中国的なるものを考える(電子版第3回・通算第46回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第3号 2004.9.15   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


ラーショの町にて:シャン・ステート(ミャンマー)

  7月22日、チェンマイからマンダレーに飛ぶ。筆者が泊まったE・T・ホテルは、ゲストハウスといった方が近いのだが、女将、従業員とも親切であった。老板娘(Laobanninag、女将)は、雲南籍、新中国成立後、両親が毛沢東の支配を逃れてミャンマーに来たという。彼女はちゃんとした国語(Guoyu)を話す。両親から学んだという。
 ミャンマーの旅では小さなホテルやゲストハウスがとても大きな位置を占めている。『地球の歩き方・ミャンマー編』は、記述が簡単で、情報量からすると『中国西南編(雲南・四川・貴州と少数民族)』や『ベトナム編』などとはとても比較にならない。おそらく、立ち上がり始めた観光業の現状からすると、細かい情報を載せても、変更が多く余り意味がないことも原因の一つかとも思われる。だが、細かい情報が載っていなくても、ホテルやゲストハウスの老板や従業員に聞けばほとんどのことは分かる。また、大方の場合、彼らは親身になって考えてくれるので、安心して相談できる。例えば、ゲストハウスでサイカ(自転車タクシー)を頼んでも、ぼられるようなことはない。それゆえ『ミャンマー編』は『ベトナム編』のようにトラブル処理に大きな紙幅を割き読者を驚かせる必要もない。

 7月25日、朝早くバスでマンダレーを立ち、シャン・ステートの町、シーポーに向かう。約7時間。国土としてミャンマーの四分の一を占めるシャン・ステートは、雲南の徳宏地区やシーサンパンナ、ラオス北部、タイ西北部と同じように、豊かな森林地帯である。だが、国道沿いから見える景色は必ずしもそうではなかった。
 筆者が7月中旬に見た国境の反対側、つまりタイ側の、チェンマイからメーホンソンにかけての国道沿いの景色は、森また森であり、山地はもちろんのこと、山間のなだらかな起伏の土地でもほとんど耕作されず、樹木が茂るままに放置されていた。まるであたかも、水田に適した平地以外は耕作せずといわんばかりの光景であった。それは、4月中旬に見た、瑞麗(雲南徳宏タイ族ジンポー族自治州)から大理への帰り道、保山付近で見た山上まで畑地が広がり、疎らに樹木があるだけの荒涼とした風景とは対照的であった。その時、雲南漢族はやはり紛れもない漢族であり、同じように緑を食う人々(グリーン・イーター)であることを実感させられた。それに比し、人口6千万人を擁するタイが、このように広大な耕作可能な土地を未耕のまま、国民を養っているばかりか、食糧の輸出大国であることに、タイの底力を感ぜずにはいられなかった。その話をチェンマイに戻ったおり、何時もお世話になっている梅林正直先生(三重大名誉教授、農学専攻)にしたところ、タイ人は平(たい)らな土地を耕すから、タイ人なのだと冗談を言われた。
 話をシャン・ステートに戻すと、シャン族は山地を耕す人々である。もちろん、他のタイ系諸族と同じように、水田を営む人々でもある。バスから見える山地は、耕されているところ、森林に覆われたところ、半々であるように見えた。ただ、耕されているところも、山肌が赤く露出しているようなところはなく、その点が、帰りの飛行機から見た他のビルマの山地の印象とは違うように思われる。
 シーポーではシャン族のオーナーのゲストハウスに泊まった。筆者は、瑞麗(雲南)と国境を接しているムセ(Muse)に行ければと思い老板に尋ねたところ、軍当局の特別な許可が必要だと言われ、今回は諦めることにした。それでも、その途中のラーショまでは行けるので、早速翌日、日帰りの日程で出かけることにした。

 7月26日、朝5時半、まだ外は暗いなか、ちょうどゲストハウスの前に停まったバスに乗って、ラーショに向かう。バスは満員であった。途中から小雨が降り出し、8時頃ラーショのバス・ステーションについた時には、肌寒く感じられた。ラーショのバス・ステーションは町からやや離れたところにあり、バスから下りた後、うろうろしていて、一人取り残された格好の筆者は、どの方向に行けばよいのか分からない。駅員らしき人も英語ができず、シーポー行きのバスを待っている乗客に"Can you speak Chinese ?"と尋ねても、反応はなかった。思わずぼそっと "有没有会说汉语的?"(中国語ができる人はいる?)と言ったところ、そばから中年の男の人が"我会"(できる)と声をだした。彼の中国語は完全なネイティブの中国語で、問題は瞬く間に解決してしまった。彼の言うとおり、10分ほど道なりに歩いていくと、すぐにラーショの町に辿り着いた。
 ラーショは第二次世界大戦の折、昆緬公路のビルマ側の起点の町として知られる。筆者がどうしても訪ねたかった所以でもある。市街地はそれほど大きくなく、坂がちで、道は至るところ縺れあっている。それが、却って町が賑やかに見える要因をつくっているように思われた。小さな町に密集している店のほとんどが、ビルマ文字の外に漢字の屋号を掲げている。おそらく、雲南との貿易からであろう、町全体が活気に満ちていた。
 雨の中しばらく町を散策しながら、腰の落ち着けるところを探した。なんの変哲もない普通の中国風の食堂(餐館)の店先で、cofeeという文字を見かけたので、店員に声をかけると、慌てて女主人を呼びに行った。出てきた30歳前後の女将は、タイやミャンマーの女性より色白で、顔が大きかったので、「cofee」を指さしながら"这是什么?" (何?)と尋ねると、コーヒー・パックを持ってきた。砂糖入りのコーヒーは普通飲まないのだが、それを飲みながら、チマキを食べ、雨宿りすることにした。彼女も雲南人で、原籍は保山だという。筆者がラーショには華人が多いと聞いているがと尋ねると、ラーショの人口(10万余)の三分二は華人で、主に雲南人だと教えてくれた。彼女の国語(Guoyu)は、学校で学んだのだという。話方が、中国の女性らしく、さっぱりしていて、感じの良い女性であった。

