中国的なるものを考える(電子版第18回・通算第61回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第18号 2007.5.17   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


国境の町にて

 今回もやはり境界の話である。というより、もっと具体的な、国境の町での出来事である。2004年4月、ミャンマーとの国境の町、瑞麗(Ruili)に水掛け祭を小明(Xiao Ming)と一緒に見に行った話は、以前にも書いたことがある。小明は瑞麗近郊のタイ族の村、大等喊(Dadenghan)で孔雀踊りをやっているので、それを見に行きたいと言い、彼が現地で知り合った貴州人、小張(Xiao Zhang)に案内を頼んだ。見たところ三十代半ばという感じの小張は、我々にはたいそう顔の広いようなことを言っていたのだが、多分、ただぶらぶらしているだけで、実際には誰からも相手にされていなかった。彼は我々に代って、どうやって大等喊に行けばよいのかあれこれ人に聞いたのだが、何もわからないままだった。結局、そのまた知り合いのタイ族の若者に連れて行ってもらうことになった。この腕に刺青をしていた男が曲者だった。彼は我々三人をタクシーに押し込み、姐告(Jiegao)地区に向った。着いたところには、並んだ二本の道の間にまがき(籬)ようなものがたっていた。こちら側には、たくさんの三輪車やタクシーが並んでいた。あちら側には何台かタクシーが停まって客を待っていた。まがきには穴が開いていて、狭いながらも出入りは自由だった。
 タクシーを降りるやその若者は、何の躊躇もせずその穴からまがきの向こう側に我々を連れて行き、また我々をタクシーに押し込んだ。数分そこらで我々はまた下ろされ、ちょっとしたビルの二階に案内された。応接間に入るやその向こうに大きなホールが見え、午前中だというのにカードゲームかなにか賭け事をやっている様子が見えた。ミャンマーの賭博場だった。
 応接間の中には数人、怪しげな男たちがたむろしていた。我々がすっかり慌てて「自分たちは孔雀踊りを見に大等喊に行くところだ」と言うと、そのなかの兄貴(大哥)とおぼしき男が、「孔雀踊りなら我々のところでもやっているから、ちょっと待っていたら」と妙にやさしい口調で言う。カジノのオカマショーかなにかに孔雀踊りがあるのだろう。それにしても、こんな時の丁寧な口調はかえって不気味だった。ここで長居をしたら、どんなことに巻き込まれるかわかったものじゃないと思い、「我々は昆明から来た留学生なので、すぐ帰る」と言うと、まあまあ、いいじゃないかとあやす様な言い方をする。小張はすっかりビビッてしまい、不安そうな顔したまま固まってしまった。本当に何の役にも立たない奴だった。男は、今度は僕に向って、「そうすると、あんたは先生か」と聞いてくる。「いや、自分も留学生だ、いますぐ戻りたい」と頼み込む。男は、しばらくあれこれ我々に尋ね、我々が本当に留学生だとわかったようだった。ほどなく「もう帰っていいぞ」と言う。観光客ではない我々に賭博を強要しても、大してもうからないし、むしろ後で面倒なことになるだけだと判断したのだろう。
 建物の外に出ると、またタクシーの運ちゃんたちが寄ってきて、もっと面白いところに連れて行ってやるから乗れと言う。とんでもない、と思いながら、彼らを無視して歩き出した。だが、どうやったらあのまがきのところまで行けるのかまったくわからない。遠くに「中国移動通信」の看板が見えた。そちらに行けば何とかなると思い歩きだしたのだが、なかなか辿りつかない。また、そこに近づけたとしても、そこから中国側に入れるとはかぎらかった。小張は「もしここで捕まったらニ、三千元の罰金ではすまない」とミャンマーの公安に見咎められることを心配していた。通りがかりの若者に、どうやって中国側に帰れるのかを聞いたのだが、どうも中国語があまり上手ではないらしく、はっきりしなかった。僕の方は、賭博なんかに巻き込まれるは御免だが、そこを脱した今、まあ状況は好転したので、後はなりゆきまかせでいいじゃない、と気楽に考えていた。どっちにしても死ぬわけではない、と。道行く人も道端で遊んでいる子供たちも、何となく高度経済成長前の我々に似ていて、とても感じがよかった。小張は前から来たバンを止め、交渉し始めた。幸いにも中国語が上手な様子だった。10元でいいという。10元で帰れるのなら安いものだった。車に乗っていた時間は、わずか五、六分だっただろう。あのまがきが見えてきた。まがきの穴の前には、やはり同じようにタクシーや三輪タクシーが何台も並んでいた。穴をくぐって中国側に戻った時、正直ホッとした。多分一時間も経っていなかったであろう。それでもやっと生還したという気分だった。
 国境をめぐる失敗談はほかにもある。2005年1月、広西を回っていた時のことである。広西といっても北部は結構寒い。寒さに負けてしまい、南寧、北海を経由してベトナム国境の町、東興(Dongxing)に入った。ベトナムには、河口(雲南)から入ったことがあったので、もし可能ならば今度は広西側からベトナム北部に入りたいと思っていた(ベトナムは二週間以内ならばノービザである)。その前の月には凴祥(Pingxiang)からベトナム北部の町ランソンに行こうとしたのだが、直行バスがすでに廃止されたと聞いて諦めた。バスがないとしたら、タクシーをつないで行かなければならない。またもしベトナム側では国境からランソンまでバスがあったとしても、タクシーと同じように交渉して乗らなければならない。外国人とわかればたとえ規定の料金があったとしても平気で何倍(時には十倍、二十倍の場合もある)も、しかも執拗にボッてくる人たち相手に旅行を続けるのは正直しんどかった。やむを得ず、ベトナム国境の友誼関と国境貿易の町、浦寨を見るだけですませてしまった。

