中国的なるものを考える(電子版第19回・通算第62回)[注]

福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第18号 2007.7.20   
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>


アジア的生産様式論争物語 入門編1 
ウィットフォーゲル断章


 今春の計画ではいよいよ「中国におけるアジア的生産様式論争史」を書く準備に入ることにしていた。ところが、最初に読み始めた鄭学稼『社会史論戦簡史』(台湾、1978)がひどくつまらなかった。多分、何幹之『中国社会史論戦』(1937)或いはArif Dirlik『革命と歴史--中国におけるマルクス主義歴史研究の起源』(Revolutionand History: Origins of Marxist Historiography in China,1919-1937,University of California Press1978)の再読から始めればよかったのかもしれない。或いは直接、『読書雑誌』「中国社会史論戦」各専輯号(Ⅰ~Ⅳ)から読み始めてもよかったと思う。 結局、あまりの退屈さに鄭学稼を読み続けることができなくなり、中国語ではこのレベルのものをさらに読まなければならないのかと思うと気が滅入り、またウィットフォーゲルの「タタールのくびき」についての議論に戻ってしまった。そこから、モスクワ公国やロシア帝国、或いはさらに遡ってオスマン帝国やビザンツ帝国の歴史を拾い読みしながら、行きつ戻りつを繰り返している。
 このような成り行きは、半年ほど前、ウィットフォーゲル編『マルクス:十八世紀秘密外交史』(独語版、1981)所収のウィットフォーゲルの導論を読んだ--というより独英翻訳ソフトを使って強引に解読した--ことが、多分遠いきっかけになったように思う。その導論で1950年代のウィットフォーゲルとは異なったウィットフォーゲルに出会ったのである。我々が知っている『オリエンタル・デスポティズム(1957)におけるウィットフォーゲルは、マルクスがアジア的生産様式論を理論的に発展させなかったのは、プロレタリア独裁樹立の矛盾を露呈させることを回避したためだ、といったような恨みがましい非難をマルクスに浴びせていた反共理論家であった。つまり、マルクスは今後樹立されるべき社会主義国家(プロレタリア独裁国家)とアジア的な国家(東洋的専制主義)との類似性に気がついたので、社会主義国家樹立の妨げになることを恐れ、アジア的生産様式論をそれ以上発展させないことにしたのだ、というのである。
 だが、その後、ウィットフォーゲルのマルクス批判の論調は変化していく。おそらく、マルクス『十八世紀秘密外交史』への理解が進んだためであろう。最後には、自分こそマルクスのロシア論、ひいてはアジア的社会論の継承者であることを自負していたように思われる。自分のアジア的(或いは東洋的、或いは水力的)社会に関する議論はマルクスのそれとは大いに異なるが、マルクスに多くを負っており、自分の水力的なるものについての議論を攻撃する人々は、事実上マルクスを攻撃しているのだ(「マルクス主義の諸問題と東洋と西洋の関係」“Ploblemsof Marxism and Relations Between the East and The West ”,in The Soviet Union: The Seventies and Beyond, 1975)といった口吻からその自負の一端がうかがえる。
 そのウィットフォーゲルが死んだのが1988年であった。翌年、1989年には東欧社会主義諸国が雪崩をうって崩壊、さらにその二年後には、ソ連もまた崩壊する。ウィットフォーゲルは、もうマルクス主義の背教者ではなくなったのである。もし、彼が生きていたなら、きっと自分の正しさが事実をもって実証されたと感じたであろうし、また周囲も歴史の生き証人としてウィットフォーゲルのことを思い出すことができたかもしれない。
 ウィットフォーゲルの人生は、20世紀社会主義の歴史そのものであった。たとえ、その後半生において20世紀社会主義と絶縁し、批判者として振舞っていたとしても、そう言っていいだろう(ウィットフォーゲルの半生についてはG・L・ウルメン『評伝ウィットフォーゲル』、亀井兎夢訳、新評論、1995を参照)。
 1917年、ロシア十月革命により社会主義の祖国ソ連が誕生する。第一次大戦後、敗戦国ドイツのワイマール体制の下、共産主義運動に身を投じたウィットフォーゲル(1896~1988)は、1925年以後、設立されたばかりのフランクフルト社会研究所に参加する。それ以降、彼はマルクス主義における数少ないアジア専門家として頭角を現す。1927年中国革命の敗北以後始まったソ連を中心とするアジア的生産様式論争においては、ウィットフォーゲルはマジャールとともに、アジア社会の独自な性格を主張するアジア的生産様式論者(アジア派)の雄として知られるようになる。1931年『中国の経済と社会』を出版する。同書は、戦前におけるもっともすぐれたマルクス主義中国論であるといっても過言ではない。  1933年、ヒトラーが政権を掌握、ナチス独裁が樹立される。同年3月、共産党員であったウィットフォーゲルは逮捕され、強制収容所・刑務所に収容される。翌年1月、釈放されウィーン、ロンドンを経てニューヨークに向う。1935年夏から二年間、中国を調査旅行している。その彼が、国際共産主義運動と最終的に決別したのは1939年、スターリンのソ連がこともあろうにナチス・ドイツとの間で独ソ不可侵条約を結んだ後であった。アメリカに居を定めたウィットフォーゲルは、現存する社会主義に対する批判を強めていく。
