中国的なるものを考える(電子版第8回・通算第51回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第8号 2005.9.15   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


ホー(Haw)の末裔:雲貴比較論(一)

 先月(8月)下旬、香港から中国に入った。湘西(湖南西部)に一度立ち寄った後、貴州を抜けて雲南に入り、昆明に着いた。ところが、日本からメールが届いていて、帰国せざるをえなくなり、昆明に三泊、チェンマイ(北部タイ)に四泊した後、慌しく帰国した。二週間足らずの、しかも移動がちの、自分としては落ち着かない旅であった。とくに、昆明では、時間がなくて、お気に入りの漫林書苑に立ち寄れなかったことが心残りであった。

写真:昆明文化巷
昆明文化巷

 漫林書苑は学生街ともいうべき文化巷にある小さな書店だが、雲南、貴州、四川といった西南地区及び民族学(人類学)に関係した書籍を並べていて、田舎の割には洒落た感じがする店である。老板(laoban)は蘇州人、老板娘(laobanniang)は地元大理の人である。ともに三十代の彼らは、良い意味でとても野心的で、どのような本を置いたらよいのか、客にどんなサービスをしたらよいか、真剣に考えているようだ。近くに留学生が多いせいか、洋書も置いてあり、東南アジア(雲南も含む)関係の書籍を出版しているバンコクのホワイトロータス社やチェンマイのシルクワーム社の書籍なども手に入れることができ、けっこう便利に利用させてもらった。

 昆明の二つの大きな書店、新知図書城と清華書屋にも雲南関係もしくは民族関係のコーナーがあり、たくさんの本を並べている。これらの本は、雲南人民出版社、雲南民族出版社、雲南教育出版社などから出版されているが、まるで各社競って出版しているかのようである。雲南では、民族もしくは民族問題もビジネスになるとの感が強い。ところが、貴州に行くと随分様子が違う。昨年2月初めて貴陽を訪れたとき、大きそうな本屋を何軒も訪ねて歩いたが、地方史コーナーとか民族関係のコーナーのようなものはほとんど見かけなかった。貴州人民出版社や貴州民族出版社も、それらの本を出しているには出しているものの、その数は雲南に比較したらはるかに見劣りがする。雲南と貴州は、西南地方の、しかも雲貴高原にある、少数民族の多い、我々にはまるで兄弟のようにみえる二つの省なのに、実はかなりの違いがあるのではないかと、その時強く感じたことを覚えている。

写真:貴陽
貴陽

 2年前の春、昆明で暮らし始めて間もなく、雲南が気に入ってしまった。そうするとどうしても、この居心地のよい地帯がどこまで続いているのか、雲南の中だけなのか、雲南の外まで続いているのか、すごく気になった。それで、雲南周辺の、貴州、広西両省にそれぞれ一ヶ月、さらに四川南部、湖南西部にそれぞれ二週間、住んでみるという目標を立てた。実際には、それを旅行という形で一挙に実現するというのはなかなか難しく、結局、どんな形であれ、そこに泊まればカウントするということにして、ほぼ目標を達成した。貴州や広西は、何度も訪れたせいで、通算でそれぞれ30泊以上しており、同じく、湘西でも14泊以上したが、四川南部は、12泊に留まっている。

 筆者は別に雲南や貴州をフィールドにする研究者でもないので、西南各地を旅するといっても、中年バックパッカーの、ただのぶらり旅であり、それで何がわかるのかと問われれば、何もないよと答えるしかないのだが、それでも、土地や地方に対する感触のようなものは得られるのではないかと思っている。例えば貴州には、居心地のよい貴州と居心地の悪い貴州があるように思われる。湖南西部に隣接する凱里(Kaili)、銅仁(Tongren)両地区は居心地のよい貴州に属する。両地区は湘西と同じように、苗族、土家族、トン族などが多数居住している。それに比べて貴陽、遵義地区は居心地の悪い貴州に属する。

写真:清水江の渡し(鎮遠 -凱里の間)
清水江の渡し(鎮遠 -凱里の間)

