「邪馬臺国」論争に終始符を打った男 
          
 
天皇制と日本史 【朝河貫一から学ぶ】 
矢吹 晋
 矢吹さんの長年の研究成果をコンパクトにまとめた著作集が発刊された。題して『天皇制と日本史――朝河貫一から学ぶ』(2021.8.1、集広舎)
 副題の朝河貫一(1873-1948)は歴史学者。日本人初のイェール大学教授、矢吹さんの高校(福島県安積高校)の大先輩であって、かれはこの偉人に啓発されて、学問してきた。朝河貫一の専門分野は天皇制・日本史で、矢吹さんの専門は現代中国である。
専門分野をいささか異にしているが、矢吹さんの中では、二つの分野は不即不離の関係にあって、 本書の中身は以下の如くである。
序 章 日本史における天皇制
第1章 「大化の改新」は天皇による革命である
第2章 日本史の封建制は源頼朝に始まる
第3章 ジェフリー・P・マスの二重政体論が見落としたもの
――日米日本史の陥穽
第4章 ペリーの白旗騒動は対米従属の原点である
第5章 明治維新を経て、武士道は国民の道徳に成長した
第6章 沖縄のナワを解く――サンフランシスコ講和から沖縄不返還協定まで
第7章 日中誤解は「メイワク」に始まる――田中角栄訪中から中国封じ込め論の復活まで
補 章 「黥面文身」を九州に追放した白鳥庫吉帝国主義史観――笠井新也の邪馬台国論を再評価する
 
 この目次を見ても、日本と中国とが、どこで、どう関連しているのか、分からない。しかし、両者は実は歴史的に分かちがたく関連しあっているのである。その関連を、この短い文章では、とうてい紹介し難い。そこで、補章の邪馬台国論争を、例にとって、本書のスゴミを紹介することにしたい。表題は、「邪馬臺国」論争に終始符を打った男、とする。

 邪馬台国論争とは、卑弥呼の邪馬台国の所在地は、北九州か、畿内かという論争であるが、もとはと言えば、中国の歴史書『三国志』中の「魏志倭人伝」の読み方の問題である。日本の学者は「魏志倭人伝」を漢文で読む、しかし矢吹さんは中国語で読む。

 ”読み始めてまもなく、「邪馬臺国」はただ1度しか登場しないことに気づいて驚いた。すなわち「倭」は25回、「倭国」は3回、「女王」は13回、「女王国」は5回も登場するなかで、「邪馬臺国」が1度しか登場しないのはなぜか。これを考えながら、原文を再読して気づいたのは「倭国」が通称であること、「女王国」は「倭国」の当時の特徴を踏まえた、言い換え表現にすぎないことであった。
 「邪馬臺国」とは何か。これは実質的に「女王国」の言い換えであり、「魏志倭人伝」全体から読み取れる文脈では、「倭国」あるは「女王国」と同義であり、それ以外のものではない。では、あえて「邪馬臺国」の四字で表記したのはなぜか。これに着目して該当箇所を読み直すと「邪馬臺国」の四漢字が浮き上がり、たちまち「ヤマト」に変身した。”(pp.564-565)
 ”この奇妙な体験によって私が気づかせられたのは、四文字が「女王国」側の「自称」に他ならないことであった。「魏志倭人伝」の執筆者にとって「倭国」あるいは「女王国」という表記は、「既知」の概念であり、「倭国」にせよ、「女王国」にせよ、容易に何らかのイメージを想定できる。これに対して「邪馬臺国」の四文字は、いわば音声を表記した当て字であり、漢字自体には意味がない。「倭国」あるいは「女王国」側の人間が「そのように発音した」とう伝聞を適当な音声で記録したものにすぎない。つまり、私がここで感じた体験は、使者が「ヤマト」と発音したものを記録者が「邪馬臺国」と記したにちがいないという思いつきであった。この簡明きわまる事実を誤解したことが、不毛な邪馬台国百年論争の始まりではないか。事柄の実質は、「ヤマト」という自称に対して「魏志倭人伝」に執筆者が、あたかも万葉仮名のように当て字を書いただけのことなのだ。それゆえ、私の想定が正しいとすれば、これは明らかに畿内の大和について語ったものであり、三世紀半ばの大和朝廷の姿を同時代伝聞として記録したものである。”(pp.565-566)
 
