中国的なるものを考える(電子版第6回・通算第49回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

プロフィール>>
電子礫・蒼蒼
第6号 2005.5.11   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


帰国はしたけれど--「反日」に思うこと
 
 3月31日に帰国して、すでに一ヶ月が過ぎた。雲南に気持ちを残してきたようなところがあり、別に日本に慣れたいとは思わないのだが、時の流れとは抗しがたいもので、次第に日本における日常に戻りつつある。残念だといえば残念である。
 もう一つ、筆者を白けさせているのは、例の中国の「反日運動」の隆起である。いらぬおせっかいと知りつつ言わせてもらえば、豊かになったとはいえ、民主化運動すらできない人たちが、やりやすい反日運動で憂さ晴らしかと思うとなさけない。東アジア、東南アジアのどの国でもどの社会でも、少し経済的に豊かになり、中産階級が数を増せば、彼らは政治舞台に登場し、政治の民主化を求めるのが常であり、現実に幾度かの弾圧を潜り抜け、民主化を実現させてきたのである。だが、その点において中国は例外らしい。
 もちろん、中国はすでに民主化している--なんていっても民主集中制だから--だの、欧米的な議会政治や選挙制度が最善のものであるとはかぎらないだの、またそれらは中国の国情に合わないなど、あげようと思えば、そうできない理由を幾らでもあげることができるだろう。だが、それらはいずれも現状(独裁)維持しか考えられない支配者側の理屈でしかない。

漢中から宝鶏へ

  旅の途中、いろいろな人に出会った。帰国直前、三度目に訪れた湘西鳳凰では、南方長城を見た帰りのバスで、僕が日本人であることを知った大学生らしき若者から突然、村上春樹について聞かれ、大いに面食らった。唐突にCunshan ChunshuのNuowei de Senlinと言われても、一体何ついて聞かれているかわからない。鳳凰では小陳と一緒に名所旧跡を回っているのだが、彼とはよく環境保護のことを話題にしているので、北欧の森林事情について聞かれたのかと思ったぐらいである。
 村上春樹の『ノルウェーの森』について聞かれていることがわかっても、遺憾ながら彼の小説を一冊も読んだことがないので困った。へそ曲がりな僕はベストセラーは読まない。デビュー以来、彼はずっとベストセラー作家なので、結局これまで読む機会がなかった。北京から来たというその若者によれば、村上春樹の小説のほとんどが翻訳されており、彼はそれらをほぼ読んでいるとのこと。
 現在、中国の若い作家たちも村上春樹の真似をしているのだが、思想性の高さにおいて到底及ばない、とも言ってくれた。彼が北京の大学生だとすると、4月の反日デモに参加したのだろうか。気になるところである。
 昨年11月、一日宿を借りた広西のある公路招待所の責任者は、別れ際、突然、中国において何ゆえ今なお多党制を認めることができないかを語りだした。多分、初めて泊めた外国人に、最後に何か一言大切なことを言わなければならない気持ちになったのだろう。彼曰く、広大な中国を治めるためには、いまだ多党制は無理であり、一党独裁を続けるしかないとのことであった。でも、そうだとしたら、10億の人口を抱えるインドが、今後も経済発展を続けたら、どういうことになるだろうか。単に人口が多いばかりでなく、民族間、宗教間、カスト間の対立が厳しいインドにできることが、どうして中国にできないのか、その時にはあらためて説明しなければならなくなるだろう。

