中国的なるものを考える(電子版第9回・通算第52回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第9号 2005.11.15   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


ホー(Haw)の末裔:雲貴比較論(二)

 昆明の学生街、一二一大街は電脳街でもある。筆者が住んでいた雲南民族大学の宿舎は電脳街の傍にあり、まるで秋葉原の近くに住んでいるようなもので、古いタイプの秋葉族--部品やキットを買って何かを作ったり組み立てたりする物づくり志向の人間たち--である筆者にとっては、居心地は抜群であった。近くの電脳商場にある三星電子(サムスン)の売場には何回か通ったが、若い店員たちはみな気さくで親切だった。昨年4月初め、前年に買ったインターネット・カードの有効期限が過ぎて、直接、接続料を聯通(Liantong)に払わなければならなくなった。夕方過ぎ、どこに払いに行けば良いのか、サムソンの売場に聞きに行ったところ、居合わせた若い女性の店員が、もうすぐ仕事が終わるから、そうしたら連れて行ってあげるという。6時頃、彼女に連れられて--彼女は自転車で、僕はバスに乗り、百貨商場のバスストップで待ち合わせて--小西門交差点近くの聯通のオフィスに行ったところ、ここは電話料金は扱っているが、インターネット接続料は別のところへ行って支払うようにいわれた。とにかく支払場所がわかったことに加え、雨が降ってきたので、彼女はそのまま自転車に乗って帰宅してしまった。僕は、このまま接続料を払いに行くべきか、それとも新しい性能の良いインターネット・カード(接続料込み)を買うべきか迷って、そこで数分ぼーっと立っていたところ、彼女が戻ってきてくれた。多分、僕がどのバスに乗ればよいかわからず途方に暮れているのだと心配したらしい。大丈夫だからといって彼女を見送りながら、こんなことは雲南でしか起きないだろうと思った。サムソンの売場にとって、僕は数ヶ月に一度くるかどうかの客であり、すでに売ったインターネット・カードの接続料を僕が支払うために、彼女たちがいくらつきあっても、まったく何の得にもならない。それを勤務時間の後、四、五○分つきあってくれて、しかも雨が降り始め、早く帰りたいであろうに、まだ一元にもならない客のことを心配してくれるとは。雲南に来てよかったと思った一時(ひととき)であった。

写真:昆明一二一大街
昆明一二一大街

 では、貴州ではどんなことがあったかというと、実のところ、貴州では旅人にすぎず、具体的な出来事から、彼らがどんな人間であるか、描くことができない。でも、こんなことがあった。昨年11月初め、湖南、湖北に抜けるため、貴州南部を通り、続いて凱里から黎平行きのバスに乗った。所要時間は10時間ぐらいである。凱里を中心とする黔東南苗族トン族自治州は、貴州では最も自然が豊かで、美しいところである。苗族トン族自治州とはいえ、単に地図の上から見れば、トン族の方が比較的広い地域に住んでいるように見える。じっくり見たいところだが、先を急ぐ旅だったので、ただ通りすぎるだけですましてしまった。バスは都堰A三都を経て、再び黔東南の山中に入る。日中走るのにもかかわらず、寝台バスであった。隣の席に乗り合わせた青年は、小さなバッグを二つ持つだけの、学生か若い職工の帰省のように見えた。ただ、彼はほかにギターを抱えていて、それが気に入って声をかけ、すぐに仲良くなってしまった。この辺りの山々は樹木が生い茂っていてとても良いというと、自分の住む苗族の村は、こんなふうに木ばっかりだという。筆者が日本人だとわかると、周りの客からも声がかかり、中には自分の娘が東京に住んでいるという者もいる。話がはずみ、僕が今晩黎平に泊まるつもりだと聞いて、彼は、だったら是非自分の村に来て泊まれという。僕はその気になったのだが、彼が自己紹介のつもりで差し出した学生手帳を見て、思いとどまった。彼の学生手帳には公安学校と書かれてあった。問題はこちらにあるのではない。はたけば幾らかまだ埃が出るかもしれないとはいえ、こちらは所詮外国人であり、問題があればこの国から出ればよいだけのことである。だが、彼はそうはいかない。多分、学校に入ったばかりの彼は、外国人を無断で泊めてはいけないことを知らないか、それとも大した事だとは思っていないのだろう。しかも彼は公安学校の学生なのだ。もし、将来、それが問題になったとしたら、知らなかったというような言い訳はきかないであろう。最初の留学以来、この辺の問題には、僕らは人一倍気を使っている。彼の好意に甘えて、彼を将来窮地に追い込むことになっては悔いが残る。僕は急ぐ旅なので、明日には黎平から湖南に抜けなければならない旨を告げて、彼の申し出をやんわりと断った。彼はとても残念そうだったが、こちらも同じ思いだった。一人、貴州に友達ができるかもしれなかったのに、本当に残念というほかなかった。黎平のかなり手前で、彼がバスを降りた時、しっかり握手してこの気の良い若者にさようならを言った。

写真:凱里から黎平へ(榕江)
凱里から黎平へ(榕江)

