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     第52号 2015.04.24発行 by 岡田 充
    日台関係、近現代史のおさらい
戦後70周年、中国TVとのQ&A

 今年は戦後70年。安倍晋三首相は「終戦記念日」の8月15日に首相談話を出す予定だ。その内容について、中国、韓国や東南アジア諸国など戦争被害者のみならず、米国やドイツも大きな関心を寄せている。談話内容について、有識者懇を発足させたことは、村山談話の核心である「おわび」の文言は使わない可能性を示唆している。4月22日、安倍首相はインドネシアのジャカルタで開かれたアジア・アフリカ会議(バンドン会議)の60周年記念首脳会議で演説、先の大戦への「深い反省」を表明したが、「植民地支配と侵略」への「心からのおわび」には言及しなかった。安倍は戦後70年談話でも、村山談話の文言を「もう一度書く必要はない」と言明している。しかし今年1月に死去したドイツのワイツゼッカー元大統領が、1985年に旧西ドイツ連邦議会で述べた「過去に目を閉ざす者は、現在に対してもやはり盲目となる」を引用するまでもなく、未来を志向するには、過去の加害責任に対し真摯に向き合い、謝罪することは欠かせないプロセスである。そんな中、4月初め、中国のTV局から、戦後70周年をめぐり台湾と朝鮮への植民地支配に関する取材を受けた。インタビューは、日本と台湾に関するいわば「近現代史」のおさらいでもある。中国人記者が台湾領有と日台関係についてどのような関心があるのか、その内容を「Q&A」の形式で紹介する。
台湾領有を決めたのはいつ?
質問1) 台湾は日本にとってどのような戦略的地位を占めていたのでしょうか?日本はいつから台湾を攻略しようとしたのですか。明治维新後、牡丹社事件注ⅰ は日本の海外拡張の出発点と言えますか。当時、日本には、台湾の植民地統治に対する異論は存在しなかったのでしょうか。
 台湾領有を最初に主張したのは、長州藩の下級藩士、吉田松陰とされていますが、はっきりしたことは分かりません。吉田松陰は「幽囚録」の中で「北は北海道からカムチャツカ、オホーツクを奪い、満州を分割し南は琉球の日本領有、李氏朝鮮を属国化し、台湾、ルソン諸島の領有」を主張しています。

 彼が主宰した「松下村塾」には伊藤博文、山縣有朋ら明治政府の主要指導者がいましたから、松陰の考え方は明治政府指導者に影響を与えたと考えていいと思います。松陰の対外思想は、琉球領有や日清戦争を通じ、日本の帝国主義的拡張政策として実現されることになりました。欧米列強に伍して、領土を拡張するのは、当時は当然のこととされていました。だからといって植民地支配の歴史を正当化することは許されません。

 領土拡張に対する明治政府の認識は、征韓論(1873年)や「牡丹社事件」(写真下 台湾国家図書館所蔵)に表れています。台湾出兵は近代日本における初の海外出兵でした。これは、1872年に明治政府が琉球王国を「琉球藩」として日本に併合したことを、清朝に認めさせる狙いがありました。その証拠として1875年、琉球に対して清との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用を命じ、4年後の1879年、琉球国を滅ぼし沖縄県にする「第2次琉球処分」を行ったことにも表れています。
 国内的には、明治政府の誕生で失業した大量の下級士族を軍人として雇い、同時に海外出兵することで、不満のはけ口にする狙いもあったのです。1874年2月の「佐賀の乱」は、明治政府で征韓論が退けられたことに不平を抱く士族が起こしたものですが、これが全国に波及することを恐れたことが、台湾出兵に弾みをつけることになりました。当時、明治政府で民主的改革を主張した木戸孝允は、台湾出兵に反対し参議(閣僚を指導する集団制の政府首班)を辞任して明治政府を去っています。

 日清戦争での勝利がはっきりした1994年12月、当時の伊藤博文首相は、大本営会議で「台湾を占領しても、イギリスその他諸外国の干渉は決して起きない。日本国内では、講和の際には必ず台湾を割譲させよと言う声が大いに高まっているが、そうするためには、あらかじめここを軍事占領しておくほうがよい」と述べ、1895年3月の澎湖島出兵につながりました。

