2007.1.3   1.14更新
写真:竹内実
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竹内易断

平成十九年を占う

竹内 実
(京都大学名誉教授)

写真:陰陽の護符
陰陽の護符
 
   
丁亥 かのとい 平成十九年 二〇〇七年
 

                         ◇      ◇     ◇

 さくねん(平成十八年。本稿執筆の現在はまだことしであるが)は「戌」(じゅつ)、いぬどしで、漢代の辞書『説文』(せつもん)の字解では「滅」(めつ)、ほろぶ、だった。
 わたしとしては半信半疑だったが、そのうちホリエモン・ライブドア社長の逮捕が伝えられ、時代の寵児もここにおわったのかとおもった。
 ところがさらに自民党との関係が疑惑のマトになり、民主党が国会で追及するという事態に発展した。いよいよ自民党も「滅」かとおもっていると、逆に民主党の旗色がわるくなった。
 自分ではそれほど信じてはいなかったにもかかわらず、『説文』(せつもん)にでてきた「滅」の字にふりまわされて、わたしは一喜一憂した。

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 きたる一年、平成十九年、2007年はどういうとしになるだろうか。

「丁亥」(ていがい。かのと い)

 まず十二支の亥について説明しよう。
 『説文』によると、これは「荄」で、くさかんむりのついた「亥」である。草の根、あるいは根(ね)のことである。
 そして、そもそもの「亥」は「男と女」だという。なるほど「部首1」と「人」がくみあわされている。
 「部首1」は「人」に「部首2」がついたかたちで、二人の「人」から構成され、その一人には「部首3」がつく。「部首3」は子どもをつつんだかたちで、その子どもは「咳(せき)」をしている。ここで「咳」がでてきたのは「咳」の字が「口(くち)へん」だからだろう。
 『説文』にはさらにつぎのような説明がある。
 『左伝(さでん)』に曰(いわ)く、「亥に二首六身あり」と。
 これは、「亥」というじのカンムリは「二」ツクリは「六」、ということが『左伝』という書物にはある、とのべているのである。
 『左伝』というのは『春秋(しゅんじゅう)左氏伝(さしでん)』のことである。『春秋』というのは魯(ろ)の国で書きつがれてきた歴史で、文章が簡単なので、のちに注釈が書かれた。その一つが『左氏伝』というわけである。ほかに『穀梁(こくりょう)伝』、『公羊(くよう)伝』というのもある。
 この説明は占(うらな)いには直接の関係がないから、こういう説明があるという程度にやめておこう。

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 さて、『説文』によれば「亥」の字は「男」と「女」がくみあわされているということである。
 「男」を陽(よう)、すなわち「+(プラス)」とし、「女」を陰(いん)、すなわち「-(マイナス)」とすると、プラスとマイナスが共存していることになる。
 陰陽共存、めでたいこととめでたくないことが半々だ、「吉」もあれば「凶」もある、「めでたくもあり、めでたくもなし」ということだろうか。
 本稿執筆中、テレビで自民党の政調会長が日銀の利上げに反対をとなえていた。景気回復も見方が半々である。
(1月14日夜補記)

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 そこで「亥」どしの運勢は、好運と、好運といえない運に、みまわれる。
 曖昧(あいまい)な運勢であるが、当(あた)っているかもしれない。
 いまの日本の政権、安倍晋三(あべ しんぞう)政権はまさに「あいまい」である。
 さらに、われわれに関心のある日中関係があいまいである。
 首相就任そうそう、安倍首相は中国・韓国を訪問するという意外な行動にでた。そして中国の胡錦涛(こ きんとう)政権の歓迎をうけた。
 これは成果だったとおもう。その成果のうえにたって、「六カ国協議」再開のため、北朝鮮にたいする中国の積極的なはたらきかけを日本は要望したのだった。中国との関係を修復しておいてよかったと感じさせた。
 「六カ国協議」がつづくあいだは、日中関係には対立する問題は、もちこまれないだろう。しかし、北朝鮮の問題が片づけば、日本と中国は正面からむきあうことになり、あいまいな雰囲気はなくなるのではないか。
 とはいえ、まだしばらくは北朝鮮問題に解決はみえないから、日本と中国の目下のような「協力」はつづく。
 日中関係の基本は中国の一部の学者が提案する「対日新思考」が基本だろうとおもう。
 日本からこれをこわすようなうごきがはじまらないことを期待したい。