 目から鱗が落ちた。そこで、邪馬台国はヤマトである! という仮説をもとに、邪馬台国論文集をめくってみた。すると、笠井論文が見つかったというのだ。

 笠井新也(1884-1955)。徳島県生まれ、國學院大學卒、長らく郷里で中学教師を勤めながら考古学の研究を続け、晩年は徳島大学の講師も務めた。
 論文は4篇。

 ①「邪馬臺国は大和である」(『考古学雑誌』第12巻第7号、1922.3)
 ②「卑弥呼時代に於ける畿内と九州との文化的並に政治的関係」(『考古学雑誌』第13巻第7号、1923.3)
 ③「卑弥呼即ち倭迹迹日百襲姫命(やまととひももそひめのみこと)(一)」(『考古学雑誌』第14巻第7号、1924.4)
 ④「卑弥呼の家墓と箸墓」(『考古学雑誌』第32巻第7号、1942.7)

 これらの論文の中身がすごいのだ。
 文献学的に解明できる邪馬台国の問題点は、ほとんどすべて完璧に解決している。「年代の一致、人物事績の一致、墳墓の一致」がある。卑弥呼の墓は百襲姫命の御墓である箸墓であって、現在の奈良県桜井市箸中に所在している。航路は、瀬戸内海ルートではなく、日本海ルートで、出雲を経て敦賀経由で大和に入った。

 「既に年代の一致あり、人物事績の一致あり、而してまた墳墓に関する記載の一致を見る。卑弥呼即ち百襲姫命であることは、愈々決定的である。」(『考古学雑誌』第32巻第7号、p.350)
 矢吹さんは言う。
 「笠井が長い研究の果てにたどりついた結論は、卑弥呼の墓は、箸墓以外は考えられない。卑弥呼は、倭迹迹日百襲姫命に比定するのが、最も合理的な推定である、というものであった。笠井が戦前の時点で、『魏志倭人伝』と『日本書紀』とを重ねて読み解くことによって到達したこの結論は、邪馬台国の全面的解決として画期的であったにもかかわらず、これが一冊の本にまとめられるに至らなかったことは惜しんであまりある。汗牛充棟の類書の海で、笠井の先駆的な業績が、ほとんど忘れされようとしている状況は、まさに経済学にいうグレシャムの法則を彷彿させる。」(pp.577-578)
 次は、この前方後円墳を掘って、考古学的に実証することである。この古墳は、宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定(じじょう)されているが、天皇陵でなく、幸いなことに発掘許可は下りている。奈良県立橿原考古学研究所や桜井市教育委員会による陵墓指定範囲外側の発掘調査によると、すでに墳丘の裾に幅10メートルの周壕とさらにその外側に幅15メートル以上の外堤の一部が見つかっている。後円部の東南側の周濠部分では両側に葺石を積み上げた渡り土手がある(ウイキペディア)。調査は始まったばかりだが、時間の問題である。
 2021年3月27日、NHK Eテレ特集が「誕生ヤマト政権~いま前方後円墳が語り出す~」を放映した。前方後円墳形式の確立をもってヤマト王権の誕生を確認する考えは、笠井新也が探求した方向と符合している。矢吹さんは、言う。
 「笠井新也説が百年後に考古学の成果によって実証されつつあることは、近来の快事である。それは同時に帝国主義史学の埋葬をも意味する」と。
 帝国主義史学とは、本居宣長に始まり、「黥面文身」を九州に追放した白鳥庫吉らの説を指している。
21世紀中国総研事務局長 中村公省
2020年7月19日
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