中国的なるものを考える(電子版第2回・通算第45回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第2号 2004.7.15   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


こんめい ビエンチャン  
昆万公路を行く


 六月に入ると、留学生は夏休みにはどこに行くか、あれこれ考えることになる。筆者は以前から今年の夏は、チェンマイを起点にビルマに入り、マンダレーの周辺を訪ねることにしていた。だが、飛行機でチェンマイに飛ぶのは、あまりにも芸がない。多くの留学生たちが事もなげにやっているように、シーサンパンナからラオスに抜け、北部タイに入る、陸路のコースをとることにした。
 当初、バックパッカーたちがカンボジアやタイからラオスを通り、シーサンパンナを経て昆明にやって来ているのを聞いて、少し羨ましさを感じていた。だが、その後、わが雲南民族大学の同学(留学生)たちもまた、当たり前のように、このコースを辿ってタイに南下したり、あるいはそこから雲南へ北上したりしているのを聞き、この道が、もうアドベンチャー型の旅行者が挑戦する困難なコースではないことを知った。
 我々のなかで最もタイ、ラオスに詳しいピジューン(日本人)の話では、雲南との国境の町ボーテンから古都ルアンプラバンにかけては、中国人の進出が著しく、その街道の半分くらいまでは人民元が通じるのではないか、とのこと。
 もう十年近く前、奈良の大学を出て阪神地域の会社に就職するはずであったピジューンは、あの阪神大震災に遭遇する。内定を取り消された彼は、その後、アルバイトをしながら海外を旅するようになる。シンガポールからイギリスに渡り、そこで英会話を習った後、ヨーロッパを回り、東南アジアに戻ってきた。今度はバンコクで五ヶ月ほどタイ語を勉強し、さらに北上、昆明に現れ、民族大学で中国語を学んでもう二年半になる。ところが、その間、西安に行ったことがあるだけで、北京にも、上海にも行ったことがない。視線はいつも南を向いている。そして彼は、タイの留学生から絶大な信頼を得ている。
 ラオス北部では、中国人の進出が目覚しいというピジューンの話に力を得て、とにかく行けば何とかなるだろうと、陸路での南下を決意した。出発の前夜、突然、タイ北部の農村で、梅やマナオの植樹を推進している梅林正直氏(三重大名誉教授)から、昆明空港の売店で売っている大理の天滋烏梅を買ってきてほしいとの電子メールが入った。「タイの山岳民族の村で烏梅を生産させてみたいのですが、天滋烏梅が最高のサンプルなのです」とのこと。
 自分は明日、バスでラオスに向かうこと、陸路で行くので、空港は使わないこと、でもウォルマート(昆明で一番大きなスーパー)に寄るので、そこで探してみるとの返信を送ったのだが、やはり何とかしなければと思い、出発の朝、空港まで買いに行った。結果は上々、運良く、注文通りの天滋烏梅を手に入れることが出来た。
 六月二十一日、慌しく、出発の準備をすませ、夜八時半、景洪行きの寝台バスに乗りこむ。一番良いバスだというだけあって、たしかに豪華であった。まず、寝台への通路に入る前に、ビニールの足袋を持たされた。何かと思っていると、それを靴やサンダルの上から着けなければ、乗り込んではいけないという。つまり通路は、土足禁止であった。また、それぞれ靴下が支給され、寝る時にはそれを履いて寝るようにとのこと。おそらく、頭の下に伸ばされた隣客の靴下の臭いで寝られないなどという苦情への対策であろう。さらに、車内にトイレが設置されている。初めてトイレ付きのバスに乗れて一安心だと思っていたところ、夜中に起きて小用をたしに行っても、トイレのドアが開かない。やむをえず、まだ起きていて運転手と駄弁っていた車掌に、その旨を告げると、大きな鍵を持ってきて、ものものしくドアを開けてくれた。ドアには、喫茶店やレストランのトイレと同じように、「厳禁大便」と書いてあった。
 朝、八時頃、景洪南站に到着。九時過ぎのバスに乗り、午後三時頃には雲南最南端の県、勐腊に着く。街道に沿って極端に長く延びた城鎮であった。バスターミナルには、昆明への直行便が数台並んでいた。また、待合室の運行表には、ラオスへ向かう、ムオンサイ(毎日、料金30元)、ルアンプラバン(週三便、90元)、ビエンチャン行き(週三便、170元)のバスが載っており、これで間違いなく、普通のバスに乗ってラオスに入ることができることを確認した。ただ、明るいうちに着くこと考えると、一先ず、一番近いムオンサイを目指すことにする。
 翌日八時、ムオンサイ行きのバスに乗り込む。運転手には予め、自分が日本人であること、ラオスのお金(KIP)を持っていないのでどこかで両替したい旨を告げた。バスはターミナルを出た後も、町の中をゆっくりと回り続け、客とともに、洗濯機や冷蔵庫、肥料、バナナの苗木等、たくさんの荷物を載せて行く。結局、勐腊を出発したのは九時半頃であった。心配していた国境での出境、入境手続きは、何事もなく終わった。自分が日本人であることを知っている乗客が何かと気をつかってくれたので、随分助かった。運転手に両替の件を催促すると、銀行で換える必要はない、彼に頼めばよいと、我々と同じ三十元を払っていた客なのに、先ほどから運転手と一緒になって客の荷物を積み込んだり、下ろしたりするのを手伝っていた三十代の男を紹介してくれた。ラオスではアイスキャンディを売っているという彼は、将来は広東でビジネスをやりたいという。僕が、広東人は手ごわいよというと、「勉強だよ」と一言。残念ながら、彼は、僕が数日しかラオスに居るつもりがないことを知り、両替の話に興味をなくしたらしく、自分の荷物とともにムオンサイのはずれでバスを下りてしまった。
