し、広場で抗議行動をしていた一万人を超える学生、市民を排除した際、平和的に学生たちを撤退させた最大の功績者が劉氏ということであり、その功績は当時、中国の当局者でさえ認めていたという事実があるからだ。
 最終局面で、本当に武力衝突や武力排除の事態となり、死者が数千人、数万人も出ていたとしたら、中国に対する国際的な非難はもっと高まり、長期的に続き、中国が現在のような国際社会への復帰を果たせなかったであろうことは、容易に推測できよう。したがって、中国の今日のような経済発展もなかったはずだ。
 私は毎年、マスメディアの報道のあり方を考えるために、事件から4年目の1993年に放送されたNHKのクローズアップ現代「天安門事件 空白の3時間に迫る」を授業で学生たちに見せている。広場撤退時に多数の死者を出したとの報道の誤りを検証する番組である。
 この番組は、劉氏に誘われ、劉氏と一緒に当日広場に座り込んだ台湾のシンガーソングライター、侯徳健氏の証言と、学生たちの広場撤退のシーンまで広場で取材していたスペイン国営放送のビデオテープで、“大虐殺”があったと報道された最終局面を再現している。この中で、広場に学生たちが多数の銃器を隠し持っていた事実を知った劉氏が、全ての武器を回収するように学生たちに求め、学生たちの目の前で銃をたたき割る劉氏の姿が映し出される。これによって当局との決定的な武力衝突という事態は避けられ、その後、侯徳健氏と戒厳軍責任者との交渉、劉氏らの説得によって、広場からの平和的な撤退が実現した。
 広場から早々に逃げ、海外に出た学生リーダーたちは、広場撤退の際、戦車がテント内で寝ていた学生たちを踏みつぶすのを目撃した、数千人、一万人を超える死者を出したとのデマを流したが、それを否定する証言をしたのも、劉氏らである。
 実は広場では虐殺の事実がなかったとの劉氏の証言は、事件から約3か月後の89年9月19日付の人民日報に掲載されている。私はこのことを矢吹晋編著『天安門事件の真相』下巻(90年9月蒼蒼社刊)の矢吹氏のあとがきを読んで知った。同書は、いまから振り返ってみると、事件を巡る様々な資料、データを収集し、早々と事件の真相に迫った日本の中国学が誇るべき研究書の一つである。 同書を手がかりに、その後、劉氏が書いたものを探し、どのような経過で劉氏が証言したのかを調べた。
 劉氏は獄中、取材を受けるように当局者から何度も求められる。だが、「私の考えははっきりしていた。たとえ広場撤退の際、死者がなかったのは事実にしても、この種の取材の目的は事実を明らかにするためではなく、発砲し、殺人を犯した政府の自己弁護のためである。なぜなら当時、全世界は戒厳部隊が広場を血で洗ったと信じていたし、一部の海外に逃亡した事件関係者は自らの英雄的イメージを高めようと事実を歪曲し、デマを言いふらしていた。私がテレビに出て死者がなかったと証言したら、私は全世界の怒りを買い、私のイメージはどん底に落ちるだろう。私はきっぱり取材を拒絶した」
 しかし、最後には彼は取材に応じた。それは検察関係者が、侯徳健氏の広場での目撃談を報じた人民日報の記事を劉氏に見せ、「広場から学生たちを平和裏に撤退させたのはあなたがた4人の功績であると、私達はずっと考えてきた。事実を話すのに、何が悪いことがあるのか」と、説得したからだった。
 「検察関係者の話は私の心を動かした。私はすぐ取材を受ける理由に思い至った。一つは死者を見なかったのは事実であり、事実を語ることは歴史への責任であり、自分への責任でもある。私が最も嫌うのは中国人が道徳という美名の下に事実を歪曲する道徳至上主義を望むということだ。(学生指導者の)ウーアルカイシはまさに道徳の美名を選択し事実の尊重を放棄した。二つ目は侯徳健が広場撤収の事実を明らかにしたために、社会世論のとてつもない圧力を受けたことだ。真実を語ったために全世界の糾弾を受けている以上、事実の目撃者である私としては、彼一人にこの糾弾を受けさせるわけにいかなかった」
