中国的なるものを考える(電子版第16回・通算第59回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

プロフィール>>
電子礫・蒼蒼
第16号 2007.1.15   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


奴隷と奴隷制考--涼山彝族奴隷制に関連して

 2003年4月から雲南に滞在したが、当然、雲南史というか中国西南の歴史に興味を持った。また、昆明の漫林書苑とか、チ ェンマイのスリウォン書店だとか、面白そうな本を並べている本屋にめぐり合ったため、雲南やその周辺の東南アジアに関する史料或いは書籍もかなり入手することができた。だが、目下 の関心がMarxist-historiography--適当な訳がないのでそのまま使用している--にあるため、それにほとんどの時間をとられ、なかなか具体的な雲南史研究に入られないでいる。またやる にしても、多分、普通の方(誰が普通の方かはっきりしないが)とは随分感じの違ったことをやることになるだろうと思う。
 さて、雲南滞在中は、旅に興じてあまり読書をしなかった。例外なのは涼山彝族奴隷制に関する著作である。どうして奴隷制になんかに興味をもったのか、今、考えると少し不思議だが 、多分、もともとアジア的生産様式論争に興味があったからであろう。1930年代、アジア的生産様式論を葬り去るために、アジア的生産様式は奴隷制のアジア的変種であるとするコヴァレ フ説が、或いはその後の古代東方型奴隷制や初期奴隷制説が唱えられ、原始社会の解体から生まれ出る最初の階級社会は奴隷制であり、奴隷制の崩壊ともに封建制が成立、そしてその封建 制から資本主義社会が懐胎され、最後にその資本主義社会から社会主義社会が生れるとの、「歴史発展の五段階論」が成立した。戦後日本では、それは「世界史の基本法則」と呼ばれたが 、1989-1991年の社会主義圏の崩壊まで、日本における最有力の歴史観であり続けたのである。
 このアジア的生産様式と奴隷制の浅からぬ関係が、筆者が涼山彝族奴隷制に関心をもつきっかけになったのだと思う。また、「歴史発展の五段階論」の正しさを証明する「生ける化石」 として郭沫若らが積極的な関心をよせていたというのも、ひっかかるところであった。それからもう一つ、2004年5月、実際に大涼山を通って涼山彝族自治州の中心、西昌に行き、涼山奴 隷社会博物館を見学したことも、やはりきっかけになっている。ただ、それは普通思われるようなまっとうなきっかけではない。いわば斜(はす)に構えたきっかけである。涼山奴隷社会 博物館は、30元(当時)という入場料のためだと思われるが、ほとんど入館者がなく、節電のため、各部屋に照明がつくのは入館者が入ってきた時だけ、そして係員はひどく閑なので、参 観者が部屋に入ってきてもまだ昼寝を楽しんでおり、起き上がることさえ面倒くさそうにしているという有様であった。それを横目に見ながら一通り参観したわけだが、彼らのあまりの横 着ぶりから、おそらく彼らが、客があろうとなかろうと、この博物館がけっして潰れないと考えているという印象を受けた。1956年まで奴隷社会であった涼山地区を解放したのは、中国共産党 と人民解放軍であり、その恩沢のほどは、解放前の涼山社会が悲惨であれば悲惨であるほどいっそう増すわけだが、その仕掛けの一つがこの博物館だというわけである。何が何でも悲惨な奴隷制を演出しようと、むきになって力瘤を入れている感じが して、逆にどうしてそこまでやらなければならないのかと、考えてしまった。