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 つづいて十干(じゅっかん)の「丁」(てい。かのと)であるが、『説文』には「夏のとき、万物みな丁実(ていじつ)」とある。
 「丁実」は、強大、壮健をあらわす。
 そこで、「丁」と「亥」を綜合すれば、らいねんの運勢は上昇的で、堅実なあゆみをするだろう。
 あまり心配しなくてもよい、ということになる。
 ただし、「亥」が男と女から成立しているように、プラス要素とならんでマイナス要素もはたらく。

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 ここで、用語について説明しよう。

□十干十二支・五行
 干支(えと)は十干十二支をくみあわせると、六十種類のくみあわせができる。
[十干](じゅっかん)というのは、
 甲(こう)乙(おつ)丙(へい)丁(てい)戊(ぼ)己(き)庚(こう)辛(しん)壬(じん)癸(き)
[十二支](じゅうにし)というのは、
 子(ね)丑(うし)寅(とら)卯(う)辰(たつ)巳(み)午(うま)未(ひつじ)申(さる)酉(とり)戌(いぬ)亥(い)
 十干と十二支の最初の組合せは「甲子」(こうし)である。それで干支(えと)のことを「六十甲子」ともいう。
 十干は六回、十二支は五回、それぞれ循環して六十の組合せをつくる。
 それで満六十歳になると、つぎのとしから新しく干支(えと)のくみあわせがはじまるから、「還暦」(かんれき)といい、ほめて「華(花)甲」(かこう)といったりする。「華」はりっぱ、という意味である。
 としを干支であらわすのは、後漢のときからだという。章帝元和二年(西暦85年)に「四分暦」というのが公布され、そのときから清朝がおわるまでつづいた。
 伝説によれば、黄帝(こうてい)という最古の帝王の史官(歴史を記録する役人)が干支を発明した。
 さいきんの計算では、紀元前2517年が、干支でいちばん最初の「甲子のとし」だという。ただし、どのような根拠か、わからない。(呉慧穎『中国数文化』211頁。岳麓書社1996年5月刊)
 この六十の干支にはそれぞれ神、歳星(さいせい)がいて、一月八日が、祭る日になっている。めいめいの誕生したとしの神であるから、ていねいに祭れば倖(しあわ)せになれるという。北京の道教の寺院「白雲歓」(はくうんかん)にはずらりと歳星の神を祀ったお堂があった。壮観だった。
 日本ではさらに「十干」のよびかたに「五行」(ごぎょう)の概念がとりいれられている。

□[五行](ごぎょう)
 森羅万象(しんらばんしょう)この世に存在するあらゆるモノは五つの要素から成立しているという考え方である。
  木・火・土・金・水
 つづけてよむと「もっか、どこんすい」。
 日本の大学で講義したさい、「金」をなぜ「ゴン」とよむのですかと、質問されたことがある。漢字には一つの訓み方ばかりでなく、いろいろなよみ方がある。おそらくその学生は「金曜日」とか、「税金」とか、「キン」のよみは知っていたのだろう。
 さいきん気がついたことであるが、日本語を学んだ中国人留学生は、いわゆる「漢字の熟語」が苦手(にがて)である。「四面楚歌」(しめん そか)とか、「臥薪嘗胆」(がしん しょうたん)とか、パッとみただけでわかるから日本の漢字音は記憶にのこらないようである。ある用件で北京に電話したところ、「カイギチュウです」という返事だった。一時間ほどして、また電話してもいないということなので、たずねてみると「ガイシュツチュウ」だった。きれいな発音の日本語だったから、こちらもうっかりした。
 さて、「五行」を十干に配当するさい、「兄」(え)と「弟」(と)にわけてよぶ。

きのえきのとひのえひのとつちのえつちのとかのえかのとみずのえみずのと


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 じつは、蒼蒼社社主にしてこの21世紀中国総研の事務局長・中村公省氏から催促をうけて、急遽(きゅうきょ)本稿のペンをとったしだいなのである。
 としがあけて、あらたまった気分で『説文』をひらくと、文字がつぎつぎに眼にとびこんでくる。としがあけないと、平板な文字がならんでいるようにみえる。
 しかし、来年、平成十九年については、わたしはいくらか気がかりな案件あがあり、はやめに『説文』をひらいてよかったと、おもう。
 気がかりなのは、日中関係である。すでにしるしたから重複するが、「対日新思考」が胡錦涛(こ きんとう)政権の対日外交の基調となるだろうと、わたしは予測している。「対日新思考」に対応する日本側の「対中新思考」も重要で、これが安倍政権によって、どのように提示されるか、いまのところみえてこないのが気がかりである。
 中国ナショナリズム(民族主義)と日本ナショナリズム(国家主義)の衝突という事態を孕(はら)んでいはしないかとおそれているのである。

