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     第22号 2011.06.20発行 by 岡田 充
    弱体化する中心、周縁に活況も
与那国軍事化は時代に逆行 (上)


 台湾に最も近い日本の島に行った。サンゴ礁に囲まれた美しい小島、与那国島である。TVドラマ「Dr.コトー」診療所のロケ地と言ったほうが通りはいいかもしれない。沖縄本島からの距離は520㌔、東京からは1900㌔だが、台湾(宜蘭県蘇澳)とは110㌔の近さである。いちばん西の西崎灯台から台湾が見えると聞いて足を運んだ。だが梅雨の真っ盛り、重く垂れ込めた雲のかなたの台湾は見えなかった。人口わずか1600人の小さな島が今「大きな物語」の中心になろうとしている。2010年末の新防衛大綱と中期防衛力整備計画で、島に陸上自衛隊の沿岸監視部隊を配置する方針が明らかにされたからである。配備の目的は、活発化する中国艦船の動向監視と抑止効果。配備計画については本稿第13号「メディアに蠢くナショナリズム 普天間決着に利用された中国艦隊」でも取り上げたことがある。5年以内とされる配備が実現すれば、台湾との境界が軍事化するだけではない。配備を懸念する台湾や中国を刺激し、かつてなく平和な環境にある台湾海峡の安
与那国島の地図
全保障バランスを流動化させる可能性がある。配備は日本が、西南境界で初めて主体的に選択する軍事的布石であり、近・現代史で過酷な犠牲を強いられてきた与那国島に、軍事的意味が与えられる。「3.11」と福島原発事故の処理だけに目を奪われてはならない。東アジア外交と安保にとって、もっと注目してよい問題である。将来に禍根を残さないためにも。
 与那国の150年を振り返ると、支配者と国境がめまぐるしく変わる歴史だった。それはいつも島民の意思とはかかわりなく決められてきた。与那国と台湾との交流を振り返りながら、国境・境界の意味を考えたい。そこから「島の軍事化」という選択が何をもたらすかが見えるだろう。
境界研究セミナー
 島を訪れたのはこれが初めてだった。与那国町では5月14日、地元をはじめ根室、対馬、五島など国境・境界地域に位置する自治体と研究者が集まり、境界を超えた交流を通じて「辺境」の活性化を話し合うセミナーが開かれた。セミナーは、北海道大学スラブ研究センターと日本島嶼学会などが共催、笹川平和財団が助成した。外間守吉・与那国町長、財部能成・対馬市長、石垣雅敏・根室副市長が基調報告し、2013年から施行予定の国境離島新法への取り組みを紹介した。さらに境界の向こう側の韓国、ロシア、台湾との交流を進め、過疎と高齢化問題をかかえる地域を「特区」によって活性化することも大きなテーマとなった。
 セミナーでの発言を少し紹介しよう。本論を展開する上で、地方首長の考えを知ることは不可欠だからである。まず印象に残ったのは、国境を抱える3地域の意識の差である。根室市の石垣副市長は「ヒトとモノの交流をスタートラインに、(根室が北方領土の)母都市になることが重要。そのことが(領土)返還に寄与すればよい」として、ロシアとの国際特区・北方特区プランを紹介した。このセミナーを企画したスラブ研の岩下明裕教授らが策定した計画である。
 メドベージェフ政権は「北方領土」住民の生活向上のため、インフラ整備を急いでいる。特区プランはそれを意識しながら医療、教育、観光など北海道側が優位性をもつ分野で島との交流を進め、相互利益を目指そうという発想である。埒のあかない領土交渉を先行する「外交原則論」ではなく、「実態優先」から問題に取り組む姿勢である。これを石垣副市長は「外交上の痛みは内政で緩和する」と表現した。
 これに対し対馬と与那国の振興策は、安全保障を強調する対照的な内容になった。釜山まで約45㌔の対馬は、フェリーを利用した韓国人観光客が2010年に約6万人と10年で9倍に急増した。市長は「韓国自由貿易特区」による関税優遇措置を提案する一方、島の役割として「国防上の重要な監視、前線基地の強化」を挙げ、領域と排他的経済水域(EEZ)の保全を強調する「防人の島新法」の必要性を訴えるのである。
 地元の与那国はどうか。これまで陸自誘致を積極的に働きかけてきた外間は「わが国の領土・領海・EEZなどの保全のため、また緊急時に自衛隊、海上保安官の展開も想定される」として、安全と治安の確保に重点を置く「国境離島(保全)特別処置法案」を訴えた。彼は振興策の第一に「安全・治安の確保」を挙げ、自衛隊誘致による地域振興を強調する。陸自配備の目的について外間は「中国側の海軍軍備拡大と領土的野心」を挙げた。海軍力増強は事実だが、領土的野心とはいったい何か。中国側の意図については後に採り上げるが、外間が最後に触れた「近隣諸国との国際交流」が、とってつけたように感じられた。
亡命者の通過地点
 大学の講義を飛ばしてセミナーに参加した理由は他にもあった。それは翌15日、与那国空港から台湾・花蓮に直航するチャーター機に乗るためである。与那国町は30年前の1982年、花蓮市と姉妹都市提携し、台湾との直行チャーター便は今回で3便目。今回はセミナー参加者のうち約40人がチャーター機で花蓮に移動し、同市との交流セミナーで国境を超えた地域交流を話し合った。
 本当は船で行きたかったのだ。今から13年前、共同通信の連載企画原稿「20世紀 未来への記憶」「東アジア漂流」(2・28事件)注1 で、台湾の政治亡命者をとり上げたことがある。彼は台湾からの逃亡ルートとして「一番近い外国の島」の与那国島まで、漁船で「密航」したからだった。その跡をたどりたかったのだが、台湾とのフェリーは運行停止中である。
 当時の原稿の書き出しを再録する。

