中国的なるものを考える(電子版第17回・通算第60回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第17号 2007.3.26   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


境界の向こう側とこちら側

 雲南から戻って来てもう二年になる。もうはやというべきか、やっとというべきか、迷うところだが、とにかく二年たとうとしている。雲南から戻ってきたばかりの頃、事務や実務がうまくこなせなくて困った。とくにスケジュールどおりにきとんと処理しなければならない、というのが苦痛であった。雲南で二年間、ゆったり、かつボオーッと暮らしてきたつけがまわったというところであろう。それに加えて、50歳代後半という年齢からくる記憶力や体力の低下が加わり、やや自信を失いかけた。
 だが、さすがに日常というのは不思議なもので、日々を当たり前のように送っているうちに、ゆっくりとではあるが、何とか普段どおりに暮らせるようになった。また、昨年度(2006年度)からは、幾つか、新しいことへの挑戦を始めた。その一つが、樹木や野草の名前を覚えることである。生まれ故郷の北海道の植生が内地とはまったく異なるため、19歳で東京は多摩川べりの町工場に就職して以来、ずっとこちらの樹木や野草については、ほとんどおぼえずにきた。その結果、同居人からは、ツツジとツバキの違いもわからないとからかわれる始末であった。一昨年から日曜ごとに公園めぐりを始めたことも手伝って、何とか街路樹や公園に植えられている木ぐらいはおぼえようと、『葉で見わける樹木』(小学館)とか『葉っぱでおぼえる樹木』(柏書房)といった本を携帯して、都内各地を散策しているうちに、モッコクだとか、モチノキだとか、或いはクヌギやコナラなどと、大体の樹木なら見て言えるようになってきた。自分でも大変な進歩だと自画自賛している(笑)。
 Marxist historiographyも新しく始めたものの一つである。実際には以前から続けていた日本資本主義論争史やアジア的生産様式論争史研究の延長線上にあるが、それをヒストリオグラフィーと呼ぶことで、新しい気分でやろうとしている。雲南に居た二年間の中断を挟んでずっと続けているが、四月からはいよいよ「中国におけるアジア的生産様式論争」をテーマに二本ほど論文を書くつもりである。ようやく中国のフィールドに戻ってきたと少しはりきっている。自分なりの語感でいえば、ヒストリオグラフィーは学説史でもないし、研究史でもない。勿論それらを含んでいるが、それ以上に、歴史研究に関る一切合切が対象だと思っている。たとえば、学説や理論を育んだ時代や社会背景、或いは研究者や学派と彼らをそのような学説や理論に赴かせた具体的な出来事とその展開、さらに研究者相互の関わりやしがらみ、政治或いは政党(当然にも革命政党)との関りなども、みな含まれる。できれば、研究者(理論家や思想家)の生き方をも含めて描きたいというのが筆者の願いである。

 前々回、文化の境界ということをとりあげた。実は、その時、もっとも書きたかったのは、中国国内についてではなく、中国から東南アジアにかけて、そしてさらに東南アジアからインドにかけての境界についてである。だが、実のところ東南アジアについての筆者の知識は単なる旅行者としてのものが大部分である(インドについては、単なる書物の上での知識でしかない)。文化の境界といったところで、中国文化についてはともかく、東南アジアやインドについては、これだと明快に語れるほど蓄積があるわけではない。それで何となく、中国国内の話に終始してしまった。それがずっと気がかりになっていたので、今回--つたないものになるが--少しばかり続けてみたい。
 東南アジア史に関する書物(例えば、Victor Lieberman, Strange Parallels: Southeast Asia in Global Context, c.800-1830, Cambridge,2004. や G.Coedes, The Indianized States of Southeast Asia, University of Hawaii Press,1968.)を読むと、東南アジアにおけるインド文化の影響が大きいこと、ミャンマーからインドネシアまでの国家形成に大きな影響を及ぼしたことが理解できる。また、ミャンマーではピュー(pyu 驃)がイラワジ川流域に小国家を築く以前から、すでにインド人のコロニーがあったといわれており、またカンボジアやタイでは、バラモン(Brahman,Brahmin)が国家(王室)の祭儀に関っていたように、その影響は決して表面的なものではなかったようである。インド化されていたという表現は、字義通りのものであったといえよう。ところが、東南アジア社会はインド文化に深く影響されながら、インド文化のもっとも根本的な部分、カースト(バルナ)を受け入れなかった。どうしてなんだろう、と思う。東南アジアは、ずっと以前から東南アジアだっと思いたくなる。
 ベトナムについても同じことが言える。中国の諸王朝がベトナムを支配していたのは10世紀にも及ぶ(紀元前111年から紀元後938年まで)。このような長い期間、「先進国」に支配されながらも、ベトナムに住んでいた人々は「先進国」に同化されずベトナム人であり続けた、もしくは自らを支配者とは異なるベトナム人に作り上げたのである。特に、筆者の関心から言えば、漢民族が村落共同体抜きの地域社会を築き上げたのに比し、ベトナム人は村落共同体を中心とした地域社会を築き上げることになった。やはりどうしてなんだろうと思わざるをえない。何か、それぞれの民族、地域社会に住む人々が練り上げた、他の民族や他の地域社会とは異なった、歴史を生き抜くための戦略(ストラティジー)といったようなものがあるのではないかと考えてしまう。
 さて、もし、国境というものが今のようにはっきりしなかった時代、たとえば清末や民国期に、広東から広西、そしてベトナムへと入ったら、それぞれの地域社会(の相違)が、なだらかに変化していく様子が見えたのではないかと思う。雲南からミャンマー、アッサムを経てインドに至る道も、同様なパノラマを見せてくれたのではないかと想像する。筆者が自分で体験したものでは、ミャンマー国境沿いの町、瑞麗からムセに迷い込んだとき、ムセには中国語がわかる人々がたくさん住んでいたにもかかわらず、やはりミャンマーの町であった。それは瑞麗が過去のタイ族の町、 卯(モンマオ)ではなく、今もタイ族が多く住んでいるとはいえ、すでに中国の町になっていたのと同じである。筆者がみた国境はまがき(籬)のようなもので仕切られており、しかもそこに開いた小さな穴から出入りが可能であったにもかかわらず、国境は、こちら側と向こう側を隔てる文化的な仕切りであった。
 筆者が経験したもう一つ例は、河口(雲南)とラオカイ(ベトナム)の間の国境である。河口には、川一つ隔てたラオカイから毎日、たくさんの人たちがやってくる。大体は農産物を持ってきて、帰りに中国製品を抱えていくようであった。二つの町には、ともに同じタイプの電気駆動のバス(電瓶車dianpingche)が走っていた。そのせいか、最初似た印象を持った。知りあいの小阮(Xiao Ruan)にそのことを言うと、今までそんな風に感じたことは一度もないと言っていた。ラオカイ出身の小阮は両親が雲南人であり、小学生の時、三年ほど河口に住んだことがある。だから、二つの町をよく知っている。河口は今、建設ラッシュだし、ラオカイも1979年の中越戦争で破壊され、その後再建された町であり、さらに最近は同じように建設ブームに沸いている。片方は中国風のビルが建ち、片方はベトナム風の(中国風を見慣れた我々から見れば少し洒落た)建物が並んでいる。

