2010.12.28
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竹内易断

平成二十三年を占う

竹内 実
(京都大学名誉教授)

写真:陰陽の護符
陰陽の護符
 


干支(えと)による新年占い




 新年がやって来るので例年の「易断」をよろしくというFAXが蒼蒼社社主の中村公省氏からはいった。なるほど、新年が迫っていると気がついた。
 世間(せけん)は物情騒然(ぶつじょう そうぜん)、いちいちあげてもキリがないが、殺伐(さつばつ)とした気配(けはい)である。なんとなくそうした世間と離れたい気もちが心のどこかにあって、「正月」を忘れさせていたのかもしれない。



 
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 平成二十三年、「干支」(えと)でいうと辛卯(かのと う)、すなわちウサギのとしである。西暦2011年。
 なぜ「辛」を「かのと」と訓(よ)むのかというと、「辛」は「五行」(ごぎょう)の「金」(かね)に属し、「辛」が弟で、「辛」のまえの「庚」(漢字音 コウ)が兄、兄は「え」弟は「と」だから、かのえ―かのと、ということになるのである。
 「五行」は「宇宙の五つの要素、木火土金水(もっかどごんすい)」をとりだしたもので、これはこれで一つの循環(じゅんかん)を形成している。
 「十干」(じゅっかん)は10種類あるから、「五行」に帰属させると、兄と弟に分けざるをえないのである。
 「卯」は「十二支」の体系の4番目で、漢字音は「ボウ」。「う」は和訓である。ふつう「干支」(えと)で呼ぶときだけしか「う」といわないから、わたしは漢字音だと誤解していた。
 「十干」と「十二支」を組合せると60通(とお)りの組合せができる。それで年号と数字の組合せでは味気(あじけ)ないので、「干支」で、年をあらわす。
 「年号」の元年は「年号」を見ただけではわからない。平成元年が1989年だと即答できるひとはまずいないだろう。
 日本の新聞のなかには、新聞の日付(ひづ)けから年号を消したものもある。二重の年代表記は便利な面もあるが、わずらわしいこともある。
 《説文》による易断も、あと10年つづくかどうか。


 
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◇説文という字書


 文字はそれぞれ独立した意味と読み方をもっている。それらの字をまとめて、意味や読み方がわかるようにしたのが字書である。 
 古い字書としてあげられるのが『説文解字』(せつもんかいじ)で、後漢のときできた(漢は前漢と後漢に分かれ、それぞれ前202-前8、25-220。途中、王莽(おうもう)の新9-23)前後漢あわせて約四百年つづいた。
 『説文解字』(略称して以下『説文』)については、この「易断」の末尾でのべるが、いちおうの「十干、十二支」の解釈としては、この『説文』のひとつひとつの解釈によることとする。


◇《説文》の現代語訳

《説文》の現代語訳としてはつぎの〈現代中国語訳〉によった。
  《説文解字今釈》(上、中、下)
     訳=湯可敬
     岳麓書社 1997年7月



 
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◇《説文》辛卯の箇条の訓(よ)み


     
   《説文》の原文:(句読点(くとうてん)は湯可敬による)
秋時万物而生孰;金剛;味辛,辛痛即泣出。従一従辛, 辛,辠也。辛承庚,象人股。凡辛之属皆従辛。息鄰切(xīn)。
 《説文》訳文(湯可敬による訳。ただし日本語の訳文は竹内)
辛,(秋の季節をあらわす)秋は万物が成熟する[原文の孰は熟の意―竹内 注];金質[金属でかたい―竹内]で剛硬(また辛味(からい味)をあらわす);味がピリから[原文:辛竦]であって、辛竦だとがまんできず涙をながす。(文字は)一との合体した意味[原文:会意]、は罪悪の意味。辛は庚の次にあって人のふとももにかたどる。すべて辛の部は辛に従う。


 [注釈]―湯可敬による
秋の字句:古代の「五行」説では庚と辛は西方で秋にあたり、金や、からい味をあらわした。許慎は辛は秋をあらわし、このときは万物が成熟する。辛はまた金をあらわし、金は剛堅である。辛は辛(からい味)をあらわし、辛を口(くち)にいれると痛くて涙が出る。金属の刑具でいためつけられると、痛くて涙が出る。それで辛は一に従いに従う。というが、この説はまちがっている。
[参考]―湯による(日本語訳文は要約)

甲骨文は   金文は    。郭沫若はむかしの曲刀だという。古代の刑具で両方に刃(やいば)があり、人の鼻やひたいを刺すのに用いた。
 


 
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   《説文》の原文:(句読点(くとうてん)は湯可敬による。ここにかかげた は原著《説文》は改行)―
冒也。二月,万物冒地而出。象開門之形。故二月為天門。凡卯之属皆従卯。  ,古文卯。莫飽切(máo)
  《説文》訳文―(湯可敬による訳。ただし日本語の訳文は竹内)
卯は陽気が地中からあたまを出し出現すること。(卯は)二月をあらわす。
このときは万物が地面をつきやぶって生えてくる。(卯)は二枚の門扉が背中をむけてひらいているありさま。それで二月は天門ともいう。すべて卯の属は卯に従う。 は古文の卯の字。