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□中国のナショナリズムと日本のナショナリズム
 さいきん銭其深(チエン・チイシエン)という、元中国外交部長の回想『外交十紀』の日本語訳を読んだ。来春には東洋書院から出版され、そのあかつきには議論の的(まと)になるかもしれないが、わたしは銭氏の冷静な国際情勢にたいする見方に敬服しながら読んだ。とくに、ベトナムがカンボヂアに出兵したあたりは、中国による対ベトナム戦争についてわたしのもっていた疑問を、かなり解いてくれた。
 もう十年あまりまえ、わたしは北京のある学術機関に赴任することになり、その直前にある会社にあいさつにいった。
 「温泉」で一杯やることになっているから、参加しないかと社長が誘ってくれたので、ノコノコついていったのが、失敗だった。
 ビールで乾杯すると、たまたま隣の紳士が「中国にいったら、文句をいえ」という意味のことをいった。その趣旨は中国のさいきんの対日言論が眼にあまるということのようだった(と、わたしは理解した)。わたしは「べつに日本国を代表して北京にゆくわけではない」と答えた。気にいらなかったのか、その紳士は激昂して、「おまえさんが死んでも葬式にきてくれるひとはいないぞ」とわたしを非難した。
 いずれは死ぬだろうとはおもっていても、葬式のことまで考えたことはなかったから、わたしは答えるコトバがなかった。この会話はお互いに低い声だったから、ほかの友人にはきこえなかった。
 しかし、北京にいって、二、三カ月すると、ある教師(日本から出張して中国人学生を教えていた)が、「このごろの中国のテレビなどは眼にあまる。批判の手紙を書いたがこれを先方に提出してもいいか」とわたしに質問してきた。
 わたしは反対する権限はないから、「どうぞ」というと、その教師は「竹内先生の許可をえたので、・・・というまえおきをつけて、出しました」とあとでわたしに報告した。読むひとによっては、わたしがその教師をそそのかしたとうけとるかもしれないとおもったが、「そうですか」と答えるにとどめた。
 いま考えると、北京に赴任した翌1995年(平成七年)は抗日戦争勝利50周年だった。中国の新聞の論調もテレビの番組も「抗日」いってんばりだったのである。
 中国のいいかたはスローガンの二本立てで「世界人民反ファシズム戦争勝利五〇周年」と「中国人民抗日戦争勝利五〇周年」と二つならべていた。「反ファシズム戦争」というのは第二次世界大戦のことで、「日独伊防共協定」によってたたかった日本は「ファシズム国家」というわけだった。
日本にいたとき、まいにち中国の新聞を読んでいたわけではなかったから、そういう空気(ナショナリズムの高揚)はべつに感じなかったし、北京でテレビをみて、その「抗日」一色には気がついたけれども、わざわざこれについての見解を先方にいうことまでは思いつかなかった。
 手紙を書いたその先生は、たぶん「日中関係史学会」宛にだしたのだろうとおもうが、「文句をいえ」とわたしに迫った紳士は中国のどのような機関を想定していたのか、そのとき質問しておけばよかった。
 わたしは、当時の中国(あるいは北京)にナショナリズムが高揚していた情勢はあったとおもうが、このやりとりをいま思いだすと、
(1)わたしはよっぽど鈍感だったのだな、とおもうとともに、
(2)日本人は中国のナショナリズムにひどく敏感なのだな、とおもう。贖罪はいけない、土下座外交はいけないというのも、一種のナショナリズムだろう。
(3)その根底には(無意識だろうが)中国にたいする畏怖があるのではないか。
 日中関係の将来にとって、この(3)のモンダイも重要だろうとおもう。
 銭其深の『外交十紀』に竹下首相が、日中戦争に言及して、「将来の歴史家が判断することだ」と発言して日本、中国から批判され、訂正するいきさつがくわしくのべられている。ついさきごろ、安倍首相も国会の答弁だったかで「(日本の国内法では)戦争犯罪人はいない」とのべていた。
 いっぽうわたしは、読売新聞社・戦争責任検証委員会『検証 戦争責任(第Ⅰ部・第Ⅱ部)』も読みつつあったから、わたしのアタマのなかは、ワインとショーチューを飲みあわせたように、いろいろな想いがまとまらない状態だった。
 『戦争責任』第Ⅱ部第6章は「「昭和戦争」の責任を総括する」で戦争の各時期を区分し、「責任の重い人物」の名をあげている。
 それで、らいねんの運勢を考えるアタマの片隅では、こうした議論がどのように、展開するだろうかという想定も、あったのである。