  ――闇に包まれた海岸線に目をこらした。聞こえるのは波の音だけ。「来た」―。「ポン、ポン」とエンジン音を立てる小型漁船が波間に見えた。身を潜めていた十八人が一斉に走りだした。後ろからサーチライトと銃撃音が迫る。陳浴億も必死で皆に追いつこうとする。引き返せば命はない。板につかまりながら、ようやく船に乗った。
 一九四九年十一月初めの未明、台湾北東部の漁村での出来事である。船は五時間後、沖縄の与那国島に到着した。二十八歳の青年市議の四十二年に及ぶ漂流が始まる――


 「2・28事件」は、多くの台湾人の記憶に中国大陸への否定的なイメージが凝縮されている。国民党圧政の被害者の多くは日本統治時代のエリートであり、社会主義に共感する若者が多かった。台湾独立を支持する側は、「独立運動の原点」と見なす傾向が強いが、それは一面的な解釈である。「主人公」の陳浴億もマルクスの影響を受けた知識人の一人だった。彼と知り合ったのは香港支局時代の1986年春。中国系百貨店「裕華国貨百貨」の経理をしていたころである。台湾出身であることは人伝てに聞いてはいたが、与那国から沖縄本島、四国を経て神戸に上陸する具体的な逃亡ルートを知ったのは取材をした98年3月になってからだ。彼の台湾の故郷、高雄で3日間にわたって「カンズメ取材」して分かったのだった。それ以来、私にとって与那国島はずっと気になる存在だった。
 与那国に渡ってからの彼の足取りを簡単に紹介しよう。東京と横浜で3年ほど生活した後、「あこがれ」の中国大陸に渡った陳は、文化大革命中「国民党のスパイ」「日本帝国主義の手先」の「罪」を着せられた。日中国交正常化の翌年の73年香港行きが認められ中国系百貨店に就職、やがて両親が死んだこと、自分の台湾戸籍が60年8月「死亡」扱いで抹消されたことを知る。その後台湾にも大きな政治的転機が訪れた。88年李登輝が台湾出身初の総統に就任すると、政治の民主化と台湾化を加速し、タブー視されていた「2・28事件」の見直しを断行。91年春、陳は42年ぶりに高雄に戻ることができた。戸籍も回復され、地元紙は「死者が生き返った」と報じた。陳は2006年秋、故郷の高雄で86年の生涯を終えた。東アジアを漂流した一生だった。
 記事には書かなかったが、陳は与那国上陸後、地元漁民の家に1ヶ月半世話になった。島には米軍は常駐しておらず「お巡りさんが数人いただけ」。与那国で聞こえる台湾のラジオ放送に毎日耳を傾けながら、浜辺に寝そべって沖縄本島行き
写真:TVドラマ「Dr.コトー」のロケ用診療所から見た浜辺
の船を待った。(写真はTVドラマ「Dr.コトー」のロケ用診療所から見た浜辺)島では当時米ドルのほか、陳ら台湾人が持ち込む「砂糖交換券」が流通したという。陳は台湾から持ち込んだ「5俵」分の砂糖券をペニシリンと交換し、日本行きの準備をした。当時ペニシリンは現金化できる貴重品だったから、換金すれば当座の生活費になるはずだった。(中)の脚注にある年表の「1948年」の記述を見て欲しい。このころ与那国では、台湾で発行されていた紙幣が流通していた。後述するが、台湾の日本植民地時代、島は台湾経済圏の一部であり、その後も濃淡はあれ日常的な交流と交易が続くのである。離島に住む住民にとって、生活は国境以上に重要な意味を持っていた。
自由な交流と交易
 「2・28」を契機に、東アジアを漂流した知識人は多い。作家の邱永漢は東大卒業後、台湾に戻ったところで事件に遭い48年10月香港に逃れた。神戸出身の作家、陳舜臣も台北郊外の中学で英語教師をしていたころ事件が発生、「ノンポリだったが、ひどいことをすると思った。もし台北にいれば、(自分も)どうなっていたか分からない」と回想する。
