中国を読み解く本・毀誉褒貶
[21] 2007.12.3
(中村公省/21世紀中国総研事務局長)
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『中国の不思議な資本主義』

東一眞/著

中央公論社(中公新書クラレ) 2007年6月

 本の表紙:『中国の不思議な資本主義』
 
 経済学の素養のある新聞記者が、中国での取材活動をする中で体験した摩訶不思議な現象を一般化して、現今の中国資本主義のタイプを抽出してみせた野心的な著作である。
 職業を神から与えられた天職と観念する、金儲けとは無縁のプロテスタントの倫理が資本主義を生み発展させたと説いたマックス・ウェーバーにならって著者は、市場メカニズムが乗っかっている社会の根底にある人々の心的な態度(職業倫理、あるいは社会規範)に注目する。市場メカニズムをパソコンのアプリケーションソフトとすれば、人々の心的な態度はOSに相当する。ネオアメリカ型資本主義は市場原理主義で株主利益を最優先させるが、その根底には聖書と憲法がある。日本型資本主義は長期的利益と安定性を重んじ、企業を株主、経営者、従業員全体のものであると考えるが、その背後には「世間に迷惑をかけまい」とする日本人の伝統的道徳がある。
 では、資本主義化した中国の人々にはどういう職業倫理、社会規範があるのか。
 中国に行ったことのある人は誰も瞠目するところだが、中国人は道路交通ルールを守らず、車も、人も勝手に動きしばしば交通麻痺を引き起こしている。経済活動では、「儲かる」と見れば経営者は見境いなく当該分野に殺到し、挙句の果てに乱売合戦を演じ、淘汰される。労働者も目先のカネの多寡が何より重要で、ペイのいい企業に身勝手に転職することにためらいはない。
 中国の人々には職業倫理、あるいは社会全体を貫く規範が極端に希薄だと見られる。
 しかし、仔細に見ると、中国は「親族や友人の相互扶助のネットワーク」が高度に発達している社会である。中国人は有力な他人と関係をつけ、関係を維持することにご執心で、関係の内部では利益を融通し合い、信義に厚く、強固な社会規範を成立させている。
 この二重規範、即ちネットワーク内部での規範の偏在と、ネットワーク外部での規範の希薄さの端的な表現が官僚の腐敗現象に他ならない。
 「権力者(国家権力者、政治権力者だけではない)に接近して、資源の優先配分を受けたい場合、権力者への接近は人的ネットワークを介して実現する。ネットワーク内部には強い規範性があって、裏切らずにちゃんと約束を果たす。これが社会全体から見れば違法であってもお構いなしとなる。」(pp.157-158)
 社会全体では職業倫理・社会規範が希薄で、経済過熱、貧富の格差、安全の喪失など巨大なジレンマが生じる一方で、人的ネットワーク内部では権力換金システムが生き生きと機能にして汚職や不正を内在化させている資本主義。こうした不思議な資本主義を著者は、ツル性植物の群生をイメージして「ヘデラ型資本主義」と命名している。「ヘデラ型資本主義」なる資本主義のタイプ論が妥当かどうかは、なお歴史的、構造的、国際的検証を必要とすると思われるが、本書の考現学で評者が注目するのは、中国資本主義における共産党の役割である。
 市場経済に過熱が生じると共産党政権は「マクロ調整」を発動する。中国でいう「マクロ調整」は、金融・財政・税制的手段にとどまらず、刑事的、権力的手法まで動員される。中央政府が強権を使って地方企業や地方政府の勝手な投資活動を有無を言わせずねじ伏せる。
 また、政府・党官僚の腐敗に対しては共産党規律委員会の主導で、一罰百戒の強権的処分が行われる。その矛先は地方組織にとどまらず中共中央政治局員にまで及ぶこともしばしばである。独裁と腐敗とは双生児であり、腐敗構造の切除は不可能だが、スケープゴートを摘出して、党内を浄化し、独裁の延命策を図る。
 「共産党政権は、その強権を使って、暴れ馬をならすように、経済活動におけるさまざまな不正をとがめてきた。それは事実あり、一定の評価ができる。あるいは共産党のような強権がなければ、この国は立ち行かなくなってと言ってもいいと思う。」(p.215)
 職業倫理、社会規範なき中国資本主義の野放図な市場メカニズムの陥ったジレンマを調整したのは、神の手でなく、中国共産党の強権的なマクロ調整と倫理道徳であったと見なされている。著者の言及していないことながら、経済・産業政策で共産党政権が粗放的成長から持続的成長へと総じて的確な内外政策を主導してきたことも顧慮していいだろう。
 「現在まで、ヘデラ型資本主義の野放図な拡大を食い止めていたのは、計画経済の残存と、共産党政権ならではの強権的な『宏観調整』(マクロ調整)であった。ルールも法もお構いなしにあちこちに伸びようとするツル性植物の群生を、強権をもってコントロールするの装置が中国共産党政権だった。」(p.232)
 中国共産党のコトバで言えば、これこそ「社会主義市場経済」の核心であろう。中国共産党がなければ中国社会主義はなかったし、中国共産党がなければ中国資本主義も、その超高度成長もなかった。
 「隣国の日本にとって、中国共産党政権の存在は実にありがたいものだったのかもしれない。」(p.235)
 しかしながら著者は、将来のことになると、中国共産党政権の存続に極めて悲観的である。
「中国経済のさまざまな変数は、ますます中国共産党政府の手から離れつつある。……共産党の手から経済活動が離れていくのに代わって、『法の支配』が拡大していけば、経済活動をルール化し、調整していくことができるだろう。だが、法の支配が、共産党政権の強権を代替することに失敗した場合、社会規範の希薄さと相まって、中国経済は、混乱の極みであるヘデラ型資本主義をめざして走り出すことになる。」pp.232-233)
 これは杞憂ではないのか。政権の存続の課題は、国際および国内の政治バランスや大衆の政治的参加への民度の成熟によるところが大きく、経済変数を市場メカニズムにゆだねることとはまた別の問題であろう。評者は中国共産党政権は2021年の100周年をみずから祝うに違いないと予測しており、さらに2050年と見定めている高所得国入りも共産党政権によって主導されるであろうという視点に立っている。本書に主旨に沿って言い換えれば、中国にヘデラ型資本主義があるかぎり、中国共産党の存在理由があると思われるのである。

 

          
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