 二時過ぎ、ムオンサイのバスターミナルに着く。両替のあてをなくした筆者は、少し慌てて、運転手にどうすればいいか聞くと、駅前の食堂を指差し、あそこの女主人(老板娘)に頼めばいいと教えてくれた。早速、大理飯店と書かれた、いかにも中国の農村にありそうな食堂を訪ね、またいかにもやりて風の、若い女主人に両替を申し込む。百元、十二万八千KIPだという。予想したレートよりはるかによかったので、結局、三百元ほど両替する。大理飯店に泊まってもよかったのだが、バスターミナルの近くに何軒も中国語で○○飯店とか△△賓館と書かれた看板が見えていたのを頼りに、道を逆戻りし、二軒ほど訪ねてみる。ところが、中国語の看板を出しているのに、出てきた女性たちは、誰も中国語が話せない。結局、二軒目に泊まったのだが、料金は僕が五千KIP札を何枚か出し、彼女がそのなかから四枚を受け取ったことで、二万KIPとわかった。日本円に直せば二百円ほどであろうから、去年からの旅行では、もっとも安い宿代であった。その値段に相応して、建物は古く、部屋も決してきれいだとは言いがたかった。ただ、シーツが取り替えてあったことと、ファンがついていたこと、そして共同のトイレが、水をたっぷり使えるタイ式トイレであったので、一日泊まるには何の問題もなかった。
 翌日の昼、ムオンサイを出発、六時過ぎにルアンプラバンに着く。バスターミナルはまるで市場のようなところで、勝手が違って、いったいどうしようかと迷っているところ、三輪バス(トゥクトゥク)の客引きがやってきて、メコン河沿いのゲストハウスが並んでいるところまで、五万KIPだという。ムオンサイからルアンプラバンまで三万KIPであったので、ふざけるなと思い断る。だが、市内バスなどない場所なので、こちらもどうしたらよいか困っていると、またやってきて今度は一万KIPだという。それでも高すぎると思い黙っていると、最後に五千でどうだというので、やれやれと思い、トゥクトゥクに乗り、メコン河沿いの、ナイトマーケットの近くで下ろしてもらう。その付近はゲストハウスが多く、泊まる場所に心配はいらない。筆者が泊まったのは英語を話す女主人の居るこぎれいなゲストハウスであった。部屋代、一日四ドル(トイレ共同)を四万KIPにしてもらった。
 翌日、丸一日、ルアンプラバンを散策。前述のムオンサイは州の中心地とはいえ、勐腊などに比べればはるかに田舎であったが、ルアンプラバンもまた古都と知られているとはいえ、田舎町としかいいようがないところであった。家と家の間隔が大きく、都市という感じがしない。多分、そこが気にいっているのであろう、欧米の観光客の姿が目立った。ナイトマーケットに隣接して、カフェやブティック、みやげ物屋、旅行代理店などからなる一種の洋人街ができつつあり、多分それもまた、この町の魅力になるのかもしれない。ナイトマーケットの売り子たちは、みな女性であり、そして何となく商売慣れ、客慣れしていないように見受けられた。チェンマイのナイトバザールの商人たちのふてぶてしさなどとは比べものにならないほど、素朴で、初々しい。売っているものはほとんどが衣料品なので、こちらも買いたくても、ほとんど買うものがない。手にしたものを買わずに返そうとすると、困ったような、辛い顔をされると、こちらも何か悪いことをしたような気持ちにさせられる。
 二六日早朝、ビエンチャン(万象)に向って出発。もともとの計画では、ルアンプラバンからメコン河を北上し、フェイサイ(Huayxai)から、対岸のタイ側の町、チェンコンに渡る予定であった。だが、ルアンプラバンがとても気にいってしまったので、もう少しラオスを見ておかなければと考え、ビエンチャンに向うことにした。多分、ラオス全体がそうなのだと思うが、この街道も、山また山を越えて続いて行く。山はとても起伏に満ちて、谷も深く、眺めはとても良い。ビエンチャンに近づくにつれて、ようやく平地が少し広がり始め、タイの農村風景に似てくる。五時、目的地に到着。
 ビエンチャンのバスターミナルは市街地に近く、歩いて宿を探すこともできるはずだが、道がわからず、やむをえずトゥクトゥクに頼んで宿に運んでもらう。『Lonely Planet』にも載っているそのゲストハウスは、一日六ドル。部屋は狭いが、トイレ付きで、まずまずといったところであった。ビエンチャンはルアンプラバンに比べればあきらかに都市だが、我々の首都のイメージからすると、小さな、やや古びた中都市である。いかにも農村的なルアンプラバンと比べると、少し中途半端で、見劣りがする。ルアンプラバンでは、中国語の看板は二、三軒しか見なかったので、ここではどうかと思い気にして街を歩いてみると、所々に見ることができた。だが、文字がいずれも繁体字だったので、古い華僑系の商店ではないかとの印象を受けた。
 二八日朝、ビエンチャンからバスで、メコン河を渡り、タイ側に出る。ノンカイ、ウドンターニを経て、翌日の朝、チェンマイに到着。
                                                     七月八日、チェンマイにて