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 『説文』は漢代(後漢)の許慎(きょしん)の編纂した辞書である。くわしくは『説文解字』(せつもん かいじ)という。
 これには、9353字おさめるが、あわせて異なる字体の1163字もおさめている。
 見出(みだ)しの文字は、秦の始皇帝が全国を統一したあと、字体も統一制定したというその文字で、それまでは分裂割拠していた各国でばらばらだった。
 始皇帝が統一制定してはじめた字体を「小篆」(しょう てん)という。もともと秦の領域で使われていた字体は「大篆」(だい てん)といい、「小篆」はこれを簡略にしたものだった。
 「小篆」は「大篆」より簡略になったが、これをさらに簡略にしたのが、「隷書」(れいしょ)である。「隷書」は「小篆」より便利なので、すでに始皇帝の時代にかなり使われていたが、公式には「小篆」だった。
 許慎は『説文』を著作するにあたり、見出しには「小篆」をかかげ、解説は「隷書」でしたためたのだろうが、後漢の時代の『説文』は残っていない。
 いまみることのできる『説文』は宋代のもので、見出しは「小篆」、解説はいまわれわれが使っている「楷書」(かいしょ)という字体である。

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 上のほうで「北京に赴任した」としるしたが、北京には1年半、滞在した。いったん日本に帰り、その年の秋に、杭州に半年、滞在した。この間に執筆した文章は『中国 国情と世相』研文出版、1999年12月刊((03)3261-9337)にまとめた。
 ぱらぱらとめくってみると、上にしるした「温泉」での問答についても、しるしていた(149ページ)。上にしるしたのより、かなり柔らかい表現でしるしているが、わたしの記憶のなかで、わたしを叱咤(しった)した紳士のコトバはしだいに鋭(するど)くなったのだろうか。
 中国を研究、紹介していると、いつのまにか中国代表のようにみられる。中国に文句をいえずに、わたしに文句をいう。
 せんじつも、ある留学生が、あるシンポジウムにでて、そのあとの懇親会に出席したところ、「南京大虐殺三〇万人というのは多すぎる」とくいさがるひとがいて閉口(へいこう)したと、あとでわたしに語った。そのひとにしてみれば、いちどは文句を「中国」にいいたかったのだろう。
 わたしもこれと似た経験をしたことがある。あるとき、とあるサウナに入ったところ、たまたまそれほど親しいというのでない友人も、きていて、わたしをみるなり近づいてきて、わたしをののしったのだった。
 さたしはボーゼン(呆然)となって、どういうコトバだったか、覚えていないが、「オマエは毛沢東を褒めてけしからん、えらいメイワクをした」という趣旨だった。
 拙著(武田泰淳氏と共著)『毛沢東 その詩と人生』(文芸春秋 1965年4月刊)を愛読してくれたのだな、と反射的におもった。
 これを出版した翌年に、文化大革命が発生している。そのひとは、たぶん文化大革命で、なにかイヤな思いをしたのだろう。わたしをののしると、アッ思うまに、サウナからでていってしまった。
 いまだにどういう経緯があって、わたしに怒りをぶつけたのかわからない。
 『毛沢東 その詩と人生』の執筆にとりかかったとき、すでに日本では毛沢東にたいする批判めいた批評がぼつぼつとみられた。執筆にあたって、わたしは文学者としてのかれを描こうと決心したのだった。
 文化大革命はいうならば政治の世界のできごとである。わたしはその人物がわたしをののしったことは心外だった。しかし、毛沢東における「政治」と「文学」をハッキリ分けて執筆したとはどこにも書かなかったから、読者は政治家毛沢東と文学者毛沢東を区別することはできなかっただろう。
 ここにのべたこと(わたしが面罵されたこと)と、来年の運勢は、もともと関係がないことである。
 日本と中国のナショナリズムの衝突を心配するあまり、以前に発生した「中国ナショナリズム」についての、日本の知識人の反応を想起し、たまたまわたしが体験した小さなできごとを記したまでである。
(平成18年12月26日)