中国的なるものを考える(電子版第15回・通算第58回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第15号 2006.11.15   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


文化の境界を歩く

 旅をしていると、時々、今、自分は文化の境目を越えつつあるのだ、と思う時がある。たとえば、2003年11月、湖北十堰から河南南陽に向った時のことである。バスは途中、老河口(湖北)から北上し、河南側の鄧州、南陽に向うのだが、この湖北・河南の省境は、ちょうど中国を南方と北方と分ける淮河・秦嶺線の上にある。このラインの北側に住んでいるのは、麦(小麦)を食べる人びとであり、南側は主に米を食べる人びとだと考えてよい。淮南は、米の裏作に小麦を植えており、麦を食べないわけではないのだろうが、やはり人は、淮河をもって南北に分けている。
 我々日本人は一般に、中国を華北、華中、華南に分けるが、中国人が普段使っているのは、北方と南方という分け方である。日常の話のなかで、華北、華中、華南という分け方をしている例に出合ったことがない。
 中国の地図を見ると、植皮、土壌、農作物の組み合わせなどは淮河に沿って、南北に明白な違いがある。だが、南陽一帯は、淮河の水源である桐柏山地の西側にあり、地図を見る限り、植皮、土壌、農作物の組み合わせなどにおいて、明確な違いを認めることができない。実際にはどうなっているのか、というのが、当時の筆者の関心であった。
 老河口(湖北)で休憩したバスが、河南に入った頃、それまで道の両側に広がっていた水田に畑地が混ざり始め、みるみるうちに、水田が畑地にとって替わられていった。おそらく10分とかからなかったであろう、あたり一面がすべて畑地に変わってしまったのである。華北特有の、一面見渡す限り畑地が果てしなく広がる世界が出現したのである。実際には、南陽地区は、大きな盆地になっており、見渡せば遠くに山が見えるのが華北平原との違いである。

写真:華北平原(冀中)
華北平原(冀中)

 距離にしておそらく数キロの出来事であった。その間に周囲の景観は、南方の水田を中心とする景観から、畑地が広がる北方の景観に変わってしまった。あっという間の出来事で、強く印象に残った。南陽は古くから開かれ、かつ交通の要衝であった。後漢の開祖光武帝(劉秀)が南陽の出身であり、南陽豪族の支持をえて王朝を築いたことはよく知られている。その後の長い歴史の中には、湖北側から難民が押し寄せたり、逆に河南側から湖北側へと窮民が南下したりするような事態も多々あったであろう。そうなると、南陽盆地に逃れた湖北農民のなかに、平地に水を引き水田を作りたいというものが出ても不思議はないはずである。実際には、水田を畑地にするのは簡単だが、畑地に水を引くのは、それほど簡単なことではない。水を引くためには、周囲の協力が必要で、一人の力では無理である。もしくは、稲作のため水を引こうとしても、一人の力では大きな限界がある。それを考慮しても、もう少し水田が多くてもよいのではないかとか、水田と畑地の交錯地帯がもっと続いてもよいのではないかなどと考えた。
 河南だから、或いは河南人だから水田をやらないというわけではない。その翌日、南陽から桐柏(河南南部)に向ったのだが、桐柏に着く前後に、今度は全く逆のことを経験した。淮河上流を南に渡る少し手前だったと記憶しているのだが、周囲は畑地から水田へと急速に変わっていった。淮河の南、河南最南部は水稲地帯であり、そこでは河南人も安徽や江蘇の淮河以南の農民と同じように、米を作る人びとであった。
 我々日本人には、米と麦の差にやや偏見がある。我々は、条件さえ許せば人は必ず米を作るものだと思っている。水稲には適していないと思われていた寒冷地北海道の石狩平野や上川盆地を有数の水田地帯に変えたのも、内地からの移民(農民)であった。特に東北や北陸から渡ってきた農民たちは、寒冷地でも米を植えることを諦めず、五十年或いは百年をかけて次々と困難を克服してみせたのである。多分、中国南方の農民たちもまた、我々と同じような信仰をもっている。

写真:貴州東南部(黎平)
貴州東南部(黎平)

写真:貴州南部(望謨羅甸間)
貴州南部(望謨羅甸間)

 この旅は、貴州南部、湖南及び湖北西部の省境地帯を縫うようにして北上した旅の途中であった。これら省境地帯は山がちで、多くは畑地であったが、それでも低地や平地など少しでも条件のよいところには、必ず水田が広がっていた。十堰から老河口に向うルートは、武当山地の麓を漢水に沿って下るに従い、水田が広がっていることを見ることができた。それは、当然の景色であり、何の不思議もないように思えた。ところが、老河口を経て北上し、河南省境を越える頃、広がった平地が水田ではなく、急速に畑地に変わっていくことに出くわすことになる。そして、その畑地の向こうに華北特有の村落(集村)が現われる。
 そこに感じたのは、単なる景観の違いではなく、一種の信仰の違いに似たものである。ここでは、もう農民たちの考え方が根本的に違うのだ、と感じた。

写真:湖北西部(興山県白沙河)
湖北西部(興山県白沙河)