 当時、明治政府には木戸孝允以外には台湾領有について、強い反対論はありませんでした。しかし植民地開始当時の軍事作戦で多くの台湾人が死亡したことから、1897年の帝国議会で、台湾を1億元でフランスに売却すべきという「台湾売却論」が登場したとされています。
尖閣領有と一体
 日清戦争中の1895年1月14日の閣議で、久場島(黄尾嶼)と魚釣島(釣魚島)を日本領に編入する秘密決定をしたのも、日清戦争中であることを考えると、琉球処分と尖閣領有に台湾領有が、明治政府の政策決定の中で「一体」だったことが分かります。

 日本は日清戦争に勝利し、10年後の日露戦争でも勝ったことによって、中国大陸とアジア侵略へ過剰な自信を持つことになりました。結局、日清戦争勝利50年後の1945年に敗戦したことで、殖産興業、富国強兵を通じて「世界の一流国」になる夢は潰えてしまいました。
質問2)日本総督府が主導する台湾拓殖計画の中で,日本の台湾に対する殖民地開発の主要方針はどのようなものでしたか。時代の変遍と日本政治の变化で台湾统治方针と目標に变化は生じたのでしょうか?
 台湾植民地政策は、大きく3期に分けられるというのが定説です。1895年5月から1915年の西来庵事件注ⅱまでが第1期。この時期、台湾総督府は軍事行動による強硬な統治政策で臨み、「台湾民主国」をはじめとする抗日義勇兵のせん滅作戦を展開します。日本は最終的に約76000人の兵力を投入しましたが、台湾住民の抵抗運動は収まらず、武力行使による犠牲者は1902年までの7年間で32000人に上ったとされています。

 台湾への統治方針ですが、第1期には2種類の方針がありました。第1が後藤新平らの「特別統治主義」です。英国政府の植民地政策を採用し、日本の国内法を適用せず、独立した方式により統治する考えです。これに対し原敬(首相)などは、台湾を日本本土の一部として、国内法を適用する「内地延長主義」を提唱します。フランスの植民地思想に影響を受けた原敬は「人種・文化が類似する台湾は日本と同化することが可能」と考えました。

 第2期は「同化政策」(内地延長主義)(1915年-1937年)です。1919年、初の文官総督に就任した田健治郎は、台湾での同化政策の推進を基本方針とします。同化政策により、台湾民衆を完全な日本国民とし、国民としての観念を育てようとするものです。田総督は、旧社会党の田英夫氏の祖父です。
同化政策をとった理由
 具体的な政策としては、地方自治拡大のため総督府評議会の設置、日台共学制度及び婚姻法の公布、日本語学習の整備のほか、鉄道や水利事業などを展開しました。経済的には台湾の米、砂糖、樟脳など、資源供給地として、台湾を重視したことが背景にあります。鉄道や水利事業などインフラ整備もそのためでした。樟脳は、セルロイドの可塑剤や医薬品として使用され、台湾の南投県で原料となるクスノキのプランテーションを経営。台湾の樟脳は、20世紀初頭には世界の70%のシェアを占有しました。
 政治面では、1921年には台湾文化を育てる目的で台湾文化協会が設立され、啓蒙運動や自治拡大運動を展開します。その後、文化協会は右派と左派に分裂、右派は台湾民衆党を結成します。しかし台湾民衆党が蒋渭水注ⅲ(写真 wikipedia)により左傾化すると、右派は1930年、台湾地方自治連盟を結成するなど、大正デモクラシーの影響下で地方自治要求が高まりました。日中戦争が始まった1937年、日本統治期最後の政治団体である台湾地方自治連盟が解散に追い込まれ「台湾人」による政治運動は終わります。

