中国を読み解く本・毀誉褒貶
[10] 2005.5.30
(中村公省/21世紀中国総研事務局長)
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『中国キリスト教布教史』

マッテーオ・リッチ著  川名公平、矢沢利彦、平川裕弘訳

(大航海時代叢書8,9、岩波書店、1982年)


 1. 利瑪竇、ことマテオ・リッチ

 フランシスコ・ザビエル(1506-1552年)、スパール・ダ・クルス(?-1570年)たちカトリックの宣教師は日本についでシナ布教を目指したが、明の海禁政策は堅く入国することすらかなわなかった。しかし、この野望をついに実現させた宣教師がいた。利瑪竇(りまとう)、ことマテオ・リッチである。彼は、ポルトガル商人の基地・マカオから入って広東省肇慶に定住の地を得て、北上し韶州、南昌、南京を経て、北京の紫禁城に参内して永住の許可を得た。在華30年にして、北京で死去し、墓地を大柵欄に賜った。
 マテオ・リッチは、日本の高校生には大航海時代のアジアを中心においた「世界地図」の作者として、中国研究学徒には「中国学Sinlogyの鼻祖」として知られているが、利瑪竇については中国の百科辞書『辞海』に次のようにある。
 利瑪竇(Matteo Ricci, 1552-1610) 明末に中国に来た天主教〔カトリック教〕耶蘇会〔イエズス会〕の宣教師。字は西泰。イタリア人。万暦10年(1582年)中国に派遣される。〔広東省〕肇慶で伝道をはじめ、のち中国耶蘇会会長。29年(1601年)北京に至り、自鳴鐘〔時計〕、「乾輿万国全図」〔世界地図〕などを進呈、士大夫と交際する。孔孟の道、宗法敬祖思想*と天主教との融合を主張する。四書五経を研究し、ラテン語翻訳・注解をする。また、中国に西方の自然科学知識を紹介する。著作に『幾何学原本』(徐光啓との共訳)、『天文実義』などがある。
 ここで中国側の人物評価として、マテオ・リッチ自身が目的とした中国へのキリスト教の布教ではなく、その手段とした機械時計や世界地図の渡来、自然科学知識の紹介、そして儒教へのキリスト教の融合が積極的に評価されていることに、まず注目しておきたい。本書『中国キリスト教布教史』の原題は「中国へのキリスト教の導入の歴史」であるが、評者の興味も中国人の魂をカトリックに改宗させるという営みにはなく、それでもなお中国人の圧倒的多数はキリスト教に帰依せず、ごく少数のものが信じたデウスも儒教の天と混洧した天主であったという事実のほうにある。

  *宗法敬祖思想:祖宗廟の祭祀、一定期間の服喪、同宗不婚、共同饗餐の四事を行う思想。


リッチと徐光啓を描いた銅版画(17世紀初)
(財)東洋文庫所蔵 : 本書口絵より


 2. 明末の東西比較文化論

 本書は、マテオ・リッチ晩年のイエズス会への報告書の一部であり、ヨーロッパのキリスト教宣教師に対して、中国がどのような国で、マテオ・リッチがここにいかにして入国し、布教していったかの歴史をつづった、中国イエズス会布教ガイドブックといっていい。構成は全部で五つの書からなるが、第一の書は、特異で全体の序を兼ねていて、中国がどのような国かを簡潔に紹介した中国事情書である。第二の書以下はマテオ・リッチがいかにして布教して行ったかを回顧したもので、処女地への種まき人の苦労が語られている。
 前回に紹介したガスパール・ダ・クルス『中国誌』と好対照をなすのが第一の書である。いや、むしろマテオ・リッチは自信満々あからさまにガスパール・ダ・クルス『中国誌』をけなすところから本書を書き始めているのである。
 「まったくろくな知識を持たない人から口伝えで知識を得たような人々にそれを聞くよりも、わたしたちに聞く方が望ましいという点には誰も異存があるまい。なぜならばわたしたちはいまや三〇年もこの王国に暮らして、最も美しく主要な地方を巡り、南北両王都の主だった高官や文人とたえず交渉を重ね、彼らの言葉を話し、その儀式や風習について多くのことを学び、さらに、とりわけ大切なところだが、昼も夜も彼らの書物を手許に置いているからである。」
 その第一の書の構成は、以下のようになっている。
1.チーナの国名、広さ、位置について
2.チーナの大地が産出するものについて
3.この国の工芸について
4.学芸、科学およびチーナで授与される学位について
5.チーナの行政について
6.チーナの礼儀作法および若干の儀式について
7.チーナ人の容貌、肉体に関する信仰、衣服、その他の習慣について
8.チーナの迷信および悪弊について
9.チーナに存在するさまざまな宗派について

