第3号 2012.11.26発行 by 高井 潔司×西茹
    18回党大会をめぐって――「人事」編
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日本の新聞の「報道フレーム」が変わった政治報告報道

高井 人事問題に入る前に、前回の胡錦濤氏の政治報告をめぐる報道について、なぜほとんどの新聞が歩調を合わせるようにに「海洋権益断固守る 日本をけん制」といった自意識過剰な、滅茶苦茶な報道になってしまったのか、その背景をおさらいしておきたい。

西 実は、最近、元北京特派員のベテラン記者に話を聞くチャンスがあったのですが、彼はこのようにいって言っていました。「以前は国際部に所属する、中国専門の記者たちが中国報道に携わっていたが、それは視野が狭いと指摘され、だんだん変わってきて、最近は政治部の記者が担当するケースもある」と。それは影響しますか。

高井 政治部記者はおそらくそれほど中国に関する前知識もないでしょうし、言葉もできない。中国に人脈もない。とすると、情報源は日本大使館とか、香港情報とか、通信社の報道などに限られてしまう。国際部の記者よりもっと視野の狭い報道になるのは当然です。よほど本人が自身の制約を意識し、努力しないと、日本の価値観からでしか、中国を見ることができなでしょう。私は蒼蒼社刊の『中国文化強国宣言批判』の中で、日本の中国報道が天安門事件を境に、過去の国交正常化実現を目標とする「友好フレーム」から、中国の民主化、人権問題の遅れなどを批判する「普遍的価値フレーム」に転換したと書いたのですが、最近の報道を見ていると、普遍的価値ではなく「日本的価値フレーム」へとさらに変質したと言えるでしょう。

西 留学生の人が調べてくれましたが、大衆向けの国際専門紙の『環球時報』がさっそくこうした日本のメディアの論調を批判したそうです。また、シンガポールやドイツの新聞などを調べてくれましたが、政治報告を尖閣問題などとからめて書いた新聞はなかったそうです。

高井 それは当然でしょう。日本も尖閣も、報告には全く登場しないのですから。こんな創造力と想像力に満ちた北京特派員は、日本以外にはいませんよ(笑い)。記者なんですから、やはり事実に沿って、事実に迫る報道してもらいたい。さて人事に移りましょう。

権力闘争史観だけでは、中国を理解できない

西 大会直後の10日付の朝日新聞朝刊を読みましたか。まだ今回の大会の人事も選出されていない段階で、「ポスト習世代にも注目」と10年後の第6世代予測をしている。日本の新聞は人事に愛着がありますね。問題は、そうした記事に情報源がほとんど書いていないことです。香港の新聞やインターネット上の情報を、出所も明らかにせず、何のためらいもなく使用していたようです。

高井 中国を権力闘争の国だとみるのが好きですね。80年代、胡耀邦総書記が失脚になった時、私の先輩記者は「これは三国志の世界だ」と書いてました。それに共産党が個人独裁の国だとか、人治の国で、派閥社会で形成されていると見ています。だから江沢民派と胡錦濤派の対立、あるいは太子党と共青団派の対立といった構図で描くわけです。その割には第6世代の予測記事で、日本の新聞が注目していた周強・湖南省書記が政治局員に選ばれず、脱落した感があるのに、何も触れていない。5年後に胡錦濤派が巻き返すには必要な人材だし、日本の報道の流れから言えば、彼が選ばれなかったことで力のバランスにも影響が出るはずなんですが。

西 もちろん最高幹部で国民の選挙で選ばれるわけではありませんから、人材の登用にあたっては、いろんな力学が働きます。その中で派閥もできるでしょうが、今回の人事は、年功序列で、できるだけリスクを減らして、安定した政権運営を図ろうと感じられます。そもそも私は共青団VS太子党や、江派VS胡派という構図にあてはめて人事についてドラマチックな分析をすることに興味がありませんので、今回の人事が江沢民の全勝で、5年後胡派が権力を奪い返すという見方は憶測にすぎないですね。実際の力関係は以上の構図よりずっと複雑だと思います。誰が何派に属するかはわからないです。例えば、劉延東政治局員と李源潮政治局員は共青団に育てられたけど、“高幹子弟”(高級幹部の子弟)です。太子党という表現は、実際そんな“党”は存在しませんから、誤解を招きます。使わない方がいい。共青団派と言われる劉延東政治局員は90年代早くも江沢民のお眼鏡にかなっているという噂がありました。

