中国的なるものを考える(電子版第12回・通算第55回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第12号 2006.5.15   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


小さな竹の家(タイ族その他について)

 雲南に住む日本人の大半が、多分、タイ族が好きに違いない。筆者もそうだ。1982年春節の折り、北京大学留学生の旅行団の一人としてシーサンパンナに入り、景洪周辺のタイ族の村を訪れ、案内された民家でソバ(のようなもの)をご馳走になって以来、ずっとファンである。当時、慣れぬ北京での留学生活にうんざりしていたせいか、タイ族の若い女性たちの笑顔に感動したし、そのこざっぱりしていて、シンプルないでたちに魅了された。

写真:① シーサンパンナ(勐混)
① シーサンパンナ(勐混)

 それなのに、2003年4月以後の雲南での2年間にシーサンパンナを訪れたのは、たった一回である(他にラオスに抜けるために、一度通過している)。それも2005年1月に臨滄地区から江城、緑春、金平に抜ける途中、二日ほど立ち寄ったに過ぎない①。自分でも意外な気がするが、四半世紀前の印象があまりにも鮮烈だっため、観光地化が進んだシーサンパンナを見たいとは思わなくなったというのが、正直なところだろう。ただ、同学たち(留学生)は、みな一様にシーサンパンナにはよい印象を持っているらしい。観光地化が進んだとしても、他の観光地と比較して、シーサンパンナの良さは依然として残っているようだ。
 雲南のタイ族は、雲南西部の、ミャンマー国境の徳宏地区(徳宏タイ族ジンポー族自治州)にもまとまって住んでいる。徳宏の中心、路西、瑞麗が『地球の歩き方』にも、きちっと紹介されているにもかかわらず、日本を含めて外国からの旅行者は少ない。2004年4月、小明(日本人留学生)と一緒に瑞麗(Ruili)に行き、三日間、水掛祭を楽しんだのだが、日本人には一人も会わなかったように思う。また、みかけた欧米人も、3人だけだったように記憶している。おかげで、あまり知られていない穴場を発見したような、少し得をした気分になった。

写真:② 姐勒仏塔
② 姐勒仏塔
 
写真:③ 姐勒仏塔
③ 姐勒仏塔
 
写真:④ 畹町(小川の向こうはミャンマー)
④ 畹町(小川の向こうはミャンマー)

 瑞麗での三日間には、姐勒仏塔②③、国境沿いの畹町を訪れた④。愉快だったのは、タイ族の村の水掛祭を見に行ったことである。小明が水掛祭に孔雀舞(kongquewu)をやっているタイ族の村があるので、それを見にへ行こうと言い出し、ついて行ったのだが、信じられないような出来事が起き(ミャンマー側の賭博場に連れ込まれ、ホウホウの体で逃げ帰ってきた)、辿りつくまで半日かかってしまった。瑞麗から弄島の間にある村の停留所でバスを降り、一緒にバスを降りたタイ族の娘さんに声をかけ会場を尋ねたところ、快く案内を引き受けてくれた。彼女は、会場が見えるところまで来ると、あっさり「再見!」と言って帰っていった。村の中心の広場には、人がすでに人が集まり始めていた。まだ昼食をしていなかったので、どこかで食事でもと回りを見渡しても、物売りも屋台も出ているように見えなかった。食堂のようなところがあったので、入ってみるとどうも様子が違う。戸惑っていると、「食事か」と聞かれたので、そうだと答えると、リーダーっぽい人にこちらのテーブルへ来いと言われ、彼らの傍に坐ると、まあ一杯やれとばかりに酒をつがれ、「どこから来たのか」と聞く。「昆明から来た学生だ」と小明が言うと、遠来の客だと喜ばれ、どんどん食べろと言う。多分、祭の日の村人たちの共餐(会食)の場だったのだろう。日本人だと言うと、もっと喜ばれたのかもしれないが、それは遠慮して、よい客人らしく振舞った。幸いにも、彼らの中国語(標準語)と我々の中国語のレベルがほぼ同じだったせいもあり、答えに詰まって、実は日本人ですなどと素性をバラす破目にはならなかった。彼らも、祭の日に、あれこれ無粋な質問をしてくるような穿鑿好きの人々ではなかった。
 広場では、片方で、真新しい揃いのブラウス、ロングスカート(筒裙)を着た女性たちによる踊りが始まっていた。それは盆踊りのような感じの踊りで、大きく輪になって、単調な太鼓のリズムに合わせて、ただただ踊りながらぐるぐる回るだけである。時々、曲の終わりらしきところがあり、ヒューという奇声とともに踊りは一旦終了する。だが、太鼓が鳴り出すや再び同じような踊りが始まるのである。ブラウスやロングスカートは、多分、地区ごとに違うらしく、シンプルとはいえ、グループごとに色や柄で区別されていた。踊っていた女性たちのほとんどが中年か、既婚であるように見えた。