 [注釈]―湯による
冒と解釈するのは《釈名》に卯は冒とあるからである。
土をあたまにかぶってあらわれるのである。陽気が(土表に)至って地面から出る。二月はむかし卯月といった。開門というのは門のトビラが両方とも開いていること。門は閉じればトビラが向かいあうが、 のように開けば背をみせる。



 


 
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◇《説文》についての説明(竹内)

 以上にかかげたのは《説文》の字書としての説明である。《説文》が作られた漢王朝は農業を主としていた。作物の生育が気になった。農業は天候に左右される。
 それで季節のうつり変わりに留意せざるをえず、字書の文字の説明にもそれが反映されている。
 ではこうした農業中心の思想は工業を中心とする現代社会には無用なものだろうか?
 そうだといえるし、そうでないともいえる。
 いまさらいうまでもないが、われわれの国は工業製品の輸出にたよらざるをえない。輸出する産業からいえば関税撤廃(てっぱい)が望ましいが、自由貿易を推進すれば、日本農業は壊滅的な打撃をうけるだろう。農家にたいする補助金を支給する制度も限界があるだろう。そのとき人間の心はどのような方向に向うか?
 おもえば古代の人は季節と大地に注意を向けていた。単純といえば単純であるが、しかし不可抗力におそわれていた。古代は古代なりに深刻な問題をかかえていたのである。その緊張感が占いの予言にもみとめられる。
 以下は「干支」を総合しての解釈である。


 
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「辛卯」(かのと う)どしの運勢

 さて、いよいよ「干支」(えと)による占(うらな)いである。
 占いは平成二十三年について、どう告げているか?
 「卯」は二月。旧暦では早春。万物が生気溌剌(はつらつ)として地上に出現する、という。
 これ以上の予兆(よちょう)はありえないと思うほど、占(うらな)いの予言は、楽観的である。
 農業社会にあって、ことし一年の収穫を期待する気分が占(うらな)いにも反映しているといえよう。
 しかし、これらの予兆は、辛も卯も地面をつき破ってあたまを出すことが前提なのだ。そして地面はあいかわらず固い。この固い地面を下から突破する「陽気」はうたわれてはいるが、それを保証する兆(きざし)については言及されていないのである。
 このような状況にたいして、精神的な訓話をおこなっても、訓話は空中分解するほかはない。
 しかし、にもかかわらず、この八方(はっぽう)ふさがりの現状は事実である。事実であるだけにこの現実は力(ちから)がある。
 現実が否定的・暗黒的・閉塞(へいそく)的であるのは、それにたち向かう人間の現状打破の志(こころざし)を刺激(しげき)する。
 古代の易(えき)にあっては、「乾」(けん)の卦けはむしろ嫌(きら)われる。すべてが陽であれば、つぎには陽が減少するのである。
 これに反して、すべてが陰(いん)であれば、やがては「一陽来福」(いちよう らいふく)で、ただ一つの陽の出現が重大な意味をもつ。その陽の出現は将来の希望になる。
 ――いまや「一陽来復」を期待すべきだ。
 ――いまや「一陽来復」が約束されている。
といいたいが、そうはいえないのが現状である。
 この現状(約束も期待もできない現実)を確固(かっこ)たるものとして認(みと)めることができるか否かが、問われているのである。
 2011年の「春節」、すなわち旧暦元旦は平成二十三年二月三日で、その翌日に「立春」がくる。
 ややちぐはぐな年のはじめと季節の変りめであるが、静かな気分で迎えたい。


 
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《説文》の話

 《説文》は略称で正式には《説文解字》という。三十巻、後漢の許慎(きょしん)というひとの著作である。
 許慎の字(あざな)は叔重(しゅくちょう)、汝南召陵(しょうりょう)(河南省郾城(えんじょう)県の東)のひと。生年54~58ごろ;死去147~149。
 若いときから評判がよく、古典にも通じ「五経無双許叔重」といわれた。《説文解字》のほかにも《五経異義》、《准南鴻烈解詁》などをあらわしたが散逸して残っていない。
 《説文解字》の創稿は和帝永元十二年(100)、安帝建光元年(121)9月にその子沖進によって献上された。創稿から22年たっていた。 
 書物になってから数百年のあいだに転々と伝写され誤りも多かった。宋の太宗が雍煕三年(986)徐鉉らに命じて校定、国子監から出版され、世間にひろまった。徐鉉と弟の鍇は《説文繋伝》を作った。