いずれの派閥も「権貴階層」で利害は一致

高井
 権力闘争で見るから、対立しているようにみえるけれど、まず彼らが同じ共産党員で、また権力を利用して資産を形成しているという「権貴階層」という点で、利害が一致している。したがって、もちろん自身の好みで、派閥を形成し、それを大きくしたいという野心はあるのでしょうが、それ以前に共産党の政権を維持し、安定させるという点で一致している。薄煕来・重慶市書記の失脚だって、権力闘争の結果ではなく、彼が個人的野心としてやり過ぎが目立ち、これでは共産党の統治自体が危うくなりかねないから、党内が一致して排除したわけです。彼が毛沢東時代の平等の理念や革命精神を体現していたなどというのは、彼が宣伝で作り出したイメージだけで、本質は「権貴階層」。一連の報道で、中国問題の専門家といわれる先生方が座談会に登場していましたが、ほとんどと言っていいほど、メディア側が提示する「権力闘争」の構図の中で、議論していた。発言の中身は香港情報の受け売りか、ご自身の憶測と好みだけで、自身の研究がまるで反映されていない。マスコミに媚びを売る話に終始している。専門家と称する人々のいい加減な発言の批判は後回しにして、もう少しどんな力学で、中国の政治や人事が動いているのか、話してください。

西 中国政界では、ずっと共青団幹部を軽く見る傾向があります。青年団の幹部は「年齢が若い、経験が浅い、経歴が単一」ですので、いつも仕事の経験と全局を制御する能力が足りず、「厳しく険しい環境と末端での仕事の訓練に欠けている」との弱点が指摘されます。それは共青団幹部自身も認めています。昇進しようとすれば、厳しい試練を積まないと無理でしょう。上に行けばいくほど、党と政府に認められる才能と経験が必要です。胡錦濤氏を指導者の座に引き上げるため、チベット、貴州省など最も厳しいところに送って鍛えたでしょう。それによって、「資歴」(キャリア)を蓄え、求心力を高めたのですが、でも彼の求心力もそれほど高くないですね。だから、いつもエンジニアのように、巨大な権力という機械を慎重に見つめ、慎重に修理してきたのではありませんか。そういうことで、胡錦濤氏が5年後巻き返しのできる人事を布陣し、団派が天下を取ることなど考えられない。面白いことに、国内の普通の人々はあまり新指導部にそれほど興味を示していないようです。知人、友人に聞いてみたら、皆は習と李以外の5人の常務委員に関する今までの情報があまりにも少なく、評価なんて、知らないので何とも言えないそうです。そして、新指導部について言うことがないけど、今まで「寡淡无味」(淡白で味気ない、無味乾燥)という印象の胡錦濤氏に対し、完全引退で高い評価がでているそうです。実は胡氏の完全引退は意味が大きいかもしれません。指導者の世代交代にとって、それはかつて老人支配の拠点となった「中央顧問委員会」廃止以来のさらなる一歩であり、制度化へ進んでいくと見ても良いかもしれません。

高井 NHKの解説委員が、最高指導部となる新しい政治局常務委員会の顔ぶれをどう解釈するか、苦しい解説をしていました。テレビだから正確な記録はありませんが、ざっというと以下のような解説です。常務委員会も李克強氏以外は全部、江沢民派に取られ、敗北に見えるが、習、李以外の5人は、年齢から見て5年後に引退する人ばかりだから、5年後胡錦濤派が逆転できる。それに「科学的発展観」という胡錦濤思想が、綱領に盛り込まれたことが大きい。江沢民思想として、「三つの代表理論」が盛り込まれて、党員も資本家になれる、金持ちになれるということが実現したけれど、今度は胡錦濤思想が盛り込まれたので、和諧社会(調和のとれた社会)の実現などが可能になると言ってましたね。今回は負けたけれど、5年後には巻き返すことができるなんてタイムスケジュールができている、そんな甘い権力闘争なんてあるのか。それならそれで、もっとその“柔い権力闘争”の構造を解説してほしい。NHKだけなく朝日も毎日も、同じような解釈でした。ほとんどが香港情報の引き写しです。インターネット時代では、われわれもその情報が見られるから、彼らの情報源の底が割れてしまう。
西 前回も話題になった「集団指導体制」ということが念頭にないようです。日本の新聞で使われている「胡時代」、今度の「習時代」との言い方はワンマン主義の匂いがしますね。中国では、批判的立場に立つ論客でさえもそういう言葉も使わないですね。「胡温政権」、「習李政権」と言っています。個人の影響力が薄れていく時代になっています。例えば、11月16日付朝日新聞の朝刊では、海洋重視を「習氏の強い志向だ」うんぬんと彼個人の思考と結びつけて書いた記事がありました。一見、取材して書いたもののようにみえるが、どうも頭にあるステレオタイプに合わせて書いた感じがします。海洋重視を習氏個人の経験につながって解釈しようとする発想は集団指導や、政策決定のプロセスを無視している感じがします。