質問3)中国への侵略戦争が始まると、日本政府は「公民化運動」を通じて台湾社会の“日本化”を進め、“国民精神動員”では、台湾人に日本への忠誠を強いました。日本の台湾に対する一連の同化政策についてどう考えますか。また日本の植民地文化に対する同化は、予期した成果を上げたのでしょうか?
皇民化政策は戦争遂行のため
 台湾植民地統治の第3期が「皇民化政策」(1937年-1945年)です。 1937年に日中戦争が起きると、戦争推進のための資源供給基地として台湾を一層重要視することになります。台湾での国民意識の向上が政治・文化面での最重要課題とされ「皇民化政策」を推進しました。国語運動、改姓名、志願兵制度、宗教・社会風俗改変の4点からなる「日本人化運動」です。戦争の長期化によって、日本の人的資源が足りなくなり、台湾と朝鮮の植民地に頼ろうとしたわけです。

 国語運動は、日本語使用を徹底化するもので、家庭でも日本語を使い、台湾語・客家語・原住民語の使用は禁止されました。改姓名は朝鮮のように強制はされませんでしたが、日本式姓名を持つことが地位上昇に有利になることもあり、エリートを中心に改姓名を行った台湾人もいました。改姓したのは約2%過ぎず、1940年にほぼ100%が創始改名した朝鮮人と比べ少なかったです。

 皇民化政策の大きな背景ですが、台湾には約500万人の漢民族が居住し日本領土内に多くの「敵」を抱え込むことになる。このため、天皇を中心とする国家主義の下、台湾人の意識も日本人に変える“皇民化政策”を掲げたのです。
 台湾の漢民族を兵士として採用することには反対が多かったのですが、兵力不足から1942年から志願制、44年からは徴兵制が施行されるようになりました。軍務に従事した台湾人は8万人を越え、軍属として徴用された者を含めると、約21万人の台湾人が日本兵士として参戦しますが、南方では連合軍の捕虜収容所の「看守」役に就く兵士が多かった。中国と南方戦線で3万名以上の台湾人が死亡しました。東京裁判では台湾人日本兵の173人がBC級戦犯として起訴され、このうち 26人が死刑になっています。漢民族でありながら、中国と戦う戦地に行くことは、正に「台湾人の悲哀」だったと思います。
質問4)日本は神社を宣楊することで何を期待したのでしょうか?
 皇民化政策は、日本語教育とともに一般民衆の意識形成に大きな役割を果たしている宗教を改変する必要があり、神社注ⅳ(写真 台湾神社の絵葉書)を次々に建設しました。1938年、台湾人が拠り所にしてきた道教の寺院や廟の参拝を制限し建物を取り壊しました。寺院、廟に奉られていた神々の像が集められ、燃やされたと当時の記録は書いています。家にある神像を役所に持ってくるよう命じたとされ、破壊した台湾の寺院や廟の木材を使って日本の神社が次々と建てられた。人々に神社参拝を強制したのは、神社が日本の「大和魂」の象徴だったからでしょう。
「よき日本人」から「よき中国人」へ
 同化政策の成果ですが、台湾総督府の統計によると、50年間の植民地支配の結果、日本語の普及率は70%を超えました。戦後の国民党政権下では、多くの台湾人が中国の「普通話」を理解できなかったため、新たな「国語」として「普通話」を学ばなければなりませんでした。「よき日本人」から「よき中国人」への変身を迫られたのです。経済面では、水利事業や鉄道、通信などインフラが、日本の敗戦後も残り台湾経済の発展に役立ちました。国民党圧政の反作用も手伝い、現在も日本の経済基盤整備に対する評価は台湾で依然として高いものがあります。

 言語と宗教という人々の意識と文化の核心は、中華民国になり漸進的に中華へと戻っていきましたから、同化政策は成功しませんでした。ただ台湾文化は戦後、中華文化を中心に日本文化、原住民文化が混合しながら形成されており、50年間に及ぶ日本統治の影響はまだ台湾に残っています。これは中国大陸の文化と異なる最大の特徴です。
質問5)日本の台湾、朝鲜に対する殖民地的统治方法は、英国などの欧州殖民地统治方法と大きな違いがあります。イギリス人は決してインド人を英国人に変えようとはしなかった。一方日本人は、台湾人、朝鲜人を日本人に変えようとしましたが、これは,日本文化の特殊性によるものですか?日本人は人種、文化と地理的近接性から台湾と朝鲜を同化できると考えたのでしょうか?