 国民、国土からはじめ、行政、科挙を詳論して最後に中国人の祭祀と崇拝対象で締めくくる構成は、明らかにガスパール・ダ・クルス『中国誌』を下敷きにしているが、中国滞在1カ月余のクルスと30年のリッチとでは、中身において雲泥の差があることは争えない。本書の英語訳の題名は、「16世紀の中国はいかなるものであったか、1583年から1610年にかけてのマッテーオ・リッチの記録によって中国を見る」(china in the 16 century: the journals of Mattew Ricci 1953-1610)となっているそうだが、イエズス会やキリスト教とは無縁の者は、この名のほうが体を現していて、東西比較文化の歴史書として本書を読むことができる。以下、クルスの時と同様に評者の興味深い箇所をランダムに引いてみよう。
中国の国名―――コーチシナ人やシャム人はチン〔秦〕と呼び、ポルトガル人はこれに倣った〔チーナ〕。日本人はタン〔唐〕と呼び、モンゴル人はハン〔漢〕、サラセン人はカタイと呼んでいる。「わたしがいちばん驚いたのは、こうした名前がいずれも当のチーナではまったくしられてもいず、聞かれもしないと知ったことだ。」(9p.)
扇と手袋―――扇というものは、わたしたちの手袋に相当するものだ。「このふたつの主な用途は、一方が冬に使われ、他方が夏に使われるというように、正反対だが、一方、お洒落用の小物としての用途は、手に持つところといい、贈物に使ったり話すときに手に握っているところといい、同じものである。」(27p.)
食卓と寝台―――「世界中で、彼らとわたしたちにしかないものがひとつある。すなわち、高い食卓で食事をし、椅子に座り、寝台で寝ることだ。」(28p.)
天子、皇帝―――国王を天子、すなわち「天の子」と呼びならわしてきた。「『天』というのは彼らにとって至高神であるから、天子というのは、わたしたちが、『神の子』というのとほとんどかわらない。」(51p.)
靴―――「わたしたちにとっていちばん珍しいのは靴だ。それは実にみごとな細工の施された絹の靴で、さまざまな花模様があしらってあり、わたしたちの国の女性もそれほどしゃれた靴ははかない。」(99p.)
人名―――「ここの人びとの習慣で、わたしたちにとってたいへん目新しいのは、名前である。」「最初の名前」〔乳名、幼名〕。「学校での名前」〔学名〕。「文字」〔字〕。「宗教上の名前」〔法名〕。(100p.)
品物の値段―――「品物の値段は必ずふたとおりある。ひとつは普通の値段であり、ひとつはどこにもたくさんいる官吏の値段で、非常に安くなっている。官吏はそういう値段で欲しい品物を買ったり作らせたりするので、商人や職人は大損をすることになる。」(113p.)
途方もなく気違いじみた事実―――「ひとつは、水銀とほかの物質から本物の銀をつくり出すというものだ。もうひとつは、種々の薬や鍛錬によって、永遠に死ぬことのない命を手に入れようというものだ。」(117p.)