あいまいな情報源は責任回避

高井 次に西さんが指摘していた「情報源」の問題を議論したい。いまちょうど大学の授業の教材として、元共同通信ワシントン特派員で、その後、上智大学教授でも活躍された藤田博司氏の『どうする情報源』(リベルタ出版)を読んでいる。藤田氏はメディアが発信する情報を責任あるものにするために情報源をできるだけ明示すべきだし、読者、視聴者の信頼を高めることにもつながると立場から「日本のニュース報道では、情報源をあいまいにしたり、まったく情報源に触れなかったりするものの方がむしろ多い。そのために、情報が誤っていてもほとんどの場合、だれも責任をとる者がいない」と指摘している。今回の報道は藤田氏の指摘がぴったりと当てはまります。

西 情報源の問題は、一般の記事でも、あるいは新聞やテレビに登場した専門家の発言でも目立ちました。書いたとしても、“党関係者”“外交筋”という表現が多いですね。たとえば、11月9日付の朝日1面から2面に続く「習体制 人事暗闘なお」という記事では、“党関係者”が頻繁に登場しました。しかし、真面目に記事を読んでみたら、ますます疑問に思うようになったのです。例えば2面の真ん中のあたりには江沢民氏が8月の北戴河の非公式会議で胡氏の側近の令計画を名指し批判したと述べています。記事には「党政治局員の元秘書を含む複数の党関係者の話を総合すると」、「『私から若干の問題提起をしたい』と江氏は口を開いたという」と書いています。「私から若干の問題提起をしたい」はカギカッコをつけ、江氏がそういったと断定しています。記事って、そういう書き方は大丈夫ですか。「党政治局員の元秘書を含む複数の党関係者の話を総合すると」という情報源ですよ。誰がその場でそう聞いていたのかはわからないですね。一方で習体制を「新旧の指導者の『密室』協議で形作られた」(11月15日付朝日2面)と批判しました。つまり、記者はその密室の会話を聞いた人に取材して、そういう伝言を書いただけですね。本当でしょうかね。

高井 中国では、取材は厳しく制限されています。最高指導部の人事など国家機密ですから取材などできないはず。もちろん多少の情報は、リークしてくれる筋はあるんでしょうが、その情報源を明らかにすることは難しい。それを逆に利用して、あることないこと、香港情報、ネット上の情報をからめて、書き散らすことになるわけです。それは取材もできない記者には好都合でしょうが、中国に対する信頼度だけでなく、日本のメディアに対する読者の信頼度も落ちるということにもっと気づくべきです。どこまでが事実で、確認された情報か、どこからが未確認情報かを明示するためには、情報源をしっかり書くべきです。もっとも北京特派員が、「香港の新聞報道によると」、なんて書いたら、ますます信頼が落ちてしまいますけれどね。

西 報告の海洋強国言及が日本をけん制したという記事も、その根拠とか情報源がありません。ただの観測ですね。

高井 そんな憶測は、中国の幹部に確認のため取材したら、一笑に付されるでしょう。外務省の記者会見で質問してみたら、きっと他の外国人特派員の顰蹙を買いますね。私の特派員時代でも、東欧や第3世界の記者が、自国と中国の関係に関する質問ばかり繰り返して失笑を買っていましたが、日本の記事の論調はそこまで落ちてきているといいたくなりますね。

一体、何の、そして何のための専門家か?

西 専門家の人にもそのあたりがいい加減な人がいます。私は、日本には中国研究を地道に行う中国専門家がたくさんおられると思い、それと比べて中国の場合には日本を真剣に研究している専門家がずっと少ないと思っていますが、いつ日本の中国専門家は中国の「浮躁病(浮かれ病)」を感染してしまったのかと残念に思いました。というのは、普通、専門家に求められるのは、根拠に基づく分析、冷静な議論ですね。読売新聞の専門家座談会に出ていた遠藤誉氏の「7常務委体制」についての解釈は偏った思いこみではありませんか。「7人にしたのは、決断の迅速化というより、政法委を常務委員の菅轄から外し、司法との癒着をさける意図があるのではないか」と言ってましたね。「党管司法(党が司法を管理する)」制度は維持したままで、政法委の最高指導者が常務委員から政治局委員に格下げになっただけで、党と司法との癒着が改善されますか。さらに胡錦濤氏が軍委主席に留任しないことついて、「江氏へのあてつけで、『あなたは一体いつまで政治に顔を出すのか』との意味だ」と、生々しく表現していましたね。小説家が構想力で権力闘争の構図を作って物語を描くのであれば、文句はありません。専門家として読者に知見を提供するはずなのに、恣意的な解釈をしていては困ります。やはり孔子の教えは大事です。つまり「知之為知之、不知為不知、是知也(知っていることは知っていると言い、知らないことは知らないと言う。それが知っているということだ)」ですね。