 欧州諸国で隣国を植民地にした国はありません。日本近代化の過程で、日本人のアジア観形成の上で大きな影響を与えたのは福沢諭吉です。彼は1860年に勝海舟が船長を務めた「咸臨丸」で遣米使節団に参加し、米国で文化的衝撃を受けます。続いて1861年にも遣欧使節に通訳として参加するのですが、67年にも訪米し、その結果を著書「西洋事情」で書き、当時欧米事情を知る第一人者となるのです。
日清戦争は「文明と野蛮の戦い」
 さらに1882年「時事新報」で福沢は「東洋の政略をいかにするか」の中で、対朝鮮戦略を論じて、武力を用いても朝鮮の文明化を迫るべきだと説きました。85年の「時事新報」紙上で発表した「脱亜論」では「遅れた朝鮮清国のごとき国に隣接するは日本の不幸」と断じ、これらの悪友とは絶縁すべしと訴えます。日清戦争を「文明と野蛮の戦い」と評し、これが日本の世論を形成する大きな要因となりました。福沢は日清戦争の勝利に涙を流して喜びましたが、戦勝に歓喜したのは、当時の日本では一般的だったでしょう。それは日本の近代化が欧米をモデルとし、欧米に追いつき追い越すことを国家目標にしたからです。当時のエリートで日清戦争を批判的注ⅴ に見たのは勝海舟ぐらいです。勝は「氷川清話」で「戦争は勝ったり負けたりで、一回勝ったぐらいでうぬぼれるな」「日本が逆運にあうのもそう遠くない」と書いています。
質問6)日本は台湾人、朝鲜人に対し差别的な待遇政策を採りましたが,戦後の台湾人と朝鲜人の対日姿勢は大きな違いがあります。朝鲜人の反日感情は極めて強い一方、台湾人は逆にかなり親日的な感情を持っています。一部の台湾人は戦前の生活をかなり懐かしがっているが、なぜでしょう。
 朝鮮と台湾の違いは幾つか挙げることができます。第1に朝鮮は15世紀から1910年まで「李氏朝鮮」として存在した朝鮮民族の最後の王朝でした。中国とはそれまで冊封体制下にありましたが、独自の言語(ハングル文字)と文化を持ち、住民の朝鮮人意識は極めて強かった。日本に対しては、稲作と仏教をはじめ、多くの文化は朝鮮を通じて伝えられたことから「兄貴意識」が強いものがあります。

 1909年6月 ハルビンで伊藤博文を暗殺した安重根は取り調べに対し、暗殺の理由として「韓国皇帝を廃位させたこと」「韓国の軍隊を解散させたこと」「不平等条約を結ばせたこと」「韓国の学校教科書を焼却させたこと」「韓国人民に新聞購読を禁じたこと」などを挙げています。ここにも国家意識の強さがうかがえます。
台湾と朝鮮の違い
 一方、台湾はオランダとスペインという外来勢力の植民地になった後、清朝統治を経て、日本の支配下に置かれました。住民の国家意識は朝鮮に比べ低いですね。

 第2に台湾は島であり、地政学的に大陸からの独立性が高い。一方の朝鮮半島は中国東北部と接し、日清、日露戦争では戦地となり、「9・18」(満州事変)、日中戦争以降も準戦地状態に置かれました。台湾は戦地にならず、水利や鉄道、通信などインフラ建設も進みましたが、朝鮮半島では十分に行われなかったことも挙げられます。

 第3に台湾では戦後の国民党統治は、「2・28」事件に代表されるように極めて過酷だったことから、「日本統治時代のほうがましだった」という感情が住民に生まれた。「犬が去って豚が来た」という言葉もその意識を代弁しています。一方朝鮮は国家として独立が認められた。統一国家が実現していない理由を含めて、マイナス面のすべてを日本の植民地統治に求める傾向があります。
質問7)「カイロ宣言」と「ポツダム宣言」は国際法上の権威はあるのでしょうか?「日本投降文書」の第6条に「ポツダム宣言の各項の規定を忠実に履行」とありますが、これは日本政府が「ポツダム宣言」における無条件降伏を受け入れ、ポツダム宣言に調印した各国に対し、敗戦国としての法的拘束力を持つ法的文献と考えてよいでしょうか?
 1943年の「カイロ宣言」の原文(英語)のうち、「台湾を中華民国に返還する」とした部分の英語と日本語は次のように書かれています。
「all the territories Japan has stolen from the Chinese, such as Manchuria, Formosa, and The Pescadores, shall be restored to the Republic of China.