 雲南はとても良いところだったと十年以上前の雲南旅行を懐かしがる湘西鳳凰の友人、小陳(Xiao Chen)によれば、貴州は雲南ほどではなかったとのこと。銅仁地区はどうだと水を向けると、自分たち湘西と同じだと、筆者の印象を肯定してくれた。貴州はまだ、行っていない地区があるので、全体的なことを言うには早いが、布依族が多く住む広西に接する南部一帯は、どちらかといえば、居心地が良い方に属するようにみえる。そして、筆者が行ったなかでは、畢節地区が最も印象が悪かった。西南地区において、長距離バスのなかでたくさんの乗客がやたらとつばや痰をはきまくる、などということは、ここと雲南昭通地区だけの経験である。実は、貴州畢節地区と雲南昭通地区は共通点が多い。互いに隣接しているせいだろうが、なんとなくさびれてみえる景観がとても似ていること、明代には、当時西南最強の彝族(ナス系)土司群が勢力を振るっており、明末清初の改土帰流によってナス系土司群が一掃され、一挙に漢化が進んだことなどの歴史的背景も類似している。雲南が好きといっておきながら、筆者の昭通地区の印象は、黔東北と同じように悪い。

写真:鎮遠
鎮遠

 雲南人に貴州人はどんな人たちかと聞くと、暴躁(baozao--荒っぽい)とすかさず答えが返ってくる。貴州人は話が大げさ、ほら吹きという雲南人もいる。では、貴州人は雲南人をどう思っているのだろうか。貴州人には友達がいないので、確信を持って答えることはできないが、遵義から畢節までバスに乗り合わせた貴州人の営業マンは、四川人が出稼ぎとしてどこにでも入り込んでいく--ラサみたいな息をするのも大変な高地でも四川人がうようよしている--の対し、昆明あたりの人間は省外になかなか出ようとせず、保守的だと評した。彼との話で一番気になったのは、彼が自分を南方人(Nanfangren)だと何のてらいもなく述べたことである。北方人(Beifangren)は商売が下手で、俺たち南方人には遠く及ばない、と誇って見せた。多分、こんな場合、雲南人が自らを南方人と一括りにすることはないと思う。

 昆明で、ハニ族出身の雲南民族大学の雇員の部屋を訪ねたとき、その夫(漢族)と話をする機会があった。何か商売をしているらしいその夫は、省外の人間との付合いはなかなか大変で、気づかれする。少数民族であれ漢族であれ、やはり雲南人が一番つきやすいと力説した。多分、それゆえ中年になってから、すでに婚期を過ぎていたハニ族の女性と結婚したのだろう。二人には子どもがなく、少し寂しそうで、その辺をこの男の人はどう思っているのかと、余計な詮索をしたのだが、今回訪れた昆明で、夫婦に子どもが生まれたことを知り、他人事ながら嬉しかった。

 我々雲南ファンは、時々、雲南人は中国人じゃないからとか、少数民族としての雲南漢族などといった冗談を言う。では、この場合の雲南人とは、一般的な雲南に住む人(省民)のことを指すのだろうか。或いはそれとも、中国の他の地方の人々とは異なったアイデンティティ(認同)を持つ人びとのことを指すのだろうか。つまり、我々が広東人、福建人、客家といった南方の民系を指す時のような、単なる省民を超えた強い意味合いを持つのだろうか。我々が最初雲南に住み始めた時、雲南人とは明らかに雲南に住む漢族を指していたように思う。でも、暮らすうちに、雲南に住む人全体を指すようになり、そしてさらに、民系の意味を込めて使うようになっているのではないかと思う。少なくとも自分の場合はそうであった。

