中国的なるものを考える(電子版第5回・通算第48回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第5号 2005.1.15   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


僕の小さな「長征」
 
 昨年11月2日から12月20日まで、また旅に出た。昆明から夜行バスで貴州省興義に向かった後、以下の町に泊まった。望謨、羅甸、凱里、黎平(以上貴州)、鳳凰、龍山(湖南)、恩施、巴東、神農架(湖北)、(宜昌から十堰への夜行バス)、内郷、桐柏、商城(河南)、安慶、黄山市屯渓(安徽)、建徳(浙江)、浦城(福建)、(鷹潭から瑞金への夜行バス)、瑞金(江西)、梅州(広東)、龍岩(福建)、州、吉安(江西)、韶関(広東)、嘉禾(湖南)、興安、三江(広西)。三江に着いたのが12月1日、ほぼ一月をかけて貴州を目前にするところまで戻ってきたことになる。その後は、南に向かい広西、海南島各地を回った。陽朔、梧州、桂平、南寧(広西)、(南寧から三亜への夜行バス)、楽東、瓊中、州(海南)、南寧、憑祥、龍州、天等、隆林(広西)。48泊49日の旅行だが、37個所のホテル(旅館)に泊まったので、一昨年4月、中国に入って以来、宿泊したホテル、旅館は、東南アジア、香港を含めて99個所になった。二度訪れたところはカウントしていない。さらに、一昨年秋以来、借りている現在の雲南民族大学教職員宿舎を含めると、百個所の宿泊施設に泊まったことになる。昨年秋の旅行ぐらいから、何をしていると聞かれた時、旅行家と答えることが多くなったが、それも少しは様になってきたのではないかと思う。

 旅の途中色々なことに出会った。湖北神農架では、最初に入った旅館のマネージャーらしき男から公安に登記に行こうと言われついて行ったところ、公安からここは対外未開放地域だと言われ、いや自分は房県を通って十堰市に向かうつもりだったのだが、途中北上するバスがなく、止むをえずここに来たので、未開放地域だとは知らなかった、と答えると、十堰に行くのはいいが、房県も対外未開放地域なので、房県を通ってはならないと念を押されてしまった。結局、その日は、公安の傍のホテルに泊まることになったのだが、神農架から襄棥へのバスが朝5時半の一本しかないので諦め、翌日一旦宜昌に下り、そこから再度十堰に向かった。

湘西「月下小景」の一部

 長江以北の湖北西部は、交通の便が悪く、心細い思いをしながら、バス代わりに走っているワゴンを乗り継いでようやく、房県や十堰行きのバスが出ている神農架に辿りつき、神農架生態旅行開発区の中心松柏には比較的最近になって建設されたと思われるホテルが並んでいるのをみてホッとしたところ、思わぬ目にあってしまった。こちらの言い分を言わせてもらえば、今時(対外開放政策に転じて20年以上もたつというのに)、国道(209号線)が域内を貫いている神農架や房県を対外未開放だというのは、少し理不尽ではないかと思う。特に神農架は旅行開発区なのに、どうして対外未開放なのだろうか。多分、それも当局の勝手なのだろう。だが、筆者のように、中国製の道路地図を片手に旅行するものが、これからもっと増えるであろうし、そのなかには、筆者のように、知らずに対外未開放地域に入り込む人間も多くなるだろう。その都度、迷い込んで来た外国人旅行者を追い出すのであろうか。何とかしてほしいものである。

 旅の、或る意味では、今回の目的地ともいうべき江西に入ったのが、11月21日。本来は、上 か、その周辺の県城に泊まるつもりが、なかなかその気になれず、鷹潭のバスターミナルで瑞金行きの夜行バスがあるを見つけ、すぐに飛び乗ってしまった。古びた寝台バスで、あまりの寒さに夜1時頃目が覚めた。客は一人も残っていなかった。多分、瑞金に着いてしまったのであろう。車掌が瑞金は初めてか、と聞く。そうだとは答えたものの、夜分、日本人だとは知られたくないので、あまり話す気にはなれない。小便はどこでするのか、と聞くと、その辺でしろという。躊躇していると、「随便!」(自由に) と急がされ、暗いなか構内で用を足してしまった。車掌たちは、積み込んであった荷物を下ろすと、さっさといなくなってしまった。暗いなか、一人だけバスの中に取り残されてしまった。ただ、幸いなことに、後から2、3台バスがやってきて、残った客のためであろう、ビデオを見せているらしく、その灯が少し気持を楽にしてくれた。周りの被子(薄い掛け布団) をかき集めて、なかに潜りこむと寒さはなんとかしのげそうだった。このくらいのことで寝られないなんて言っていたら、旅行家とはいえない、などと考えているうちに、そのまま眠ってしまった。

湘西鳳凰

 6時半、尿意で目が覚めた。すでに明るくなっていて、人が行き来していているのが見えた。バスのドアは当然にも錠がかかっていて開かないので、運転手たちを待つほかなさそうだった。下の寝台の窓は開くのだが、そこから下りるのは、人に咎めらる可能性があった。だが、7時になっても誰もやって来ない。自然の欲求は強まるばかりで、そろそろ限界だった。折よく、バスの傍を通りがかった人がいた。窓を開け、ここは瑞金かと声をかける。何で当たり前のことを聞くのか、というような様子で、そうだと答える。窓から外に出ながら、運転手たちはみんな下りてしまって、戻って来ないんだと言うと、彼らは家に帰ってしまったのだろうという。それはそうだけれど、少しは残った客のことも考えてくれないと困ると思いながら、トイレに駆け込んだ。 