写真:友誼関
友誼関
 
写真:祥:浦寨1
祥:浦寨1
 
写真:祥:浦寨2
祥:浦寨2
 
 東興のバスターミナル付近には、次々と新しい建物が経ち、如何にも国境貿易で潤っているという雰囲気であった。バスを降りるやワーッと旅行ガイドが押し寄せてきた。みな中年のおばさんたちであるとはいえ、筆者より十五歳も二十歳も若い女性たちに囲まれて嬉しくないわけではないのだが、いったん相手にすると、その後の行動が制限されることになるので、駆け出して逃げる以外になかった。最近は、ホテルを探すにせよ、近くを観光するにせよ、誰にも干渉せずにすべて自分で決めたい、と思っているので、よほど困ったことにならないかぎり、ガイドにお願いすることは避けているからである。
 東興のような国境沿いの町は、外国人にとって便利な町である。何といっても宿泊場所を探すのが容易である。たとえば、瑞麗ならばミャンマー人、河口(Hekou)ならばベトナム人と商売にやってくる外国人がたくさん滞在している。それを目当てに次から次へと新しい宿泊施設が建てられている。彼らを泊めるようなホテルが我々を泊めない理由はない。真新しい建物に安く泊まれる可能性が高い。一般のホテルも外国人慣れしているのではないかと思う。一日だけならと頼むとひょっとして泊まれるかもしれない。国境の町における宿泊が、法律的にどう処理されているか詳しいことはわからないが、中国のほかの町のように、ホテルを探すのに苦労するなどということはない。
 東興では40元の部屋に泊まった。建てて間もないため、清潔で、快適だった。翌日、町をぶらぶらしていると、国境の入管の建物が目に入った。たくさんの中国人が出入りしていた。ベトナム側の町はモンカイ、中国語で芒街と呼んでいたと思う。東興と同様の国境貿易の町である。人の出入りを見ていると何となく、自分も入れるような気がしてきて、受付で「日本人だけれどベトナム側に行けるのか」と聞いてみた。「行ける」という返事。それではと思い入ろうとすると、「10元」だという。どうして10元なのかわからないが、とにかくそれで入れるならばと思い、10元払って中に入った。2003年にベトナム北部でトレッキング・ツアーに参加したおり、メコン川に浮かぶラオス側の島が観光コースに入っていた。その時の入境費が多分20バーツだった。そのことがあったので、あまり深くは考えなかった

写真:河口:国境の橋
河口:国境の橋
 
 建物の中に入ると後は、普通の出入国手続きが行われていた。中国側の出境手続きが済み、小さな橋を渡ってベトナム側に入った。ベトナム側の入境申請書に記入して係官の前に並ぶ。自分の番が来てそれを係官に見せると、他に書類はないのかと聞かれた。「ない」というと、これでは駄目だ、中国側の公安の許可証だか証明書だかが必要だという。自分は日本人だから二週間以内の滞在はノービザのはずだといっても、駄目だの一点張りであった。ベトナム側の係官の中国語はとてもひどくて、まったく要領を得なかった。代りに、僕の後ろに並んだ出稼ぎ者だと思われるベトナム人が通訳してくれたのだが、彼の中国語もとても上手だとはいえない代物だった。結局、お前はベトナムには入れないと入国を拒絶されてしまった。
 さて困った。中国側の出境手続きはもう済んでいる。だが、ベトナムには入れない。思わぬところで、宙ぶらりんの存在になってしまった。どうしようと思いながら、でも、また橋を渡って中国側に戻るしかなかった。本音を言えば、それでも何とかなると思っていた。無数の人間が国境を往来している以上、このようなケースも予め想定されているだろうからである。おそるおそる中国側の出境係官に事情を話したところ、別室に通された。30歳代半ばの、少しイケ面で、幹部風の男が相手をしてくれた。彼は初めいぶかしげな表情で応対していたのだが、バスポートナンバーから僕に前歴がないことを確かめるや、穏やかな口調になった。日本人が二週間以内ならノービザだということも知っているようだった。僕が前に河口からベトナムに入った時に、何かベトナムの気に障ることをやったのではないか、などと笑いながら言っていた。一体どう処理するのですかと聞いたところ、出境手続きの取り消しをするので心配するな、ということだった。処理がすみ、パスポートにも取り消し印が押されて、僕はまた晴れて生還となったのだが、最後に今後のために、どうして僕がベトナムに入国できなかったのかを教えて欲しいと頼むと、「ベトナムさんのやっていることなんか、我々にはとてもわかりませんよ」と豪快に笑い飛ばした。その後、当時南寧に住んでいた広西民族学院の日本人留学生Sにそのことを話してみた。「あそこは我々でもだめですよ。あそこから入国するためにはビザが必要ですよ」とのことであった。
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