 また陝西の漢中では、こんなことがあった。3月初旬、バスで四川側から陝西に入ったのだが、漢中に着いた時にはすっかり暗くなっていた。バスターミナルの前に大きなホテルがあり、そこに泊まれることはわかっているのだが、僕は意地になって別のホテルを探した。ところが、商務賓館も外貿賓館も外国人は駄目とにべもない。商務賓館などは表にBusiness Hotelと書いてあっても、駄目だという。よほど外国人客が少ないのだろう。うろうろしていると、若く少しこわめの美人の客引きに呼びとめられ、ついていく。招待所の看板はかかっているが、中は小奇麗で、案内された部屋は60元だという。これはよかったと思い、実は日本人なんだが、大丈夫かと聞くと、大丈夫よと言ってくれた。だが、現場責任者らしき若い男がうんと言わない。彼女は早速、老板(laoban)に電話をかけたのだが老板にも駄目と言われ、僕はすごすごと引き上げざるをえなかった。彼女は何度も僕に「対不起」(duibuqi、すみません)を繰り返した。
 なおも宿探しを諦めずに、僕がバスターミナルの前を横切って別の通りに向かおうとした時、停めてあったタクシーの中から先ほどの彼女が出てきて、これに乗れという。運転手を紹介しながら、彼が別のホテルに連れて行ってくれる、知り合いだから大丈夫だという。知り合いの運転手に頼んでくれたらしい。それでも、不安がなかったといえば嘘になるが、彼女にありがとうを言って、タクシーに乗り込んだ。タクシーが連れて行ってくれたのは、通りから一つ路地に入ったところにある、ちゃんとしたホテルで、80元の部屋を見せてもらった。多分、初めての外国人客だったらしく、フロントの女性たちは、最初は恐る恐る話しかけてきたが、僕が20年前の留学生だと知ると、安心したらしい。翌日、前夜のタクシーに乗って、バスターミナルに向かう。中年の運転手は、多分、僕に好意を示したいらしく、何かと話しかけてくる。いま、日本と中国の関係は最悪で、まるですぐにでも戦争が始まるみたいで心配だよ、でも、戦争では、中国人も日本人も、人民はいつも被害者なんだよね、と言う。僕は彼の気持ちがとても嬉しくて、そのとおりだねと答え、大人同士の関係が難しいように、国と国の関係も難しくて、それがもともと普通なのだから、そんなに心配しなくてもいいと思うよ、と続けた。
 彼の言うように、日本人も日中戦争の被害者だったとしたらどれだけよかっただろうか。だが、あの戦争は総力戦であった。日本人の多くが積極的にあの戦争にのめり込んだのだった。単なる被害者ではなかった。だから、中国人がいまだに日本人を恨んでいても不思議はない。韓国人にだって、同じことがいえる。だが、今、中国人がその恨みを個々の日本人に向け、具体的な暴力として表したとしたら、それは犯罪であり、法律で罰されなければならないし、損害に対しは弁償しなければならない。それは法治国家として当然である。
 中国でデモが起きること自体は、問題ではない。もちろん、それが反日運動であっても、である。社会にはいろいろな人がおり、意見の相違はいつでもある(日本製品不買運動などは、噴飯ものだが、今後の教訓のためにも是非やってみたらよいと思う)。反日デモは韓国でも、香港でも起きた。だが、それらと中国の反日デモと異なる。韓国でも香港でも、日本人に対する暴力や威嚇など起きていない。そこが、政治的自由のある社会とない社会の違いであろう。政治的自由のない社会において、反日デモだけが黙認されるとしたら、そのデモは社会の様々な鬱憤の公然たるはけ口となる。実際には、事態はもっと深刻で、反日デモだけではなく、「反日」自体が、中国社会の様々な矛盾のはけ口となっている。

広西桂平県金田鎮


 2003年10月末、西安で起きた西北大学日本人留学生寸劇事件の直後、筆者が受けていた雲南民族大学の留学生向けの漢語コースの授業で、この事件が話題となった。ちょうど新聞記事を読む授業だったのだが、講師に、どう思うかと聞かれたので、たとえ日本人留学生に非があったとしても、暴力は暴力であり、暴力を振るった人間は法律に照らして罰せられなければならないと答えた。さらに、法が問題とするのは行為の形式であり、内容(意図)ではない。もし内容を問えば、法治はできない、とつけ加えた。講師(女性)は筆者の答えが気に入らなかったらしく、人民の怒りを買ってはならない、昆明は大丈夫だが、もし騰衝--抗日戦争の激戦地--に行ったら気をつけるようにと、怖い顔で言った。僕の方もそのまるで威嚇でもするような言い方にカチンときて、彼女の授業に出ることはやめてしまった。その時、僕が言いたかったのは、法が内容を問題にするようになれば、解放後、「革命無罪」によって旧地主富農や旧資本家、そして知識分子がさんざんぶちのめされたように、「愛国無罪」で日本人が標的になり、中国人の溜飲が多少下がったとしても、それが中国人にも適用されないという保証はないですよ
、ということであった。党員であるその講師は、自分たちにも適用される可能性などまったく心配していないようだった。

 そんなこともあり、事件のあらましが明らかになった後、筆者は当時書きかけていた論文の冒頭に、事件の概略を載せ、その背景から伺えることとして、現在の中国において日本人は潜在的なスケープゴート状態にあると書いた(「アジア的生産様式論再考(二)--単一権力社会の形成」『明治大学教養論集』385号)。論文に組み込むにはやや無理があるかとも思ったのだが、その時感じたことをどうしても具体的な文章として残しておきたかったので、強引に挿入してしまった。その時の見方--日本人が潜在的なスケープゴート状態にある--は、今もまったく変っていない。ただ、今度の一連の反日デモでは、それが大規模な、誰にでも目につく形で現われた、ということである。

南方長城


 将来、2005年4月の一連の反日デモを振り返ったとき、これが一つの転換点として記録されるだろう。特に、各メディアの論調から、戦後、一貫してあった中国への大きな配慮がすっかり消えてしまったことが印象的である。逆にいえば、戦後、中国がずっと当てにしてきた日本人の贖罪意識を、中国は、今後、利用することはできなくなるということである。我々の世代、我々のように中国に深入りした人間は、そう簡単に贖罪感を捨て去ることはできない。だが今後は、それと現在の政治や外交とは別であるという、但し書きがいつもつくことになるだろう。