 「満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコト」。

 「カイロ宣言」の法的有効性については、米英中三国代表の署名や日付がないため、外交文書としての効力を疑問視する声があります。しかしその後、ポツダム宣言と、1952年のサンフランシスコ平和条約にも「カイロ宣言の履行」がうたわれて引き継がれている以上、その法的効力に疑問を呈しても意味はないでしょう。ポツダム宣言と降伏文書は、日本が敗戦国としての法的拘束力を持つ国際法上の法的文献と考えるべきです。

 台湾独立派の中には「カイロ宣言は署名もなく新聞発表に過ぎない。国際法上の拘束力はない」と主張する人もいますが、それでは戦後の「中華民国体制」を否定し、台湾の国際法上の地位も危うくなります。戦後体制とその歴史を遡って否定する立場はとるべきではないというのが私の考えです。
カイロ宣言の有効性
 降伏文書ですが、これは1945年9月2日に、東京湾京湾上のアメリカ戦艦「ミズーリ」の甲板で調印されたものです。第6条には「ポツダム宣言の履行及びそのために必要な命令を発しまた措置を取る」とし、協定によりポツダム宣言の受諾は外交文書上確定されています。「カイロ宣言」から「サンフランシスコ平和条約」に至る台湾および沖縄に関する規定注ⅵを脚注に付しました。
質問8)戦後の日本では,植民地支配を反省する人と否定する人がいます。時には謝り、時にはそれを否定する二種類の傾向が同時に存在する。歴史を正視し戦争を反省することは,未来の大勢ではないでしょうか?
 日本語でカタカナの「ガイジン」という場合、白人と黒人を指すことが多く、アジア人は「ガイジン」とは呼びません。また多くの日本人は自分を「アジア人」とは考えず、「先進国人」と思っています。そこに、福沢諭吉の主張以来、今も強く残るアジア蔑視がみることができます。

 歴史的にみましょう。1945年の日本の敗戦を、多くの日本人は米国に敗北したのであり、中国に負けたのではないと受け止めています。その意識は、中華人民共和国が誕生した直後に朝鮮戦争が始まり、冷戦体制に入ったことによって、中国大陸や朝鮮半島への「加害責任」を忘れることができた歴史的経緯もありました。

 ですから1965年の日韓条約でも、朝鮮の植民地支配を謝罪する文言が入らなかった。歴史認識より、ベトナム戦の激化から共産主義を封じ込める「抑止戦略」が先行したからです。朝鮮半島では1988年以降の民主化の過程で、慰安婦問題をはじめ強制連行に対する賠償責任を追及する声が出てきました。

 中国の経済成長が著しく、2010年にGDPで日本を追い抜き、世界第2位の経済大国になりました。福沢が言った「遅れた朝鮮清国のごとき国」が、日本を経済力で追い抜いた現実を受け入れることができない。自らを「先進国人」と考え、中国は今も「共産党独裁と人権無視」の劣った国と考える人たちは、殖民地支配と侵略に対し、反省と謝罪を表明した1985年の「村山談話」を受け入れられないのです。
質問9)あなたは台北で生活し、台湾人とも接触が有りました。日本の植民地50年という歴史は、今も台湾人に一定の影響を与えています。日本の台湾植民地支配に ついてどう考えますか?
日本文化が混じった台湾文化
 陳水扁のスピーチライターを務めた司馬文武(江春男)は、李登輝元総統(写真 和服を着た李登輝氏)について「李登輝は不思議な人である。台湾人の心を持ち、日本人の思考方法と欧米の価値観を持つ。同時に中国的な社会、文化背景の中で生きている」と、私のインタビューに答えたことがありました。李登輝氏に限らず、日本統治時代を経験した第1世代と、その末裔である第2、第3世代の知識人には同じような傾向がみられます。まさに中華文化を基礎に、日本文化と先住民文化の混合した台湾人の意識形態と言えると思います。
 台湾で特派員をしていた約4年間、日本人であることを理由に不愉快な思いをしたことは全くありませんでした。住んでいた台北のアパートでは、階下の中学生が家に帰ると「ただいま」と元気な声を上げる。日本語世代の祖父母と一緒に生活するうちに、日本語のあいさつがしみ込んだのでしょう。中国語では「ただいま」に相当する日常語はありませんから。

