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     第20号 2011.03.20発行 by 岡田 充
    実体ない国家幻想にすがるな
東北・関東大震災の啓示


 あの日から無力感に襲われている。未曾有の大震災によって、生きるのに必要なものが具体的な姿を表すと、「何が欲しいのかよく分からない」豊かな日常に生きていたことがよく分かる。政治・経済でのさまざまな争いや国際紛争も、多くの生命が危機にさらされる事態に直面すれば、単なるゲームの世界でしかない。無力感とはそういう意味である。中国と台湾の両岸関係の分析もまた「ゲームの世界」だからである。本稿ではもともと、1年後に迫った台湾次期総統選挙を、北京と台北の幾つかの視点から分析しようと準備していたが、「東北・関東大震災が啓示すること」に差し替えた。次号には「ゲームの世界」に戻れるよう期待するばかりだ。
大災害にかなわぬ政争
 1999年9月21日、台湾中部で起きた大地震 の時は台北に住んでいた。地震の2ヶ月前の7月、李登輝総統が表明した「2国論」(中国と台湾は、国と国の関係)注1をめぐって、台湾海峡は空前の軍事的緊張に包まれていた。だが、2400人を超す死者を目の当たりにして、北京は李登輝政権への攻撃をピタリと止め、両岸の争いは「休戦」に入った。政治的争いは、大災害の重要度には勝てないのである。
 今回の震災は菅直人にとって「神風」となった。11年度予算関連法案をめぐり、菅内閣を土俵瀬戸際まで追いつめた自民党が「政府の対策に全面的に協力する」と、矛先を収めたからである。菅は翌3月12日夜の記者発表 注2で「野党の皆さんも、昨日に続く今日の党首会談の中でも、特に復興については一緒に力を合わせてやっていこうという、そういう姿勢をお示しいただきました。大変ありがたく受け止めております」と述べた。にやけ顔こそ消えていたが、心の内はみえ透いている。
 「朝日新聞」は地震翌日の社説で「国をあげて救命・救援を」の見出しで「災害に見舞われ、ようやく力をあわせる機運が見えてきたのは、当然のこととはいえ評価できる」と書いた。一週間前、在日韓国人による政治献金が発覚し外相の座を辞した前原はついていなかった。地震があろうとなかろうと「政治とカネ」の問題には何の変わりもないはずだが、「挙国一致」のスローガンが、菅直人の在日韓国人による献金問題を吹き飛ばしたのである。
 菅は先の記者発表で「未曾有の国難とも言うべき今回の地震、これを国民皆さん一人ひとりの力で、そしてそれに支えられた政府や関係機関の全力を挙げる努力によって、しっかりと乗り越えて~」と訴えた。
いかがわしい挙国一致
 「朝日」や菅が言うように、未曾有の大震災は本当に「挙国一致」という言葉で括るべきことなのだろうか。言いたいのは「挙国」の「国」という概念である。震災に立ち向かう主体は、被災者を中心にとした地域、自治体を構成する「社会」であろう。この社会を物理的にバックアップし、情報を提供し、予算を執行するのが政府であり、その役割を軽視しているわけではない。国家という幻想共同体の中に、人びとをはじめ、家族、地域と自治体など実体のあるあらゆる要素を埋没させてはならない。救わなければならないのは、国家ではなく人である。「挙国一致」や「国益」の名の下で、多くの人が犠牲になったのは遠い昔話ではない。力を合わせて救済活動をすることを、「挙国一致」という言葉でしか表現できないのは、精神の貧困であろう。
 特に福島原発の放射能漏れでは、国を代表する政府の発表をうのみにすべきではない。政府発表の基になっている東京電力の発表はもっと信用できない。肝心な情報を公開しないやり方、傲慢な対応をみるにつけ、住民を見捨て「満州」から一目散に逃げた関東軍や、沖縄戦で住民を自害に追い込んだ旧日本軍に通じる体質を感じる。
 日曜の朝のニュース・ショー番組で、常連のM新聞主筆が、おそろしく馬鹿げた発言をしていた。「こんな時期に不謹慎といわれそうだが」という前置きに続けて、天災は政治が腐敗したりダメになったときに必ず起きるというのだ。「これは歴史的に見てもそうです」とダメ押す。もともと政治ではなく、政局を「陰謀史観」から分析するのが得意な人だと思っていたが、これは震災を「天罰」と断じるのに等しい。因果関係や論理を一切無視しても「大新聞主筆」は務まるのだ。多くの政治部記者はこれまでの「政局分析」が、いかに役に立たないかを肝に銘じ、無力感を味合うことから再出発すべきである。
御礼
 地震直後から台北、台中、北京、上海など両岸に住む友人から多くの見舞い電話やメールを頂戴した。台湾中部地震や四川大地震を取り上げるまでもないが、災害支援には政治の壁や国境などは邪魔なだけである。お見舞いに改めてお礼申し上げ、筆者の体験を紹介する。
 その時汐留の共同通信本社ビル(35階建て)にいた。ゆっくりとした横揺れが、かなり長く続いたため「(震源地は)遠いな」と、しばらくは高をくくっていました。しかし揺れは収まらず、突然縦揺れに変わってから激しい揺れに。足下が「これでもか
これでもか」と言わんばかりにねじれ続き、デスクを両手で掴みながら、ビル崩落の恐怖感が何度か頭をよぎりました。東京湾に面した窓側にいた同僚は、目の前に立つ日本最大の携帯電話会社のビルが「こちらに倒れそうに揺れていた」と言っていました。
 オフィスは12階にあり、ビル全体がギシギシとよくしなり、船酔いに近い感じが続きました。地震の大きさと交通機関の運行状況からみて「帰宅は困難」と判断。ちょうど一時帰国していた海外支局員や編集委員ら4,5人と5時ごろから飲み始め、当夜はオフィス内でごろ寝しました。翌日昼、電車とバスを乗り継いで戻った次第。
 自宅(13階の3階)は、ほぼ無傷で、ラッキーとしかいいようがありません。上階では冷蔵庫や家具が倒れぐちゃぐちゃになった家もあったようですから。ただ発生時から水道が停まり、水洗トイレが使えない状態が続きました。街の至る所で液状化現象(写真参照、地割れと液状化で吹き出した土砂)が起き、揺れの激しさが分かります。埋め立て地ですから、この程度は甘受するしかないでしょう。
 近くのスーパーマーケットの入り口には、水を求める住民が長い列を作っていました。住民の中には、目を血走らせて商品目がけて走る人もいましたが、全体として秩序は保たれていました。地震と大津波による未曾有の災害に続き、福島第一原発の原子炉内で炉心溶融が発生、原子炉格納容器が破損し、大量の放射能の飛散が続きます。もはや「天災」ではなく「人災」の始まりです。

(了)



 
1 岡田充「中国と台湾 対立と共存の両岸関係」(2003年 講談社現代新書)118ー124頁
2  首相官邸HP
http://www.kantei.go.jp/jp/kan/statement/201103/12message.html

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