 このような経緯の下に、劉氏は証言したのだが、私自身、知らないままでいた。人民日報の記事は読んだような記憶がかすかにあるが、おそらく獄中で言わされた話と無視したに違いない。わが身の不明を恥じるのみである。それに反して矢吹氏らは冷静に分析している。前掲書の「おわりに」矢吹氏が書いた一節を劉氏の証言同様に、紹介しておきたい。
 「今回の『事件』を調べ、考えることは、憂鬱な作業であった。しかしながら、このような憂鬱な作業の中でも、一度だけ、爽快感を感じたことがある。それは天安門広場の「清場」(広場からの排除=高井注)に関する北京師範大学講師の劉暁波の証言に触れた時である。彼の証言は言う。『私は歴史に対して責任を負わなければならない。したがって、あの時に私が目撃した事実を話しておく必要があると考えている』と。この証言に触れた時、筆者はすぐに『崔杼、その君を弑す』と書いて殺された斉の国の史官の話を思い起こした。兄が殺され、その後を継いだ弟がまた同じことを書いて殺され、またその後を継いだ下の弟が同じことを書いた。これにはさすがの崔杼も殺すことを諦めたと言うあの話である。中国の『知識人』の中にも、骨のある人間はいたわけである。やはり、中国は広い」
 劉氏らの最終局面の行動を「功績」と述べ、取材の受け入れを促した検察当局者らの発言は「うその方便」だったのだろうか?かなくなに取材を拒んでいた劉氏が「心を動かした」のだから、誠意があったに違いない。実際、その後の中国の発展を見る時、天安門事件の最終局面で、決定的な衝突を回避させた劉氏らの行動は、「改革・開放」路線の加速を指示した鄧小平氏の南方講話に匹敵する功績だと私は思う。
 今回の主なき授賞式をめぐる報道を見て、がっかりした。このようなエピソードの一つも紹介されていない。それどころか、「人権・民主化中国に迫る」「中国『内政干渉』外交戦で対抗」(読売12月11日付総合面)などとお決まりの図式を描いて見せるだけである。全くの不毛の構図である。
 ちなみに、授賞式での平和賞委員会のヤーグラン委員長のスピーチでは、天安門事件の最終局面で劉氏が政府と学生の武力衝突の回避に努め、広場ではほとんど犠牲者のなかったことに触れている。非暴力抵抗を受賞の大きな理由にしているのだ。同委員長のスピーチの要旨を掲載した日本の新聞は、こうした肝心の部分はカットして報道している。
 唯一の救いは、朝日が抄訳を掲載した「劉氏の代読文章」である。彼は改革・開放の成果を評価し、中国の将来をも楽観的に語っている。長くなるが、最後に彼の文章を引用したい。
 「私には敵はおらず、憎しみもない。私を監視、逮捕した警察も検察も、判事も誰も敵ではないのだ。私は自分の境遇を乗り越えて国の発展と社会の変化を見渡し、善意をもって政権の敵意に向き合い、愛で憎しみを溶かすことのできる人間でありたいと思う。改革開放が国の発展と社会変化をもたらしたことは周知の通りだ。改革開放は毛沢東時代の『階級闘争を要とする』執政方針の放棄から始まり、経済発展と社会の平和的融合に貢献した。こうした進展は、異なる利益や価値が共存するための土壌をつくり、国民の想像力の発展と愛情の回復の励みとなった」
 「もっとも進歩の遅い政治領域でも、敵対意識の弱まりは政権が社会の多元化に対して包容力を増す効果を生んだ。政治思想が異なる者への迫害は大幅に弱まり、89年の民主化運動への評価も『動乱』から『政治的風波』へと変わった」
 「私の心は、いつか自由な中国が生まれることへの楽観的な期待にあふれている。いかなる力も自由を求める人間の欲求を阻むことはできず、中国は人権を至上とする法治国家になるはずだ」
 この文章を読んでみても、なぜ彼が国家転覆を陰謀した人物として断罪されるのか、全く理解できないだろう。「国家利益」を叫びながら、自己保身しか頭にないのが古今東西の政治家のならいであり、中国の指導者に、劉氏の名誉回復を求めるのは無理なことであろう。ならば、せめて劉氏がなぜ平和賞に値する人物なのか、われわれ自身、しっかりと記憶に留めたい。


『末日倖存者的獨白』(時報文化出版・台湾)

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