写真:⑤ コンテスト
⑤ コンテスト
   
写真:⑥ 歌舞団
⑥ 歌舞団

 広場のもう片方では、まず選美(xuanmei 美人コンテスト)が行われ⑤、続いて地元女子歌舞団の踊りが披露された⑥。歌舞団の踊りのなかに孔雀を想像させる踊りがあったので、それが孔雀ダンスかとも思ったのだが、小明によれば、知られている孔雀ダンスは男性による勇壮なもので、我々が見たのは残念ながら違うだろうとのことであった。
 3時頃から小雨が振り出し、夕暮を前にして、揃いのブラウスを着た女たちは、それぞれ迎えに来たトラックに乗って帰っていった。勝手な推測だが、まだ村(日本風に言えば戦前の部落)のようなものが残っているような、我々の世代には懐かしい光景だった。
 雲南に住む日本人の常だと思うのだが、何か良い事があると、人に知らせたくないと思うところがある。観光客にせよ、長期滞在者にせよ、これ以上日本人が増えれば、物価があがり、心無いもの同士のトラブルが増え、日本人の評判が悪くなり、結果として自分たちが住みにくくなる。それを心配している。たとえば、筆者の場合、あの村の水掛祭のことが多くの日本人に知られ、バックパッカーや観光客がたくさんやって来たらどうなるかということを心配してしまう。多分、やってくる外国人が増えれば、売店や屋台が並び、物売りが声を張り上げ、親切を金で買うことになるだろう。
 冷静になって考えれば、中国人の観光客が増えてもまったく同じことが起きるだろう。僕らが心配してもどうにもならない問題である。また、観光地化が進むことで果たして人間が悪くなるのか、そんなことはなってみなければ分らないだろう。自分が北海道人なので特にその辺にこだわるのだが、北海道が観光地化して、北海道人は本当に悪くなったのでろうか、と。駅の方角を聞いたところ、駅が見えるところまで数分送ってくれたのは函館の中年の女性だったが、ほかのところで同じような親切が期待できるのだろうかと思う。また、タクシーに乗れば、話好きのドライバーがいろいろ親切にアドバイスしてくれるのも、北海道の田舎町タクシーならではだと思う。
 話を戻すと、瑞麗の旧称は勐卯(Mengmao)鎮である。このモンマオを中心に、元明期にタイ系のモンマオ王国が展開した。事態を重く見た明朝は三度大軍を派遣し、ついにモンマオ王国を滅亡させている。また、モンマオ王国の一部はビルマを抜けアッサム(インド)に進出、アッサム王国を築く。雲南からビルマ(ミャンマー)にかけて、歴史や民族など、いろいろ興味深い話題やテーマがたくさんあることが理解していただけたらと願っている。

写真:⑦ ムオンサイ・ルアンプラバンの間
⑦ ムオンサイ・ルアンプラバンの間
 
写真:⑧ ルアンプラバン
⑧ ルアンプラバン

 この二ヵ月後(2004年6月)、筆者は景洪、勐腊(Mengla)を通り、ラオスに入った。ムオンサイからルアンプラバンへのバスのなか、小さな竹の家を見た⑦。実はこれと同じような竹の家を瑞麗で見かけたのだが、その時はデジカメのバッテリーが不調で、写真が撮れなかった。その時ふと、この辺の冬は少し寒いと思われるのに、竹の家で大丈夫なのかと思ったことを覚えている。ラオスに入り同じような家を見かけたので、その後しばらく、竹の家を見るとシャッターを押すことにした。ラオスの主要民族はタイ系のラオ族である。⑧はルアンプラバンで偶然に見かけた一団を写したものだが、残念ながら何の一行か不明である。背後に竹で編んだ壁が見える。

写真:⑨ チャウメ
⑨ チャウメ

 ⑨は7月下旬に訪れたミャンマーの、シャン・ステートのチャウメという町で撮ったものである(シャン・ステートのシャン族もまたタイ系であり、地続きの徳宏ではタイ族と呼ばれている。因みにタイもしくはダイは、タイ系諸族の自称である)。朝、マンダレーからシーポー行きのバスに乗り、後一時間ほどでシーポーというところでバスは一時間ほど荷物を降ろすために停車したのだが、そこがチャウメであった。写真はその時、バス・ステーションのなかに立っていた建物である。竹の家とはいえ何となくこぎれいで洒落ているように見えたので写真をとっていると、若い男に声をかけられた。彼はこの中継所の職員で、ラーショの短大を出たと言っていた。多分、久しぶりの外国人で、英語レベルが同じくらいと見たらしく、すごく気に入られ、あれこれと質問を浴びせ、結局一時間ぐらい付き合うことになった。彼は茶の生産者として知られるパラウン族(モン・クメール系)の出身で、最近撮ったばかりの故郷の村の写真を見せてくれた。本当は傍にいた二十歳前後の、きれいな中国語を話す雲南人の若者と話をしたかったのだが、多分先輩に遠慮してか、ほんの少し話しただけでもう相手にしてくれなかった。

写真:⑩ シーポー周辺
⑩ シーポー周辺
 
写真:⑪ シーポー周辺
⑪ シーポー周辺
 
写真:⑫ シーポー周辺
⑫ シーポー周辺

 ⑩⑪⑫はシーポーの周辺で撮ったものである。竹で編んだとはいえ、いろいろと材料、編み方、デザインが工夫されていて、趣を感じることができる。⑬は同じくシーポーの周辺の農村の学校である。教室の中まで写したかったのだが、出てきた教師が不安そうな顔をして撮らないでほしいと言ったので、撮らないで帰った。シーポー周辺を案内してくれたのは、オーナーはシャン族のゲストハウスの従業員で、カレン族の青年だった。名前を聞くと難しいから覚えられないだろうと言って、以前に泊まった日本人につけてもらったと言ってムサシと呼んでほしいという。なぜムサシなのと聞くと、warrior(武人)だからと答えた。

写真:⑬ シーポー農村の小学校
⑬ シーポー農村の小学校


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