写真:奴隷社会博物館
奴隷社会博物館

 涼山奴隷制については、過去多くの著作や論文が書かれているが、やはり『涼山彝族奴隷社会』(「涼山彝族奴隷社会」編写組、人民出版社、1982年)及び『涼山彝族奴隷制社会形態』 (胡慶鈞、中国社会科学出版社、1985年)が代表的なものだと思われる。この二つの著作はどちらも「身も心も凍るような著作(駄作?)」、としか言いようのないものである。読むのに これほど忍耐力が必要な著作というのも、あまりほかにないだろうと思われるほど、正直、読むのがつらかった。それというのも、両著ともに、何が何でも、涼山彝族奴隷制の悲惨さ、残 酷さを強調せんとする姿勢に貫かれていたからである。もちろん、涼山の奴隷制が悲惨だったというのは事実であろう。それを疑う理由はない。だが、その悲惨で苛酷な奴隷制が数百年間 続いてきたことについて、十分な説明があるのだろうか。曰く、涼山彝族社会の閉鎖性に原因がある。曰く、閉鎖性は社会発展を阻害する、等々。杓子定規な記述以外に、納得のいく説明 はない。
 多分、著者たちにとって、そのような説明は必要のないものだったのだろう。涼山の奴隷制が、古典古代(ギリシア・ローマ)の奴隷制と、同じ社会発展段階にある以上、涼山の奴隷が 、古典古代の、たとえば鉱山労働者とかラティフンディウム(大土地所有制)の奴隷と同じように悲惨な境遇に喘ぐのは当然である。茲莫(旧土司層)や黒彝(貴族)は、古典古代の、シ チリアの奴隷叛乱やスパルタクスの乱を鎮圧した奴隷所有者と同じく、力によって涼山の奴隷を支配しているのであり、それもまた説明を要しないことなのだろう。
 また、涼山彝族(ノス)は現在、おそらく250万人以上を擁すと思われるが、上記の著作からは、黒彝、白彝(平民、一般農民)、安家(主人とは別に生計を営む奴隷)、呷西(xiaxi 、家内奴隷)などの厳格な等級に分れ、黒彝の支配に甘んじていた彼らが、どうして現在、中国西南でもっとも明確なアイデンティティを持ち、統合度が高く、もっとも勢いのある少数民 族に成長したのか、理解することが難しいであろう。
 そのような疑問を感じながら、昆明で涼山彝族奴隷制について、手に入る限り著作や論文を読み、草稿を書いていみた。中国における涼山彝族奴隷制研究が、筆者が理解するマルクス主 義的な生産様式論とか社会構成体論といったものから見て、どのような問題点をはらんでいるのか、という視点で書いたつもりであった。それを二人の大学院生に読んでもらったところ、同じような反応が帰ってきた。それは、筆者が持っているよう な発展段階論的思考に対する批判であった。或いはそのようなものを受けつけないように訓練されている、という印象であった。おそらく、一昔前、「世界史の基本法則」に不承不承従っていた人たちが、1989-1991年以後のマルクス主義の退潮の中 で、もうあのような教条主義や直線史観に付き合うのは御免だと、そっぽを向いてしまったのだろう。そして、彼らはそのような先生からその否定的な態度を受け継いだのだろう。
 筆者は、多分、マルクス主義歴史学を意識し始めた頃から、「歴史発展の五段階論」に対して、その直線史観は到底受け入れられないと考えてきた。それは高校生の頃、筆者に歴史に対 する興味をまず植えつけてくれたのが、トインビーだったというところからも来ているように思う。だが、直線史観の批判から、発展段階という思考まで棄ててよいということにはならな いと思っている。長い時間をスケールにとれば、人類が発展してきたということに誰も反対はしないであろう。問題は、発展段階をどのように設定するかであろう。それが難しいというこ とは、我々の怠慢であって、発展段階論そのものが誤っているからではない、と今でもそう考えている。
 一昨年4月、日本に戻ってきた後、奴隷制研究がどんなふうになっているのか、とても気になり、フィンレイ(古典古代史学)やパターソン(『世界の奴隷制の歴史』明石書店、2001年 )を読んでみた。そこで仕入れた情報をもとに、1970年後半以降の、奴隷制研究に関る論文集、著作をアマゾンを通して入手し、この一年ほど、ほぼ継続的に読み続けてきた。その結果、 随分とこれまでの考え方、奴隷制のイメージが変わってしまった。紙幅も尽きかかっているので、簡潔に述べると述べると、まず、奴隷制は生産力の低い段階においても成立する。多くの 奴隷制では、奴隷は外部から調達される。どのような人間社会であっても、人間は自分の日常生活を再生産するほか、子どもを育て、老人を扶養しているので、そのような過程から人間を 引き離し、他の社会に連行し、働かせれば、彼自身の労働の再生産のための労働を越えた部分は、すべて主人が略取することが可能となる(メイヤスー『奴隷制の人類学』1991年)。これ までは到底奴隷などいないと思われていた狩猟社会にも少ない例ではあるが奴隷がいることが知られるようになったが、そのような生産力が低い社会でも奴隷は存在しうることが、上記か ら理解できるだろう。 では何故、このようなプリミティブな社会においても奴隷が必要なのか、もしくはバンドや部族のメンバーは、どうして奴隷が必要なのだろうか。答えは、労働力 として、とか生産面における需要といった、我々が奴隷から想像するものとは随分違ったものである。多分、奴隷が主に外部から調達されたものであるということに関係しているだろう。 つまり、もとの社会の関係の網の目から引き剥がされた人間であるということは、それを調達した人間(奴隷主)にとっては、いろいろな魅力があるということである。まずは、仲間や身 内を増やす手段として。次に自分の従者を増やす手段として、である。外部から調達された奴隷は以前の社会関係から引き剥がされているので、主人の社会に同化する以外に生きていく術 はない。或いは主人しか頼る人間がいないので、自分の忠実な従者になる以外に道はないのである。そして、彼らはいずれも、主人を扶養するというよりも、逆に主人に扶養される面が大 きい。パターソンが、奴隷はむしろ主人にとって負担を意味すると言うのは、この意味においてである。
 また、奴隷制には、外部から調達した奴隷を数世代をかけて親族組織に組み込んでいく外に開かれた奴隷制と、世代を重ねても奴隷は親族組織に組み込まれずに存在し続ける、閉じられ たタイプとの二つがある(J.L.ワトソン)。前者はアフリカの奴隷制に多く、後者はアジア、とくにインド、中国、朝鮮などの奴隷制である。前者の場合、数世代をかけ外からの調達した 奴隷を同化させるプロセスが進行する。後者では、奴隷はあくまで自分たちのために働かせるものであり、自分たちより劣ったものとして差別される。実は、涼山の奴隷制は、その異なっ た二つのタイプの奴隷制が結合しているのが特徴である。①外から掠奪、捕虜、購入された奴隷は、呷西→安家→白彝へと、ゆっくりではあるが数世代をかけて上昇する同化のプロセス。 ②黒彝と白彝以下の間には、絶対に越えられない溝があり(たとえば、相互の性的関係は徹底して忌避される)、カーストと見まがうばかりの身分差を強調する側面(それは血統の純粋さ を守るという理由から来ている)。この両者が同じ奴隷制のなかで結びついている。それは溶解不可能な矛盾を孕んでいたといえる。前述したように、全体としてノスとしての強固なアイ デンティティを持ちながら、涼山は今もなお、旧黒彝、旧白彝、旧奴隷はそれぞれ内部で通婚関係を結び、他のグループとは結婚しようとしないのである。

写真:涼山にて(雷波・美姑間)
涼山にて(雷波・美姑間)


蒼蒼 目次へ >>