高井 わたしも某テレビ局からコメンテーターを頼まれましたが、「中国政治の専門家ではないので」とお断りしました。テレビでは「わからないことはわかりません」と言えませんからね。知ったかぶりして、香港やネットの情報を請け売りする。まあそれ位のことならできるでしょうが、あまりにも無責任です。

西 読売座談会でもう一つ問題発言を見つけました。「中華民族という言葉は非常に偏狭で、海外に向けては排外主義だ」という大西康雄氏の発言です。

高井 そうそう、習近平氏が就任演説で「民族」を連発したとの報道に煽られた読売の司会者(国際部長)が質問したのを受けた答えですね。専門家ならそもそもの報道がおかしいと指摘すべきですが、おそらく演説全文を読んでいないのでしょう。どういう文脈で民族を連発したのかを知れば、そんなまとはずれの答えは出てこない。質問するほうも、答える方も、もともとの演説の内容を知らずに、でたらめな報道だけを基にして、やりとりしている。

西 あきらかに間違っているという発言でも、新聞社はそのまま原稿にしてしまう。それは編集側が何も気づかないからですか。必要な説明や修正を入れるべきとは考えないですか。

高井
 専門家と称するひとの発言を否定できるような「胆識」(肝っ玉と知識)を持つ記者は、いまどきいませんね。政治報告と違って、習氏の演説なんて短いのですから、ネットで検索して読めばいいんです。専門家たちの指摘が誤りだと、すぐわかる。西さんから専門家の発言の問題点を指摘してください。

西 「中華民族」という表現はもともと、多民族国家中国の国内的な団結を呼びかけるために作られた言葉です。満州族王朝を倒して共和国を建設する辛亥革命では、漢民族王朝を作るのではなく、国内の多民族の団結によって建国するんだというために、孫文たちが「中華民族」を“発明”したんです。読売座談会で、元中国大使の谷野作太郎氏は中国が貧富の格差、腐敗、環境破壊、チベットなどの少数民族問題を抱えていると指摘しましたね。まさにそういう問題を念頭に、新政権が発足したのを機に、それらの問題を克服するため民族の団結、「中華民族」の復興を訴えた。それは新指導部の目玉です。演説の原文を読んで、その文脈の中で考えたら、排外主義なんて思いつきません。

高井 おそらく大西氏も読売の国際部長も、朝日の記事に煽られたんではないですか。朝日の記事は笑ってしまいましたね。どんな記事か。11月16日付の朝刊3面ですが、習氏が就任のお披露目演説で「およそ20分間。『民族』という言葉を16回使い、ナショナリズムを前面に打ち出した」とあって、見出しは「海洋権益重視演説で『民族』連呼 対日強硬路線を継続」と書いているんですね。演説を冷静に読めばわかりますが、習氏は、新指導部はまず民族に対して、次に人民に対して、最後に党に対して責任を負っていると述べた。海洋権益などどこにも出てこない。そして民族に対する責任では、近代の歴史の中で民族は苦難の道を歩んできたが、共産党の成立以後、民族は遅れた中国から繁栄する新しい中国へと歩んできた。われわれの責任は全国の各民族、人民を率いて、団結し、中華民族の偉大な復興を果たすことだと民族の団結を訴えた内容です。面白いのは同じ演説を、毎日新聞は習氏が「会見で『人民』19回、低姿勢のスタート」と見出しをつけて書いてます。この演説は誰が書いたのか知りませんが、ワンパターンの駄文ですね。「民族」「人民」「党」を連呼し、新政権がそれらへの忠誠を誓っているわけです。日本のメディアは、それをそれぞれ勝手に解釈して、強硬姿勢だの低姿勢だのと評価しているわけです。そういう浮かれた日本のメディアと一緒に、専門家も浮かれては困ります。「日本的価値フレーム」くらいで止まっていてくれたらいいのですが、野田政権以上のかたくなな政府が誕生して、反中を煽ったら、メディアは国民を戦争に駆り立てた「総動員フレーム」に転換するのではないかと危惧します。メディアが何らかのフレームを立てて取材、報道をするのはやむを得ないが、現場取材、事実取材に基づいて、そのフレームや自身のステレオタイプを見直す検証作業も行って、事実に寄り添う報道を心がけていることが大切ですね。

 
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