 3. 中国土着化の四つの極意

 では、マテオ・リッチは、どのようにして厳重な鎖国の大明国に入ることが出来たのか、また単に居住・布教を許可されたにとどまらず、皇帝の謁見を賜り、北京に墓地を授かるというような名誉を、なぜに得ることができたのか。これについては、本書の訳者の一人である平川裕弘東大教授によるすぐれた研究書兼伝記『マテオ・リッチ伝』三巻(東洋文庫1969年、1977年、1977年)に詳しいが、ここでは同書の助けを借りて評者の通俗的関心との関連で、興味深い事実を列挙してみよう。
 第一には、中国語がしゃべれて、文語の著作ができるほどの文人的素養を養っていたことである。儒教に通じ、その思想に共感するところ大であったことは、四書のラテン語の翻訳を行ったことで知れる。中国語著作としてはじめての著作は建安王に献じた『交友論』で、友遠方より来る有り亦楽しからず哉で、多くの友を得る糸口となった。主著は『天主実義』である。これは中国人と西方宣教師との教理を巡る問答書(カテキズム)で、儒教的タームを使って儒教と矛盾を感じさせずにキリストの教えを中国人にわかりやすく説いたものである。
 第二には、上からの効率的布教を狙って、有能で影響力のある友との関係学を深め、政治権力の閉ざされた門戸を開かせる突破口をつかんだことである。最大の援助者は、科挙の最高位である進士の称号を得て、アカデミアの翰林院に任じられた徐光啓である。彼は洗礼名をパウロといい、『天主実義』の中国文を修文したり、ユークリド幾何学の『幾何学原本』を共訳したりして、実質的にリッチの祐筆となった。また、水銀から銀をつくる錬金術を求めてリッチの門をたたいた大官の放蕩息子・瞿太素は、西洋の算術や天体観測機などのとりこになり、西欧自然科学を究めてそれを啓蒙して、中国高官からリッチが信頼をうる下地を築いた。
 第三には、機械時計、プリズム、世界地図、地球儀、天体観測機というような中国にない科学技術品を手土産にして権力者の歓心を買ったことである。鎖国の壁をすり抜けて入国を果たすのに大きな役割を果たしたのは歯車時計である。歯車時計と引き換えに両広総督はじめ広東省高官は禁を緩め、リッチの願い出た内地居住を認可した。北京の神宗帝への接近の鍵となったのもひとりでに鳴る時計「自鳴鐘」、クラヴィチェンバロ、遠近法による画像などをはじめとする舶来の科学技術品である。
 リッチは自然科学にも造詣が深く、科学技術品をもたらした自然科学知識体系の啓蒙にも熱心であった。リッチが自ら作成した世界地図、地球儀は中国人の平板な地理観に革命をもたらし、天体観測機器とその観測法は中国暦法の欠陥を補い、ついにはグレゴリオ暦をもととする「崇禎暦書」を結実させた。
 第四には、キリスト教を布教するという目的にとって最も重要なことながら、儒教体系の中にどっぷり漬かっている中国知識人にキリスト教を受容可能にするために、儒教とキリスト教とを天という一点において融合させたことである。
 「わが天主は、即ち古経書に称するところの上帝なり。」Deus デウス を天主と中国語訳して、天主は儒教の上帝に等しい、と言い切った。
 「文人たちは、天という至高神を認めてはいるが、そのための寺院を建てたり、礼拝堂を定めたりしていない。そのゆえ、この宗教は祭司や僧侶というものはなく、すべての人びとが行うべき厳粛な儀式というものもない。」(127p.)「本質的には何らカトリック信仰の本質に反するものは含まない」。(130p.)
 これで、キリスト教は天主教として、儒教体系と矛盾しないまま土着化が可能となったわけである。本書巻頭に掲げられている東洋文庫蔵の「リッチと徐光啓を描いた銅板画(17世紀)」は、儒教化した天主教の祭壇を描いている。リッチは進士の徐光啓と同様に、髭を蓄え、絹の儒服を着て、手には扇を持っている。日本の南蛮屏風に描かれた同じイエズス会の「切支丹伴天連」のバテレン姿のいでたちとは大違いであり、中国と日本との西洋異文化の受容の違いをくっきりと表している。