 瑞金から梅州、龍岩を回り、26日、于都行きのバスに乗り、再度江西に入った。4時過ぎに于都に着いたのだが、当てにしていた興国行きのバスは、もう出た後だった。やむなく、その日は、州に泊り、翌朝、9時のバスに乗り興国に向かう。11時過ぎに到着、12時半出発の東固行きバスに乗り込む。今回の旅行のために買った地図に、興国の北50kmに東固、そしてその西30km、東固―吉安の間に富田という地名を見つけた時から、東固、富田に行くと決めていた。中国共産党史における最大の粛清事件の発端となった富田事変(1930年12月)、そしてその犠牲となった東固・興国の党。当時、東の東固山、西の井岡山と呼ばれた、東固山地を拠点とした東固・興国の党は、中国共産党江西党部の中核であった。折から中共第一方面軍総前敵委員会を背景とする毛沢東等と李文林を指導者とする江西党部は、抜き差しならない対立関係にあった。1930年11月、国民党の革命根拠地に対する第一次包囲が始まるなかで行なわれた、毛沢東らによる、李文林の逮捕(AB団反革命分子容疑) とその後の江西党部への力の行使は、江西人を主体とした紅軍第20軍の反毛沢東蜂起(富田事変)を招来する。結局は江西党部に対する大量粛清、江西党部の壊滅をもたらす。革命根拠地の中心が江西にあったにもかかわらず、何故、解放後、党及び国家の中枢に、江西人がほとんどいなかったのかを決定したのは、この一連の事件であった。
東固鎮1

 東固に着いたのは2時15分頃であった。東固に着く30分くらい前から、ひどい山道が続き、意外に時間がかかってしまった。5時前後の日の暮れまでに、吉安(80km先) に辿りつくためには、すぐにでも、三輪タクシー(トゥクトゥク)か、バイクタクシーか、とにかく何かをつかまえて、それを乗り継いて行くしかなかった。暗い中、山道を走るのは、不安だった。運転手に外国人だと告げるつもりはなかった。もしバイクタクシーしかなかった場合、事はより面倒だった。昨年、ラオガイからサパまで1時間、今回、客家の土楼を見るため永定で3時間ほどバイクタクシーに乗ったが、いずれも、日本人だから慣れていないのでと断ったうえでのことであった。もし、山道の途中でバイクから放り出されでもしたら、あるいは車の事故で小さな町に泊まることになれば、また公安のお世話になりかねなかった。

東固鎮2

 東固までのバスのなかで、あれこれ最悪の結果についても考えたが、それでも絶対に富田を経て吉安に行くと決めていた。しかし、辿りついた小さな東固の町には、三輪タクシーはおろか、バイクタクシーの影もなかった。多分、待てば、バイクタクシーは来るだろう。だが、何分待てばいいのだろうか。心配になって辺りを見回していると、40、50メートル先に小さなバスが見えた。近づいていくと、バスの前に「敦厚―東固」と書いてあった。どこに行くのだろう。もう一つ、小さく、さかさに、青原と書いたカードが見える。ふと思い当たって、吉安に行くのかと聞くと、三時の吉安行き(吉安市青原区) だという。助かった。それまでの心配はもうどこかに行ってしまった。僕が辺りの風景をデジカメで撮っていると、バスの周りで遊んでいた小学生たちが6、7人寄ってくる。写真が直ぐ出てくるのと聞く。デジカメをポラロイドカメラと勘違いしていたらしい。いや、写真は出て来ない、でも後ろのモニターで今撮った写真が見えるよというと、自分たちも撮ってほしいという。一枚撮り終ると、近くに革命記念碑があるという。それも撮ろうということになって、駆け足で記念碑に向い、着いて来た4人の子供たちを記念碑を背景に何枚か撮る。ほかに、毛主席の題字がしてある記念館もあるという。この辺は子供たちが早口で、今の僕のレベルでは残念ながらはっきりとは聞きとれない。でも、毛沢東と聞いて、僕の気持が動かない。時間がないからと断って、後は、子供たちとダベることにした。姓は何かと聞かれ、Fuだと答える。どこから来たの? 昆明から来た。昆明てどこ? 雲南省にあるんだ。何をしているの? 旅行家だよ、タイにも、ミャンマーにも行ったことがある。ほら、これはミャンマーで買ったバッグだ。ミャンマーの文字は、僕たちの文字と同じ? いや、違うよ、このバッグに書いてあるのがミャンマーの文字だよ。日本に行ったことがある? 行ったことがあるよ。また来る? 今回だけだよ。えっ、もう来ないの? うん、何年か後にまた来ようかな。そんなことを話しているうちに時間が来てしまった。

東固鎮3

 バスが走り始め、子供たちに手を振って別れを告げた後、やはり自分は日本人だと言うべきだっと後悔した。吉安への道は、思ったより平坦で、一部が工事中なのを除いてきれいに舗装されていた。バスが1時間ほど走った頃、東固と同じくらいの小さな町が見えてきた。店の看板かなにかに、富田とあるのが見えた。この何の変哲もない町が富田なのかと、やや感慨を新たにしているうちに通りすぎてしまった。東固から富田一帯は、生態保護区に指定されているらしく、山は樹木に覆われ、山間の低地に水を貯めているらしく、低い田畑に、水に浸かった後が残っている。地方当局が、如何なる考えで、この山々を自然に帰そうという試みを行なっているのか、想像もつかないが、それが実を結んだなら、少なくとも傷ついた英雄たちの鎮魂の助けにはなるだろう。そう願わざるをえない。


                                               昆明にて、2005年1月2日