 台北は雨が多い街です。細い路地で傘を差しながら歩くと、向うからくる傘の人とすれ違う。台北ではそんな時、お互いが傘を傾け「衝突」を避ける人が目立ちました。ある台湾人はそれを「日本統治時代の物腰が引き継がれている」とコメントしてくれました。同じ中華世界でも人々の立ち振る舞い、物腰、しゃべり方は大陸と香港、台湾では皆違う。文化、歴史、言語の違いが物腰や表情まで変えてしまうのです。「それが今も台湾人に刷り込まれた日本文化ですよ」と、日本語世代の台湾人は言いますが、私もそう思います。

 台湾政治大が昨年12月行った台湾人アイデンティティ調査で、自分は「台湾人」と回答した人は60・6%で初めて6割を超えました。92年には24%あった「中国人」は3・5%、「台湾人でもあり中国人でもある」は32・5%で、いずれも過去最低でした。「台湾人」という回答は、李登輝政権時代の92年にはわずか18%弱だった。しかし第1回総統選挙(96年)で台湾海峡が緊張した翌年の97年には30%台に跳ね上がりました。
「非中国化」の背景は?
 第3、第4世代の台湾人の「去中国化」(非中国化)意識が進み「台湾共同体意識」が強まっていることの表れでしょう。これは馬英九政権下で両岸関係が大幅に改善され、両岸が経済・社会両面で一体化が進んでいることの反作用でもあります。ただ台湾文化の基礎を形成する中華文化は、今20代の第4世代になっても大きく変わることはないと思います。文化の根底にある中国語がなくならない限り。

 最後は日台関係の現状と将来についてお話しします。1949年に台湾問題が起きて以来、日台関係は常に「両岸対立」の構造から認識され、日中関係の「反射鏡」の役割を果たしてきました。「両岸対立」の前提は、「冷戦期」と「ポスト冷戦期」には、日台双方に「親台=反中(親中=反台)」「親日=反中(親中=反日)」という「zero sum」の固定観念を生みだしました。

 現在、世界は「多極期」に入り「両岸対立」の構造が崩れ、「両岸協調」(2008~)の歴史的変化が起きました。そうなると日台関係は単なる「反射鏡」ではなく、日本に主体的な台湾政策を選択させる幅を与えることになります。まさに日中台の「triple win」と言ってよいと思います。「triple win」は「両岸協調」という基礎がないと、冷戦期の「zero sum」へ後戻りしてしまう。その意味で両岸関係は、日中韓が対立関係にある中で、東アジアで唯一平和的環境を保障する関係を維持するという戦略的に重要な関係にあると言ってよいでしょう。

 日本政府は70~80年代を通じ、良好な日中関係を背景に、台湾高官の訪日制限など、厳格な「一つの中国政策」を実施し、台湾も敢えてこれに挑戦しませんでした。変化が表れるのは「ポスト冷戦期」からです。1989年の天安門事件と96年の台湾海峡危機で、日本人の対中感情が悪化する。一方、民主化を進める李登輝・台湾への印象が好転(「反射鏡」の典型)しました。李氏も戦略的に「親日台湾」を演出する。その結果、日本世論の中には植民地統治を肯定するような「甘え」と「おごり」が生まれます。李登輝さんは、台湾民主化では積極的な役割を果たしましたが、彼が創り上げた台湾人の「親日幻想」のツケは大きい。
日台関係の不変要因
 最後に、日台関係の不変要因として次の4点を挙げたいと思います。(1)「72年体制」(1つの中国政策)は、台湾の民主化によって挑戦を受けているが、その枠組みは確固としており、日米両政府とも「72年体制」を崩すことはない(2)安保、経済・社会の非政治的領域や人道領域では、日本が主体的選択をすることは可能(3)日台関係は日中関係の「反射鏡」だが、両岸協調の中では政策選択の幅は拡大する。投資保護協定、日台漁業取り決めがそれに当たる(4)米国のように軍事情勢に変化を与えるような主体性はなく、中国に利益を脅かされた時に発揮される「受け身の政策」が当面は続くー。