 駐日台北経済文化代表処の元代表(大使)の許世楷は、日本留学直後の1960年から台湾独立運動に参加したことから台湾に戻れず、何度か与那国に足を運んだ。彼は台湾独立建国連盟主席を務め「台湾共和国憲法草案」を起草した筋金入りの台湾独立運動家。代表時代の06年、神奈川の講演で「(与那国の宿舎で)休んでいると、どこからか台湾語が聞こえてくるので行ってみると、何と飲み屋で台湾の漁師たちが話していたという。昼は境界外で操業し、監視船がいなくなった夜になって与那国島に上陸して飲んでいたのだという。翌日になって雑貨屋をのぞいてみると台湾製品がたくさん置いてあり、台湾の人々も与那国の人々も、パスポートなしで自由に行き来しているのを実見した注2」と話したという。許は筆者とのインタビューでも、独立派の脱出の「連絡役」として与那国に行ったことを明らかにしている。
 別の台湾独立派で、やはり日本「亡命」組の史明(本名・施朝暉)は、与那国から尖閣を経由して台湾への「密航」を繰り返した。「台湾密航の拠点だった尖閣の真実」注3というインタビューで彼は、台湾独立運動の地下組織に資金や情報を提供するため、台湾行きを繰り返したとし「最初に行ったのは1968年」と述べている。東京から那覇経由で与那国まで飛行機で行き、漁船をチャーターし魚釣島へ上陸。ここで台湾籍の船に乗り換えて台湾東部の海岸から上陸したという。与那国では、台湾向けに「独立自由放送」を流すため、4人の日本人にアマチュア無線の資格をとらせ放送局設置の準備をしたが、NHKが沖縄復帰に向けて電波塔を建設したため、計画倒れに終わったと証言している。
 いま自分の原稿を改めて読み直すと、与那国島に対する貧しい認識と想像力が透けて見えてくる。頭の中の地図には、与那国と台湾の間には国境線が引かれ、その線は常に日本と台湾を分けてきたという固定観念である。現在の「国境線」から、過去を認識し解釈する思考からは、生き生きとした人びとの生活も境界を超えた交流も何も見えない。台湾が日本の植民地だった50年間、与那国は国境の島ではなかった。では国境線は敗戦後に引かれたのか。敗戦の45年から朝鮮戦争の50-51年ごろまで、米軍政下の与那国と台湾の間では自由な人とモノの交流と交易が続いていた。その後の米軍政下でも、国境管理は極めて緩かったことは、許世楷らの証言で明らかだ。「国境の島 与那国島誌」注4 は「46年10月、米軍八重山軍政官ラブレスが『台湾籍船の八重山入港を阻止するな』と吉野知事に命令」(表参照)と書く。筆者の宮良作は、与那国と台湾の交易は、米軍と県が認めていたから「密貿易、ヤミ交易ではなかった」とし、与那国が「沖縄復興交易」の中継港として「人口が急増、活気をていす」「にぎやか、明るい、自由で凶悪犯罪がない交易」 と書いている。確かに46、47年、人口は5600―6100人に急増 している。この中には台湾人もいたはずだ。米軍は、日常生活物資を島に供給する交易を認めたほうが人心安定につながると判断したのだろう。当時の賑わいを、現在の1600人の人口から想像するのは難しい。






 
1 「2・28事件」
1947年2月27日、台北市内で闇タバコ売りの女性が取り締まり官に殴打されたのをきっかけに、日本敗戦後、中国から渡ってきた外省人(中国大陸出身者)の抑圧や腐敗に対する本省人(台湾出身者)の不満が爆発、翌28日から暴動が台湾全土に広がった。蒋介石・国民党軍が武力鎮圧し、1万8000人―2万8000人が殺害されたとされる。
2 メールマガジン「日台共栄」06年10月22日
3  正論」20112月号
4  宮良作 2008年7月 あけぼの出版 300頁
5 同上 192
6 同上 227頁

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