 4. リッチと東方見聞録との出会い

 本書の第一の書で「チーナの国名」をリッチはこう書いている。
「この東の果ての王国はわたしたちエウローパ人にはさまざまな名前で知られてきた。最も古いものは、トロメーオ〔プトレマイオス〕の時代の、シーナであった。ついで、タルモラーノ〔ティムール〕の時代になると、……マルコ・ポーロがカタイオという名前で、この国の消息をわたしたちに伝えた。しかし、昨今では、最もよく知られているのは、長途の危険な航海を経てこの国に至り、南端のクァントーネ〔広東〕省で交易を行っているポルトガッロ〔ポルトガル人〕が広めた、このチーナという名前である。」(7p.)
 容易に信じられないことながら、実は、ここで言っているマルコ・ポーロのカタイオ(契丹、キャセイ、カタイ)とポルトガル人が広めたチーナ(支那、チャイナ)とが、同一の国・地域であることを、当時ゴアやマカオに滞在した宣教師たちは気付いておらず、リッチの再三の推測にもかかわらず、なお信じようとしなかったということである。インドのイエズス会はその疑問を晴らすために、探検隊を派遣して、ラホール、カブール、ヤルカンド、クチャ、トルファンに至る難行苦行の果てに、ようやく北京のリッチからの助力を得て、ついにカタイオとチーナとが同一であることを発見した。その詳細が本書には語られている。
 シルクロードをたどって中国に行き着いたマルコ・ポーロの伝えた認識と、喜望峰周りでインド、インドシナを経てマカオに至ったポルトガル人の認識とがすれ違って両者が出会うことが出来なかったとは、マルコ・ポーロの帰路が福建省泉州からの船旅であった事実が克明に『東方見聞録』に描かれているだけに、なお信じがたく、宣教師たちが『東方見聞録』を最後まできっちり読んでいなかったのではないかとも疑われる。前前回および前回に紹介したように『東方見聞録』の時代には中国のいたるところでキリスト教、イスラム教、仏教が並立して、威風堂々、教会を構えていることが報告されているが、中国滞在30年のマテオ・リッチはさすがに観察が微に入っており、かつて存在した、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の残滓を発見している。
 イスラム教―――「この教えは、子供や孫の世代を経て広まり、すでにチーナ全土の何千もの家庭に及んでいる。ほとんどの省に実に壮麗な回教寺院が建ち、祈祷が捧げられ、割礼が施され、儀式が営まれている。」(122p.)
 ユダヤ教―――「この王国で古いモーゼの律法に従って生きるユダヤ教徒も発見した。とはいえ、これは少数にすぎず、河南省の開封府と浙江省の省都杭州府のほかには、彼らの教会があるところを知らない。」(122p.)
 キリスト教―――「北部の各省にはキリスト教徒も存在していた。彼らは『十字を崇める人々』の名で呼ばれ、多くの文官および武官の家庭に広まっていたが、60年前、チーナ人はキリスト教徒に誤った疑いを抱くようになった。……そのため、キリスト教徒はみな姿を隠し」た。(123p.)
 そして、リッチは次のように結んでいる。
「チーナ人はこれら三つの教えをいずれも宗教の数のうちに入れていないし、書物の中で語ることも論じることもない。」(125p.)中国には三つの異なる考えがあるのみ。

 文人の教え(儒教)。
 釈迦の教え(仏教)。
 老子の教え(道教)。

 儒教と習合し、土着化したカトリックが、その後どうなったか、またいま中国のカトリックはいかなる神、教義、宣教師を奉じているのか、北京や上海に残っている教会とその信者のありようを、外来思想土着化の運命として改めて微細に観察してみたいものである。



          
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