中国の論調・翻訳紹介    
     第04号 2020.11.15発行 〈目次へ〉   
    この島の問題は、本来大きな問題じゃない
 政争の具にはしてほしくないんです

『オキナワグラフ』2020年9月号 32~33頁
村田忠禧
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 中国海警局の船が尖閣近海を航行した、というニュースが連日報じられ、不安とともに浮かび上がるのは中国の意図に対する大きな疑問だ。中国共産党について詳しい村田忠禧名誉教授に解説してもらった。
 
 日本は「尖閣諸島は日本固有の領土である」と言いますが、いつこの島々を沖縄のものにしたのか、というと1895年1月の閣議決定です。沖縄県はその時に日本のものになったかというと、そうじゃない。1879年のいわゆる「琉球処分」です。琉球をつぶして沖縄県をつくり、日本のものになりましたが、その時には尖閣は含まれてはいないんですよ。なぜなら琉球の一部ではなかったから。
 
 まず「天保国絵図 琉球国 八重山島」(10p)を見てください。

 これは江戸時代に幕府が薩摩藩に命じて作らせた縮尺2万分の1くらいの非常に精密な地図です。何がどれだけ穫れるか、そこの石高を幕府が全国に命じて調べさせている。与那国は八重山諸島の一部ですから入れています。もしこの時に魚釣島、久場島、久米赤島(現在の大正島)が琉球国の一部であったら、絶対に入れるわけですよ。これが載っていないということは、江戸時代にはいま尖閣と呼んでいる島々が琉球のものではない、ということをみんな知っていたわけです。
 次は「三国通覧図説」(10p)。

 仙台藩士の林子平が天明5(1785)年に描いた地図で、琉球周辺の島々が描かれており、釣魚台、黄尾山、赤尾山と書いてあります。その島々は赤い色で塗られていて、福建省、浙江省、南京省などの中国の領土と同じ色になっている。彼は中国あるいは琉球の文献を調べて描いているわけですが、琉球の島々(黄色)と、いわゆる尖閣といわれている島々を色で分けているということは、当時の日本人は「この島々は中国のもの」と自覚していたわけです。
 
 最後に冊封使が琉球へ向かう時の記録(陳侃「使琉球録」)。
 福建省、福州から出発して「十日、南風が強く、舟は飛ぶ如くだが、流れに即しているのであまり揺れもしない。釣魚嶼を過ぎ、黄尾嶼(久場島)を過ぎ、赤嶼(久米赤島)を過ぎ、瞬きする暇もなく、一昼夜にして三日間の旅路を進んだ」と。次、ここが重要なんですが「夷舟(いしゅう)」、つまり琉球人たちの舟が水先案内をやってくれる。帆が小さいので追いつかず、後方にいる。十一日の夕方に古米山(久米島)が見えた、即ち琉球に属するものなり」と。「久米島は琉球のもの」と書いている。案内人たちは舟の上で歌い踊り、無事に中国の使節を案内できて故郷に戻れたことを喜んでいると。中国からの使節が書いた文章ですが、明らかに琉球の境は久米島であるという記録が残っている。中国政府はそういう歴史的経緯からいって、これは中国の領土だと言っているわけです。
 この島々は「ここまでが中国の領土」という目印なんですよ。無人島ですからそれ以上のものではない。沖縄の島々はサンゴ礁に囲まれているため、漁民たちが使う舟は小さく、沖縄トラフの深い海、強い流れの黒潮が天然の障壁になっていた。一方、台湾や福建省、浙江省の漁民にとっては、尖閣との間は大陸棚ですから簡単に行ける。漁の間にしけると避難する場所でもあったわけです。
 
 明治に入り、当時の沖縄県令であった西村捨三は昔の琉球と中国の関係をよく知っていた。山縣有朋はこの島を日本のものにしようと考えていたのですが、西村は「この島は清国と関係があるから大変な外交問題になる」と訴え、1885年の段階では中止するという指令を沖縄県に出した。しかし明治の半ばになると、アホウドリの羽毛がヨーロッパで高値取引されたため、小笠原や大東などの無人島で一捜千金を試みる人たちが増えてきた。尖閣の存在はすでに知られていたので、そこを沖縄県のものにしてほしいと。
 1890年、丸岡莞爾という沖縄県知事が「尖閣諸島を沖縄県の所轄にしてほしい」と内務省に要求したのですが、今は手を付けないと却下している。1893年には奈良原繁という沖縄県知事が「漁民たちが要求しているから沖縄県の管轄下に置いてほしい」と再度要求したところ、1894年12月に急に動いた。日清戦争で日本の圧勝が確定的になった時です。
 
 日清戦争は朝鮮半島を巡る日本と清国との争いです。それまでは清国を刺激してはいけないと、尖閣諸島を領有することをためらっていたのですが、もう懸念する必要はないということで閣議に諮り、l895年1月に「沖縄県の所轄にする」という決定を出しました。その時、国内外に「ここを自分たちの領土にしました」とは一切明らかにしていません。当時の日本は台湾と澎湖諸島を手に入れることが最大の関心事だったから、小さな無人島の編入問題で清国を刺激したくなかった。とりわけ列強に介入の口実を与えたくなかったわけです。中国では「窃取」、密かにかすめ取られたという認識です。
 