 店の中では、ミャンマー人の若い男が、小さな女の子にうどんを食べさせており、そばから初老の女性が、ああしてやれ、こうしてやれと口を挟んでいた。男が女の子を保育園に送りに出た後、老板娘に尋ねると、彼は彼女の妹の夫で、女の子は、当然にもその娘。そして傍から口を出していた女性は、彼らの隣人であった。筆者が中国に住んでいると知って、その初老の女性は、原籍が南京で、最近故郷に帰り、ついでに万里の長城も見てきたと、盛んに僕に話かけたがっていた。しかし、彼女は中風のせいで、言っていることがあまりはっきりしない。結局、老板娘が通訳してくれた。
 小一時間ほどすると雨も止んだので、また町をぶらつくことにした。土産物屋で、ほしかった布製のバッグを見つけたので、声をかけると2500チャット(350円位)だという。流暢な国語(Guoyu)を操る老板は、筆者が買いたがっているのを見ると、簡単にはまけてくれなかった。頼みこんでようやく2200チャットにしてもらったが、掛け合いで買うことに不慣れな我々はとうてい彼らの敵ではない。
 正午が近づいてきたので、帰りのバスに乗ろうと道を急いだのだが、却って道を間違ってしまった。焦って、タクシーやピックアップ(四輪トラックバス)の運転手に声をかけるのだが、バス・ステーションも"车站" (chezhan)も通じない。筆者の焦っている様子を見て、運転手の一人が、中国語がわかる中年の女性を連れてきた。話していると、他に三、四人、シャン族風の女性たちが集まってきた。こちらは、とにかく正午のバスでシーポーに帰るので、駅まで送ってほしいと言っているのだが、どういうわけか話がうまく通じない。僕がため息をつくと、いままで傍で黙って聞いていた女性たちが一斉に中国語で話かけてきたのには驚いた。結局、ピックアップを貸切り、12時少し前に、バス・ステーションに着いたのだが、バス乗り場には数人しか待っていなかった。次のバスは、12時ではなく、1時だった。

 翌日の午前中は、ゲストハウスの従業員(カレン族)に、付近のシャン族の村を案内してもらった。トレッキング・コースの一部らしく、途中にお茶を飲ませる休憩所があり、そこで父が福建人で母がシャン族だという27歳の華僑の青年に会った。広東籍の老板について貿易をやっており、前日、瑞麗(雲南)から戻ってきたばかりであった。雲南語も話せるという彼の中国語の発音は、とても聞きやすく、話がはずんで、それまでいろいろと疑問に思っていたことに答えてもらった。どこで中国語(標準語)を学んだかを聞くと、やはり学校だという。中国語の学校かと聞くと、普通の学校だ、英語などを学ぶように中国語も選択できたという。さらに、シャン族と徳宏のタイ族は同じかどうかを聞くと、違うという。理由は言葉(方言)が違うからだという。また、中国に何を売っているのかを尋ねると、玉蜀黍だというので、甘いのか聞くと、甘くない、豚や鶏の飼料だと答えてくれた。彼の話では、当地の主要な農産物は、水稲、陸稲、玉蜀黍、豆類だとのこと。
 その夕方、シャン・パレスを訪ねた。シャン・パレスは1962年までシーポーを治めていた藩王(saopha)の館である。シャン・ステートは1959年の時点で34の藩に分かれていた。ネ・ウィンの軍事クーデター(1962)により、シーポーの藩王は、軍に連行され消息を断つ。藩王に嫁していたオーストリア人女性 Inge Sargent は、アメリカに渡り、その後"Twilight over Burma:My Life as a Shan Princess"を書く。筆者は昨年夏、チェンマイの書店で、Silkworm社(チェンマイ)から出版されたその本を見つけ、今回、訪ねてみる気になったというわけである。現在、その館には藩王の親戚夫婦が住んでいる。訪ねてきた人々に、シャンの歴史を熱心に聞かせていると、ガイドブックにあったが、実際にその通りであった。  
                                                  9月10日 於昆明