 アン・マクスウェル(Ann Maxwell)の『商人と移民:東南アジアにおける雲南人のエスニシティと商業』(Marchants and Migrants:Ethnicity and Trade among Yunnanese Chinese in Southeast Asia,1998)は民系としての雲南人を論じた好著である。キャラバンを組み、茶、漢方薬などをもってやってくる雲南商人は長い間、タイやラオスの民衆からはホー(Haw)と呼ばれてきた。ホーの多くは雲南の回族(ムスリム)であった。後に漢族が多数を占めるようになる。清末には、ミャンマー北部やタイ北部にそれぞれ雲南人のコミュニティーがつくられ、さらには第二次大戦後、例の国民党とともに多数の雲南人が南下、ミャンマーやタイに居を定めた。国民党とともに南下したこの招かざる客、雲南人は、当初の慣れない農業環境のなか、いわゆるゴールデン・トライアングル地帯においてアヘンの栽培や売買に手を染めたりして、現地政府からも、或いは他の華僑たちからも、胡散臭い存在として眺められていた。だが、半世紀たった現在、彼らはタイ、ミャンマー社会の一員として暮らしており、且つ、東南アジアに住む同じ漢族、つまり華僑の主力であった潮州人、客家、広東人などとも異なった民系として存在している。

 雲南では、多分、シルクロードを意識してか、チベットやインドへと続く「茶馬古道」への関心が高く、それに関する書籍も随分と出版されている。この「茶馬古道」を通って貿易を行なっていた人びとは、同時にミャンマーやタイなど東南アジアに出かけていく人々でもあった。これらキャラバンを組んで出かける商人たちを馬幇(mabang)と呼ぶが、最近では馬幇の主人公とするテレビ・ドラマも何本かつくられている。当初、馬幇の話を聞いた時、貿易をする民というのは、どの世界にも存在する、どのようなプリミティブな社会にも通商の民、貿易の民は存在するので、多分、その類だろうとしか考えていなかった。また、筆者たちの目に映る雲南人は、広東人や福建人に伍して商売をやっていけそうにはとても見えなかった。事実、現在、雲南の主な産業は、相変わらず農業であり、近代的なものといえば、観光業しか存在しない。雲南で派手に商売をやっているのは、広東人とか上海人だという話も耳にする。そして、物売り、荷担ぎ、行商人として、四川人が続々やってきている。そこから想像できる雲南人は、せいぜいが雲南やタイ北部、ミャンマー北部、ラオス北部の、少数民族相手に細々とした商売をするぐらいの小商人である。

 しかし、ホーと呼ばれる雲南人が行き来した東南アジアは、通商の盛んな社会であった。アンソニー・リード(Anthony Reid)は、ブローデルの地中海世界をモデルに、南シナ海、マラッカ海峡やベンガル湾など海のネットワークを中心とした東南アジア史を構想しているが、ホーもまた、その世界に組み込まれていた。彼らが直接、アラビア商人と接触していたかどうかわからないが、ミャンマーではインド商人を相手に直接取引する機会ぐらいは十分にあったはずである。雲南回族にとって、インドのムスリム商人もアラビア商人もともに同胞であった。また、清末や民国期には、ホーもしくは馬幇はイギリス人やフランス人とも渉りあわねばならなかった。

 昨年8月末、雲南財貿学院の留学生説明会に出席したことがあった。ベトナムのラオカイで知り合った小阮(Xiao Ruan)が留学のため昆明にやってきて、財貿学院に入るのだという。彼女とその友人たちと一緒に食事をした時、明日開かれる説明会に、一緒に出てくれと頼まれたからであった。中国系ベトナム人の彼ら--多くは雲南籍の父母を持つ--は、互いに助け合って暮らしているようだった。説明会には主にベトナムからの留学生、少数ながらラオス、ミャンマーからの留学生、そしてその家族、親戚など、30数人ほどが集まっていた。説明にたった財貿学院の教員たちは、財貿学院が、現在は学院だが、近い将来に必ず大学に昇格すること、そして大学の規模は、すでに雲南で三番目の大きさであり、設備、講師陣ともに整っていることを、わかりやすく話していた。彼らが、雲南と東南アジア各国の経済的な結びつきや今後の経済発展を強調し、財貿学院はそのための人材を養成するつもりであると熱っぽく語っているのを聞き、彼らが紛れもなく、ホーの子孫であることを実感した。(未完)