 そして1957年、共産主義を全体主義であると批判し、その歴史的根源に水力社会(hydraulic society)があることを力説した『オリエンタル・デスポティズム:全面的権力の比較研究』の公刊以後は、ウィットフォーゲルはマルクス主義の背教者となったのである。水力社会とはウィットフォーゲル流のアジア的生産様式の別名であった。それも国家の灌漑・治水機能とそれを統御する官僚階級の役割を過度に強調するものであった。それゆえ彼の歴史理論はその論敵からは「水の理論」と揶揄されるようになる。
 ウィットフォーゲルの「水の理論」は、マルクス主義陣営にいまだ残っていたアジア的生産様式論者にとっては禍以外のなにものでもなかった。「水の理論」=反共理論である以上、大規模公共事業をアジア的生産様式の重要な指標とするアジア的生産様式論は、その後マルクス主義陣営のなかで反共理論との強い疑いをかけられることになったからである(それでも、1960年代中葉、アジア的生産様式論争は国際的な規模において再開される。第二次アジア的生産様式論争についてはいずれ詳述したい)。
 第二次世界大戦後、共産主義を称する政権は東欧諸国及び東アジアに及び、地球のほぼ三分の一を覆うに至った。新たな全体主義政権、専制国家がマルクス主義や社会主義の息の根を止めたばかりか、自由主義を標榜する西欧をまさに包囲せんとしていた。ウィットフォーゲルにとって、その全体主義や専制国家の淵源こそがアジア的生産様式とその政治構造であるオリエンタル・デスポティズムであった。マルクス主義と決別し、さらに多くの進歩的な知識人からも孤立したウィットフォーゲルの焦りが、この「水の理論」に反映しているようにみえる。20世紀社会主義或いはコミンテルンとかコミンフォルムに代表される国際共産主義運動とは関係のない、独立したマルクス主義者や共産主義者の集団というものが、ソヴィエト共産主義の分派であるトロツキスト(第四インターナショナル)以外には、ほとんど考えられない時代の出来事であった。
 当時の左翼にとって--マルクス主義、共産主義、社会主義といろいろ呼ばれていたとしても--ウィットフォーゲルの主張は誤りに満ちたものであった。誤りは自明の理であった。誰もがウィットフォーゲルについて言及する時、軽蔑をあらわにしてから論じるのが常であった。論難、中傷は左翼だけからもたらされたのではなかった。シノロジストはおしなべて彼のオリエンタル・デスポティズ論に否定的であった。多くの進歩的な或いは良心的な学者や研究者にとって、反共を連想させる「水の理論」を支持することは、おそらく学問とか科学とかの水準において、受け入れがたい側面があったと思われる。
 それは、1960年代後半に左翼運動の洗礼を受けた我々も同じであった。異端に対する興味は我々の知的好奇心をたえずくすぐり続けたが、マルクス主義と決別し反共の理論家と化したウィットフォーゲルはそのような異端でもなった。背教者、裏切り者である以上、好奇心の対象ともなりえなかった。彼がマルクス主義者であった時書いた『中国の経済と社会』は評価しても、反共の書である『オリエンタル・デスポティズム』を評価してはならなかった。それが、筆者のなかで変化したのは、1980年代前半の三年間の中国留学を経てからのことであった。中国で暮らし始めてまもなく、この社会が、社会主義でも、もちろん共産主義でもなく、所謂「アジア的生産様式」に基づくものであると確信した。中国での生活は、「社会よりも強力な国家」の存在を実感させてくれた。その実感が『オリエンタル・デスポティズム』への心理的な壁を低くしてくれた。
 今日、20世紀社会主義を擁護する者は次第に皆無となりつつある。残された20世紀社会主義の残骸、北の理想国家(朝鮮民主主義人民共和国)を見れば、ウィットフォーゲルの、全体主義とか専制国家といった批判が間違っていなかったことを示している。さらに、経済発展を遂げた中国が、多くの楽観的予想--経済発展は政治の民主化を促す--を超えて、いささかもその独裁的政治体制を緩めようとせず、政治的な民主化の展望を見いだせずにいることも、その権力のあり方が我々の安易な予測を超えたものであることを示している。そして、さらに一旦は自由な選挙が行われたはずのロシアにおいて、政治の民主化は後退し続け、ついにはプーチンによる「帝政民主主義国家」(中村逸郎)とも言うべき体制を作りあげている。問題は堂々巡りである。20世紀社会主義とは、一体、何であったのだろうか、と(続く)。

後記:最近、研究会などの自己紹介の折、いま自分MarxistHistoriography(マルクス主義歴史学研究)をやっていると述べることにしている。だが、そのたびに、時代遅れのマルクス主義にいまだにこだわっている、と言い訳をしている。別に言い訳をしなくても良いのだが、「マルクス主義」に関連した事柄について、人に紹介することが難しい時代に入ったのだと思わざるをえない。十年前、二十年前には、当然のごとく説明抜きで理解された用語が、通用しなくなっている。もともと理論的なことがらには、興味は抱いても、自分には向かないと考えていたので、今さら続ける必要もないはずなのだが、誰もが目を向けなくなってしまった現状が、今さら手を切れない原因となっている。我々の世代は、良くも悪しくもマルクス主義や社会主義(共産主義)と関わりを持たざるを得なかった。そのことへのこだわりを、いつまでも捨てかねている。 タイトルに物語とか入門編と付けたのは、そのような状況を踏まえ、マルクス主義とは無縁な読者諸氏にも理解可能となるような議論を展開したいと考えたからである。
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