電瓶車(河口)
電瓶車(河口)
 
ラオカイの小さなホテル(河口国際公寓の室内から撮影)
ラオカイの小さなホテル(河口国際公寓の室内から撮影)
 
 町にこだわるから違いばかりが目立つので、もし国境を隔てて農村が広がっている場合は、現在でも似た景観が広がっているはずであろう。もともと町は政治的な記号を帯びやすく、特に国境の町は、国境が明確になるにつれ、それぞれの国家のイメージに合わせて作り直されていくからである。残念ながら、我々外国人が国境を移動する場合、どうしても入国管理事務所のあるこちらの町から国境の向こう側の町に移動しなければならない。農村地区を移動した唯一の経験は、シーサンパンナからラオスへの移動であった。たしかに相似た農村風景が広がっていた。だが、バスの窓の外に広がる風景を眺めるだけでは、何か文化的な相違を知るということは難しい。
 チェンマイのスリウォン書店で入手した『チッタゴン丘陵地帯』(The Chittagong Hill Tracts, Living in a Borderland, White Lotus Press, 2000)は、インド(現在ではバングラデシュ)からミャンマーにかけて広がる丘陵地帯に住む少数民族(ヒルトライブ)に関するフィールドワークをもとにしたものであるが、そこに掲載されている写真(大体は1950年代から1970年代のもの)がとても興味深い。支配者はインド化しているが、一般の部族の民は、今も東南アジアや中国西南に住んでいる少数民族とほとんど変わらないように見える。中国西南のチベット・ビルマ系やタイ系諸族とそっくりな雰囲気を持つ部族の写真もある。彼らは密集して住んでいるのではなく、東南アジアや雲南や貴州の少数民族と同じように、丘陵や山地に疎らに広がって暮らしている。その西方に広がるインド的な文化においては、彼らはカースト制度のもと、ラージャを称する首長層がクシャトリアとして厚遇される以外は、指定部族としてその最下層に組み込まれていくのだろう。だが、その東側では、平地の民の支配は受けるかもしれないが、カースト制度とは無縁の世界で生きることになる。その点で彼らはまさに国境という政治的な境界ばかりではなく、文明とか文化の境界に住む人々でもある。
 おそらく19世紀末、ベトナムやラオス、或いはビルマから雲南に入った探検家、宣教師、博物学者、商人たちの前に広がった世界も、同じような境界に住む人々を見ることができたのだろう。ただし、その境界ははっきりした線引きによって区別されるのではなく、東南アジアの諸民族が住む世界から、ゆっくりと漢民族の住む世界に移っていく、なだらかな、或いは曖昧な境界として存在したであろう。
 二年前の一月、広西西部の龍州から天等への道は、拡張工事中ということもあり、バスで半日もかかってしまった。バスには土地の壮族とおぼしき人たちが乗り込み満員状態であった。バスのなかで漢語がまったく聞こえないというのも新鮮な経験であった。多分、彼らは儂家(nongjia)と自称している人たちだったと思う。ベトナムの中国国境沿いに住むヌン(Nung)族と同じ民族であろう。彼らの顔つきも、気のせいか何となくベトナム風に見えた。ここの乗客たちは漢族とは違って、ギュウギュウ詰めでも、比較的大人しく乗車していた。バスが込み合えば、皆少し身を縮めて、互いに気を使う、そんな感じがした。窓の外は一面にサトウキビ畑が広がっていた。田舎道をのろのろと走るバスに揺られながら、まるで東南アジア(特にラオス)の農村を走っているような錯覚がした。
 
龍州・天等間
龍州・天等間
 
農村市場(ラオス)
農村市場(ラオス)

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