《説文解字》

 《説文解字》+《後叙》1~14巻、第十五巻は叙目、各巻上下に分けじっさいは30巻、540の部首、あわせて9,353字、重文1,163字、解説のある字は133,441字、小篆を基準とし、古文、籀文などの異体字も収めた。
 定稿は安帝・建光元年(121)。子の許冲が安帝に献上した。
 その後、《説文》は筆写によって伝わり、清朝のある学者の統計によると、正文9,431字、重文1,279字、説明のある字は122,699字あった。
 げんざい一般に利用されているのは宋の太宗が徐鉉(徐鍇の兄)が校定した、いわゆる大徐本をもとに木版に刻(ほ)り、国子監から刊行したもので、原稿は雍煕三年(986)に完成、発音は唐時代のもの。新しく402字を加えた。見出しの字体は小篆である。
《説文解字今釈》はこれを原本に現代語訳(中国語)されている。


 
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易  断  蛇  足
 

 以上、平成二十三年の予測を試みたが、〈辛〉、〈卯〉についての解字だけではもの足りない感じを抱かれた読者もあろう。
 浅草の羽子板市のニュースを見ていると、お客さんが買いあげるたびに、お店のひとが手拍子(てびょうし)を打って景気をつけている。
 占(うらな)いが「吉」(きち)を予言するとはかぎらないから、手拍子ではやしたてるのがサマになるとはかぎらないが、この占いもわずかながら興味をもって下さる読者もふえつつあるので、〈こぼればなし〉を記してみよう。
 といってもかくべつ変った話をするわけではなく《説文》が意外と〈人間〉(にんげん)に目をつけていることを記したい。
 わたしの旧著でこの〈はなし〉を紹介しているので、すでにお読みいただいた方もおられよう。
 同じ(はなし)をくりかえすようであるが、少しは以前よりちがっているかもしれない(あるいは、旧態(きゅうたい)依然(いぜん)たるものかもしれないが、お許しを乞(こ)う)。
 《説文》の見出しの文字に〈人〉(ひと)があるが、これが〈ひとり〉〈ふたり〉〈さんにん〉とふえるにしたがって、意味が変るのである。

 〈人〉がひとりのときは、天上天下(てんじょう てんか)独立した〈ニンゲン〉であることを高らかに宣言する。
 そこに見える〈人間宣言〉ともいうべき解説は感動的である。

  天地之性最貴者也。此籀文。象臂脛之形。凡人之属皆従人。如鄰切(ren)。


 以上、句読点を打ったが、これを読むさい訓読(くんどく)という漢文(かんぶん)らしい読み方がある。

◇<訓読>の訓(よ)み

 天地の性(さが)にして、もっとも貴(とおとき)ものなり。これは籀文(ちゅうぶん)。臂(ひじ)や脛(すね)のかたちにかたどる。およそ人(ひと)に属するものはすべて「人」(ひと)にかたどる。如(ジョ)鄰(リン)の切(セツ)[如のあたまの子音zhと鄰のおわりの韻(いん)をくみあわせ、ジンと発音する。

◇[《説文》の解説の中国語訳]―湯による―日本語訳は竹内

 人は天地のあいだのいきもののなかでもっとも尊(とおと)いものである。これは籀文(ちゅうぶん)である。腕のひじやふともものすねのかたちをかたどった字形である。

字形の解釈
 〈人〉という字は始皇帝が天下を統一したとき、字形も整理し、新しい字形は篆(てん)文(ぶん)が、古い字形の字も残された。 は人体のひじやすねのかたちを字にしたもので、ひとを側面から見たすがたである。


 これが2人になると〈人人〉である。
 〈人人〉の《説文》の解説は、つぎのとおりである。

◇《説文》原文[句読点をつけて引用した]

 相聴也。従二人也。凡従之属皆従従。疫容切(cōng)。

◇[訓読]の読み:

 相(あ)い聴(き)くなり。二人の人がつれだち従う。およそ従の属は皆(すべて)従に従う。疫容切。

◇字形からの解釈
 人が二人になると、命令する人と命令にしたがう人に分かれるという人間関係である。二人という字 がこういう人間関係だと見るところに古代人の社会観、人間観が見られる。
 さらにこの人間がもうひとりふえるとどういうことになるだろうか?







◇3人の人間関係

 「人」を三つ集めた文字はたんに3人を示すのではなく、3人以上を示すのである。
 数(かず)についての習慣は各民族によって異なるものがあるのである。

◇《説文》の3人(众)の原文

 衆立也。従三人。凡 之属皆従 。読若欽崟。魯音切(yín)。

◇[訓読]の読み:

 衆(しゅう)が立つ也。三人に従う。凡(およそ) の属は皆 に従う。欽崟の若(ごとく)読む。

◇[訳文]―湯による(日本語訳=竹内)

 おおぜいのひとがならんで立つ。三つの「人」の字がならんでいる。およそ に属するものは につくる。発音は「欽崟」の「崟」のように読む。

 古代の政治は民衆をどのように治めるかが課題だった。民衆は多数で、3人以上になると、どのようにうごくか、分からないものがあったのである。

(平成22年12月21日 夜 記)