 結論的に言えば。「一つの中国政策」を尊重し、馬英九体制の下で両岸ともに否定しない事実上の「2つの中国」に敢えて決着をつけない曖昧な「現状維持」がベターな選択だと思います。2016年の次期総統選で民進党候補になった蔡英文さんが「現状維持」を強調しています。これは陳水扁時代に顕著だった「台湾独立カード」の乱用は、中国の大国化という環境変化の中で日米とも支援しない。民進党政権が誕生しても、李登輝、陳水扁時代のような軍事緊張状態が再現する可能性は低いと思っています。         
  
牡丹社事件
1871年(明治4年)台湾先住民が、南方(現屏東県)に漂着した宮古の琉球人54人を殺害した事件。先住民が居住する「牡丹社」の名前をとって「牡丹社事件」と呼ばれる。同年11月、那覇を出帆した69人乗り組みの宮古島船が、航海中に嵐で遭難。12月17日台湾南端に漂着し、66人が台湾先住部族の襲撃に遭い、54人が殺害された。事件は、明治政府が翌72年、清朝と薩摩に「両属」していた琉球王国を、日本に併合する「第一次琉球処分」に直結する。現地に明治政府が建立した記念碑には「琉球藩民」と記載されているが、殺害された時は「琉球国民」だった。琉球を併合した事実を強調するための表記と思われる。その2年後の74年、明治政府は、初の海外出兵となる「台湾出兵」を断行した。台湾出兵は、琉球国民遭難の「報復」が直接の動機だが、台湾先住民地域(蕃地)を「無主地」として、清国の領土外と見なしたところは、尖閣領有と同様の論理のようにみえ、興味深い。
西来庵事件
台南庁噍吧哖(タパニー、現台南県玉井)で発生した武装蜂起。地名から「タパニー事件」とも、首謀者が余清芳であったことから「余清芳事件」ともいう。台湾本島人による最後の抗日武装蜂起とされる。
蒋渭水(しょう・いすい 1890年8月6日 - 1931年8月5日)は、宜蘭出身の社会運動家。日本統治時代の台湾で「台湾文化協会」及び「台湾民衆党」を創設し、左派非暴力民族運動の指導者の1人。
台湾の総鎮守として、明治34年(1901)台北市郊外の剣潭山に創建された。当初の祭神は、台湾出征中に病没した北白川宮能久親王と開拓三神。昭和19年(1944)に天照大神を増祀して台湾神宮と改称。
ⅴ   河上民雄著『勝者と敗者の近現代史』(かまくら春秋社、2007年)に詳しい。
 
1943年12月発表 カイロ宣言 満洲、台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコト 米、英、中華民国
1945年7月26日(日本への発出日) ポツダム宣言 カイロ宣言の条項は履行されるべき。又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに吾等の決定する諸小島に限られなければならない。 米、英、中華民国
1946年1月27日 連合軍最高司令官訓令 第677号 日本の領土は4島(北海道、本州、四国、九州)及び対馬諸島、北緯30度以北にある約1千近くの島からなる琉球諸島」と規定。 尖閣には明示的に触れず
1951年9月8日署名 サンフランシスコ平和条約 第二条(b) 日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する 第三条 北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)~中略~を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度におく
同年9月18日 周恩来外交部長 上記条約には中華人民共和国が準備、起草、調印に参加しておらず法的根拠がなく無効で、受け入れられない
1953年12月25日 米国民政府布告第27号 サンフランシスコ条約に基づき、新たに琉球列島で米国民政府及び琉球政府の管轄区域を、北緯24度・東経122度区域内の諸島、小島、環礁及び岩礁並びに領海とした。 尖閣諸島は含まれる
 
(了)
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