写真:江西吉安農村(東固鎮)
江西吉安農村(東固鎮)

 この同じ旅で、もう一つ印象的な出来事に出合った。江西吉安から韶関(広東)へは、小さなマイクロバスに乗ったのだが、途中、乗り込んで来た客(おそらく十人前後)が、車掌との間で、いずれも執拗な値切り交渉を行っていた。普通、路傍で待っている客は、車掌に行き先を告げ、車掌が言う運賃に納得すれば乗り、納得しなければ乗らない、或いは引き続き値段交渉を行う。とはいっても、毎日行っていることである以上、車掌が運賃を高めに言うのも、また値引きするにも限度があり、値段交渉もすぐ収まるところで収まるはずである。だから、途中から乗り込む客が揃いも揃って値段交渉を行う、などということは普段は見かけない。そんなことになれば、正直、時間の無駄だと思う。
 ところが、その路線の客は、乗り込む前に、揃いも揃って、みな執拗な値引き交渉を行うのである。客は車掌から値段を聞くや、みな一様に驚いた様子を見せ、憤慨した様子で、そんな高い運賃では乗れないとそっぽを向く。車掌は、まあまあ、と言う様子で車を降り、客をバスから少し離れた所に引っ張っていって、何やらひそひそと話し合い、折り合いがつくと、客を連れて戻ってきて乗り込ませるのである。すぐに話がつく場合もあれば、少し時間がかかる場合もある。また、複数の客は、なるべく一人一人切り離して交渉しようとするため、思わぬ時間がかかる。結局のところ、みなひどく憤慨したはずにもかかわらず、ほとんどの客は折り合いがついて、乗り込んで来た。中には、待っていたくせに、車掌が声をかけようとすると、わざとシカとしてみせるのもいる。でも、ほとんど例外なく、折り合いがつき、そのバスの乗客となる。
 別にこちらは急ぐ旅ではない。だが、これが次々と繰り返されると、少々食傷気味となる。またかよ、いい加減にしてよ、という気になる。多分、実際に値切る幅は一、二元か、或いは多くても数元というところであろう。それならば、初めから妥当な金額を提示して、交渉の余地をなくしてしまえばよいのに、とこちらは思うのだが、どういうわけか、車掌も客もみな延々と駆け引き(討価還価 taojiahuanjia)を楽しんでいるように見えた。途中乗り込んできた幼児を連れた怖そうな老婆は、その女児に室内でおしっこさせていた。置き場所がなく、やむをえず座席の下にリュックを置いていたので、そのおしっこがこちらに流れてこないかとひやひやした。
 翌日、韶関を発ち、坪石から湖南に入り、臨武を経て嘉禾に向う。多分、坪石で湖南行きのバスに乗り換えた後であろう、おや、昨日とは随分違うなと思った。誰も値段交渉など行っていないことに気がついた。当たり前のことだが、客は値段を聞いた後、何も言わずにそのまま乗り込んで来た。その後の湖南も、同じだった。執拗に値段交渉を行う乗客などいなかった。
 その時、思いついたのは、もし、この差が偶然ではなく、江西側と湖南側でいつもそうだったら、江西・湖南を往復している長距離バスの車掌たちは、一体どのようにこの事態に対処しているのだろうと、ということである。もし江西側から湖南に入るバスが、江西のスタイルのまま通し、また湖南側からのバスが、湖南のスタイルを通すと、どういうことになるのだろうか。多分、江西側が得をして、湖南側が損をするということになるだろう。そうなれば、湖南人は江西人を誠実ではないとか、嘘つきだとか思うかもしれない。だが、長い期間を考えれば、一方の側だけが損をし、一方の側が得をするなどということはないだろう。多分、どちらのバスも、江西側では、客と駆け引きすることを予め想定して、運賃を少し高く言うことになるだろう。また当然、客は客でそれを想定して必ず値段交渉することになる。逆に、湖南側では、客にそのままの値段を告げることになるだろう。或いは、ほかに別の解決方法があるのかもしれない。
 それにしても、このような経験はあまりもの些細で、あえて取り上げることもないのかもしれない。たまたま乗り合わせたバスがそうだったというのかもしれない。ただ、取り上げる気になったのは、客の値段を聞いた時の大仰な身振り、憤慨の仕方がある程度様式化されているように見えたこと、そして交渉後、先ほどの憤慨がまるで嘘のように客たちがそそくさと乗り込んでくる様子が、少し可笑しかったからである。
 ただ、筆者が知っている湖南も江西も、圧倒的に周辺部が多く、省都である長沙(湖南)、南昌(江西)には、20数年前の留学の折、二度ずつ行ったことがあるきりである。だから、今回の経験をもって、江西人がどうのだとか、湖南人がどうのだとか言えないだろう。もし機会があれば、南昌・長沙間或いは吉安・長沙間をバスで往復して、同じようなことが起るのか試したい気がするのだが、気持ちがいつも雲南(もう少し広げても貴州、広西)に張り付いていて、なかなか武漢や長沙、南昌といった内陸部の大都市にまで足を伸ばす機会がない。(続く)

写真:南陽駅
南陽駅


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