 1919年の年末、福建省の漁民が魚釣島に漂着し、同島で漁業を営んでいた古賀善次に救護されました。魚釣島を利用していることを中国側に知られたくない日本側は、報告書の中で古賀の名前を伏せ、魚釣島を「和洋島」という架空の島名にし、久米赤島の字名を急に「大正島」に変更しています。その報告に基づいて「和洋島」と書かれた感謝状が中華民国駐長崎領事から贈呈されており、これが「中国政府が尖閣を日本のものだと認めた証拠だ」というがそうじゃない。日本側は尖閣をこっそり領有したと認識しているわけで、その事実を中国側に知られてはまずいという立場なんです。
 日本は第二次世界大戦に負け、1945年のポツダム宣言は「カイロ宣言」の「満洲、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還する」という条文を受諾した。本来ならば台湾と同様、尖閣も中国に返すべきだったんですが、中国側も要求しなかったし、日本側も自分から返すとは言わなかった。実際にはアメリカが占領したわけです。その後これが問題になるのは1972年の沖縄返還の前後です。
 それまではお互いにこの島の存在を忘れていて、ほとんど問題にならなかった。それが60年代末に「この海域に石油が出るかもしれない」と聞いて、急にみんな騒ぎ出した。沖縄がアメリカから日本に復帰する際、尖閣も一緒に日本のものとされたわけですが、それに対して台湾と中国は反対した。アメリカは「施政権を返しただけで、領有権の問題は当事者同士で話し合いするべき」という中立の立場を取っています。アメリカが占領したのは1895年以降の大日本帝国の領土です。大日本帝国の沖縄県の中には尖閣が入っていましたが、沖縄県は1879年にできており、その時尖閣は沖縄県の一部ではありませんでしたから。標柱についても明治の閣議決定の時には何もせず、1969年に慌てて琉球政府が建て、その時も魚釣島と久場島だけで大正島には手をつけていなかった。
 
 最初は海底資源の問題で騒いだものの、石油は関係国とうまく調整しないと掘れない。むしろ、沖縄返還の際に魚釣島・久場島・大正島も日本のものになるということが大きな問題になったわけです。ただし、当時は周恩来も田中角栄も「この間題については取り上げない」と。この間題でお互い主張したら、国交の回復という大きな目標が実現できなくなるから棚上げにしたのです。
 1978年8月、日中平和友好条約が北京で調印され、10月末に郵小平が調印式に来日した時、尖閣問題について聞かれた彼は「この間題は日本と中国で立場が違う。あまりはっきり言いだしたら喧嘩になるから10年20年棚上げにしても構わない」と答えました。それよりも友好関係を充実させ、また信頼関係が深まればこの間題についても平和的な解決の方法が生まれるであろう。われわれの時代の人間は知恵が足りない。次の世代の人間はもっとうまく解決する知恵があるだろう、という言い方をして、将来の日中関係の改善、発展、友好協力というのが実現できることを期待したわけです。
 日本政府も中国の改革開放政策を支援するようになり、1979年1月にはアメリカが中国との国交を樹立した。日本の企業も80年代に中国にどんどん進出していった。中国はだんだん世界の工場になっていったのですが、その途中から日中関係は発展しなくなった。
 歴史問題や靖国参拝、領土問題についての考え方の違いで。かつての日本の指導者には戦争に対する反省がありましたが、のちの指導者にはそういう面が少なく、特に尖閣問題を利用して中国の脅威を煽る論調が強まっています。
 沖縄の人は、琉球の時代から中国との関係は非常に親密だったわけです。そんな沖縄の人々の気持ちを変える手段として、私はこの島の問題が利用されていると思っている。中国も日本警戒論みたいな意識を国民に持たせるつもりもあるかもしれないけれど、基本的には日本との関係を大事にしています。日本はあまりにもアメリカに依存しすぎて、自国の考え方が出せない。その点で私は、琉球国の知恵をもっと考えるべきだと思います。琉球は当時、巨大な国だった中国とうまく関係を持ちながら、日本ともうまく関係を持っていた。だからあの王朝は長く安定的に反映できたと思うんです。
 
 村田忠禧の補注 5枚の図のうち、後ろの2枚は『オキナワグラフ』には掲載されていない。村田の追加したもの。
 4枚目は1885(明治18)年12月5日に山県有朋内務卿が三条実美太政大臣に「魚釣島ほか二島に国標を建設する件は、清国に関わることなので、目下のところ見合わせたほうがよい」として、自ら持ち出した領有案を否定したもの。
 5枚目は1920(民国9)年5月20日に中華民国駐長崎領事が福建省の漁民が遭難し、魚釣島で漁業を営んでいた古賀善次などに救護されたことに贈った感謝状。「魚釣島」とは書かず、架空の「和洋島」という名称を用いている。この救難事件が発生した当初、川越壮介沖縄県知事は「和平島」という通称を用いていたが、途中から「和洋島」に変更し、中国側にも「和洋島」として通知したのである。なぜそのような小細工をしたのであろうか。