 雲南で筆者が知り合った留学生たちは、いずれも旅行好きだが、彼らは雲南の次に、貴州、四川を良く回っているようである。そしてそれに慣れると、ラオス、タイ、ベトナムなど東南アジアに出かける。周りに東南アジアから来た留学生が多いことも理由の一つであろう。貴州を回ってきて貴州も良いというのは、高陽である。彼の姓は近藤だが、呼びやすいせいか皆からGaoyangと呼ばれ、それで通っている。彼が貴州も良いというのは、なるべく公平に見ようとして言っているのかもしれない。雲南民族学院の大学院生である彼は、今、雲南漢族移民史を研究している。彼は、立命館の東洋史を出た後、九大の大学院に入ったのだが、修論が通らず止むを得ず退学せざるを得なかった。その後、予備校で教えながら留学資金をたくわえ、もう一度歴史がやりたくて、雲南にやってきた。修論が通らなかったのは、指導者とそりが合わなかったのだという。昆明では(当初)他に歴史をやっている留学生がいなかったので、彼とは酒を飲みながらよく駄弁った。ある時、筆者がスパルタ市民とへロットの間の従属民が思い出せずにいると、ペリオイコイとこともなげに答えて、僕を驚かせた。多分、以前、疎まれたのは、宋代史を専攻する修士課程の学生としては、余計なことを知りすぎていると、思われたからであろう。あるいはひどく生意気に思われたのかもしれない。ただ、僕にとっては、彼は、歴史好きの、好奇心一杯の、申し分のない学生である。おそらく、関心のあるものは、それが彼の先生たちには好ましくないものまで、何でも読んでいたのだろう。ところが、同じように、自分の関心のあることなら何でも読んでしまう僕には、彼はかっこうの飲み友達であった。

 雲南への漢族移民を研究し始めた高陽は、それと対照する意味で貴州への移民にも関心を持って、突然メールで貴州の屯堡人(tunbaoren)のことを聞いてきたりするようになった。今夏、昆明で会った折、雲南と貴州との違いについて、大理民家(Minjia)の例を挙げて説明してくれた。大理の白族は民国期以前には民家を自称としてきた。本来、民家とは雲南に入った漢族の移民(民屯)のことであった。彼らは長い間に白族と融合し、白族も自らを他の少数民族と区別して民家を称するようになる(劉剛『発展的選択:社会文化変遷途程中的雲南民族集団』雲南民族出版社、1996年)。だが、このようなことは貴州では起きていない。明代に軍事移民(軍屯)として貴州に入った者は、けっして先住の彝族や苗族と混じることなく、漢族の誇りをそのままに、屯や堡に閉じこもり、孤塁を守り続けた(屯堡人)。彼らは、いつまでたっても江西人であり、湖南人であった。だが、それにもかかわらず、彼らの生活習慣、習俗は、後から来た漢族(客民)には奇妙に映り、時には、蔑まれることもあった。それに対し、雲南では、明代であれ、清代であれ、軍屯や民屯として雲南に入ったものは、みな雲南化したように思われる。

写真:田植え(大理)
田植え(大理)

 また、高陽は広西壮族の土司層が改土帰流により打撃を受けた後、宗族化しつつ勢力の維持を図ったが、このような例は雲南にはないのだという。確かに雲南には建水のように多数の科挙合格者を出した地方や騰衝和順のように有名な華僑の村もあるが、宗族の強い地方に特有の、宗族間の械闘といった話を聞くことはまったくないといってよい。

 このような高陽の話を聞きながら、一つ思いだしたことがある。呉棠『雲嶺叢談』(香港天馬図書有限公司出版、1999年)は、『毛氏族譜』に拠りつつ、韶山毛氏の始祖、毛太華は元の至正年間(1341〜1368年)に雲南永勝に移り、土地の娘(王氏)と結婚し八人の子どもをもうけたが、明洪武十三年(1380)、長子清一、四子清四を連れ湖南に戻り、数年の後、子どもたちは湘潭に移り住んだ、すなわち、これが毛沢東の遠祖だと述べている。呉棠によれば妻王氏は白族だろうという。なお、現在も永勝県の一角に、毛家村、毛家坡、毛家村といった地名があり、そこには毛姓が多数住んでいる。だが、家譜のようなものは‘四旧(sijiu)’打破や文革の時にみな焼き捨てしまったので、本当に韶山毛氏と同祖なのかどうか確認できなかったとある。調査員たちは、貧しい永勝毛氏村落と繁栄する湖南韶山とのあまりの違いに暗然とさせられたようである。だが、筆者には、それもまた雲南らしいと思う。

 雲南に来た漢族は、当然、独身男性が多かったと考えられるので、土地の娘たちと結婚する可能性が高かったと思われる。雲南の白族や彝族の女性たちは、漢族と結婚するのにこだわらなかったのであろう。それに対し、貴州にやってきた漢族は、そうではなかった。彼らは頑なに孤塁を守ったのである。また、後から来た漢族もまた、同じように互いに孤立しがちであった。それゆえ、つい最近になっても、『我們都是貴州人(我々はみな貴州人だ)』(藍東興、貴州人民出版社、2000年)などという著作を書かねばならないのであろう。なにゆえ、貴州への移民が、雲南漢族と異なり、少数民族と交わろうとしなかったのかについては、幾つか理由があろう。何よりも彼らはまず、彝族、苗族制圧のために少数民族地帯の真ん中に送り込まれたのだ。だが、これは雲南にもかなり当てはまるように思われる。雲南と異なったのは、その自然である。天に3日の晴なく、地に3里の平地がなし。猫の額ほどの小さな盆地、後は山ばかり。そして雨がちな天候。周りは移民への敵意を露にする彝族や苗族。開拓地を夢見て、貴州に入った移民たちは、みな騙されたと思ったに違いない。現実は厳しく、生活は貧しいがゆえに、漢族の一員であること以外に誇るものは何もなかったのであろう。今でも雲南よりはるかに貧しい貴州農村の光景をみながら、そう思わざるをえない。